聞かれる祈りとは

2017年2月26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱ列王記19章1~19節
19:1 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、【主】の宮に入った。
19:2 彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。
19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。
19:4 おそらく、あなたの神、【主】は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、【主】は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」
19:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
19:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。【主】はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。
19:7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」
19:8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリヤの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いたからである。
19:9 王は、クシュの王ティルハカについて、「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」ということを聞いたとき、再び使者たちをヒゼキヤに送って言った。
19:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。
19:11 おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。
19:12 私の先祖たちはゴザン、ハラン、レツェフ、および、テラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したのか。
19:13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、また、ヘナやイワの王は、どこにいるか。』」
19:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、【主】の宮に上って行って、それを【主】の前に広げた。
19:15 ヒゼキヤは【主】の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
19:16 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。
19:17 【主】よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。
19:18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。
19:19 私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知りましょう。」

<要約>

呪いは祝福に変えられる:

「神にすがり離れず聞き従うものには祝福があり、逆に、神から離れて聞き従わない者には呪いが来る」という考え方を、申命記史観と言います。列王記の著者も、申命記史観に立って、記述しています。イスラエル民族の歴史を振り返ると、この祝福と呪いの原理がはっきり見えます。モーセの律法の中心である十戒もその通りです。守るものは祝福され、守らない者には呪いが来るのです。世の法律、決まりを見ても、守ればよし、守らなければ罰則があります。神の掟もその通りです。十戒は努力目標ではありません。守らなければならないものです。それは、神は侮られることのできない方だからです。ですから、神を第一として、また、主日を守ることを優先しましょう。この祝福と呪いの原理は、現代も真理です。神を無視する者に対しての呪いは弁解の余地はないと、ロマ書に書いています。神がおられるということは、世界を見ればわかるでしょう。それでも無視するならば、神のことは知らなかったなどと、弁解はできませんよ、というのです。でも神はあわれみと忍耐の神です。待っておられます。思いを変えて、あなたが、神に立ち返るのを待っておられるのです。いつまででしょうか。それは、あなたがこの地上のいのちを終える時までです。呪いにあるあなたを救うためにキリストは十字架であなたを贖ってくださったのです。罪と死と呪いの代価を支払ってくださったのです。だから、聖書のメッセージは、「キリストを信じて罪と死から救われなさい」というのです。「神を無視する生き方から、神を恐れ、愛し、信頼する生き方に変更しなさい。」かくして、キリストを信じる信仰により、呪いは祝福に変えられるのです。

ヒゼキヤの祈り:

