イエス・キリストの系図

2021年9月26日主日礼拝 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書1章1~21節
1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、
1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、
1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、
1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、
1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、
1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、
1:8 アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、
1:9 ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、
1:10 ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、
1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。
1:12 バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、
1:13 ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、
1:14 アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、
1:15 エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、
1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

<要約>

罪人を救うために人となったキリスト

系図を通して、キリストはユダヤ人の王、そしてユダヤ人の救い主としてお生まれになりました。それと同時に、異邦人や罪人と言われている人々のために。すなわちすべての人々の救い主であることを物語っています。また、神はありのままの人間を受け入れているということです。そのような罪深い私たちの真ん中にご自身のひとり子イエス様を送ってくださったのです。罪人を救うために人となって来てくださったのです。イスラエルは真の神、力ある全能の神、愛とあわれみの富む神を信頼できず、イスラエルの民は人の知恵や偶像に頼りました。そのような中で、祭司エズラは、これまでのイスラエルの歴史を振り返り、宗教改革を断行します。律法に帰る運動です。エズラの後、宗教指導者たちは、律法に厳格であろうとして、さらに細則を儲けて規則に規則を作るようになりました。十戒をはじめとした律法をとにかく守ることを重要視したのです。 行きつくところ、律法を守ってさえいればよい、という考え方です。心はどうでもよい。それが律法主義です。そして、また、神のみ心から遠く離れるのです。

心砕かれ悔い改めてイエスを信じる

神は、ご自分が選んだイスラエル民族を宝の民としました。それに対してイスラエルは偶像に身をやつし、まことの神からはなれてしまいました。そこに、神の真実を見ると同時に人間の罪深さ、人間の不真実、不誠実を見ることができます。私たちは、自分を罪人と認めてへりくだった信仰こそが神に喜ばれるのです。私たちには目に見えない神を信じ続ける事は難しく、目に見えるものに心を奪われ信頼を置きやすい弱さを持っています。私たちの罪が赦されるためには誰かが身代わりとなって罪の刑罰を受けなければなりません。神は人間を罪の裁きから救うために、神の一人子であるイエス・キリストを十字架につけ、私たちの身代わりとして、その十字架の血によって私たちの罪を赦すという驚くべき救いの道を備えてくださったのです。それがキリストが世にこられた目的です。キリストはあなたの苦しみと困難のただ中に来てくださいます。否、これまでもキリストはあなたのところへ来て下さっていたのです。でも、あなたはそれに気付かなかったのです。 砕かれた、悔いた心を持って、イエス様を信じることです。

キリストを信じて従う喜び

2021年9月19日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰペテロの手紙1章1~9節
1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、
1:2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

<要約>

信仰の故に苦難を受ける

誰でも真剣に信仰に生きようとするならば人生において試練を経験するものです。それは神ご自身が御子の十字架の死を通して 苦しみと悲しみを経験なさったことと関係します。私たちは、どんなときもイエス様に従うこと、そして、たとえつまずいたり失敗したりしても、キリストの十字架の赦しを受けて、前に進むことです。十字架の苦難は、無実の神の御子が、極悪人にしか適用されない十字架刑に処せられたことです。それは、すべての人、そしてあなたの罪を背負って身代わりとなって死刑を受けてくださったことによります。本来、人はそのままでは自らの罪によって永遠の滅びに至ります。しかし、神の恵みは、十字架を信じる者には誰にでも、無条件に罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださいます。イエス様に従う私たちクリスチャンも、苦難と悲しみを経験するものとして召されている、ということができます。ペテロは 断言しております。信仰のゆえに生じる試練や困難は、後に称賛と栄光と誉をもたらすというのです。もし、クリスチャンであることのために悪口雑言を受けるなら幸いです。栄光の御霊があなたを見守っていてくださるからです。そして、あなたは神を崇めるようになるのです。そこに、信仰の故の苦難と悲しみの意義があるからです。

栄えに満ちた喜びに至る救い

イエス様の御生涯は苦しみと悲しみで終わったのではありません。復活により、生ける望みに、栄に満ちた喜びに、逆転勝利したのです。ですからここで、ペテロは勧めています。神はあなたを新しく生れさせ、生ける望みを持たせてくださったのだと。新しく生まれるためには、まず、死ななければなりません。それは、自分中心の古い自分に死ぬことです。つまり罪の自分に死んで聖霊に内に住んでいただくことです。イエス様は水と霊によって生まれなければ神の国を見る事ができないと、語りました。水は洗礼を意味します。洗礼により罪に死んで内に住まわれる聖霊によって生きるのです。キリストは命に至る道です。私たち信者は信仰の結果である、罪の赦しからくる救いを得ています。人生は死んで終わりではありません。やがて、信仰の報いである天での栄えに満ちた喜び踊る生活があなたを待っています。私たちは天国を先取りして今、喜んでいます。

