あなたの足を洗われる主

2023年2月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書13章1~14節
【新改訳2017】
13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

<要約>

とことん愛し赦す神:

私たちは、汚れた足をイエスに差し出してはじめて清めていただけるのです。あなたの罪の身代わりとなって、神の独り子イエス様が十字架で裁かれ、死んでくださったのです。そのことを信じ受け止める者は救われます。罪と死と滅びから救われます。上着を脱ぐというのは「十字架で命を捨てる」ことを意味して、上着を着るというのは「いのちを再び得る」すなわち復活を意味しています。イエス様は、洗足にかかわる上着を脱ぐ、と、上着を着るという行為を通して十字架の死と復活を暗示されたとも解釈できます。洗足も十字架も、神の私たちへの愛の行為です。徹底的な愛、究極の愛、捧げ尽くす愛です。あなたに何の条件も求めない無条件の愛です。イエス様に足を差し出し洗っていただくというのは、悔い改めと言えます。日毎に私たちは罪を告白して、悔い改めて清めていただくのです。神は、キリストのゆえに、あなたをとことん愛し、あなたの罪を赦し続けてくださいます。私たちはへりくだり素直になって、罪を赦していただくと同時に、空の手を差し出して、救いを受け取ればよいのです。救いは、死後、自らの罪により滅びないで、キリストの復活のいのちを頂き、朽ちないいのちの希望に生きることです。

互いに赦しあい仕えあう:

イエス様は弟子たちの足を洗ってから、彼らに「互いに足を洗い合わなければなりません」と言われました。イエス様はご自身を無にして仕えるものとなられました。イエス様は、最も貧しく弱い存在として、この地上に来られました。そして謙遜の限りを尽くして、私たち罪人に仕えられたのです。これから弟子たちに福音宣教に遣わそうとしておられました。つまり、弟子として訓練し、その訓練を結ぶときが来ていたわけです。人間社会では、必ずと言っていいくらい誰がトップになるか、争いが起こります。しかし、イエス様が、昇天した後、弟子たちには誰がトップになるかという争いは全くありませんでした。使徒の働きの中で、彼らは、お互いに赦し合い、仕えあい、励まし合っていたことが分かります。同様に、キリストの弟子である私たちクリスチャンはお互いに赦しあい、仕えあうことによってその愛を全うするのです。

神が言われる幸いとは

2023年2月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書5章1~12節
【新改訳2017】
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

<要約>

苦難の中で神から幸いを受ける:

聖書は、困難、苦難と言うマイナスと思えることが、やがてプラスになる。最後には希望につながると言っています。心の貧しい人は傍におられる神に飢え渇きのために求め続けている人です。常に神におすがりしている状態です。心の内で、常に叫びを持っている人のことです。そのようにへりくだって絶えず神を求めている人は天国の所有者になるのです。また、一切の悲しみが慰められるというのです。この世で慰めを得なくても、やがて慰められる時が必ず来ると言うのです。ルターは、神からの祝福は、それは祝福とはとても思えないかたちで来る、と言っています。祝福は苦難や悲しみと言うベールに包まれて届けられるとも言えます。それは、何よりも神ご自身が人の罪の身代わりとなって苦難を味わい、十字架で死んで復活することを通して救いを届けてくださったことによります。それは何にも勝る祝福と言えます。死は何の力もなく、永遠のいのちが与えられます。すなわち、主ご自身が、祝福を苦難と悲しみと言うベールに包んで私たちに届けてくださいました。私たちは苦難の中にも神から幸い、祝福を受けているのです。

神からの幸いを隣人に届ける:

神があわれみ深いように、神から幸いを受けた人々は、隣人に対してあわれみ深くあるべきです。心のきよい者は罪赦されたクリスチャンであるといえます。彼らは、他の人の背後におられるキリストを見ています。私たちは、隣人を、神が命を捨てるほどに愛した大切な存在としてとらえるべきです。そうすると、この世の中で、どうでもいい人は、ひとりもいないことに気づきます。今日まで、世界中で、歴史を通して多くの人々が迫害を経験しました。そのようなときには喜び踊りなさいと、イエス様は勧めています。信仰者に与えられる幸いは、この世の与える幸いと違います。この世にあっては、うれしいことも悲しいことも、喜ばしいことも苦しいこともあります。しかし、信仰者は、常に上を向いて歩むことができます。それは、決して消し去ることができない希望、しぼむことがない希望があり、最後のゴールである天の御国の所有者とされているからです。そして、先に救われたクリスチャンは、あなたの隣人にこの神の幸いを届けていく責務が与えられていることを忘れてはいけません。

悪魔の試みへの勝利

2023年2月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書4章1~17節
【新改訳2017】
4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
4:5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
4:10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。
4:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

<要約>

罪と死と悪魔からあなたを救うキリスト:

人は神のようになりたい、権力を持ち、自分の思うように周りの人を動かしたいという罪の性質を持っています。それは、最初の人アダムから受け継いでいる罪の性質です。アダムは悪魔の誘惑に負けて、罪を犯し、堕落し悪魔の支配下に入ってしまいました。人は、自らの罪によって神と断絶しています。人は自らの罪によって、死と永遠の滅びに定められていると言えます。その罪を取り除くために来られたのが、神の御子キリストです。キリストは処女マリヤより生まれました。神が人となって世に来てくださったのです。無実のキリストがすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。そして、すべての人の罪の代価を払ってくださったのです。私たちは、空の手で神からその救いを受け取るだけでいいのです。キリストがあなたの罪の代価をすべて支払ってくださったので、死は何の力も及ぼしません。死の代わりに永遠のいのちが与えられます。つまり、イエス様はあなたを罪と死と悪魔から完全に救ってくださったのです。

試練の後にはキリストの勝利と平安が来る:

神はイエス様が悪魔の試みに会うことを許されました。私たちは、病や不幸と思われる災い、様々な困難、に遭遇します。信者はそれを神からの試練として受け止めて、悔い改め、神により頼み、み言葉に耳を傾け、祈りに専心します。そのことは信仰者としてよいことです。自分の力の限界を感じ、ただ、神により頼み、神にすがるからです。神は信仰者のその姿勢を喜ばれます。その時、信仰の勝利を経験します。私と家内は2012年7月から、こんにちわアパートを建て、そこで高齢者の介護事業を始めました。しかし、事業は試練の連続でした。事業を始めて5か月目、12月29日の夜、凍結により、スプリンクラーが破裂して、アパートは水浸しになりました。入居者を他の施設にお願いして、運んだり、内部の修復工事を依頼したり、めちゃくちゃでした。その後、運営面で失敗し、経営が困難となりました。そして、2014年1月末で閉じる決断をしました。そして、最終的には、他の事業所に引き継いでもらうことができました。私たちは、苦しいことがあるたびに、みことばを開き、祈りました。試練が来ても、信仰を持ち続ければ、試練の後にはキリストの勝利と平安が来るのです。