失われた者を探し求める神の熱心

2021年11月21日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書18章1~14節
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
18:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
18:8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。
18:9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
18:11 ☆
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。

<要約>

神の国のVIP

天の御国では誰が一番偉いのか?の弟子たちの問いに対して、イエス様は一番偉い人は子どものように自分を低くするものであると言われました。幼き子が親を信頼して身を寄せている姿勢こそ、私たちの父なる神へのあるべき姿勢です。クリスチャンは何事も自分の力に頼らずして、主にすがって主に委ねて乗り切ることです。子どもたちにはイエス様の愛が注がれています。小さいものを受け入れるというのは実際には小さい人に仕えることです。教会はそのようにして兄弟姉妹を受け入れお互いに仕えあっていくところです。弱い力のないものを通して神の力が現されていくという霊的法則があるのです。この後に迫害の時代がやってきます。多くの信者たちは信仰をとるか、さもなくば、死を取るかを迫られてきました。歴史を通して無数のクリスチャンたちは、殺されることを顧みずに、信仰をとったのです。永遠の火に投げ込まれることを免れ、信仰により永遠のいのちに至ったのです。この世では最も取るに足りないと思われる人でも信仰に生きた人は神の国では VIPなのです。

不条理なほどにあなたを愛する神の愛

一人の人を救おうとされる神の熱心さは、99匹を残して一匹を救おうとします。神のみ思いは滅びに至るその一匹、その一人の人を救いたいという熱い思いと深いあわれみを持っておられるのです。神はそのひとりの人を救いに導くという働きを私たちに託しているのです。天のみ国に入る資格は、神との正しい関係にあることです。神から義とされていることです。罪赦されている者のみが入ることができるのです。つまり、イエス・キリストがあなたの身代わりとなってあなたの罪を十字架で贖ったことを認め信じることです。不条理と見える神の愛はどこに現れているでしょうか。そうです。それは十字架に表された神の愛です。神を敬わない、神を認めない、神の敵として歩んできたそのような者のためにキリストは十字架で死んで下さったのです。そのことによって、神は私たちに対するご自身の愛を示してくださいました。今日も、神は迷子の羊であるあなたをさがし求めておられます。

走り寄る神

2021年11月14日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書15章17~32節
15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

<要約>

悔い改めて帰るのを待つ神;

彼は回心しました。我に返ったのです。自分の思いに方向転換が起きたのです。自分のどうしようもない状態から父を思い出したのです。心の貧しい者の幸いがあります。天を見上げるからです。神に助けを求めるからです。そして、神が救ってくださるのです。走り寄る神、それは深い哀れみと愛を表しています。それは、ご自身の御子キリストを与えて罪びとの私たちに近づいてくださるご愛です。そして抱いて口づけをしました。そして、あなたを忘れたことのない、来る日も来る日も待っておられる神を表しています。あなたがいくら遠くにいようとも見つけ出そうと目を凝らしているのです。また、あなたがその神を忘れて、苦しんでいるのをかわいそうに思い、あなたを心配して哀れに思っておられるのです。そして、あなたが帰ってきたら、この上ない喜びであなたを迎える方です。そのようなたとえで表された神です。ですから、あなたの父である神のもとに立ち返ってください。

神に帰って始まる幸いな人生;

最後に、放蕩息子の兄が登場します。兄は畑から帰ってきて、父が帰ってきた弟を歓待しているのを見て、怒って、家に入ろうともしませんでした。この兄は、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする」とイエス様を非難したパリサイ人、律法学者を指していると言えます。彼らは神と愛と信頼の関係を築こうとはしません。行いによって、神や人に自分の正しさを主張する者たちです。それは、道徳的律法的な生き方です。自分は正しい人間だと自画自賛している人には、神の恵みは届きません。あるいは、自分には罪がわからない、自分には罪は関係ないと思っている人には、神の恵みは届きません。罪の自覚がある人は、神の恵み、赦しの恩寵を体験できるのです。兄は素直に喜べないところに不幸があります。弟の方がはるかに幸福です。人は、自分の罪が分かり、赦しの中で神の愛と神の恵みに生きることこそ幸せなのです。兄のように、お金があっても道徳があっても人は幸福になれません。このように、真に幸福な人生は神のもとに立ち帰ったときにはじまります。

主は私の羊飼い

2021年11月7日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

ヨハネの福音書10章1~15節
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
10:6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。

<要約>

背後で悪魔が働き聖書が、神が、キリストが、わからない;

聖書は罪についてさばきについて滅びについて警告を与えています。それと同時に、罪と死と滅びからの救いを提供しております。そして、すべての人はこの素晴らしい救いに招かれています。聖書は神からの手紙です。聖書に表される神は、天地万物の造り主です。その神が、私たち人類に、否、私たちひとりひとりにお語り下さっているのです。ですから、その内容はいかに重要なものか、想像することができるでしょう。神は、イエス・キリストをとおして、ご自身を現わし、また、聖書をとおして、今も、読者ひとりひとりにお語りになっています。私たちの敵は背後にいるサタン、悪魔と言うことができます。悪魔は、私たち人間が真理を知って、救われることのないように、知恵を働かせているのです。聖書がわかる読み方、あるいは、 聞き方の一つは聖書のメッセージを自分のこととして受け止めることです。自分に当てはめて聞くことです。もう一つは、素直な心で耳を傾けるのです。聖霊により頼んで、「神様、教えてください」と内なる叫び思って聞くことです。

あなたがいのちを得て豊に生きるためにいのちを捨てたキリスト;

イエス様は、ご自身が良い羊飼いであるという例えから、さらに話を展開していきます。「わたしは羊の門です」と言われました。そして、イエス様を通って入るなら救われると言いました。また、イエス様は、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり救われない、と言います。これは、イエス様ご自身が神であることの宣言でもあります。聖書は、人は教えである律法、十戒を守っても、救いに至らないことを何度も言っています。人は良い行いによってはよい人間にはなれません。かえって、高慢になってしまうのです。良い人間が良い行いをするのです。自分でよい人間になることはできません。三位一体の神である聖霊によって、良い人間に作り変えていただくのです。羊であるあなたや私が真のいのちを得るために、イエス様がいのちを捨てるということです。それは、私たち罪人のために、イエス様が十字架でご自身のいのちを捨ててくださった事により、私たちはいのちを得るのだという真理です。