この方以外に救いはない

2018年06月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き4章1~14節
4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
4:3 彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

<要約>

悔い改めて聖霊に明け渡す:

祭司たちや宮を守る人々やサドカイ人たちにとっては、生まれつきの障害者が完全に癒された事実よりも、自分たちの職業や地位が脅かされることの方が問題だったのです。彼らはイエスの御名が、このしるしを行なわせたということをはっきり認めているにもかかわらず、神に栄光を帰そうともしなかったのです。とにかく、自分の立場を守ることだったのです。私たちも反面教師として、彼らから学ぶことはたくさんあるはずです。私たちはこの自分の立場に執着することがあります。神のことばを聞いていながら、自分の考えや経験に執着して、神のことばを否定してしまうことがあるのです。自分の考えを変えていくこと、思いを変えることそれはメタノイア、悔い改めるということです。大祭司をはじめとする指導者たちは、この悔い改めるということが全くなかったために、このキリストの救いを自分のものとすることができなかったのです。ここには霊的な原則がはっきりあります。悔い改めがなければ悟りにいたることはありません。悔い改めがなければ、神のことばは全くあなたの心に入ってきません。民の宗教指導者たちは、メシヤの表れである素晴らしい神のわざを見ながら、心の目は閉じていました。保身、自己中心、妬みによって、神の真理に全く鈍感となったのです。それに対して、ペテロとヨハネは、聖霊に満たされました。聖霊に満たされると、聖霊がその人を圧倒的な力で覆うことです。聖書は勧めています。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と。クリスチャンは、それぞれが頂いている聖霊に御頼りして、聖霊によって歩むように、と言うことです。もし、私たちが聖霊によって歩むことをしないのなら、ここに出てくる宗教指導者たちのように、肉の欲望である自己本位、自分中心、御心より自分の思いを優先する生き方を選ぶことになります。聖霊によって歩むということは、具体的には、どのようにするのでしょうか。それは、へりくだった祈りです。それはあなたと神の一対一の祈りです。神の前に心低くしてみことばに、御声に耳を傾けることです。「聖霊様、私の思いではなくあなたのみ思いに従いたいです」。「私に歩むべき道を示してください」と。聖霊に自分自身を明け渡すことが大事です。

確信は十字架と復活の事実:

捕えられたペテロとヨハネは議会の真ん中に立たせられて、尋問されます。彼の弁明は礼儀正しく、ただ実際に起こったことを述べております。そして、癒された男も証拠として同席していたのです。その男の癒しは旧約聖書に預言されていた救い主のなせるわざでありました。そして、この事実は彼らにとっても、認めざるを得ない事でした。もしこの男がキリストの御名によって癒されたとしたら、自分たちが救い主を十字架で殺したということになり、神の敵になってしまっているということでした。それは彼らには受け入れることのできない事でした。さて、使徒たちが前章から人々に宣べ伝えていたことは何でしょうか。ペテロが述べ伝えたことは、イエス・キリストの十字架と復活でした。この十字架と復活は、キリスト信仰の中心であります。また、その出来事は史実として世界で認められていることです。イエス様は「私の罪のために十字架で死んで、私のいのちのために復活された」という単純な事実です。私たちの信仰もこの十字架と復活の単純な事実と今も主は生きて働かれているということに基づいています。私たちの救いの確信も「このイエス・キリストの十字架と復活が私のためであった」ということから来ています。信者の私たちは、その事実を繰り返し、繰り返し、心に刻み、感謝し、喜び、ときには涙するのです。「キリストは私の代わりに死んでくださった。そして、私の命のために復活なさった。」この単純な事実は、感謝と喜びの尽きない泉です。「この方以外に救いはない」とペテロが叫びます。神が救いの道を与えて私たちを救ってくださる以外に方法はないのです。人は自らを救うことができません。救いは神からの恵みのプレゼントであります。それに対して、人間の思想、哲学、人間の経験によって考え出したことには真の救いはありません。世界には様々な教えがあります。釈迦の教えも孔子の教えもあります。マホメットの教えもあるでしょう。論語、コーラン、毛沢東語録、など宗教や思想の書物があります。しかし、教えは人を救いません。すべての人が直面している罪と死とその次に来る滅びから、救うことはできません。イエス様ご自身が「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。「わたしをとおしてでなければ、誰一人父の御許に来ることはありません」と言われました。使徒たちは、イエス様以外に父なる神の元へ行く道はないとイエス様が言われたことを覚えておりました。また、イエス様は全く罪のないお方であり、旧約の預言通り、十字架で世の罪を取り除く神の子羊となられたことを見ていました。そして、神がキリストを復活されたという事実を目の当たりにしました。そのうえで、「この方以外に誰によっても救いはない」という確信に立つことができたのです。そして、私たちもその確信に立っています。