ラブ・シャケはエルサレムの人々に向けて言います。「ヒゼキヤにごまかされるな。」ヒゼキヤが、「主は必ず我々を救い出してくださる。この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない。」というのを聞いてはいけない。アッシリヤ王にかなう神はいない。このままでは、自分の糞を食べ、尿を飲むようになるぞ。降参すれば、別の国へ連れて行ってそこで飢えることはないようにしてやる、というのでした。ヒゼキヤは国家の危機にあって、心を注ぎ出して祈るために、主の宮に入っていったのです。また、イザヤに使いを出して、祈りを要請しました。ヒゼキヤは何を怒ったのでしょうか。それは、アッシリヤの王が生ける神をそしったからです。極度の危機状態で、主のことばが、イザヤにありました。神は、アッシリヤ王があるうわさを聞いて自分の国に引き上げるようにさせます。そこで剣に倒れる、という預言を与えたのです。ラブ・シャケは一旦退いて、リブナでアッシリヤ王と合流します。その後、再び、アッシリヤ王は、使者をヒゼキヤに送ったのです。今度は、ヒゼキヤに対して語りました。「お前の神にごまかされるな」と言っています。ヒゼキヤ王は、その手紙を読んですぐに、主の宮に行き、主の前にその手紙を広げて、祈りました。アッシリヤの王は、諸外国の神々はみなアッシリヤ王に勝つことはできなかった、だから、イスラエルの神も同じだというのです。信仰の対象を否定されたのです。世の人々はどの宗教も信仰は皆同じだと言います。みなそれぞれが、信じているではないか。どうして、キリスト教の神だけが神なのか、とよく言われます。それに対して、皆さんは何と答えますか。確かに、人間には真理を求め、理想を求める心があります。また、人間を超えた霊的な存在を神として崇めるのです。それが宗教心と言えます。宗教心は神へのあこがれです。しかし、その神が誰だかわからないのです。そこで、人間は自分勝手に太陽や山を神と決めたり、木や石で作ったりしているのです。これらは私たち人間が信じる対象にはならないものたちです。なぜならそれらは真の神によって造られたもの、被造物だからです。私たちが信じ、祈る神は、人間が考え出した、あるいは人間の都合で作った神とは違います。私たち人間を造り、全宇宙万物をおつくりになり、治めておられる恐るべき神です。ヒゼキヤは祈ります。神が自分たちを救ってくださいと、そうすれば、あなたこそ真の神であることがすべての王国は知るでしょうと。この後、預言者イザヤは、ヒゼキヤの祈りが聞かれたことを告げます。アッシリヤの王セナケリブは高慢のゆえに、自分の子どもの謀反により剣に倒れるのです。そして、主の使いにより、アッシリヤの兵隊18万5千人が一夜のうちに殺されたのです。日本人は、信仰する心、信仰心を大切にするようです。しかし、何を信じるかが大切です。頼りにならない者を信じても何もなりません。人間が作ったものに命をかけることはできません。それらはあなたを救うことはできません。 聖書があらわす神は、生きて働かれています。祈りを聞かれる神です。人類の歴史の中心におられて歴史を導いてこられた神です。

信仰告白の祈り:

ヒゼキヤの祈りは、信仰告白の祈りです。主よ、あなただけがすべての王国の神、と言っています。王の王、主の主、世界には多くの国々がありますが、そのすべてを治めておられる神であるというのです。人類の歴史においてその通りです。そして、ただ一人の神であり、天と地の創造者であると告白します。ヒゼキヤは、自分が信じている神がどのような方であるか、ことばで言い表しています。神は信者の祈りを聞かれます。信者には信仰告白があります。聖書に表わされている神はどういうお方か、イエス様はどういうお方か、そして自分が信じている神はどういうお方かを思い描きながら祈ることです。そのことを神に告白するのです。ヒゼキヤの祈りは大きな力となり、南ユダ王国を救ったのです。今週も、私たちは毎日祈ることです。祈らなければ、何も起こらないし、神について何もわからないでしょう。家族の救いのために、友人、知人の救いのために祈らなければなりません。

素直に信じたナアマン

2017年2月19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱ列王記5章1~17節
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
5:15 そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」
5:16 神の人は言った。「私が仕えている【主】は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断った。
5:17 そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ【主】にのみささげますから。

<要約>

悩みがもたらすもの:

ナアマンの悩みは、病気の悩みでした。病気はすべての人に襲い来るものです。ある意味ではありふれた悩みであります。ナアマンは悩みを通して、イスラエルの真の神に近づきました。いや、これは、神の方で彼を摂理の中に招いたのです。主が捕虜の若い娘に働いて進言させたのです。神は和平というこの状況を作り、ナアマンにあわれみをおかけになったのです。私たちも、自分の病、そして、家族の病を通して神は私たちに悩みを与え、「わたしに来なさい」と招いておられるのです。私もかつて、病気をきっかけとして、神を求め救われました。大学3年生の時、吐血で入院しました。私の出血は点滴ですぐに止まったのですが、私の隣のベッドの方は若くしてある夜出血して吐血して最後まで止まらずに亡くなりました。間近にそれを見た私は、死を恐れ、また、死後どこへ行くのかわからず不安に悩まされたのです。その悩みを通して、KGKの夏季キャンプに導かれて、イエス・キリストを救い主として信じました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス・キリストを信じる者に与えられる永遠の命です。死は絶望ではなく永遠に至る門であることがわかったのです。死は恐怖ではなくなったのです。さらに死後にある神とともにあるいのちの希望、復活の希望が与えられています。悩みは、人の心を暗くして、憂鬱にします。しかし、悩んでいる時、神はその人の近くにおられるのです。そして、その人を招いておられます。悩んで、祈りに導かれることは幸いです。悩んで祈り、神を求めるとき、神を体験し、神を崇めるようになるのです。これは約束です。悩みは、神と出会うチャンスであると言えます。

