狭い門から入りなさい

2019年1月20日(日) 主日礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書13章22~30節
13:22 イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。
13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
13:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」

<要約>

狭い門はイエスを信じ従う道:

当時のイスラエル民族にはメシヤ待望がありました。ローマの圧政からの解放者、すなわち政治的な救世主を待ち望んでいました。そのメシヤは王となって国を立て直してくださると期待していました。そのような時に、ある人が「主よ。救われる者は少ないのですか」とイエス様に問うたのです。彼の質問はイスラエル国家の救いではなく、救われる者、個々人の救いについての質問だったからです。そうです。イエス様は政治を変革するために来たのではないのです。イエス様が提供される救いは、もっと人間の根源的な救いです。それはすべての人が抱えている問題です。罪と死の問題です。いのちに至る門の先には、天国があり、救いと祝福があるのです。狭い門はイエス・キリストを信じて従う道のことです。

救われるための努力とは:

戸が閉じられてから、外に立って、いくらたたいても、主人から「あなた方はどこの者か、私は知らない」と言われるというのです。「努力して狭い門から入りなさい」とイエス様は言われました。救われるための努力とは何でしょうか。それは、信仰の姿勢であり態度です。謙遜に、へりくだってキリストに従うことです。先週も説教したように、何よりも神を恐れ、愛し、信頼することです。私たちはこの地上の生活だけを求めて生きているのでしょうか。人生80年です。この地上のいのちが与えられている間にだけ、永遠のいのちか滅びかを選ぶことになるのです。救われるための努力をしなければなりません。

狭い門に続く救いの確信と祝福:

この狭き門からあなたが入るならどんなことがあなたにもたらされるのでしょうか。それは、救いの確信です。なぜなら、キリストが救いの道を完成してくださったからです。それをあなたは信じて受け止めれば救われるのです。次に聖霊の祝福です。聖霊はあなたの傷を癒してくださいます。狭い道であっても命に至る道です。踏み外さないように聖霊が信じるものを支えてくださいます。いまある状況をあなたが感謝できるということはあなたが祝福の中に生きているからです。また、どのような状況でもあなたが感謝するときに状況は祝福に変えられていくのです。そして、喜びあふれるものとなるのです。

神との関係を深めるために

2019年1月13日(日) 元旦礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書12章1~10節
12:1 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。
12:2 おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
12:3 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。
12:4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
12:6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
12:7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
12:8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
12:9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
12:10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。

<要約>

神を恐れなければならない理由:

当時の宗教指導者たちは神の愛と神の義に触れて、悔い改めて神を仰ぐとことをしませんでした。人は神から心が離れると自己義認と自己主張に走ります。律法を自己顕示欲を満たす道具としてしまいます。すなわち自分の欲望のために用います。実際彼らは、神殿の祭儀律法を利用して金儲けをしました。悔い改めがなくなると、罪を感じることもなくなります。そして、神を恐れる心も消失するのです。ですから、私たちは神を恐れなければなりません。

神を信頼しなければならない理由:

イエス・キリストは一切の権威をその手の中に持っておられます。人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについても権威をもっています。あなたがたの主はそのような方であるので、全き信頼を寄せるに十分なお方です。マイナスと思えることが起きても神を信頼しなければなりません。なぜなら、神はあなたの髪の毛の数もご存知の方であるからです。ですから、全面的に信頼して、むしろ、与えられていることを感謝しなければなりません。

神を愛さなければならない理由:

キリストにつながっていない人は天においてもつながっていないのです。私たちは、キリストにしっかりつながっていなければなりません。それは、あなたとイエス様は相思相愛の関係でなければならないということです。ヨハネもパウロも聖書の中で一番大切な事としているのは神の愛です。十字架と復活によって、人の罪の赦しと人に永遠のいのちの祝福をお与えになっています。それが神の愛であり福音です。その神がなさった行為を通して神は愛であることを聖書は証明しています。神はそれほどまでにあなたを愛していると聖書は言及しています。ですから、あなたもイエス様を愛さなければなりません。それはまた逆に、神の愛を感じるためです。聖霊を汚すものは赦されないというのです。神は人に自由意思をお与えになっております。神はあなたにその自由を用いて聖霊に素直に心を開いて、神を恐れ、信頼し、愛し続けることを望んでおられます。