救いは恵みの賜物:

彼らは大胆で救いの確信に満ちており、自由でありました。そして、このみことばのように、彼らは学問のない普通の人でした。神は、人が自分の知恵によって神を見出すことができないように、この世の愚かな者、弱いものにご自身を現したとあります。人間が学問を積み上げても、神に近づくことはできません。人間は自分の力では救いに到達できません。救いは神の一方的なプレゼントです。人間の努力や才能も神を見出す助けにはなりません。いくら良い行いを積み上げてもそれで救いを得ることはできません。悪い行いをよい行いで帳消しにして、さらに良い行いを積んで天国へのパスポートを得ようという考えは全く根拠のない独りよがりの考えです。なぜなら、良い行いも悪い行いも、人間が点数をつけることはできないからです。人はうわべを見るが、神は心を見られます。神は人にどのような点数をつけるでしょうか。神は行いそのものより、その動機を見られます。行いは良さそうに見えてもその動機は悪いことがあります。最初の人アダムの堕落以来、人は罪の性質を持って生まれ、生まれながらの罪びとです。聖書はありのままの人をどのように見ているのでしょうか。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 聖書によると、すべての人は罪を犯しているというのです。その為に、神の目に義、すなわち正しい、とみなされない、と言うのです。 自分は正しいと思えても、それは、自分がそう思うのであって、神の基準からは大きくはずれています。罪は口臭のようです。自分では気づかないのです。聖霊は私たちの心の奥底まで光で照らしその罪を明るみに出させます。そして、その罪をキリストの血によって清めてくださるのです。それはひとえに、聖霊のわざです。聖霊に心を開く者が経験できる神のわざです。自分で罪を取り除くことはできません、自分ではわからないからです。ただ、聖霊があなたに臨むとき聖霊はあなたの罪を暴きます。そして、あなたが心を聖霊に開くとき聖霊はあなたの罪をキリストの十字架の血によって清めるのです。あなたが自らの罪を認めて、悔い改めるならば、あなたのすべての罪は赦されて、そればかりではなく、あなたはキリストの支配に移されて、神の子となる特権に浴するのです。すなわち、神の恵みにより神のいのちにつながり永遠のいのちを得るのです。これが、恵みの福音です。

イエスの御名の力

2018年06月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き3章1~16節
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
3:11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

<要約>

御名の力は癒す力:

ペテロは彼の右手を取って立たせると、たちまち彼の足とくるぶしが強くなり躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。生まれつきの障害が癒されました。彼は、神を賛美しつつ二人について、神殿に入っていったのです。彼は信仰をもって神の恵みを受け取ったのです。生まれつき足の萎えた男が、鹿のように飛び跳ねたのです。御名の力は癒す力です。また、それは、復活の力であると言えます。それは、死んでいたものが生き返ったからです。この男は、生命としては生きていたでしょう。しかし、彼は真のいのちを持っていなかったと言えます。彼は、身体の癒しばかりでなく、魂も癒されたのです。聖書には、死んでいる状態について、三つの様態が書かれています。一つは普通の死です。生命活動の停止です。二つ目は、身体は生きていても神のいのちとつながっていない状態です。キリストを信じることなく、救われていない人々の状態です。三つめは、その第二の死の延長にある死です。永遠の死、永遠の滅びです。この男は二つ目の死である真のいのちを失っている状態でした。神のいのちにつながっていないことで失われている状態を指します。スペースシャトルの宇宙遊泳でシャトルといのち綱が切れている状態です。彼は神の目から失われていたのが、身体の癒しとともに、魂も癒されたのです。主イエスによる癒しは、肉体ばかりでなく、全人格的癒しであることです。神から離れている人々を真の神のいのちへつなげる力があるからです。肉体のいのちは朽ちます。しかし、神の癒しは完全で、魂が癒されて永遠のいのちにつなげていただくのです。それは、ひとえにキリストの御名を信じることによります。