従順により神を見る:

ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立ちました。しかし、エリシャは、ナアマンを出迎えずに使いをやって、指示だけを与えるのでした。それは、ヨルダン川へ行って七たび体を洗いなさい、そうすれば、身体は元通りになるというのです。しかし、ナアマンは、エリシャが顔も見せないで、指示だけを与えたことに怒りを燃やしました。彼は、エリシャが出てきて、主を呼び求めて、ナアマンの身体の悪いところに手を差し伸べて癒してくれると考えていました。このように、ナアマンは「何か大いなること」を期待していました。しかし、あまりにも単純な指示であったのです。ヨルダン川で身を浸して洗うというのは、あまりにも簡単で、愚かに見えたのです。それだったら、ヨルダン川よりももっと良い川がアラムにはある。それらの川で身を洗ってきよくなれないだろうかと、言い、怒って帰途に就いたとあります。その時、彼のしもべたちが彼の所に来ていいました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」神の指示は、決して難しいものではありません。一言です。今日もあなたに「悔い改めて、神を信じなさい」と語っています。あるいは、「み言葉を信じて従いなさい」と聖書を通して語っておられます。あまり、単純なことなので聞き流すのでしょうか。神のことばを真摯に受け止める者は幸いです。エリシャは、ナアマンがエリシャの力で癒されたと思わないようにしたのです。だから、神からの指示だけを与えたのです。癒し主は真の神、主であることを彼に示したのです。信仰を持って行動した時に癒されるのです。ナアマンは、無礼に扱われたように感じ、怒りました。しかし、しもべたちの進言に謙虚に耳を傾けました。そして、へりくだって、愚かにも見えるエリシャの指示に従ったのです。ナアマンは謙遜にされたのです。ナアマンは神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に降りて行って、七回身を浸したのです。そうしたら、幼子の身体のようになりきよくなりました。ナアマンは神のことばに従順に従いました。ここに、神のわざが起こる原則が示されています。私たちも日々、みことばをいただきます。神からの指示があるでしょう。それに対する自分の思いもあるでしょう。ナアマンは、反抗して怒りました。私たちも素直に従えないような思いになるかもしれません。しかし、ナアマンは神のことばに従って、大いなる奇跡を見て、そして癒されました。さらに信仰が与えられました。ポイントは、従うということ、従順ということです。従順はクリスチャンライフのキーワードです。もしあなたが、神のことば、あるいは神に従順であれば、あなたは神の御業を見ます。あなたの日常生活の中で神が働きみわざを起こしていてくださるのが見えてきます。その神の御業を見て、あなたの信仰は強められて感謝にあふれるでしょう。そして、あなたはまた神に従順であろうとするのです。そして、次に来るみことばに従う時、神のご介入、みわざ、奇跡を見ます。信仰が強められて、感謝にあふれます。そして、また、みことばを慕い求めるのです。これを信仰の正の循環と言います。

福音のことばを受け取る:

