恵みにとどまることの勧め

2022年4月24日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>申命記28章1~19節
【新改訳2017】
28:1 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
28:2 あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
28:3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
28:4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
28:5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
28:6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
28:7 【主】は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
28:8 【主】はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
28:9 あなたが、あなたの神、【主】の命令を守り主の道を歩むなら、【主】はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
28:10 地上のあらゆる民はあなたに【主】の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
28:11 【主】があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、【主】はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
28:12 【主】はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
28:13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、【主】の命令に聞き従い、守り行うなら、【主】はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。
28:14 私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。
28:15 しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
28:16 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。
28:17 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。
28:18 あなたの胎の実も大地の実りも、群れの中の子牛も群れの中の子羊ものろわれる。
28:19 あなたは入るときにものろわれ、出て行くときにものろわれる。

<要約>

祝福とのろいのメッセージ:

神の恵みにとどまれば祝福される。しかし恵みから外れれば、あらゆる不条理と悲惨があると言うのです。祝福の反対はのろいですが、誤解していただきたくない事は、神は私たち人間に対して悪意を持って取り扱う事はなさりません。悪いことを企んだり悪いことをなさったりすることは決してありません。ここでは、もし、この恵みにとどまる事をしなければ、罪の世、この不条理の世界がたちまちあなたを飲み込み、あなたはここでいうのろいに置かれるのだということを言っているのです。それは、神に敵対する勢力です。三つあります。一番目は、私たち人間の罪の性質です。二番目は世です。世の誘惑は、人が自分自身のために生きるように仕向けることです。三番目はサタン、悪魔です。かれは私たちと神との関係を破壊しようと誘惑するのです。このように私たちは自分の内面にある罪の誘惑とこの世の誘惑と悪魔の誘惑を常に受けているのです。その結果、神の恵みから落ちてしまうのです。私たちは、神の恵みにとどまらなければ、私たちは呪いと滅びの道を歩むことになるのです。恵みにとどまることは難しいことではありません。神の恵みは神の一方的な愛と哀れみです。私たちはへりくだり自分の罪を悔いて神を仰ぐことです。すなわち信じる信仰です。

呪いを祝福に代えたキリストの十字架:

イエス様は十字架で人間のすべてののろいを受けて死んでくださいました。呪いの代わりに、信じる者に無代価で祝福を与えてくださったのです。そして、神は、キリストを信じる者を、罪と世とサタンののろいから永遠のいのちの祝福へと移してくださるのです。神の恵みとは神の一方的なあわれみです。クリスチャンが、「神の恵みにとどまる」ということは具体的にどのようなことでしょうか。神を信じ、どんなことがあっても神に信頼していくことです。また、日々の生活の中に、イエス様が共にいてくださることを認め、聖書を読んで祈る生活を持つことです。主日礼拝を守り、聖餐式を通してキリストの体と血に与り、罪の赦しといのちの祝福を味わい続けることです。信仰は神の恵みを受け止める空の手です。あなたのために、のろいを祝福に代えてくださったイエス様をあなたの救い主として受け止め、信じましょう。

復活への期待

2022年4月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書24章1~12節
【新改訳2017】
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。

<要約>

死を打ち破る復活:

女たちは死人のイエス様を求めていたと言えます。しかし、死人のイエス様はそこにはいないとの天使のメッセージです。すなわち、死んだイエス様はもういない、復活したイエス様が生きておられるのだ、というのです。もし、死んでしまったイエス様を信じお頼りしてもそれはむなしいことです。死んだままのイエス様には救いはなく、なおまだ、女たちも弟子たちも、そして信者である私たちも罪の中で滅びる者たちです。ここで現れた天使たちは、「ここにはおられません。よみがえられたのです。」「死人の内にはいません。生きておられるからです。」と宣言しています。ここに勝利の宣言があります。アダムの罪により、生まれながらに人はすべて罪人で神のいのちを失っています。しかし、キリストの義の行動によりすべての人が罪赦されて復活のいのちに生かされるのです。イエス様を信じる者は肉体の死にあうがそれは大きな力を及ぼさず、復活のいのちに生きることができます。永遠のいのちが与えられて、死に勝利しています。

最後のときを期待と希望に生きる:

女たちは、天使のみ告げを聞いて、「イエス様が十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」というみことばを思い出しました。そして、墓から戻って、十一人の弟子たちに報告しました。ところが使徒たちはこの話がたわごとであるとして信じなかったのです。復活という事実を理解できなかったのです。クリスチャンは、やがて、世の終わりにラッパの音とともに復活するのです。その時には、顔と顔を合わせてキリストを見るようになります。私が神に完全に知られているように、わたしも神を完全に知るようになるのです。何と素晴しい約束でしょうか。ペテロは空の墓を見て、帰り道、彼の心には、何か素晴らしいことが起こるという予感で満たされていたのではと想像します。「私たち信者も、やがて復活の主に顔と顔を合わせてお会いするのです。やがて復活の主にお会いする時が必ず来ます。ですから、失望と落胆の中にあっても、心が熱くなったペテロのように、あなたも、あなたの人生に素晴らしい期待と希望をもって生きるのです。