御名の力は立ち上がる力:

彼は、歩き出したかと思ったら、今度は飛んだり跳ねたりしたのです。しまいには、神を賛美しながら踊り出したかもしれません。御名の力は、立ち上がる力、さらに前に進む力です。パウロは「わたしは、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と告白しています。主イエスを信じる者は、どんなことがあっても立ち上がり前進することができるというのです。彼の今までの人生は、その日の糧を得るその日暮らしでした。しかし、イエス様を信じて、癒され、立ち上がることができました。それは、人に運ばれる消極的な人生から自ら歩いて前に進む積極的な人生となったのです。また、彼は賛美をしながら、宮に入っていきました。障碍者は神殿に入ることができないという、ダビデの呪いから解放されました。これは、御名の力は、その人に喜びと感謝を与え、そして、あらゆる呪いから解放することを意味します。自分で自分を縛っていた呪縛からの解放です。迷信や愚かなしきたりからの解放です。立上がり前に進む力の原動力は、イエスの御名が与えるしぼむことのない希望です。神さまが私たちに用意されている希望はどのようでしょうか。彼は歩くことができるなど考えたことがなかったので、歩けるようになったのは、彼の思いを超えた希望でした。そのように神は私たちの思いを超えて最善をお与えくださるのです。障がいがあるかないかに係らず、行く先に希望を持つことをできない人生があります。これは、現代の多くの人が抱える問題なのです。この男のように、将来に希望を持てない、あるいは自分は孤独と感じている方々が多くあります。聖書は、大変分厚い書物です。しかし、この中に書いていることの中心は、「神はあなた愛している」と言うことです。そのような神が、あなたを愛し、あなたを失望と孤独から買い戻すために御子イエス・キリストを世にお与えくださいました。キリストはあなたのすべての負債である罪を背負って十字架で死んでくださいました。もし、あなたがその事を信じるなら、神はこの世で希望と喜びをお与えくださるばかりではなく、神は永遠を保障してくださっています。イエスの御名の力は、立ち上がる力です。立ち上がって、前に進む力です。その原動力はしぼむことのない希望です。決して、失望に終わることのない希望ともいえます。神があなたを愛し、あなたを大切に思っておられるからです。あなたは孤独ではありません。神がともにいてくださるからです。

御名の力は変える力:

御名の力は、信仰による力ともいえます。ペテロと対峙した時のこの男の心の動きを推し量ってみます。彼はいつものようにペテロとヨハネを見て、施しを求めました。ペテロとヨハネの足元に顔を伏せて、いつもの決まり文句で物乞いをしていたでしょう。ペテロとヨハネはともにその男を見つめました。「私たちを見なさい」、男は何かもらえると思い二人に目を注いだのです。「金銀は私にはない」「私にあるものをあげよう」と。ペテロから、「私にあるものを上げよう」というペテロのことばを聞いてペテロを注視します。ペテロのまなざしとその言葉からただならぬものを感じていたと想像します。「もし、私のようなものでもいただくことができるなら、いただきたい」と思ったと思います。「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」これは、主イエスのみ名が、この男の心に信仰を芽生えさせたのです。これは、信じない者が信じるものへと変えられたことです。そして、信仰は受け止めることです。この男は、ペテロによって投げかけられたイエスの御名による力を信仰によって受け取ったのです。それは、彼が、心を向けて神を仰いだときに起きたことです。御名の力は変える力です。イエスの御名によって、彼の心は変えられました。今までは目に見える金銭や物品にしか興味がなかったのです。しかし、今は、目には見えないがいのちを与え、生きる力を与えてくださる方、真の神であるキリストを心の目で見たのです。人の心を変える力です。そして、私たちはこのイエスの御名の力を信じる者たちです。神様は、失望を希望に、死から命へ移してくださいました。肉体はいつか死を迎えますが、霊は、主キリストにあって永遠の命が与えられています。私たちは受けるに値しないものですが、恵みによってキリストのみ名の力とあらゆることに対する勝利を与えられているのです。

聖霊による新しい人生

2018年06月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章37~42節
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

<要約>

キリストを十字架につけたのは誰?:

ペテロははっきり「神が、主ともキリストともされたこの救い主をあなた方が十字架につけたのだ」と言いました。この「あなたが」と言うのは、異邦人を含めて、世界中の人々に向けて語られています。その時、エルサレムに集っていた人々は、当時の世界であるローマ帝国内のあらゆる国々から来ていた人々です。そのことは、やがてこの福音があらゆる国民、あらゆる民族に届けられるようになることを予表しています。聖霊は教えています。このペテロのメッセージは当時のユダヤ人だけでなく、全世界の人々、全時代のあらゆる人々に向けられています。ですから、ここにおられるあなたに向けられているのです。聖霊は伝えています。罪のない神の御子が極悪非道の者として処刑されなければならないほどに人間の罪は重いということを。キリストが全人類の罪のために十字架にかかったということは、すなわち私たちに原因があるということです。ここに居られるお一人お一人に原因があるということです。私の罪のためにキリストは十字架にかからなければならなかったと言うことは、私がイエス・キリストを十字架にかけたのだと、言えるのです。あなたがイエス・キリストを十字架につけたと思うことがなければ、あなたはイエス・キリストと何の関係もないのです。

痛悔は新しい人生の入り口:

ペテロの告発を聞いた聴衆は、心刺されました。そして、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』とペテロのメッセージを自分のことと受け止めました。罪を示されて悲しんだのです。人が悔い改めて神に心を向けることは奇跡です。それは聖霊のわざです。人間にはどうすることもできません。人の説得や取引で人の心を変えることはできません。自分の罪がわかり、心刺されて、イエス様の救いを信じることは人間には絶対できない事です。聖霊がみことばを用いて働かれるのです。ここでは、聖霊が使徒ペテロの口を用いて人々の心に働かれたのです。その日三千人が洗礼を受けて救われました。私の兄は去年1月にC型肝炎と肝がんで亡くなりました。わたしは、福音を語りました。彼は、「福音は分かった。でも今はまだ信じられない」と言っていました。2016年12月に入院してからは、盛岡から東京の病院に何度も見舞いに行きました。洗礼の道具をもっていったときもあります。最後まで、彼の口から信仰告白を聞くことはできませんでした。非常に残念でした。彼が救われて天国に招かれたかは不明です。もし私が、「兄は救われて天国に行きました。」と言ったらそれは異端になります。キリスト以外に救いはないからです。人の救いは、神に主権があり、人間にはどうすることもできないことです。しかし、神は人を用いて、救いのみわざをなそうとされています。もし、私が、兄が死にゆく病であることを知っており、やがてその時が近づいているのに、福音を一言も語らなければ、私には平安は来なかったでしょう。後悔するだけです。福音は伝えなければなりません。信徒の皆さんは、自分ではなかなか伝えられないと思っているかもしれません。しかし、教会に連れて来ればいいのです。福音が語られています。伝道会に誘いましょう。諦めていてはいけません。自分だけ救われて、家族知人を見過ごしていていいのでしょうか。聖書には、キリストに聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまると書いています。聖霊がみことばと共に働いくときに奇跡が起きます。人々は心刺されました。悔いて心を痛めることを痛悔と言います。痛悔があると悔い改めに導かれます。弟子たちを酒に酔っていると言ってバカにしていた人々も、弟子たちに「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と謙遜にされて、罪を認めて悔い改めたのです。「悔い改め」、それは心を180度方向転換することです。自分の罪を認めイエス様を主であり救い主であると信じることです。そして、洗礼を受けるのです。その様に痛悔は新しいいのちの人生の入り口であります。聖霊に心を開くとき、聖霊はあなたの中に痛悔を起こし、悔い改めに導きます。素直になって、キリストの救いを受けることです。

聖霊をいただくと何が変わる?:

ペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」新しい人に生まれ変わるのです。信じる者に賜物として、聖霊が与えられます。聖霊が与えられると何が変わるのでしょうか。主は、私たちをキリストにより世と罪と悪魔からそして死から救い出してくださいます。この曲がった時代から、この世から救ってくださるのです。世はキリストを否定し拒絶しています。それはサタンが支配している国だからです。ペテロの説教で主を受け入れた人は、世の支配から、神の支配に移ったのです。サタンの支配からキリストの支配へと移されます。これが、「この曲がった時代から救われなさい」と言うことの意味です。トップが代わるとすべてが代わります。それはこの国のトップによって、国民が幸せになったり、不幸になったりするのと同じです。サタンが支配している国にいる人間が幸せであるはずはありません。しかし、キリストの支配に移されたら、確実にあなたは幸せです。天の御国へ招かれています。天にあるあらゆる富と祝福はあなたのものとなるからです。キリストの支配に移されたなら、真の平安と希望が与えられます。なぜなら、あなたの罪はキリストの十字架によって赦されたからです。そして、聖霊はあなたが他の人の罪を赦すことができるようにしてくださいます。静岡県の斎藤諒兄の証です。彼は甲子園を目指すほどの野球少年でしたが、高校2年の時に車にはねられて、首の骨を折って、身体が完全に動かなくなりました。今は、鼻に人工呼吸器をつけて生きている状態です。今から10年前の出来事で、今は27歳です。当初、彼は、絶望し、加害者を憎み、生きる希望を失い、死にたいとも思いました。しかし、自分で死ぬこともできない状況でした。そんな彼を変えたのが、イエス・キリストとの出会いでした。彼が聖書から最初に学んだのは、悪霊の存在と、無条件の赦しでした。被害者になると「絶対に許さない、同じ目に合わせてやる」そんな思いでいっぱいになります。彼も、被害者を憎み、恨み、殺してやりたいと思っていました。しかし、今は、洗礼を受けて、聖霊をいただいたので、赦す力を得たのです。加害者を赦したことで、憎しみは消え、確かな平安が来ました。当初、27歳であった加害者、そしてその両親、さらに84歳になる加害者の祖父までもお見舞いと謝罪に来ました。しかし、彼も彼の家族も、玄関先で追い返したということです。加害者家族も苦しんでいたのです。加害者は心労で髪の毛を亡くしてしまいました。その父親は、加害者が保険に入っていなかったので、自分が死んで保険金を賠償金にしようと真剣に考えていたそうです。しかし、今は、手をとり赦し合うことができました。そして、彼の家族もみなイエス様を信じ、さらに加害者家族も今は、一緒に机を並べて聖書を学んでいるそうです。彼らは、赦すことと赦されることの祝福を受けて、今は、本当に前向きに人生を歩んでいるそうです。信じて洗礼を受けると聖霊が与えられます。悪霊の支配から解放されて、キリストの支配に移されます。赦しと和解の力を受けるのです。それこそ十字架の力です。聖霊は良い果実を実らします。人を変え人を幸福にします。ものの見方が変わります。ネガティブがポジティブに変えられるのです。

イエスの宣教命令とは?

2018年06月 03日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書28章16~20節28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

<要約>

すべてにまさる一切の権威:

イエス様が最初に彼らに言われたのは、「わたしは、天においても地においても一切の権威が与えられています」です。イエス様は、最もへりくだられてこの世に来られました。貧しいはしための子となって、ベツレヘムでお生まれになりました。ガリラヤの貧しい村ナザレでお育ちになりました。神が人間となって、しかも最も貧しいものとして、来てくださったのです。神であるのにご自分を無きに等しいものとして仕える姿で来られました。そして、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ、神は、この方を高くあげてすべての名にまさる名を与えになりました。天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、膝をかがめて、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白するように神がなされたのです。そのことが、ピリピ2章に書かれています。また、エペソ1章にも、イエス・キリストには人知をはるかに越えた、測り知れない、一切の権威が与えられているということです。そして、そのお方が教会の頭であるというのです。山頂で天地の境を背にして立っておられる栄光の主は、天地一切を牛耳っておられるお方であることを示しています。権威という言葉を広辞苑で調べてみますと、「ある分野において、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること」とありました。イエス・キリストはすべての分野の権威を持っておられます。人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについても権威をもっています。一般に、人間が権威を持つと、それが権力となって、さらに決定権を握ります。国の最高権威を握った人は、行政や司法の決定権を握るので、人のいのちを殺めたり人のいのちを救ったり、人々を思うままに動かし、自分に栄光を帰そうとします。ですから、人が高い権威、権力を持つとよいことは起こりません。それは歴史が証明しています。それは、独裁政治につながるからです。そして、結果的に人々の自由は奪われるのです。すべてにまさる一切の権威を持っておられるイエス様は、愛とあわれみに富んでおられるかたです。その方が私たちの主です。ですから私たちは自由を奪われることはないのです。

