走り寄る神

2021年11月14日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書15章17~32節
15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

<要約>

悔い改めて帰るのを待つ神;

彼は回心しました。我に返ったのです。自分の思いに方向転換が起きたのです。自分のどうしようもない状態から父を思い出したのです。心の貧しい者の幸いがあります。天を見上げるからです。神に助けを求めるからです。そして、神が救ってくださるのです。走り寄る神、それは深い哀れみと愛を表しています。それは、ご自身の御子キリストを与えて罪びとの私たちに近づいてくださるご愛です。そして抱いて口づけをしました。そして、あなたを忘れたことのない、来る日も来る日も待っておられる神を表しています。あなたがいくら遠くにいようとも見つけ出そうと目を凝らしているのです。また、あなたがその神を忘れて、苦しんでいるのをかわいそうに思い、あなたを心配して哀れに思っておられるのです。そして、あなたが帰ってきたら、この上ない喜びであなたを迎える方です。そのようなたとえで表された神です。ですから、あなたの父である神のもとに立ち返ってください。

神に帰って始まる幸いな人生;

最後に、放蕩息子の兄が登場します。兄は畑から帰ってきて、父が帰ってきた弟を歓待しているのを見て、怒って、家に入ろうともしませんでした。この兄は、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする」とイエス様を非難したパリサイ人、律法学者を指していると言えます。彼らは神と愛と信頼の関係を築こうとはしません。行いによって、神や人に自分の正しさを主張する者たちです。それは、道徳的律法的な生き方です。自分は正しい人間だと自画自賛している人には、神の恵みは届きません。あるいは、自分には罪がわからない、自分には罪は関係ないと思っている人には、神の恵みは届きません。罪の自覚がある人は、神の恵み、赦しの恩寵を体験できるのです。兄は素直に喜べないところに不幸があります。弟の方がはるかに幸福です。人は、自分の罪が分かり、赦しの中で神の愛と神の恵みに生きることこそ幸せなのです。兄のように、お金があっても道徳があっても人は幸福になれません。このように、真に幸福な人生は神のもとに立ち帰ったときにはじまります。

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