人の罪深さと神の愛

2022年7月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章13~25節
【新改訳2017】
2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。
2:23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。
2:24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、
2:25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。

<要約>

深刻で悲惨な人の罪の現状:

イエス様はご自身のご計画を遂行するために人間に心を赦さなかったのです。イエス様は人間の心にある罪の深い闇を知っていました。それゆえに来てくださったのです。闇は光に打ち勝たなかった、と。イエス様は、ご自身の主導で十字架の道を目指しておられました。私たちも、知らなければなりません。人間というものはいかなるものであるかを。人間を知ると言っても、人は自分がわからないものです。人のことは見えるのですが、自分が見えないのが人間の罪の性質です。過信してはいけません。私たち人間を死と滅びに誘うものが三つあると小教理で教えています。それは、サタンとこの世と私たちの罪の性質の三つです。サタンやこの世は自分の外のものですから、警戒しやすいのです。が、自分の罪の性質については聖霊による照らしによるしかわかりません。現代社会を見ても、世の中には悪いことが多すぎます。ロシアのウクライナ侵攻、安部前首相殺害事件、統一教会の霊感商法の犠牲者、これらの原因は、神から離れた人間の腐敗した私の中にある罪の性質です。このように、深刻で悲惨な人の罪が世界を覆っています。しかし、神は、その覆いを打ち破り光となって来てくださったのです。

十字架と復活は神の愛の極み:

不信仰はしるしを求めます。信仰は目に見えないことを確信することです。「あなたが神ならば、しるしを見せろ」と人々は言いました。しかし、主は、不信仰なものにはしるしを見せませんでした。あくまでも、主は、あなたに信仰を求めておられるからです。神は、あなたが信仰によって近づく時、ご自身を表されるのです。ユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを よみがえらせる」と言われました。後で、弟子たちは、イエス様の復活を見て、イエス様は、ご自身の身体の神殿のことを言われたことに気付いたのです。エルサレムの神殿は、イエス・キリストのひな型であると言えます。神は三日目にイエス様を復活させて、悪魔と罪にとらわれている人類そして、あなたを救う道を用意なさったのです。神の動機は、何でしょうか。それは愛です。神の愛の極みが、あなたのいのちのために、ご自身のいのちを捨ててくださったことです。

喜びと希望の時代

2022年7月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章1~11節
【新改訳2017】
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

<要約>

人の願いと神の最善:

母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と言いました。イエス様がその力を表して、ご自分を世に表すことをひそかに期待していたのです。それに対して、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と母マリヤに言われました。イエス様の母マリヤも兄弟たちも、イエス様の時が、十字架を意味するとは思わなかったのです。私たち人間の思いと神の思いとは違うということです。私たちは現状を憂えて、何とかしてほしいと考えます。しかし、神の御心はそこにはないということがよくあります。イエス様の心にあったのは、すべての人の救いです。神が人となって来てくださったことの意味です。マリヤはイエス様が、母の願いを何とかしてくださることを信じていました。これはマリヤの立派な信仰の態度です。私たちも、祈りがその時、聞かれなくても神のみ旨を求め続け願いが聞かれる時を待たなければなりません。私たちは目先のことしかわからない存在です。自分の思う通りに状況が開けなくても、神を信頼していくことです。 神のご計画は、私たちの願いと違っても、神のなさることは最善です。

罪の責めから解放され前向きに生きる:

この6つの石瓶は律法の時代を象徴しています。律法を追求しても義と認められない、すなわち、律法は罪から救えない。反って罪の意識が生じるというのです。しかし今や、律法とかかわりなく、イエス・キリストを信じることにより罪から救われます。律法の中心は、十戒と言ってよいでしょう。本来、十戒は、神のみこころですので、良いものです。それを守れば幸せになります。しかし、十戒の一つ一つを守ろうとすると、思いと心において、守ることができない自分に気が付くのです。すなわち、思いにおいて、御心に沿わない自分を知るのです。自らの弱さや罪を認め、神の前でへりくだり、神を仰ぎ見るのです。これが信仰です。どんな人も、イエス様の十字架により罪が完全に取り除かれて、神との完全な交わりに入ることができます。これが福音です。クリスチャンは律法の責め、罪の呪いから解放されています。すなわち、ああしてはいけない、こうしてはいけないという、消極的な思いから解放されて、むしろああすることができる、こうすることもできると、積極的に失敗を恐れず、前向きに進んでいくのです。