ナアマンは、早速エリシャの所に帰って来て、信仰告白をします。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」真の神はただ一人、天地万物をおつくりになり、私たちにいのちを与え、そして全宇宙を保っておられる方です。ナアマンはその信仰に至ったのです。その信仰によって、身体の病ばかりでなく魂のいのちも救われました。そして、ナアマンは、多額で高価な贈り物をエリシャに進めます。しかし、エリシャは受け取らなかったのです。エリシャは無欲で高潔な人物であったことがわかります。それは、エリシャは、ナアマンに神の恵みはどういうものかを教えようとしたのです。すなわち、神の救いの恵みは、金銭で買えないものであること、すなわち無代価な恵み、であることを示したのです。新約の時代に至り、この神の恵み、すなわち福音は神のひとり子のいのちの代価によって得られた無限に尊い恵みであることがわかります。ゆえに、どんな金銭でも得られるものではないのです。福音は簡単です。「人間はその罪により死後裁かれて、そのままでは永遠の滅びに行かなければならない。しかし、神はそのことを惜しんで、罪のない神のひとり子であるキリストに人間のすべての罪を負わせました。そして、むごたらしい十字架で人の身代わりとして裁き死に至らせました。だから、キリストがあなたのために代わって死んでくださった事を信じるなら、それだけで、あなたの罪は赦されて、神の怒りは去り、あなたの上に神の祝福が注がれるのです。」人は、知識としては分かるのですが、なかなか理解して信じることは難しいようです。なぜなら、まず、自分の罪がわからないし、死後裁かれる、などというのは非常に愚かしく聞こえます。パウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と言いました。「十字架のことば、福音は、人間の知恵では愚かに見えます。そして、神がお与えくださった福音を愚かだと思い、受け取ることのない人々は自らの罪のために滅びに至ります。しかし、これを素直に受け取り信じる者には、福音はことばで言えない恵みです。そして、あなたは神の無限の力に支えられるのです。」今日、是非この十字架のことば、福音を受け取っていただきたいと思います。何の条件もいりません。ただ、あなたの両手をあげて、心を天の神に向けて、そこから注がれる恵み、神の約束です。罪の赦しと永遠のいのちを受け取ればよいのです。

勝利に帰する戦い

2017年2月12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰ列王記18章20~40節
18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、【主】が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが【主】の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。
18:23 彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
18:24 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。
18:25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
18:26 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
18:27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
18:28 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
18:29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
18:30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた【主】の祭壇を建て直した。
18:31 エリヤは、【主】がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
18:32 その石で彼は【主】の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
18:33 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ」と命じた。ついで「それを二度せよ」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ」と言ったので、彼らは三度そうした。
18:35 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。
18:37 私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
18:38 すると、【主】の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「【主】こそ神です。【主】こそ神です」と言った。
18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。

<要約>

信仰者の戦い:

カルメル山に大勢の人が集まりました。エリヤはイスラエルの全家に向かって話します。「いつまで、どっちつかずでよろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従え。もし、バアルが神であるならそれに従え」と。「どっちつかずの信仰」。イスラエルの民は、真の神を全く捨ててしまったわけではないが、不徹底な信仰だったのです。私たちクリスチャンも不徹底な信仰ではいけません。時には偶像と対決しなければなりません。一番、試されるのは、冠婚葬祭です。偶像はいっぱいあります。お葬式に出席することは良いと思います。しかし、焼香は礼拝行為ですから、辞退します。神棚に手を合わせることも辞退します。なぜなら、聖書によるとこれは姦淫だからです。神は、このようにどっちつかずのイスラエルの民に対して、「あなた方は姦淫をしている」と言いました。つまりこれは、夫、あるいは妻がいるのに、他の女性や男性と床を共にすることと同じだというのです。現代のクリスチャンにとって、偶像とは、刻んだ像ばかりではないと言いました。神以上に私たちの心を占領しているものです。神をいつも選び取っていくことが戦いであると言えます。信仰者の戦いとは何でしょうか。それは、第一に、自分の罪の性質との戦いです。信仰は目に見えないものを目に見えるがごとく確信していくことです。また、どうしても神中心の生き方より、自分中心の生き方に傾きやすいのです。神の国と神の義を第一として選び取っていくのがクリスチャンライフです。信仰者の戦いの第二は、この世との戦いです。世の本質は不遜です。神がおられるのに神を認めません。この世の君はサタンです。福音は輝きでないように覆われています。信者も教会に足を運ばなくなり、聖書も読まなくなれば、確実にこの世に流されていきます。この世は流れの強い川のようです。しっかり信仰に立っていなければ足をすくわれ流されていくのです。信仰者の戦いの第三は何でしょうか。サタンです。目に見えない霊的存在です。人格を持っています。知恵があります。肉体を持っていませんので、疲れることがありません。聖書にサタンは人殺しであると書いています。殺人犯は人間の肉体のいのちを奪います。しかし、サタンは、肉体の死の後に来る永遠の死に誘うのです。福音の内容は非常に簡単です。「イエス・キリストはあなたの罪を負ってあなたの代わりに十字架で死んでくださった。そして、あなたのいのちのために復活してくださった。」「イエス様を救い主と信じる者は罪赦されて永遠のいのちが与えられるのです」。罪の赦しと永遠の命です。死は怖くないのです。神の一方的な恵みです。しかし、サタンは光の天使を装って、あなたにささやきます。「あなたには罪はない。これまでまじめに頑張ってきた。罪人などと呼ばれることはない。あなたには救いは必要ない。」「死後裁かれる、そんなことはない。今の生活を楽しむことだ」など。また、信者に対しては、「あなたはイエス様を信じたのに、罪赦されたと言いながら、また、同じ罪を犯しているではないか。神の赦しはもう適用されない。あなたは神の前に出る資格はない。」と言って、信者を責めて教会から離れさせます。では、サタンに勝利するためにどうすればよいでしょうか。そのためには、福音を繰り返し聞くことです。毎週説教で同じことを話しています。皆さんが福音を思い起こして、もう一度、救いの恵みを得ていただきたいからです。あなたの罪が赦されていることイエス様があなたの代わりに十字架で死んで復活されたこと、そして、あなたは神の子とされ、永遠の命に与っていることです。