復活の希望

2021年9月12日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記22章1~14節
22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
22:5 それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。

<要約>

試練の先に備えあり:

アブラハムの信仰は、復活の信仰といえます。アブラハムは、イサクのいのちを神が死者の中から取り戻してくださると信じました。神もアブラハムを信頼していました。そして今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神の最愛のひとり子イエス様を、すべての人のために、つまり、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけることです。アブラハムは、刀を振り上げてイサクを屠ろうとしたその時、神様の「待った」が入ったのです。イサクの代わりとなる一頭の雄羊が藪に角をかけていました。アブラハムはそこを「アドナイ・イルエ」名付けました。「主の山には備えがある」という意味です。主の山には備えがある。試練の先にも、神は備え、すなわち準備をしていてくださるということです。私たちは、時には死に至るような試練に遭うかもしれません。しかし、驚き怪しむことなく、神の備えを期待し、信仰によって、すなわち、み言葉と祈りによって勝利することです。それが信仰者の試練の対処の仕方ということができます。

死を通していのちに至る:

聖書が教える死は、誰でもが迎える肉体の死だけでなく、肉体の死の後に来る魂、あるいは霊の死です。誰もが肉体の死を通らなければなりませんが、死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされます。なぜ、神は地上にいる間、この肉体の死を残しておられたのでしょうか。もし、キリストの贖いにより、キリストを信じ洗礼を受けたとたんに罪赦されて永遠のいのちが与えられて、死が無くなったらどうでしょうか。私たちの周りは、死なない人と死ぬ人が混在することになります。洗礼を受けた人は死なない人、その逆は死ぬ人。それが一目瞭然であったらどうでしょうか。当然みな死にたくないので、とにかく洗礼を受けるでしょう。この世に信仰はいらなくなりますし、信仰はなくなります。神は、信仰を通して人を救おうとなさっています。神は信仰を最も大切なこととしておられるからです。信じた者にも地上で肉体の死が残されているわけは、クリスチャンが最後まで、信仰に生きるためです。死を迎えるまで、信仰の訓練は続きます。死がいのちの終わりではなく、死がいのちの始まりとなるからです。

祝福の約束

2021年9月5日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11:31~12:7

【新改訳2017】
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。
11:32 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
12:5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 【主】はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。

<要約>

神が与えてくださる祝福とは:

神はアブラムに土地を与える約束をします。そして、アブラムに子孫の約束を与えます。子孫が大いなる国民となることです。繁栄の約束です。アブラハムの祝福を受け継ぐクリスチャンである私たちにも、神は天にある豊かなあふれる富をお与えになります。そして、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」と宣言されました。それは、神はどんな時もあなたの味方であること。そして、神がどんな時もあなたとともにいてくださる約束です。さらにそれは、繁栄と勝利の祝福と言えます。なぜなら、勝利の主がいつもあなたと共にいてくださるからです。次に、神の祝福は、罪の赦しと永遠のいのちです。それは、アブラハムの子孫イエス・キリストにより与えられるものです。すべての人には罪があるので、神の祝福を受けることはできません。そのあらゆる罪から私達を贖いとってくださったのが、イエス・キリストの十字架です。私たちクリスチャンもアブラハムのように地上では旅人で苦労の多い人生かもしれませんが、神を信頼して歩んでいきましょう。

神の祝福にとどまり続けるためには:

どのようにしたら神の祝福にとどまり続けることができるのでしょうか。それは、ずばり、あなたを造り、あなたを愛しておられる神を認め、信じることです。そして、神が送ってくださった神の独り子イエス・キリストをあなたの救い主として信じて洗礼を受けることです。アブラハムの祝福があなたのものとなります。なぜなら、神がアブラハムに約束してくださったこの祝福と救いは、イエス・キリストにおいて成就しました。現在、全世界の教会を通して、すべての人々に等しく提供されています。聖書は多くの箇所を通してイエス・キリストこそ、私たちすべての人を、罪と死と悪魔から救い出してくださる真の救い主であることを主張しております。イエス・キリストを信じる者は、罪赦されて、永遠のいのちをいただくのです。それが祝福です。アブラムは特別な人だったのでしょうか。否、アブラムは偉い人であったと思いますが、失敗も多くしました。普通の人であったと思います。そのアブラハムのように、神はあなたに目を留め、あなたを祝福の伝達者、祝福の基とするのです。