羊のためにいのちを捨てるイエス

2018年11月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書10章1~15節
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

<要約>
高慢が人を霊的盲目にする;
イエス様は、たとえ話の中でも、律法学者やパリサイ人たちは盲目な指導者であり、偽りの指導者であり、さらに盗人であり強盗だと指摘されました。当時、羊飼いは夜になると羊をその囲いの中に導きます。そして、狼などの外敵から羊を守るために当直が寝ずの番をするのです。朝になったら、持ち主の羊飼いが来て、先頭に立って羊を門から連れ出して、良い牧草が豊かにあるところに連れて行くのです。羊飼いは、自分の羊をその名で呼んで連れ出すと書いています。羊飼いは自分の羊を知っていてその性格を知り、泣き声までも聞き分けるというのです。先頭に立って自分の羊を導く羊飼いはイエス様を指していることが分かります。そして、盗人で強盗は、パリサイ人たちを指していることもわかるでしょう。当時の律法学者、パリサイ人たちがいかに、偽りの指導者であり民を食い物にしていたかは、福音書を読んでもわかります。当時、民の信仰のよりどころはソロモンが建てた神殿でした。そこでは、祭司など宗教指導者が律法を利用して一大ビジネスを展開していました。そこで、民から多額のリベートを宗教指導者たちが吸い上げていたのです。ですから、イエス様は当時の宗教指導者たちを厳しく糾弾していました。しかし、彼らはイエス様のおっしゃる例えの意味が何のことか分からなかったのです。心がかたくなな者にはイエス様の例えが通じないということです。彼らは、心の目も耳も塞がっていたと言えます。なぜでしょうか。それは、打ち砕かれた悔いた心がないからです。霊的高慢のために自分がわからないのです。確かに、当時の律法学者、パリサイ人たちは律法を守っていました。表面上守っていました。什一献金、律法にある規則を守っていました。品行方正に見えたでしょう。しかし、彼らは自分たちは律法を守っていると自負していました。それが、神にも人にもとやかく言われたくないという高慢につながっていたのです。そして、弱い人を見下していました。私たちは、彼らを反面教師として学ばなければなりません。それは、「砕かれた悔いた心」です。
あなたを生かすためにいのちを捨てた神;
イエス様は、「わたしは羊の門です」と言われました。そして再び「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と続きます。そして、イエス様を通ってはいるなら救われると言いました。また、イエス様はヨハネの福音書で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」といわれました。これは、イエス様ご自身が神であることの宣言でもあります。聖書は、人は教えでは救われないことを明言しています。宗教はそれぞれ立派な教えを持っているでしょう。そして、教えを守って精進すれば、極楽へ行くことができるというのが宗教の教えです。しかし、人は行いによっては救われないと明言しています。聖書は、人は教えである律法、十戒を守っても、救いに至らないことを何度も言っています。人は良い行いによってはよい人間にはなれません。かえって、高慢になってしまうのです。良い人間が良い行いをするのです。自分でよい人間になることはできません。三位一体の神である聖霊によって、良い人間につくり変えていただくのです。行いによって、神の前に義とされることはできません。信仰によってのみ神はあなたを義としてくださるのです。門であるイエス様を通して入るというのは、イエス様をあなたの救い主と信じることです。行いはいりません。イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことを信じることです。そして、良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。わたしは羊のためにいのちを捨てます、と書いています。すなわち、羊であるあなたや私が真のいのちを得るために、イエス様が命を捨てるということです。それは、私たち罪人のために、イエス様が十字架でご自身のいのちを捨ててくださった事により、私たちはいのちを得るのだという真理です。
主は私の羊飼い;
ここで、イエス様の例えのお話をさかのぼる1000年前に、イスラエルの二代目の王となったダビデが「主は私の羊飼い」という詩を書きました。それが、詩篇23篇です。ダビデはベツレヘムの羊飼いの家に生まれ、小さい時から羊の世話をしていました。ですから、羊と羊飼いとの関係を知り尽くしていました。そのさまざまな経験を振り返って、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」と、神と自分の関係を一言で表現したのです。イスラエルに行くと、羊飼いと羊の群れの姿が見られます。羊飼いは、どこに水があるか、どこによい草があるかを知っており、彼らを導くのです。ダビデは、神が信者の「魂を生き返らせる」、そして、「義の道に導かれる」と書きました。その意味は、神は、キリストによりあなたの罪を取り除き、あなたを新しいいのちで生かしてくださるということです。それは、後ろ向きの人生ではなく、前に向かっていく人生です。慈しみと恵みがあなたを追ってくる、と書いているとおりです。そして、死に至るような状況にあっても、禍を恐れないというのです。それは、神がともにおられるということから来ています。羊飼いは野獣から羊を守るためにこん棒上の鞭を持ち、羊を導くために杖も持っていました。しばしば、杖は迷いやすい羊を懲らしめるために用いました。人間の場合も同じで、「あなたのむちとあなたの杖」はあなたを守るためと同時に懲らしめて訓練させるためです。信仰者への訓練は、その時は好ましく思えなくても、やがては深いところでは、魂に受け入れられ慰めとなるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます、とへブル書にあります。これが、味わい深い信仰者の歩です。苦難や困難はつきものです。しかし、あなたのためにいのちを捨てるというイエス様がともにいてくださる、その約束は不変です。わたしたちは、そのようにイエス様を私の羊飼い、として信仰告白していきたいと思います。

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