神を動かす祈りとは?

2021年5月30日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>Ⅱ列王記19章1~20節
19:1 ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を引き裂き、粗布を身にまとって【主】の宮に入った。
19:2 彼は、宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに粗布を身にまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。
19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っております。『今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。
19:4 おそらく、あなたの神、【主】は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリアの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、【主】は、お聞きになったそのことばをとがめられます。あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。』」
19:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
19:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。
19:7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」
19:8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリアの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いていたからである。
19:9 王は、クシュの王ティルハカについて、「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」との知らせを聞くと、再び使者たちをヒゼキヤに遣わして言った。
19:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが。
19:11 おまえは、アッシリアの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを確かに聞いている。それでも、おまえだけは救い出されるというのか。
19:12 私の先祖は、ゴザン、ハラン、レツェフ、またテラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したか。
19:13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、ヘナやイワの王はどこにいるか。』」
19:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取って読み、【主】の宮に上って行き、それを【主】の前に広げた。
19:15 ヒゼキヤは【主】の前で祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
19:16 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください。
19:17 【主】よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。
19:18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。
19:19 私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知るでしょう。」
19:20 アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人を送って言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『あなたがアッシリアの王センナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。』

<要約>

天地を造られた全能の神に祈る

ヒゼキヤは何を怒ったのでしょうか。それは、アッシリヤの王が生ける神をそしったからです。アッシリヤの王は、諸外国の神々はみなアッシリヤ王に勝つことはできなかった。だから、イスラエルの神も同じだというのです。世の人々はどの宗教も信仰は皆同じだと言います。人間は、人間を超えた霊的な存在を神として崇めるのです。しかし、その神が誰だかわからないのです。そこで、人間は自分勝手に太陽や山を神と決めたり、木や石で作ったりしているのです。これらは私たち人間が信じる対象にはならないものたちです。なぜならそれらは造られたもの、被造物だからです。私たちが信じ、祈る神は、私たち人間をつくり、全宇宙万物をおつくりになり、治めておられる恐るべき神です。ヒゼキヤは祈ります。神が自分たちを救ってくださいと、そうすれば、あなたこそ真の神であることがすべての王国は知るでしょうと。この後、預言者イザヤは、ヒゼキヤの祈りが聞かれたことを告げます。アッシリヤの王セナケリブは高慢のゆえに、自分の子どもの謀反により剣に倒れます。そして、主の使いにより、アッシリヤの兵隊18万5千人が一夜のうちに死体と化したのです。 このように天地を造られた全能の神に祈るならば、神は聞いて動いてくださるのです。

神に届く祈りのポイント

ヒゼキヤの祈りをもう一度見ましょう。彼の祈りのポイントは、信仰告白の祈りです。自分が信じている神がどのような方であるか、確認しています。確認するとそれが確信に変わります。確信の祈りは信仰の祈りです。神に届く祈りです。神に届く祈りの一番目は、信仰告白の祈り、信仰告白しながら祈ることです。次に、神に届く祈りのポイントは、「神の主権を認めて祈る」ことです。すなわち神の言うことは必ずなる。なぜなら、森羅万象は神の主権の下で神の許しの中で起こっているからです。神のなされることは最善であることを信じることです。信じれば聖霊の助けが来ます。三つ目の神に届く祈りのポイントは、神おひとりに栄光を帰する祈りです。彼は神のみ名が崇められ、すべての人民が主こそ神であることを知るようになることを願ったのです。

聖霊をいただくとどうなる?

2021年5月23日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章32~42節
2:32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
2:34 ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

<要約>

イエス様を十字架に付けたのはあなたです

聖霊は、すべての聴衆に対して「あなたがキリストを十字架につけたのです」と言っています。2000年後の私がどうしてイエス・キリストを十字架につけたというのだろうかと疑問に思う方々もいると思います。キリストが全人類の罪のために十字架にかかったということは、すなわち私たちに原因があるということです。ここに居られるお一人お一人に原因があるということです。私の罪のためにキリストは十字架にかからなければならなかったと言うことは、すなわち、私がイエス・キリストを十字架にかけたのです。私たちがイエス・キリストを十字架につけたと思うことがなければ私たちとイエス・キリストの関係は何もなくなってしまいます。ペテロの告発を聞いた聴衆は、心刺されました。彼らは自分たちが神の民であるという意識を持っておりました。ところが神の御子を十字架につけ殺して神の敵になっているということを気づいたのです。

洗礼を受けると聖霊をいただけます

自分たちの罪の深さに気付いた人々は口々に「兄弟たち。私たちはどうしたらよいのでしょうか」と問いました。この時の彼らは自分たちの現状知りこのままでいけないと思ったのです。救いはすでに目の前に置かれていたのです。そうです。「悔い改めてそれぞれの罪を赦していただくためにバプテスマ、洗礼を受けなさい。」というものでした。聖霊がペテロを通して語ったことは、キリストは生きておられる、すべての人は罪を持っていて罪によって滅んでいく、罪を赦していただくためにイエス・キリストを信じなさい、そうすれば賜物として、聖霊が与えられるということです。主は、私たちをキリストにより世と罪と悪魔からそして死から救い出してくださいます。救いは一方的に神様が提供してくださる恵みなのです。ここに私たちの条件は何も書いていません。ただ罪を悔い改めて神を信じることです。すると信じる者に賜物として、聖霊が与えられるのです。信じた者たちには、聖霊の持っているすべての良い物を受けるということです。聖霊は良い果実を実らします。人を変え、人を幸福にします。ものの見方が変わります。ネガティブがポジティブに変えられるのです。聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