聖霊、最高の贈り物

2019年1月6日(日) 元旦礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書11章5~13節
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

<要約>

聖霊はあなたを満たす方:

私たちはさまざまのことを願うのですが、天の父は、それらにまさる最高のものをくださいます。それは、聖霊です。聖霊は私たちの人生を導き照らす光であります。聖霊によらなければだれもイエスを主と告白することはありません。聖霊は三位一体の神ですから、信じる者に内住して罪を示し悔い改めに導きます。わたしたちが聖書を読む時、聖霊が語りかけてくださいます。聖霊にあなたの心の王座に座っていただきましょう。聖霊に従う喜びを味わいましょう。

聖霊はあなたを救いつくり変えてくださる:

聖霊は病を癒す方です。聖霊は、罪の習慣あるいは悪い習慣からあなたを解放してくださいます。聖霊はあなたに内住して、あなたを作り変えてくださいます。私が研修医の時、白血病の中学生がイエス様を信じて病床で洗礼を受けました。当時白血病は生存3年といわれていました。彼は、もう死期が近いことを悟って自分の両親に「ぼくはもう大丈夫だから。ぼくの棺には十字架を入れてくれ。」と話したのです。彼はキリストを信じる者は永遠の命が与えられている、と言うことを確信して平安を得ていました。聖霊はキリストによる罪の赦しと永遠のいのちをお与えくださるのです。そこに救いがあります。

聖霊はあなたを変えて宣教のために用いる:

アメリカにある捕虜収容所での話です。あるアメリカ人のお嬢さんは病気の日本人捕虜を看病し、大変親切にしていました。彼女の両親はキリスト教宣教師でフィリッピンへ行っていました。そこに日本兵が侵略してきました。そして、彼女の父母をスパイとして処刑すると言ったのです。両親は30分の祈りの時間を与えて欲しいと言って聞き届けられ、その後に処刑されたのです。お嬢さんははじめは、日本人をうらんだそうです。が、あるとき両親は最後の30分に何を祈ったかを、どういう思いで最後のときを過ごしたのか考えるようになったそうです。お嬢さんは聖霊によってその両親の祈りはイエス様が十字架上でなさった祈りであったと確信しました。聖霊は私たちにはどうすることも出来ないような大きな敵意や憎しみによって傷ついた心をキリストの愛によってそれらを飲みこみ癒してくださるのです。聖霊の思いとは、キリストの大宣教命令です。


望みをもって信仰に生きる

2019年1月1日(日) 元旦礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>へブル人への手紙11章1~3節
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

いのちの川の水

018年12月23日(日) 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>エゼキエル書47章1~12節

47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
47:2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

<要約>

キリストはあなたを生かし豊かにする:

エゼキエルが見た幻です。神殿の敷居の南の角から東に向かって水が流れ出し、川となります。川の岸に沿って生えていた非常に多くの木は、繁栄と豊かさを象徴しています。今度はその川が海に入り、死海の水が良くなり、生物は生き、魚は非常に多くの群れをつくるというのです。そして、この水によってすべてが生きると書いています。しかし、死海の一部の沢と沼は水が良くならないで塩のまま残ると書いています。いのちの水であるイエス・キリストを信じて歩む人には、いのちの回復と豊かな祝福と繁栄が約束されています。しかし、イエスを受け取らない人は依然、死の状態でやがて滅ぶというメッセージを読むことができます。

水と御霊による新しい創造:

イエス様はご自身を神殿と見立てて、「この神殿をこわしてみなさい。私はそれを三日で建てよう」と言われました。イエス様は十字架で死んでから三日目に復活したのです。すなわち、イエス様は復活して生ける神殿となってくださったのです。イエス様を信じて、洗礼を受けた人の内側で起こることをこの幻は示しています。この幻は、聖霊による新創造を表しています。イエス様を信じて洗礼を受けると聖霊が与えられます。そして新しいいのちに生きるのです。次に、罪によりいのちを失っていた霊は、聖霊によりいのちを得ます。それは、死海の水のようにいのちのないところに聖い水が注ぎこまれていのちを得るのと同じです。

