ヨーロッパ初のクリスチャン

2019年04月28日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書 使徒の働き16章6~18節
16:6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
16:7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
16:8 それでミシアを通って、トロアスに下った。
16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
16:11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。
16:13 そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
16:14 リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。
16:16 さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。
16:17 彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。
16:18 何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。

要約

みこころを知り前進する:

私たち人間が立てる計画と神の思いと違っている事がよくあります。聖霊は行くべき道を示してくださいます。聖霊の導きによりパウロ一行はマケドニア宣教の使命を確信して出発しました。私たちはどのように神のご計画を知って歩んでいったらよいのでしょうか。まず、第一に神は志を与えてくださるというのです。次がわからない、でも目の前の一歩は示されているということがあります。クリスチャンライフは、結果オーライの人生です。最終的なゴールは天の御国です。そこに至るまで、私たちは一歩一歩この地上の人生を歩んでいきます。

賜物を用いて主に仕える:

パウロ一行は、祈り場と思われる川岸に行きそこに腰を下ろして集まった女たちに話しました。そこにテアテラ市の紫布の商人で神を敬うルデアという女性が登場します。彼女は成功した女商人でした。ビジネスで忙しい生活を送ってましたが、さらに重要なことのために時間を割いていました。それは唯一の真の神を礼拝することです。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされました。ルデヤとその家族はバプテスマを受けました。ルデヤは、ヨーロッパで最初のクリスチャンとなったのです。その後のルデヤは、ピリピにずっととどまり、パウロたちを経済的に支え続けたと思われます。ピリピ教会は、獄中にいたパウロの手紙から判断すると、喜びの教会と言えるでしょう。私たちの教会も、喜びの教会とさせていただきたいと思います。そのためには、お一人お一人が、イエス・キリストの救いの喜びに満たされてほしいと思います。

罪が人を道具とする:

占い女の主人たちは儲けるのぞみがなくなってしまい、彼らはそれを恨んで、言いがかりをつけてパウロとシラスを訴えました。罪は人間を道具として、その人から搾り取るのです。人間を自分の利益のために利用するのです。それは、人を自分の思い通りにしたいという欲望です。自己中心で自分さえ良ければよいという人間の姿です。これは、私たち人間が持っている罪の性質です。その罪を取り除いてくださるのがイエス・キリストの十字架の血です。私たちは、ルデヤの信仰を見習うものとなり、皆さんで、喜びの教会を建て挙げていきたいと思います。

復活はすべてのマイナスをプラスに変える

2019年04月21日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明



ヨハネによる福音書20章1~18節
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

<要約>

死は別離の悲しみを与える:

もし、復活の希望がなければ、死は人間の力ではどうしようもなくあきらめなくてはならないことになります。福音は死に対する勝利です。イエス様は全人類の罪を背負って、罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったこと。そして、今度は、死者の中から復活して私たち人間にとって最後の敵である死を滅ぼされたということ。信じる者には、ただ、神からのプレゼントとしての永遠の命があるのです。しかし、現代においてもイエス様が罪と死と滅びからの救い主であることを知らない人々がほとんどです。そのような方々には、いまだに死の別離はどうしようもない悲しみであり、また、自分の死もあきらめの中にあるのです。

イエス様を独占してすがりつく信仰:

イエス様は、最初に卑しく罪深い女とされていたマグダラのマリヤに表れました。イエス様は朝陽を背に受けていたのでマリヤには識別できなかったのでしょう。イエス様は彼女に言われた。「マリヤ」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」と。マリヤはイエス様と分かって、恐れと喜びがまじりあったのでしょう。マリヤは「だれかが私の主を取っていきました」と「私の主」と言いました。マリヤは、私たちの主、ではなく、私の主とイエス様を独占しています。これは何を意味しているのでしょうか?私たちは、イエス様を独り占めにしておすがりしてよいということです。私の主と言って、いつもイエス様にすがりついていきましょう。

復活しあなたに会いに来てくださるイエス様:

彼女は死んだイエス様ではなく、よみがえって生きておられるイエス様に会ったのです。深い悲しみは大きな喜びに、絶望は大いなる希望に変えられたのです。これがクリスチャンライフに起こることです。人生で涙の谷を越えることもあるでしょう。希望を失って、絶望を感じる時もあるでしょう。しかし、復活したイエス様から離れないクリスチャンには、マイナスはプラスに、悲しみは喜びに変えられるのです。イエス様は天に帰られて、信じる者に神の子となる特権をお与えになり、神の国の相続者にするために聖霊を送ってくださったのです。罪の奴隷であったものが、自由の王となり、御国の世継ぎとなったのです。

必要は一つキリストに留まる

2019年04月014日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師

聖書:ルカの福音書10章38~42節
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

要約:

不平不満に代わりやすい人間の愛:

マルタは喜んでイエス様一行をお迎えしました。イエス様に喜んでもらいたい一心であったと思います。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、ついにイライラして、先ほどの「喜んで」が「イライラ」に変わり、ついに「怒り」に変わってしまったのです。マルタの心には、「マリヤだけがイエス様のそばにいて良い思いをして、わたしは忙しく食事の準備をしている、不公平だ」という思いです。マリヤに対する不平ばかりでなく、イエス様に対しても、「イエス様、あなたは何とも思わないのですか」と不平を漏らしています。わたしたち人間の愛はつぶやきや憎しみに変わりやすいということも知っておかなければなりません。

神の愛とご計画は人の思いを超える:

この後、マルタとマリヤの家に大変なことが起きました。弟ラザロが重病になったのです。そしてマルタとマリヤはイエス様に使いを送って、すぐ来てラザロの病気を治して下さいと頼んだのです。しかし、イエス様は遅れてベタニアに来られました。ラザロは既に死んで四日も経っておりました。しかし、そこで主は、死んだラザロを復活させました。そのラザロを、イエス様の復活の予表となさったのです。このように、彼らを通して、主は栄光を表されたのです。神は、あなたを愛して、あなたにとって最善を導いてくださっているという確固とした神への信頼を持たなければなりません。そこに、人の思いをはるかに超えた神のご計画があるのです。

イエス様にとどまり神の栄光を見る:

イエス様はどうしても必要なことは、一つだけだといいました。イエス・キリストにとどまり続けること、別の言葉で言えば、イエス・キリストを信じ続けることです。マルタとマリヤ姉妹はこの後、弟ラザロの死と復活を通して、「信じれば神の栄光を見る」と言う体験をしました。彼女らは、ラザロの復活によって、神の栄光を見ました。さらに、イエス様の十字架と復活に与り、栄光に栄光を拝したのです。私たちがイエス様にとどまる人生は、この、神の栄光を見る人生に招き入れられているということです。

渇くことのない生ける水

2019年04月07日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師

聖書:ヨハネの福音書4章3~26節

4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

要約:

渇き続ける人間の現状:

このサマリヤの女性は、ほかの女性たちを避けて、だれも来ない真昼に水を汲みに来ました。彼女は、心の癒えない渇きを持っていたのです。イエス様は、そのことをご存知で、「わたしに水を飲ませてください」と語りかけます。イエス様は「この水を飲むものは誰でも、また、渇きます。しかし、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちのへの水がわき出ます。」と言われ、彼女に本当に必要なものについて話を進めます。彼女は、孤独で、疎外感を感じていました。それが霊的渇きから来ていることがわからないのです。霊的渇きというのは永遠なるものを求める人間の魂と言えます。一時的でない永遠なるもの、絶対的なもの、変わらないもの、それらに対して人間は渇きをもっています。人間は最初に土で作られて、神からの霊のいのちを吹き込まれて生きるものになったのです。しかし、アダムの罪以来、魂の中心から神を追い出してしまった人間は、その空洞を何かで満たそうとしています。それが霊的渇きです。「この水を飲むものはまた渇きます」とイエス様が言われ、この霊的渇きに気づくよう導いたのです。

