神の気前の良さ

2019年08月25日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

<要約>

平等で完全な神の恵み:

ぶどう園の主人が働きの長い短いに関係なく、全員同じものを与えたように、父なる神も御国に来るものには働きの大小に関係なく賜物、プレゼントをお与えになることを示しています。また、主人は、一デナリを「相当のもの」と言い換えています。これは、「義」という言葉と同義語です。「神の義」は絶対正義とでもいえるでしょう。それは神の清さから来ています。一点の汚れも妥協もない清さです。その清さのゆえに、一点の罪も赦すことができません。ですから、どんな罪に対しても裁きを下されるのです。それに対して、人の正しさとはどういうものでしょうか。人の内側から出てくるものが人を汚すとあります。心に浮かぶ悪い考え、情欲、貪欲、よこしまなどが人に罪を犯させるのです。「義人は一人もいない」と聖書が言っている通りです。しかし、人が罪のために滅んでしまうことを神は惜しまれて、すべての人の罪の裁きを御子キリストに負わせられました。すべての人は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる時、完全に罪赦されて神の前に義とされます。それが、神の与える義です。神の恵みは、無条件の罪の赦しと永遠のいのちです。そこに、平等で完全な神の恵みがあります。

不平等と感じる人の心:

神の恵みは無限です。その恵みの前には、努力して功績を積んだものが得をするという考えはありません。「働けば働くほどもっともらえる」というのは、この世の中では、当然の報酬ということになります。しかし、神の恵みは全く違います。ねたましく思うという思いは、人と比較するところから生まれます。不平等を感じて文句を言うのです。もし、先に雇われたものたちがこう考えたらどうでしょう。「仕事がないのに自分のようなものを雇ってくれた。それだけで感謝です。そうでなければ一日中無為に過ごしてしまうところだった。1デナリで十分です。ご主人様ありがとうございます。」謙遜になれば、文句など出なかったはずです。神の恵みに完全に浴したければ、自分に死ななければなりません。自分が無になったときに神の恵みは完全にあなたのものとなるからです。自分はまだましだ、自分はそんなに罪深くないと言っている人には、神の恵みは届きません。私たちが救われたのは神の一方的な恵めであることをもう一度確認しましょう。

失われた人を捜し求める神

2019年08月18日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>マタイの福音書18章11~20節
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。
18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

<要約>

滅びないでいのちに至るために:

イエス様が来られた動機は、「失われている者を救うためであった」ということです。失われた者とは、神を信頼せず、神を恐れず、神を愛することを知らない人でいのちを失って、滅びに向かっている人です。たとえ話は、教会学校ではよく「迷子の羊」と題して語られるところです。羊飼いであるキリストにとってその迷っている一匹の羊はどれほど尊いものであるかを示しています。迷い出た一匹のために他の九十九匹を山に残して、捜しに出かけるというのです。普通、人は、九十九匹を危険な目に合わせてまで、迷い出た一匹を捜しに行くことはないが、神の愛はそうではありません、というところです。イエス様は一人の人も滅びることを望んでいません。すべての人が悔い改めに進むことを願っています。その為に、神はひとりの人も自らの罪によって滅んでいくことが無いように、十字架による罪の赦しと永遠のいのちを提供してくださっているのです。

天国の鍵を握る教会:

兄弟が罪を犯しているのを知ったなら、まず、最初に、「行って、忠告しなさい」というものです。しかし、その人がそれでも悔い改めず、忠告を聞かないならば、次には、他の一人か二人を連れて行きなさいというものです。他の証人を連れて事実確認にいかなければならないというのです。それでも聞き入れないならば、教会に訴えるのです。教会には戒規規定があります。それは、あくまでもその人を裁いて滅びに至ることを宣言するためではなく、悔い改めて救うためです。そして、「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」これは、ペテロを代表として教会が受けた「天国の鍵」の権威です。教会で戒規に処したことは、天国でもその通り執行されるということです。教会は、キリストの十字架による罪の赦しを宣言し、それにより神のいのちに与り、永遠のいのちが与えるところです。それと同時に、教会は罪に対する神の怒りをも伝え、悔い改めない魂は永遠の滅びに落とされることを宣言します。地上の教会の祈りが天を動かすのです。教会は、積極的に罪の赦しを宣言していきます。みことばと聖礼典を通して罪の赦しが宣言されています。

