喜びと希望の時代

2022年7月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章1~11節
【新改訳2017】
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

<要約>

人の願いと神の最善:

母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と言いました。イエス様がその力を表して、ご自分を世に表すことをひそかに期待していたのです。それに対して、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と母マリヤに言われました。イエス様の母マリヤも兄弟たちも、イエス様の時が、十字架を意味するとは思わなかったのです。私たち人間の思いと神の思いとは違うということです。私たちは現状を憂えて、何とかしてほしいと考えます。しかし、神の御心はそこにはないということがよくあります。イエス様の心にあったのは、すべての人の救いです。神が人となって来てくださったことの意味です。マリヤはイエス様が、母の願いを何とかしてくださることを信じていました。これはマリヤの立派な信仰の態度です。私たちも、祈りがその時、聞かれなくても神のみ旨を求め続け願いが聞かれる時を待たなければなりません。私たちは目先のことしかわからない存在です。自分の思う通りに状況が開けなくても、神を信頼していくことです。 神のご計画は、私たちの願いと違っても、神のなさることは最善です。

罪の責めから解放され前向きに生きる:

この6つの石瓶は律法の時代を象徴しています。律法を追求しても義と認められない、すなわち、律法は罪から救えない。反って罪の意識が生じるというのです。しかし今や、律法とかかわりなく、イエス・キリストを信じることにより罪から救われます。律法の中心は、十戒と言ってよいでしょう。本来、十戒は、神のみこころですので、良いものです。それを守れば幸せになります。しかし、十戒の一つ一つを守ろうとすると、思いと心において、守ることができない自分に気が付くのです。すなわち、思いにおいて、御心に沿わない自分を知るのです。自らの弱さや罪を認め、神の前でへりくだり、神を仰ぎ見るのです。これが信仰です。どんな人も、イエス様の十字架により罪が完全に取り除かれて、神との完全な交わりに入ることができます。これが福音です。クリスチャンは律法の責め、罪の呪いから解放されています。すなわち、ああしてはいけない、こうしてはいけないという、消極的な思いから解放されて、むしろああすることができる、こうすることもできると、積極的に失敗を恐れず、前向きに進んでいくのです。

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