御名による勝利の戦い:

最初はバアルの預言者たちから始めます。牛を祭壇でたきぎの上に切り刻んで載せます。火をつけないで置きます。バアルの預言者たちは祭壇の周りで朝から真昼まで、バアルを呼ばわっていました。が、火はつきませんでした。次に、エリヤは、民全体に声をかけて、「わたしのそばに近寄りなさい」と言って、民を自分の近くに集めました。それから、主の祭壇をイスラエルの十二部族を象徴する十二の石で祭壇を立て直しました。これは、私たちクリスチャンも主の前に出る時は必ず、祭壇を築きなおさなければなりません。エリヤが整えた祭壇とは、現代では何を指すのでしょうか。旧訳の時代は、民は祭壇にいけにえを携え持っていき、罪を贖うためにその動物を殺し血を流し、そして燃やして灰にしました。そのことによって、神に近づくことができたのです。いけにえの動物は、すべて人の罪の贖いとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストの予表です。動物と祭壇は、現在では、十字架のイエス・キリストとその御名です。現代の私たちクリスチャンにとって、祭壇を築きなおすというのは、悔い改めと言えます。打ち砕かれた悔いた心を神はさげすまれません。そのような心で神に向かうのです。エリヤは、民がもう一度、真の神に心の目を向け、思いを変えることを期待していました。イスラエルの民が悔い改めて主に立ち返ることを願っていたのです。民の前で、エリヤは神に祈りをささげます。エリヤはこの戦いは主の戦いであると知っていました。エリヤは、主が戦いに勝利してくださると確信していました。なぜなら、真の神は全能の神、不可能を可能にしてくださる神で、このお方以外には神はいない、と確信していました。バアル神との戦いで、主が勝利することは当然のことでした。現在でも、イエス・キリストは勝利者です。聖書にある通りを信じましょう。私たちはイエス様にある限り負けないのです。圧倒的な勝利者です。イエス様にしがみついている限り、私たちクリスチャンはどんなことがあっても大丈夫なのです。

心を翻す回復の戦い:

エリヤは、自分の力を見せつけたのではありません。神をも動かす自分の信仰を見せびらかしたのではありません。ただ、神の栄光が表れることを願ったのです。そして、イスラエルがないがしろにしてきた神への恐れと信頼を回復させたかったのです。その時、「主の火が降ってきて、全焼のいけにえを焼き尽くしました。民は皆、これを見て、「主こそ神。主こそ神です。」と叫んだのです。そして、エリヤの命令で、バアルの預言者たちを残らずとらえて、殺したのです。民は、皆、主こそ神であることを目で見て信じました。そして、信仰を回復しました。現代、サタンはキリストのすばらしい福音に覆いをかけて、輝かないようにしています。しかし、エリヤのように、勇気をもって主の勝利を信じて立ち上がるものと一緒に働いてくださいます。福音の輝きを取り戻してくださいます。黙っていては、このエリヤの力を体験できないでしょう。身近な人に福音を伝えましょう。