キリストが与える水を飲むとは:

渇くことのない水をください、という彼女の心を知って、イエス様は「あなたの夫を連れてきなさい」と彼女の罪の問題に切り込みを入れます。彼女の抱えていた問題は人間関係のことです。結婚、家族の問題と言えるでしょう。人間関係の根本にあるのは、神との関係です。礼拝は神との出会いです。そして、礼拝は神との関係回復の道なのです。どのようにして、イエス様はわたしたちと神様との関係回復の道を開いてくださったのでしょうか。その罪を取り除くために、十字架で罪の贖いをしてくださったのです。神への礼拝は場所が大事なのではなく、神を霊とまことによって礼拝しなければならないというのです。それは、心から神を恐れ、愛し、信頼することです。まこと(真実)をもってというのは、人と神の間の唯一の仲介者キリストを通して、神を礼拝しなさいということです。イエス様が「わたしが与える生ける水を飲みなさい」というのは、イエス様を信じなさいということです。

救いの喜びに満たされる:

「わたしの言うことを信じなさい」とイエス様は、信仰の決断を迫ったのです。そして彼女は、心でイエス様を信じました。決して渇くことのない生ける水を心にいただいたのです。孤独と疎外感でずっと苦しんでいた彼女の心に永遠の命の水が泉となってあふれたのです。彼女に劇的な変化がきました。人目を避けてきたこの女性が街に出かけていって、イエスのことを人々に伝えたのです。真の救い主を受け入れて、心の渇きが癒されると、生きる喜びに満たされます。私たちも心にその生ける水をいただくことができます。それは、真の救い主イエスキリスト心の内にお迎えすることなのです。

聖書の中心メッセージ

神の要求(私たちの神と隣人に対する義務):(ルカ10:27)「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

神の要求を全うできる人間は誰もいない。すべての人は罪ありと判決される。

福音(神の救い):(ヨハネ3:16)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

すべての人は、真の神を認めず、神から離れており、神の目から失われており罪びとである。生きていても死んでおり、滅びに向かっている。神はそのような人間を愛し、あわれみ、罪のない神のひとり子イエス・キリストに人間のすべての罪を着せ、十字架で断罪してくださった。キリストの十字架は、すべての人間の身代わりであった。キリストの十字架によってすべての人間の罪は赦された。悔い改めてそのことを信じる者は誰でも罪赦されて永遠の命にあずかるのである。

聖書の表す神とは

聖書の最初の言葉は、「神が天と地を創造された」である。すなわち、神が天地万物そして人間を造られた、という宣言だ。
天地万物の創造者、全知全能、父である方、目に見えない方、有限な人間にとって神のすべてを知ることはできない。キリストを通して神は愛であることが分る。
聖書には、以下のような神の二つのお姿が見られる。

愛の神:人間をとことんまで愛し、失われている魂を探し続ける神、走り寄る神、どこまでも赦し続ける神、御子をお与えになるほどに愛をあらわされる(ヨハネ3:16)。いのちを捨てるほどに愛してくださる。人間が自らの罪によって滅んでしまうことを惜しみ、罪から救われて永遠のいのちを得ることを望んでおられる。

義の神:正義を貫く。小さな罪も見逃さない。悪には必ず制裁を施す。不正を赦さない、不正を憎む。神の怒りがあらわされる。罪を裁く。人間の罪に対する怒りを持っておられる。

聖書とは

神から人類への手紙(BC1500~AD100、約40人の著者)。和解の手紙。神は和解を願っておられる。キリストがその和解となられた。旧約聖書39巻と新約聖書27巻で全66巻。旧約聖書のテーマはやがて来られる救い主キリスト、新約聖書のテーマは来てくださった救い主キリスト。聖書はどこを切っても金太郎飴のようにイエス・キリストがあらわされている。聖書は、ハッとさせホッとさせる書であるといった人がいる。聖書の言葉は心の鏡となってハッとさせられる。しかし、素直に聞くものの心をホッとさせる。