人生の嵐に翻弄されるとき

2026年4月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
嵐の中でも共におられるイエス:

嵐にもてあそばれている船の中の弟子たちと舟底に寝ておられるイエス様、それは、この世の中を航行するクリスチャンライフ、あるいは教会であると思います。人生を航海に例えることが良くあります。平穏な波風もなく順調に目的地に進んでいくときもありますが、風や嵐にもまれて、今にも難破しそうになるような旅路もあるでしょう。長い人生を歩んできた方々にとって、過去を振り返ると様々なことが起こり、その都度、ここの弟子たちのように「イエス様、私は溺れて死んでしまいそうです。」と叫んできたのではないでしょうか。その時に、すぐに神は立ち上がってくださり、波風を鎮めて助けてくださった。しかし、神の沈黙という言葉があるように、黙って眠っておられるように感じたかもしれません。そして、難破しそうになりながらも、「信じて進んできた」のかもしれません。苦しい状況がずっと続いている、いつになったらこの状況から脱出できるのだろうかと悩んでおられる方もいるでしょう。しかし、舟底にはイエス様が確実におられるのです。インマヌエルの主、ともにいてくださる主、それは何にもまして確かなことなのです。「主がともにいてくだされば、どんなことがあっても大丈夫である」という信仰をクリスチャンは持つべきなのです。また、持つことができるのです。イエス様は私たちの重荷を担ってくださるお方です。また、私たちの罪を十字架の上で取り除いてくださいました。決して動くことのない、約束とは何でしょうか。それは、罪の赦しと永遠のいのちです。今の困難もやがては、希望と喜びに代えてくださるという約束です。十字架にかかり三日目に復活して復活のいのちを信じる者にお与えくださいます。これが、永遠のいのち、イエス様の救いです。

信仰によって一歩踏み出す:

「あなた方の信仰はどこにあるのですか」これは私たち一人ひとりに対する問と言えます。信仰は目に見えないことです。信じて一歩踏み出す時に、目に見えるのです。信仰が目に見える形で現れるのは、信じて一歩踏み出す時です。私は、渓流釣りに時々行きました。川で魚のいるポイントに行くために川を渡ることがあります。岸に立った時には、向こうの岸まで川の底が全部見えるということはありません。しかし、手前にある一歩先の石が見えるのです。そして、その石に片足をのせて進むと次の石が見えます。そうやって、一歩一歩進んでいくとやがて川を全部渡り切るのです。信仰は目に見えない心の中のことですが、信仰により一歩踏み出すと目に見える形になるのです。私は、皆さんにそのような信仰のチャレンジをしていただきたいと願います。聖書には、信じて応答した記事にあふれています。イスラエルの民は約束の地に入るとき、ヨルダン川に一歩足を踏み入れたら川は左右に分かれてその乾いたところを渡ることができました。同じように、信じて一歩を踏み出して神がその信仰に答えてくださるという経験をしてきた方々も多いと思います。それを通して、生きて働かれているキリストを見るのです。イエス・キリストを信じて、一歩踏み出していただきたいと思います。イエス・キリストをあなたが持つならば、これから遭遇する人生のあらゆる嵐にもキリストの平安があなたを守り、神の約束された祝福の人生の船路、航路に導いてくださることを約束します。

<聖書>ルカの福音書8章22~25節
【新改訳2017】
8:22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
8:23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。
8:24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
8:25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

べテスダの池で伏せる男

2026年4月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
失われた人生からの救い:

彼は肉体ばかりでなく、心も病んでいました。水が動く肝心な時に誰も助けてくれない。孤独を味わい、また、同情されることもなく、傷ついていました。38年間も何の変化もないむなしく過ぎ去る人生です。誰も自分を池に入れてくれる人はいない。互いに弱い者同士助け合うのではなく、自分さえよければよいという独りよがりの人生。責任転嫁と弁解の人生。人任せで無気力な人生。これは、失われた人生と言えます。そして、「キリストは失われたものを探して救うために来られた」のです。イエス様は、彼を無気力から呼び覚まし、本来のあるべき人生にもどそうと声をかけられたのです。最初、かれは的外れな返答をしてしまいましたが、すぐに、思い起こしたのです。自分は神に病気を治していただくためにベテスダへ来たことを。イエス様は、「よくなりたいか」と言って、彼の心に、信仰の火を灯したのです。彼は忘れ失いかけていた願いを思い起こしました。「主よ。私の願いは立って歩くことです。あなたは全能の神、癒す神です。そのことを信じます。」その信仰を見て、イエス様は命じられました。「起きて床を取り上げて歩きなさい。」するとすぐに、彼の病は治り床を取り上げて歩き出したのです。もう罪を犯してはならない、そうでないともっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。すなわち、罪の赦しと病の癒しが宣言されているのです。神は失われた人を救うためにいのちの代価を払ってくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。罪によって失われていのちを神のひとり子のいのちに代えて買い戻してくださったのです。

人の幸せのために働く神:

律法では安息日に仕事をしてはいけない。とありますので、ユダヤ人たちは、その男が床を取り上げたことは違反であるというのです。イエス様が律法を犯して、安息日に病をいやしたことを違反行為として、イエス様を迫害し始めたのです。確かに、モーセの十戒の第三戒には、安息日を聖としなさいと書いています。すなわち、安息日は仕事を休み、神を礼拝しなさいというのです。しかし、イエス様は、「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために作られたのではありません」と言われました。神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒は、第三戒の「安息日を聖としなさい」と同じように、全人類に与えられたものです。それは、人のために神がお与えになったルールです。人が、幸せな人生を送ることができるために神がお与えになった決まりです。十戒は「幸せのルール」といえます。人をおつくりになった神が人のためにお与えになったルールですから、そのルールに沿って生きれば必ず幸せになるのです。それが律法です。神は安息日にも休むことなく、今日に至るまで人のために働き続けておられるのです。神は、人が真の自由を得て幸せに生きることができるようにと安息日を定め、十戒を与えられました。人はそれを履き違えて、律法を、心を縛り自由を奪うために用いてしまったのです。これがこの男に対するユダヤ人の対応でした。神はあなたに自由と幸せな人生を与えようとされています。その自由は、死からさえもあなたを自由にします。そして、信じる者に将来と希望を与えてくださるのです。それが神の約束です。救い主イエス・キリストを信じて、神との親しい関係にお入りになり、神の子供としてその祝福を受け継ぐ決断をしてみませんか。それは神のいのちにつながる永遠に続く素晴らしい祝福と恵みです。

<聖書>ヨハネの福音書5章1~18節
【新改訳2017】
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
5:4 【本節欠如】
5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
5:16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
5:18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。