キリストのみ

2023年1月29日(日)ハレルヤチャペル滝沢礼拝説教 銭谷幸器師

<聖書>ローマ人への手紙5章18節
【新改訳2017】
こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

<要約>

ルーテル同胞神学校=プロテスタントの元祖であるルター派神学校

プロテスタント教会とカソリック教会との違いは何でしょう?

プロテスタント教会は、「救いの確信」を全員が持てる教会である。

救いの確信ありますか?――自分は半分くらいしか救われていないのではないか、と思っている人はいますか?

救いの確信が持てなくなる理由;信仰と愛を混同しているから

神への信仰、隣人への愛、この二つを区別して持っていることが大切

ローマ5:18 「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」

アダムとエバが神に背いて自分の思い通りに世界をつくろうとした。その罪によって、すべての人が罪に定められた。が、後半、キリストが人間の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったがゆえにすべての人は罪赦され義と認められる。

神が人の罪を背負うために人間として生まれなければならなかった。すべてキリストの行為によって成し遂げられたことである。

救いのために必要なこと;すべてをイエス様が成し遂げてくださったので、私たちは空っぽの手で救いを受け取ればよい。

中世のカソリック教会では、人が救われるためには行為が要求された。

イエスを信じれば、洗礼前の罪はすべて赦されるが、洗礼後の罪は自分で償わなければならないと教えていた。 悔悛と言う制度;司祭に罪を告白すると償いの行為を要求された。すなわち死ぬ前までに償いを終えなければ、煉獄へ落されて、浄化されるために何万年もそこで過ごさなければならないというのである。しかし、聖人たちは自分の罪の償いを終えて、さらに善行を余らして、それはカソリック教会に蓄積されている。すなわち、信徒は聖人がストックした償いを譲ってもらうことで煉獄から出れる、と言うのである。お金を払って、それを得る仕組み。免罪符。私たちが立っているところは、聖書のみ、信仰のみ、恵のみ、キリストのみ、神にのみ栄光であれ。

天の御国は近づいた

2023年1月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書3章1~17節

【新改訳2017】
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

悔い改めて神と向き合う:

罪の根源は、神を無視し、信ぜず、そればかりでなく、神の存在さえ認めないこと。あるいは、あなたの中から神を追い出して生活していることです。神がおられるなんて、考えたこともない、心に浮かんだこともない、これこそが、本来あるべき神との関係を失っている状態です。その様な状態では「神の栄光を受けることができない」と聖書にあります。それは、神はあなたを心配して祝福しようとなさっているのに、あなたは知らん顔して、そっぽを向いているという状態です。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げ、神を心にお迎えすることです。イエス様が、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」というのは、御心に従う行為であり、信仰から出た行為です。心が正されると、行いも正されます。まだ、神との正しい関係に入っていない人は、悔い改めて、イエス・キリストを信じて洗礼を受けること、聖餐式を守ることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

天の御国を持ってきたイエス様:

神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されました。イエス様がヨハネからバプテスマを受けて、いよいよイエス様がすべての人の救いのわざに立ち上がったことを神は喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。しかしその時、イエス様は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意したのではないでしょうか。イエス様は十字架で人の罪の贖いをすることにより、神と人との正しい関係を取り戻してくださいました。それは、イエス様が天の御国を私たちのところに持ってこられたと言えます。キリストが支配する国を打ち立ててくださいました。キリストを信じる者は、神の国に属するのです。キリストがあなたの人生の主となり、あなたにかかわる一切を統治してくださいます。国のトップが変わると国が変わります。キリストが主となると人生が変わります。

天のお父さんとイエス様

2023年1月8日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
【新改訳2017】
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

崇高と栄光の神があなたのお父さんとなる:

ここでイエス様は「自分は必ず自分の父の家にいる」と、お応えになりました。神を父と呼んだのです。神を自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。私たちの先祖の神、私たちの父たちの神と呼びましたが、神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。そして、私たちクリスチャンも「天のお父様」とも親しく呼びかけます。しかし、私たちは、生まれながら罪によって、神に近づくこともみ前に立つこともできないのです。まして、「お父さん」と呼ぶことなど絶対にできません。そのように深い断絶があるにもかかわらず、神は近づこうとしてくださっています。そして、イエス様を通して、私たちは神と父子の関係に入れてくださったのです。どのようにしてでしょうか。神の御子イエスが、神と私たち人間を隔てている罪の仕切りを取り除いてくださったのです。それは、人の罪の裁きを身代わりとなって受けてくださったことによります。そのように、イエス・キリストが十字架であなたの罪を取り除いてくださったと信じるなら、神はあなたのお父さんなのです。

神を父としイエスを模範として歩む:

イエス様が、私たちに望んでおられることは、自分の力を尽くして、神と人を愛しなさいと言うことです。イエス様は、あなたと私のために十字架でご自身のいのちを捨て、私たちの罪の代価を身代わりとなって支払ってくださいました。そのことにより、神を父と呼ぶことができ、逆から言えば、神の子どもとされたのです。そして、天のあらゆる恵みと祝福をお与えくださったのです。こんなに大きな恵みと賜物を頂いたものとして、完全に父なる神にお従いになったイエス様を模範として生きるのです。イエス様の弟子になるということは苦しみを背負うことのように聞こえます。しかし、歴史を通して数えきれない人々が、キリストの弟子となり、信仰の故の苦しみを負ってもイエス様の後を歩き続けたのです。私たちクリスチャンもその弟子のひとりです。神の求めていることは、感謝と喜びの応答です。苦労は多いとしても、こんなに祝福された人生を与えてくださっている、また、どんな時もともにいてくださると約束しておられるインマヌエルの主です。主に感謝して喜んで、奉仕や礼拝出席、献金、隣人愛の実践に励むのです。そのことを主は大変お喜びになるのです。

キリストにある喜び

2023年1月1日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ピリピ人への手紙2章1~18節

【新改訳2017】
ピリ
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
2:12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
2:13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
2:17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

<要約>

何物も消すことのできない喜び:

キリストにある喜びは死を超えている、自分の命にも勝る喜びである、と言うことです。 この後、パウロは、ネロの迫害によってローマで 斬首刑にされ命を失いました。死を目前にしても、キリストにある喜びで満たされていたと言えます。イエス様は、全知全能、全世界をお作りになり万物の最初であり終わりであるお方です。それでは、そのようなお方が、なぜへりくだり、ちっぽけな人間としてユダヤのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったのでしょうか?そして、何も悪いことをせず 罪の一つもない清い神が、当時でも極悪人しか適用されなかった最も残虐な処刑を受けたのでしょうか。イエス様は、十字架の死に至るまで父なる神に従い通しました。そして、死んで墓に葬られました。イエス様は十字架ですべての人の罪を背負って、罪の裁きを受けてくださいました。あなたの罪に対する神の怒りの杯を飲み干してくださったのです。その動機は、愛です。そのイエス様の功績のゆえに、神はイエス様を復活させられたのです。死と隣り合わせの人生でも、イエス・キリストの十字架と復活の福音は信じる人々に、永遠のいのち、復活のいのち、それによるしぼむことのない希望を与え続けたと言えます。そして、それを思うときに、死によっても奪い去ることのできない喜びを味わうものとされたのです。聖霊はあなたの空っぽの部屋に入りあなたを祝福したいと願っておられます。キリストを信じ、キリストが与える喜びを受けてもらいたいと思います。永続する、色あせない、しぼむことのない喜びがあります。

キリストの喜びで前向きに生きる:

イエス様は神であられるのに最大限にへりくだられました。もっとも貧しい姿で地上に くだられました。そして最も弱い立場の人間として生活なさいました。王であり支配者であるはずなのに、しもべとなりました。自らを低くして死にまでしたがいました。このように徹底的に謙遜になり、へりくだられました。そして最後まで従い通したイエス様を、神は高めて全てに勝る権威をお与えになりました。ここに霊的な法則があります。神はへりくだる者、神に従う者を高めてくださるということです。ですから、もしあなたが、キリストを信じ喜んでいるなら、あなたの前に立ちはだかるいろいろな困難や苦難も、それは喜びに変えられます。ですから、私たちは、キリストを喜び、前向きに生きるのです。