あなたの罪を赦すための権威:

イエス様は、ご自身の権威を捨ててむしろ人を愛し救うために父なる神の権威に服する道を選ばれました。そして、苦難の道を歩まれました。十字架の死にまで、従いとおしたのです。そこで、父なる神はキリストを復活させて、一切の権威をお与えになりました。その権威をイエス様はどのようにお用いになっているでしょうか。イエス様は、すべてにまさる権威を、「地上で人の罪をゆるすためにお使いになりました。」マタイ9章では、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」と言われて、中部の人の罪をゆるし立たせてくださいました。イエス様はその権威をあなたの罪をゆるすために用いられるのです。罪は「死のとげ」。罪の報酬は死ですと書いています。そして、あなたの罪を訴えて、死の判決を引き出しているのがサタン、悪魔です。悪魔は罪を責めてあなたを捉えて、あなたから自由を奪い、自分の支配下にあなたをおきます。キリストはそこからあなたやわたしを救い出してくださいました。キリストはあなたや私の罪を完全に赦し、罪と死と悪魔から救い出してくださったのです。赦すための権威は、人を通して聖霊によって、行使されています。その手段がバプテスマです。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とある通りです。信じてバプテスマを受けるとすべての罪が赦されて、永遠のいのちが与えられます。もう一つの、キリストの権威の行使はバプテスマによって弟子を生むことです。その弟子は弟子を生んで、教会を建て挙げます。イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者は、神の子とされる特権を与えられる、とヨハネ1章にある通りです。バプテスマを受け、神の交わりに迎えられ、神の子どもとされる、これは特権でなくなんでしょうか。信仰のみで、その特権が与えられるのです。これほどのプレゼントはこの世界どこを探しもありません。信じてバプテスマを受けた者はイエス様の弟子となります。弟子は、師の教えを守り、さらに弟子を作り、弟子が弟子を作って増殖していくのです。それがイエス様の宣教命令です。それは、あらゆる国民がキリストの弟子となって、罪の赦しとともに神のいのちにつながることでもあります。そして、教会は、バプテスマによって神のいのちにつながり、イエス・キリストの教えを守っていく者たちの集まりです。一切のものの上に立つ最高権威者であるキリストが世の終わりまで守ってくださいます。いつもあなたとそして教会と共にいると約束しておられるのです。

解放と自由を与える権威:

罪の赦しと救いの権威を持っておられる方は、イエス様以外にはありません。教会に来ると「罪、罪」と言われて、いやだという人がいます。罪がわからないと救いもわかりません。人は心にあることが出てくるのです。外に現れる悪い行いや犯罪と言われることは、心に源があります。マルコ7章には、人を汚す者は、内側から、すなわち人の心から出てくる、と書いています。それは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、高ぶり、愚かさ、だと言っています。心を取り締まる法律はないと言われますが、神の律法は心の思いを裁かれます。神の前で罪なしと判定される人は誰もいません。その罪により、人間には死が入りました。それは、肉体の死ばかりでなく、永遠の死、永遠の滅びです。すべての人は、死んだ後神の前に立たされます。そして、その罪により燃えるゲヘナに投げ込まれると書いています。そんな罪を赦すことができる権威を持っておられるのはイエス・キリスト以外にありません。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって、十字架で裁かれ死んでくださったからです。そのことによりあなたの罪は取り除かれました。全人類の罪も取り除かれました。なぜ、イエス・キリストでなければ人の罪の身代わりになれないのでしょうか。それは、罪のないもの以外にその人の罪の身代わりになることはできないからです。イエス・キリストは罪のない神の御子です。聖霊によって処女マリヤから生まれました。男女間で生まれる人間は、すべて罪の性質を持って生まれ、生まれながらの罪びとです。人の罪の身代わりとなることができるのは罪のない人でなければなりません、と言いました。それは、キリストが処女マリヤから生まれることにより、罪のない神が私たちと同じ体と心を持った人間になられました。この方は100%神で同時に100%人間です。イエス・キリストとその十字架の贖いを信じる者はすべて罪が赦されるのです。イエス・キリストの宣教命令とは、キリストの権威である罪の赦しと救いをあなたが隣人に伝えることです。