願いと神の応答

2017年2月5日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰ列王記3章1~15節
3:1 ソロモンはエジプトの王パロと互いに縁を結び、パロの娘をめとって、彼女をダビデの町に連れて来、自分の家と【主】の宮、および、エルサレムの回りの城壁を建て終わるまで、そこにおらせた。
3:2 当時はまだ、【主】の名のための宮が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえをささげていた。
3:3 ソロモンは【主】を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。
3:4 王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に一千頭の全焼のいけにえをささげた。
3:5 その夜、ギブオンで【主】は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
3:7 わが神、【主】よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
3:8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
3:10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
3:12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
3:13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」
3:15 ソロモンが目をさますと、なんと、それは夢であった。そこで、彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげ、すべての家来たちを招いて祝宴を開いた。

<要約>

ソロモン王の献身:

「ソロモンは主を愛し」と書かれています。ソロモンは、ギブオンでは一千頭の全焼のいけにえをささげています。この後、神殿奉献では牛、二万二千頭、羊十二万頭と桁外れの数のいけにえをささげています。ソロモンの惜しみなく捧げる所から、ソロモンが神を愛し第一とする人であったことがわかります。そして、「父ダビデのおきてに歩んでいた」とあります。ソロモンはダビデの信仰を見て育ったのです。ダビデのように神を愛し、ダビデのように神に従い、ダビデのように神を恐れ、ダビデのように神に信頼していたのです。また、ダビデも惜しみなく捧げる人でした。しかし、気になるのは、「父ダビデのおきてに歩んでいた」というのは、父ダビデに倣ったということです。このことから、ソロモンはダビデと同じ失敗をしました。それは、女性の問題です。私たちの信仰は人に倣ってはいけません。キリストに倣って、聖書に生きるのです。ソロモンが神の祭壇があるところで一千頭の全焼のいけにえをささげたその夜、主が夢の中に現れて仰せられました。

ソロモン王の願い:

神は、ソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。神はクリスチャンに、「大胆に神に願いなさい」と奨めておられます。イエス様は主の祈りを教えられました。また、求めなさい、たたきなさい、捜しなさい、と奨めています。イエス様を信じて洗礼を受けた者の身分は何でしょうか。神の子、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有の民です。クリスチャンは王の王である神の王子、王女なのです。プリンス、プリンセスなのです。だから、父であり王である神に大胆に願っていいのです。さて、ソロモンは、何を願ったのでしょうか。まず、最初にソロモンは過去の神の恵みを感謝しています。父ダビデを選び大いなる恵みを与えられたことです。そして、ダビデは全き心を持って主に仕えました。彼は、誠実と正義と真心をもって、御前を歩んだとあります。そこには、神の選びと、ダビデの子孫に人類の救い主を誕生させるという神のご計画があったのです。次にソロモンは神の継続する恵みに感謝しています。ダビデへの恵みをその子ソロモンに与えてくださった事を感謝しています。神の恵みは、継続する恵みです。自分たち一代に終わるものではありません。信仰が子どもたち、孫たちに継承されていくように祈らなければなりません。ソロモンは、神の民であるイスラエル民族を正しく治めることができるように、善悪を判断して民を治め、正しく裁く知恵を求めたのです。神はイスラエルの先祖アブラハムを選んで、その子孫を祝福し空の星、海辺の砂のようにその数を増やすと約束しました。それがイスラエル民族です。そして、イスラエル民族を通して恵みと祝福を全民族に届けようとなさいました。選ばれた種族、聖なく国民、王なる祭司の身分が与えられました。しかし、彼らは神を愛し恐れることをせず、また、神を信頼することがなく、周辺諸国の神々に心惹かれて神から離れてしまいました。そこで、神はダビデを、民を救う王としてお立てになりました。そして、王国の世継ぎのソロモンはエルサレムに神殿を建て、その神殿を中心とした国家を打ち立てようとしました。しかし、ソロモンの堕落以後、国家は分裂し周辺の大国に支配されるのです。イスラエル民族は心が神から離れてしまい、ついには、救い主である神の子イエス・キリストを十字架で殺してしまいました。この選びの民が、捨てた石が礎となって、恵みと祝福が全民族に及んでいるのです。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。』見捨てた石、それはイエス・キリストのことです。不思議なことですが、このような形で聖書の預言は成就しました。すなわち、イスラエル民族を通して全人類を祝福するという約束です。アブラハムの子孫にキリストが出て、全人類の救い主となったのです。キリストを通してすべての人は罪赦されて永遠の祝福に与ることができるのです。神の祝福、それはいのちの祝福です。イエス・キリストが十字架であなたの罪の呪いである死を味わってくださいました。それゆえ、信じる者は罪の呪いが取り除かれて、神のいのちにつながるのです。それは永遠の命です。永遠の滅びから永遠の命に移されるのです。ソロモンはキリストのタイプ、ひな型です。預言者ナタンが神のことばをダビデに語りました。「あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」「あなたの身から出る世継ぎの子」というのは直接的にはソロモンを指しますが、とこしえの王座というのはキリストを指しています。ソロモンは王国の世継ぎでした、キリストは御国の世継ぎです。ソロモンは神殿を完成させました。この神殿は、キリストの身体のひな型です。かつては、民はエルサレムの神殿に詣でて神を礼拝しましたが、今は、キリストを通して神を礼拝します。それはまた、私たちクリスチャンを恵みの王国の王としてキリストが治めてくださっているということです。

神の応答:

この願い事は主の御心にかなったとあります。ソロモンは、自分のために長寿や富や敵のいのちを求めないで、正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、神はソロモンに知恵の心と判断力をお与えになりました。さらに願わなかった富と誉もお与えになったのです。そして、王たちの中でソロモンに並ぶものはないと彼を高く引き上げたのです。ソロモンはエルサレムで神の箱の前で感謝と和解のいけにえをささげました。この和解のいけにえは、キリストが神と人類の間に立って和解のいけにえとなったことをあらかじめ示しているのです。このように、旧約聖書はいたるところでキリストを映しています。今日は読まなかったのですが、ソロモンに与えられた知恵によって解決した事件が紹介されています。二人の遊女が王の所にやってきました。二人にはそれぞれ乳児がいましたが、一人の女は夜の間に自分の子の上に伏したためにその子は亡くなりました。そこで、その女は死んだ自分の子ともう一人の女の子どもと夜の間に取り換えたのです。双方が、これは自分の子だと主張しています。この種の問題は、通常役人や長老たちにより裁かれるが、この場合は、判決が難しく、王の所に持ってきたのだろうと思われます。ソロモンは神から与えられた知恵を早速用いました。二人の話が食い違っているのを聞いて、ソロモンは剣で子どもを二つに切り、二人で分けるように命じます。この命令を聞いて、一人の女性は子どもを哀れに思って胸が熱くなり、「あの女にあげるから、子どもを殺さないで」と言いました。しかし、もう一人の女性は王の命令に賛成したのです。ソロモンは二人のことばを聞いて最初の女性が本当の母であると判断しました。王の下した裁きに対して、人々は驚嘆し王を恐れたのです。今日はソロモンの願いと神の応答について学びました。クリスチャンはイエス・キリストを信じ、罪赦され、神の子とされ、御国の世継ぎとされた者たちです。神は世継ぎとされたソロモンに対してと同じようにクリスチャンに声をかけてくださっています。「何をしてあげよう。願え」と。私たちは日々、神に願い求めていますか?み心にかなう願いをするとき、神は、私たちが願った以上のことをしてくださいます。