イスラエルの回復と救いの完成:

イスラエルの回復と救いについて、聖書はどのように説明しているのでしょうか。神のご計画によると、福音はまず、異邦人に受け入れられて、次にユダヤ人に至るというのです。神は最終的には約束により、イスラエルをあわれみ救いに導いてくださるのです。すなわち、ユダヤ民族の中に救いが成就します。エゼキエルの幻に戻って、その川の水によって、両岸の果実は成長して、葉も枯れず、実も絶えるがことなくなるとあります。実は食物となり葉は薬となるというのです。今日のところが、世の終わりの時の預言であることは、黙示録22章の記事を読むとわかります。世の終わりの時に起こることです。そこは神のみ座です。苦しみ、悲しみ、涙もない、完全な平安と喜びが待っています。



クリスマスは喜びの人生への招き

2018年12月23日(日) 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書2:1~14


2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

<要約>

世に拒絶された罪からの救い主:

マリヤとヨセフはダビデの町ベツレヘムへ到着しましたが、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と書いています。救い主は世の人々から拒絶されて、隅に追いやられて、家畜小屋でお生まれになりました。最も弱く貧しく小さな者たちの救い主として来て下さったのです。ユダヤ人たちは救い主を待ち望んでいたのです。それは、イスラエルをローマの圧政下から解放してくれるユダヤ人の王、すなわち政治的なメシヤを待ち望んでいたのです。しかし、神は私たち人間にある根源的な問題の解決のために来られました。それは、罪の問題です。神は罪に苦しむ人間を放っておくことができずに来てくださったのです。イエス様は、罪という病で滅びに向かう人々を、罪と死と悪魔から救ってくださる救い主なのです。

救い主が与える栄光と平安:

私たち人間の罪の代価を神がご自身のひとり子の命で払ってくださったのです。すなわち、あなたが罪によって永遠の滅びにいたることのないように、逆に永遠のいのちにいたるために御子のいのちを与えてくださったのです。あなたはそれをただ信じて受け取ればよいのです。最初のクリスマスの夜、救い主が来られた時、羊飼いたちはひどく恐れたとあります。その場で羊飼いたちは主の栄光の中に包まれたのです。み使いは、彼らに「恐れることはありません」「すばらしい喜びを知らせます」と声をかけます。クリスチャンは、神からの栄光と喜びと平和を持っています。それは、救い主を信じる信仰によって与えられるものです。

救い主と出会い喜びの人生へ:

羊飼いたちはベツレヘムに着き、ついに、マリヤとヨセフとイエス様を探し当てました。羊飼いたちは喜びで満たされたでしょう。イエス様は、親切で、心優しく、忍耐深く、温和で、同情心にあふれる方でありました。イエス様は人々を愛されました。人の悩み苦しみを見過ごしになりませんでした。イエス様は人のかたちをとられた真の神でした。そして、すべての人の罪をあがなうために身代わりとなって十字架で命を落としてくださいました。さらに、人類の最後の敵である死を打ち破り、三日目に復活なさいました。クリスマスは救い主イエス・キリストとの出会いです。それは、喜びの人生への招きです。

イエス・キリストの系図

2018年12月16日(日) 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>マタイの福音書1章1~21節

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
1:4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
1:7 ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
1:8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
1:9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
1:10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
1:11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
1:12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
1:13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
1:14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
1:15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

<要約>

罪人をありのまま受け入れてくださる神;

アブラハムは、イスラエル民族の祖であるばかりでなく、信仰の父として、すべての神を信じる者の祖でもあります。アブラハムからダビデに至る系図までに、四人の女性が出てきます。タマルとラハブとルツとウリヤの妻です。このように、キリストの系図に異邦人の女性が出てきます。ラハブは遊女でした。つまり、売春婦です。このように、ありのままの罪びとが登場しているイエス・キリストの系図は、何を物語っているのでしょうか。それは、イスラエルの民ばかりでなく、異邦人や罪人と言われている人々の救い主であることを示しています。神はありのままのあなたを受け入れているということです。