信仰に富むとは

2019年08月11日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書<ルカの福音書12章13~21節

12:13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
12:14 すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

<要約>

人の前に富んでも神の前に富まない人:

この金持ちは、自分のいのちはずっと安泰であると考えました。いのちが神のものであり神の主権の中にあることに気づかなかったのです。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、魂や霊のいのちを支えることはできません。なぜなら、魂と心の満足は人格の満たしから来るからです。人は人と、そして神とのつながりの中で喜び、充実、希望、平安、感謝を感じることができる存在だからです。人は人格的な触れ合いによって癒され、人として成長するのです。それでも、真の神を信じない、生まれながらの人間にはなお、人格の中心に満たされない空洞があります。それは、霊のいのちをお与えになっておられる神によってしか満たすことができません。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富むことのない人間に対して、神の方から働きかけて富む者にしてくださるのです。

富む者としてくださる神:

神は、恵みにより私たち信じる者を富む者としてくださいます。どのくらい富む者としてくださるのでしょうか。キリストは、天の富を捨てて貧しくなり、もっとも貧しい人のひとりとしてこの世に来てくださいました。イエス様は天の富を信じる者にお与えになり、その代わりとして、私たちの貧しさを担われたというのです。すなわち、「私のすべての罪の負債はキリストのもの、キリストが持っている天にあるすべての富と祝福は私のもの」となったのです。これを喜びの交換といいます。私たちがすることはその罪のゆるしと永遠のいのちの祝福を信仰によって受けとめることなのです。「わたしの望みはあなたです」と神に望みを置く人生こそ、信仰に富む人生です。外面的に悲しくて不幸に見えても、この世の富に代えられない最も大切な事は信仰に富むことです。信仰の富は信じるあなた方にもうすでに与えられています。ですから、これからは使うのみです。天の宝をどのように使いますか。それは自分のためだけに使ってもむなしいものです。それをあなたの隣人のために用いましょう。

もう一度神と向き合うために

2019年08月04日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカによる福音書10章25~37節

10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>

向き合うことのできない人間:

彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」これは、律法の戒めを包括する教えであり、的を得た答えです。イエス様は「その通りです。それを実行しなさい。」と言われました。しかし彼は自分の正しさを示そうとして「隣人とはだれですか」とイエスに問いました。イエス様は、「良きサマリヤ人のたとえ」のお話をされました。このたとえ話で、イエス様は、隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も敵をも含んでいることを示されたのです。隣人愛を実践する前に「心を尽くして、思いを尽くして、知性を尽くして神を愛しなさい」というのです。それは別の言い方では、神としっかり向き合いなさいとの勧めです。人間は神と向き合うことをやめて、神の思いより自分の思いを優先し、神から遠く離れてしまっています。ですから、神を知ろうともせず、神と向き合うということもわからないのです。そのような人間は自分とも向き合えない家族とも向き合えない、ましてや隣人とどうして向き合えるでしょうか。

向き合ってくださる神:

中学生の時にいじめにあった長谷川少年は金八先生のような熱血教師と出会いました。その先生は、いじめにあっていた長谷川少年と向き合ってくれました。ある時、長谷川少年はこういう手紙を書いたそうです。仮に、町が大火事になり、先生はヘリコプターに助けられて上空に出ました。その時、下の方で、先生の息子さんが、逃げ惑っていました。すぐに助けようとヘリコプターは下降しました。そうしたら、その息子のそばに逃げ惑う長谷川少年を発見したのです。ヘリコプターにはあと一人しか乗せられません。先生はどうしますか?という内容です。「自分も人間だから、息子の方を助けると思う」という返事でした。長谷川少年はその先生が自分と最後まで向き合ってくれると、信じたかったのです。しかし、人間が自分の子どものいのちを犠牲にして他人のいのちを救うことはありません。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。それが、キリストの十字架です。その神が、ここにおられる皆さん一人一人と向き合ってくださいます。