祈り続ける信仰

2022年2月20日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書18章1~8節
18:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

<要約>

絶望の中でも信仰により希望に生きる:

今、世界を襲っている疫病、コロナウイルスは変異をして、今はオミクロン株ですが、次はどのように変異して再び襲ってくるかわかりません。現代も、人類の未来は楽観できない状況です。日本も戦争に巻き込まれる危険を抱えています。ソ連のウクライナ侵攻はもう直前です。また、中国の台湾進攻も現実味を帯びています。さて、歴史を振り返って、イスラエル王国は北と南に分裂し、大国により滅ぼされ、民はバビロニアに捕囚され、失意のどん底にありました。その様な時代に神はイスラエルに、エレミヤを通して、将来と希望のメッセージを送ってくださいました。そして、神は、バビロンの地にあっても主の民として落ち着いた生活をし、真の神に祈り礼拝しなさいと勧めるのでした。その時から70年後、ペルシャの王クロスの時代に入って、イスラエルは祖国帰還そして神殿再建を果たすのです。神の将来と希望を与えるご計画は、見事に成就したのです。私たちが置かされている今も、将来と希望が閉ざされているような時代です。だからこそ、神は希望の約束を送ってくださっているのです。失望しないで祈り続けなさいとイエス様は繰り返し教えておられます。なぜなら、神はすでに私たちに将来と希望の計画を持っているからです。

十字架に示された神の愛:

 聖書が教える希望は何に裏付けられているのでしょうか。信者は神の絶対的な愛に結び付けられています。ですから、どんな困難や試練、絶望と思われるようなことの中にでも、信者は希望を持つことができるのです。さらに、死も命もそのほかどんなものも主イエス・キリストにある神の愛から引き離すことはないと書いています。では、私たちは神の愛をどこに見ることができますか?それは十字架です。十字架で示された神の愛は、あなたに将来と希望をお与えになっています。まだ、祈りの結果を見ていないこともたくさんあると思います。けれど、神が あなたをそして私を、愛してくださっていることは動かしようもない確かな事実です。そして、信じる者は、その父御子御霊の三位一体の神の愛の交わりに入れられています。ですから、あきらめないで祈り続けるのです。そうすれば、あなたはどんな苦難や困難の中にあっても、もうすでに圧倒的な勝利者となっているのです。

ぶどう園の例え

2022年2月20日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
【新改訳2017】
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

<要約>

人の正義と神の正義の違い:

最初にブドウ園に来た人たちは、主人に不満をもらしたと、書いています。人の正義は、状況によって変わるものといえるでしょう。裁判用語で、情状酌量という言葉があります。情状酌量を広辞苑で調べると、「刑事裁判において、同情すべき犯罪の情状を汲み取って、裁判官の裁量により、刑を減刑すること」と書いてありました。すなわち、人間の正義は、相対的であり、事情によって変わってくるということです。それに対して神の正義は絶対です。それは神の清さから来ています。一点の汚れも妥協もない清さです。その清さのゆえに、一点の汚れも受け入れることができないのです。4節で、「相当の賃金を払うから」といっています。この「相当」は、英語ではjust rightのjustです。ふさわしい報酬、ちょうどで正しい賃金、とでも言います。この相当の賃金の「相当」はギリシャ語、原語ではディカイオスで、神の義の「義」という言葉と同義語です。ぶどう園の主人が働きの長い短いに関係なく、全員同じものを与えたように、父なる神も御国に来るものには働きの大小に関係なく「義」という賜物、プレゼントをお与えになることを示しています。

ありえない神の愛:

最初の人アダムの罪以来、その子孫であるすべての人は、アダムの罪の性質を受け継いでいます。そしてその罪により、罪と死と滅びに定められています。人の内側から出てくるものが人を汚すのです。心に浮かぶ悪い考え、情欲、貪欲、よこしまなどが人に罪を犯させるのです。すべての人は、神から遠く離れているというのです。ですから、真の神を知らないのです。また、知ろうともしないのです。神は人の心をご覧になっております。神の義は徹底的に人を裁くのです。しかし、それに反して、神の愛は徹底的に人を罪の裁きから救うことです。そこで、その二つの矛盾する思いに筋を通したのが、御子キリストの十字架です。すべての人は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる時、完全に罪赦されて神の前に義とされます。それが「神の与える義です」。それは私たち人間には理解できない「ありえない神の愛」なのです。そして、神から義とされた人は、罪赦されて永遠のいのちを持ちます。行いや私たちの人間的な努力ではありません。

神を愛する者に及ぶ二倍の祝福

2022年2月13日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書25章14~30節
25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』

<要約>

祝福倍増の法則に生きる:

かれは、5タラント受け取ると「すぐに行って」商売をしました。そして、預かったお金を二倍にしました。彼は、主人の信頼を受けていたので、喜んで出ていき、勇気をもって商売に取り掛かったのです。しかし、5タラントをいただいた人は、それだけ強い誘惑に会います。持っていれば持っているほど誘惑も強いといえます。また、富や才能がその人を高慢にしてしまします。しかし、この5タラント預かった人は、それらの戦いに勝利しました。これこそ、神を信頼し愛し、恐れている者の姿です。神からの報酬は何と大きな喜びであったでしょう。彼は、5タラントを10タラントにして、その後、主からさらに与えられました。次に、2タラントを預けられたしもべです。それを用いて二倍にしました。彼も主の信頼を受けていたので喜んで出ていき、勇気をもってチャレンジしたのです。主の信頼にこたえて一歩踏み出すとき、何が起こるのでしょうか。それぞれが倍々の祝福を受けるのです。「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」

罪と死と滅びの原理からの救い:

次に、この二人とは対照的に1タラントを預かったしもべについて、見てみましょう。なぜ彼は、主人に心を閉ざして、不信の罪を犯したのでしょうか。それを知るためには、天地創造で人が創られたときからの人類の歴史をみる必要があります。神は天地万物をおつくりなって、そのわざを終えられたとき、すべては非常に良かったといわれました。神は人とすべての被造物を祝福しました。アダムは罪を犯す前は、神への信頼と愛により忠実に神に従っていました。そのルールにしたがう時にアダムには倍々の祝福がもたらされていました。世界は祝福と喜びに満ち溢れていたと思います。それが、「天の御国」のルール、法則です。しかし、アダムが神の戒めを破って罪を犯してしまいました。それにより、人も自然界も一挙に堕落して呪いの世界へと道を外したのです。それが現代の状況です。すなわち、1タラントの人は、アダムの罪を背負った人間の姿です。かくして、人は神との関係を失って、死と滅びに向かっているのです。その罪と死と滅びの原理から救ってくださったのが、イエス・キリストの十字架です。