困難と苦難の中に共にいてくださる救い主;

イスラエルの真の神、力ある全能の神、愛とあわれみの富む神を信頼できず、イスラエルの民は人の知恵や偶像に頼りました。ユダヤの王ゾロバベルは、祖国に帰還しました。そして神殿の再建に取り掛かったのです。しかし周辺の国々からは絶えず妨害されて困難を極めました。祭司エズラは、宗教改革を断行します。エズラの後、宗教指導者たちは、律法に厳格であろうとして、さらに細則を儲けて規則に規則を作るようになりました。そして律法主義が生まれました。ますます、彼らは行いを追求していきました。打ち砕かれた謙遜な心を失うのです。イスラエル民族にとって、そのようなどん底と言われる状況にキリストがお生まれになりました。苦しみと困難の中に、もうすでに救い主は来てくださっています。

救い主が与える喜びと感謝の人生:

神は人間を罪の裁きから救うために、神の一人子であるイエス・キリストを十字架につけ、その十字架の血によって私たちの罪を赦すという驚くべき救いの道を備えてくださったのです。それが、キリストが世にこられた目的です。キリストの十字架の犠牲、あれほどの苦しみの目的は、この私たち人間を罪から救うという事のためだったのです。キリストはあなたを罪の呪いから解放し、喜びと感謝に溢れるようにして下さるのです。あなたのために十字架で苦しみ、あなたのいのちのために復活してくださった主キリストが、あなたを喜びと感謝で引き上げてくださるのです。 rence;\lsdqfo


みどりごの救い主

2018年12月9日(日)礼拝説教 牧師 森田友明


<聖書>イザヤ書9章1~7節
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。


<要約>

キリストがもたらした光の世界;

ガリラヤははずかしめを受けたが、後には栄光を受けた、とあります。その預言は、キリストの来臨によって成就しました。救い主、メシヤは闇を打ち破る光であり、死を打ち破る復活の力であると言えます。悪魔が支配する闇の世界から神がご支配する光の世界へと私たちを招いておられます。キリストの光は決して消えることのない永遠の神のご支配です。イエス様はあなたに光であるイエス様を信じなさいと言われます。光の子どもとなりなさいと招いておられるのです。

救い主が与える喜びの約束;

イスラエルは北と南に分裂してから、王も民も指導者たちも堕落し、真の神を離れ偶像に身をやつしてしまったのです。その様に、恵みから離れた民は、悪の力に押しつぶされてしまうのです。実に、自分たちで闇の世界を選んで歩くことになったのです。そこには申命記的史観があります。私たちは誰でも選択の自由が与えられています。神を信じて祝福と恵みの世界に入るか、あるいは、神から離れて呪いと裁きを受けるかです。それでも神は、イスラエルの民に対するご自身の繁栄と祝福の約束を忘れることはありません。民をあわれみ続けておられます。信じる者に与えられているのは、繁栄と祝福の約束です。キリストをあなたの救い主と信じるならば、あなたのすべての領域に祝福が及ぶのです。

救い主の熱心と愛;

「ひとりの男の子」、それはイエス・キリストを指しています。「主権はその肩にあり」の「主権」は統治を意味します。そして、その名には、4つの名称があります。いずれも神ご自身であることを示しています。「不思議な助言者」です。万物の支配者であり、王の王、主の主であられる神が、私たちと共にいてくださる、いやさらに、しもべとなっていのちを捨ててくださった、それこそ最大の不思議であると言えます。つぎに、「力ある神」です。これは神宣言です。次に「永遠の父」です。父は保護者です。永遠にイスラエルの保護者です。次に、「平和の君」です。この男の子が完全な和解となります。そして、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とあります。救い主のあなたに対する愛の熱心は今も変わることはありません。それは、今、あなたに向けて注がれています。