聖書は幸せな人生のガイドライン

2021年5月16日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>詩篇119篇105~117節
119:105 あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。
119:106 私は誓いまたそれを果たします。あなたの義の定めを守ることを。
119:107 私はひどく苦しんでいます。【主】よみことばのとおりに私を生かしてください。
119:108 どうか私の口から出る進んで献げるものを受け入れてください。【主】よ。あなたのさばきを私に教えてください。
119:109 私はいつもいのちがけです。それでもあなたのみおしえを忘れません。
119:11 私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。
119:110 悪者どもは私に対して罠を設けました。それでも私はあなたの戒めから迷い出ません。
119:111 私はあなたのさとしを永遠に受け継ぎました。これこそ私の心の喜びです。
119:112 私はあなたのおきてを行うことに心を傾けます。いつまでも終わりまでも。
119:113 私は二心のある人たちを憎みあなたのみおしえを愛します。
119:114 あなたは私の隠れ場私の盾。私はあなたのみことばを待ち望みます。
119:115 悪を行う者どもよ私から遠ざかれ。この私は私の神の仰せを守る。
119:116 あなたのみことばのとおりに私を支え生かしてください。私の望みのことで私を辱めないようにしてください。
119:117 私を支えてください。そうすれば私は救われ絶えずあなたのおきてを見つめることができます。

<要約>

神は二つのお姿であなたを幸せに導く

聖書には、律法と福音という二つの内容が書かれています。律法は神のあなたに対する要求です。福音は、神はあなたを命がけで愛しておられるということです。律法の中心は十戒で、人が幸せに生きるためのルールです。人として生きるための最も基本的なルール、道徳律と言えます。他方、律法である十戒は厳しい戒めとも言えます。守れないものを罪に定めます。律法に対してもう一つは福音です。この福音こそが聖書のもっとも大切な事柄です。それは、神があなたを愛しているということです。簡単に言えば、律法は厳しさです。福音は優しさです。この律法と福音で、読者を導き、律法の厳しさである死と滅びから、福音のやさしさの極みである罪の赦しと永遠のいのちに導いてくださるのです。別の見方をすると、聖書には神の二つのお姿が表わされています。聖書に表わされている神のお姿は、一つには律法であります。厳格な裁判官の姿です。神のもう一つのお姿は、福音であり愛のお姿です。そのように神はこの二つのお姿、律法と福音により、私たちを導き成長させてくださるのです。そして、ついには、幸せにしてくださるのです。

イエス様を待ち望む喜び

この時の詩篇の記者は、苦しみ悩みで限界状況にあったと思われます。そのような中で、「みおしえを愛する」、「みことばを待ち望む」、「神の仰せを守る」、「神の掟を見つめる」など、彼が熱心に神を求め待ち望んでいたと思います。現在は、終末の時代といえます。そして、世の終わりには、イエス様が再び来られます。現在は、私たち信者はイエス様が来られるのを待ち望んでいる時代に生きていると言えます。私たちは、私達を取り巻く世界が、困難や苦難の中にあるからこそ、私たちはイエス様を強く待ち望むのです。私は、1981年、アメリカのミシシッピィ大学で研究のために働いていました。一年くらいたったある日に、吐き気とむくみがでて、ネフローゼと言う腎臓病にかかってしまったのです。3歳と2歳と0歳の子どもを抱えて異国の地で病気になってしまい、大変がっかりしました。しかし、感謝しました。私はその時、病気や困難があるからこそ、イエス様を待ち望む喜びがあるのだと確信しました。今も、私達をとり囲む状況は厳しいですが、だからこそ、私たちは、イエス様を待ち望むのです。

主イエスの恵みによって救われる

2021年5月9日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き15章1~11節
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
15:5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
15:9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

<要約>

割礼とモーセの律法:

割礼は、最初にアブラハムに与えられた契約のしるしです。神はアブラハムを選び、アブラハムの子孫を通して、救いをすべての民に広げようと計画されました。その選びと約束のしるしとして「割礼を施しなさい」と命じたのです。私たちがイエス様を信じたときに、キリストの割礼として、心の割礼を受けました。イエス様を救い主と信じて、バプテスマを受けることにより、古い自分に死んで新しく生まれ変わりました。聖霊があなたの内に住まわれ、キリストに結び付けられたのです。もう一つのユダヤ人クリスチャンの問題提起は、十戒を守ることです。十戒は、行いとしては、守ることができるかもしれません。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人十戒を守り切ることはできないのです。そのことで反って責められるのです。すなわち、律法の役目は、あなたの内側に語りかけ、あなたに罪を気づかせ、指摘し、あなたが、それを悲しんで悔い改めるように促すのです。そして、あなたを救い主イエスのところへ連れて行くのです。

行いではなく信仰によって救われる:

よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、ただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認を何度も解いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、十戒によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架のあがないを信じることによってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、すべての罪が赦されるのです。キリストの十字架の贖い、罪の赦しは神がなしてくださった一方的なみわざです。すなわち恵みです。行いによっては救われない、行いは救いの条件ではないといいました。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださいます。愛は行動で、行いによって表れるのです。