裁きと回復の預言

2018年12月 02日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ミカ書5章1~9節
5:1 今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ。
5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
5:3 それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。
5:4 彼は立って、【主】の力と、彼の神、【主】の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。
5:5 平和は次のようにして来る。アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。
5:6 彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う。
5:7 そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、【主】から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。
5:8 ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。
5:9 あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。

<要約>
絶望の中に来られる救い主;
当時の状況を見ると、大国アッシリヤが目前に迫り、イスラエルの民にとって脅威が最高潮に達していた時であります。絶望と思われている時代背景の中で救い主の登場が預言されています。イエス様がお生まれになった時代も、イスラエルの民はローマの圧政のもとに非常な困難の中にあったということです。救い主は、混迷とやみが覆う時代に来られたのです。個人レベルでも民族レベルでも国家レベルでも、困難や試練で絶望することはあるかもしれません。しかし、その中でこそ、私たち人間は救い主をお迎えするにふさわしく整えられるのです。その時にこそ、救い主があなたに近づいていることに気付くことです。
救い主が与える平安;
アッシリヤの王セナケリブが南ユダ王国に攻め入ろうとしました。その時、ユダの王ヒゼキヤが主に祈ったのです。主は大いなる御手により、主の使いが一夜にして、アッシリヤの軍隊、十八万五千人を打ち殺しました。そのようにして、主が戦ってくださったのです。一般の人々にとって敵対する勢力とは何でしょうか。仕事上の反対勢力、こちらを好意的に思っていない人々、わなを仕掛けて陥れようとしている人々、悪い友人、悪い噂、分裂もあるかもしれません。あるいは、自分の内側にある利己的な思い、支配欲など。しかし、クリスチャンは、それらの背後にある敵を知っています。あらゆる悪とその背後にある敵です。救い主キリストはそれらから信じる者を救ってくださるのです。そして、真の平安をお与えくださいます。
最後まで忠実な信仰者の姿;
ヤコブの残りの者は、最後まで信仰により神とつながっている人々を指します。一つは、彼らは多くの国民の中でも主から降りるつゆ、青草に注ぐ夕立の様だというのです。彼らは人を恐れないで、神を畏れます。人間に期待をしないで、神に期待します。これこそ、真の信仰者と言えます。もう一つは、圧倒的な勝利者であるということです。ヤコブの残りの者は、信仰者は森の獣の中の獅子、百獣の王ライオンです。圧倒的な勝利です。サタンも踏みにじられます。教会の勝利と言えます。それは、終末的な勝利とともに、現在においてもしかりです。

 

 

羊のためにいのちを捨てるイエス

2018年11月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書10章1~15節
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

<要約>
高慢が人を霊的盲目にする;
イエス様は、たとえ話の中でも、律法学者やパリサイ人たちは盲目な指導者であり、偽りの指導者であり、さらに盗人であり強盗だと指摘されました。当時、羊飼いは夜になると羊をその囲いの中に導きます。そして、狼などの外敵から羊を守るために当直が寝ずの番をするのです。朝になったら、持ち主の羊飼いが来て、先頭に立って羊を門から連れ出して、良い牧草が豊かにあるところに連れて行くのです。羊飼いは、自分の羊をその名で呼んで連れ出すと書いています。羊飼いは自分の羊を知っていてその性格を知り、泣き声までも聞き分けるというのです。先頭に立って自分の羊を導く羊飼いはイエス様を指していることが分かります。そして、盗人で強盗は、パリサイ人たちを指していることもわかるでしょう。当時の律法学者、パリサイ人たちがいかに、偽りの指導者であり民を食い物にしていたかは、福音書を読んでもわかります。当時、民の信仰のよりどころはソロモンが建てた神殿でした。そこでは、祭司など宗教指導者が律法を利用して一大ビジネスを展開していました。そこで、民から多額のリベートを宗教指導者たちが吸い上げていたのです。ですから、イエス様は当時の宗教指導者たちを厳しく糾弾していました。しかし、彼らはイエス様のおっしゃる例えの意味が何のことか分からなかったのです。心がかたくなな者にはイエス様の例えが通じないということです。彼らは、心の目も耳も塞がっていたと言えます。なぜでしょうか。それは、打ち砕かれた悔いた心がないからです。霊的高慢のために自分がわからないのです。確かに、当時の律法学者、パリサイ人たちは律法を守っていました。表面上守っていました。什一献金、律法にある規則を守っていました。品行方正に見えたでしょう。しかし、彼らは自分たちは律法を守っていると自負していました。それが、神にも人にもとやかく言われたくないという高慢につながっていたのです。そして、弱い人を見下していました。私たちは、彼らを反面教師として学ばなければなりません。それは、「砕かれた悔いた心」です。
あなたを生かすためにいのちを捨てた神;
イエス様は、「わたしは羊の門です」と言われました。そして再び「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と続きます。そして、イエス様を通ってはいるなら救われると言いました。また、イエス様はヨハネの福音書で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」といわれました。これは、イエス様ご自身が神であることの宣言でもあります。聖書は、人は教えでは救われないことを明言しています。宗教はそれぞれ立派な教えを持っているでしょう。そして、教えを守って精進すれば、極楽へ行くことができるというのが宗教の教えです。しかし、人は行いによっては救われないと明言しています。聖書は、人は教えである律法、十戒を守っても、救いに至らないことを何度も言っています。人は良い行いによってはよい人間にはなれません。かえって、高慢になってしまうのです。良い人間が良い行いをするのです。自分でよい人間になることはできません。三位一体の神である聖霊によって、良い人間につくり変えていただくのです。行いによって、神の前に義とされることはできません。信仰によってのみ神はあなたを義としてくださるのです。門であるイエス様を通して入るというのは、イエス様をあなたの救い主と信じることです。行いはいりません。イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことを信じることです。そして、良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。わたしは羊のためにいのちを捨てます、と書いています。すなわち、羊であるあなたや私が真のいのちを得るために、イエス様が命を捨てるということです。それは、私たち罪人のために、イエス様が十字架でご自身のいのちを捨ててくださった事により、私たちはいのちを得るのだという真理です。
主は私の羊飼い;
ここで、イエス様の例えのお話をさかのぼる1000年前に、イスラエルの二代目の王となったダビデが「主は私の羊飼い」という詩を書きました。それが、詩篇23篇です。ダビデはベツレヘムの羊飼いの家に生まれ、小さい時から羊の世話をしていました。ですから、羊と羊飼いとの関係を知り尽くしていました。そのさまざまな経験を振り返って、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」と、神と自分の関係を一言で表現したのです。イスラエルに行くと、羊飼いと羊の群れの姿が見られます。羊飼いは、どこに水があるか、どこによい草があるかを知っており、彼らを導くのです。ダビデは、神が信者の「魂を生き返らせる」、そして、「義の道に導かれる」と書きました。その意味は、神は、キリストによりあなたの罪を取り除き、あなたを新しいいのちで生かしてくださるということです。それは、後ろ向きの人生ではなく、前に向かっていく人生です。慈しみと恵みがあなたを追ってくる、と書いているとおりです。そして、死に至るような状況にあっても、禍を恐れないというのです。それは、神がともにおられるということから来ています。羊飼いは野獣から羊を守るためにこん棒上の鞭を持ち、羊を導くために杖も持っていました。しばしば、杖は迷いやすい羊を懲らしめるために用いました。人間の場合も同じで、「あなたのむちとあなたの杖」はあなたを守るためと同時に懲らしめて訓練させるためです。信仰者への訓練は、その時は好ましく思えなくても、やがては深いところでは、魂に受け入れられ慰めとなるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます、とへブル書にあります。これが、味わい深い信仰者の歩です。苦難や困難はつきものです。しかし、あなたのためにいのちを捨てるというイエス様がともにいてくださる、その約束は不変です。わたしたちは、そのようにイエス様を私の羊飼い、として信仰告白していきたいと思います。