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無くてはならぬもの

2019年06月16日
説教者:岸義紘牧師

<聖書>ルカの福音書10章25~42節
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

メルキゼデクとイエス様

2019年06月9日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>へブル6章13~20節、7章1~4節
6:13 神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、
6:14 「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
6:15 このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。
6:16 確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。
6:17 そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。
6:18 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。
6:19 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
6:20 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

7:1 このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
7:2 アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。
7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
7:4 さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。

<要約>

神の約束と誓いの確かさ:

神は、アブラハムに「あなたを祝福し大いなる国民とする。あなたを通してあらゆる国民を祝福する」と約束しました。しかし、そればかりでなく、さらに神であるご自身にかけて誓われました。これは、今でいえば、口で約束してさらに誓約書にサインして実印を押したということです。間違いない、約束を破ったら弁償しますというようなものです。つまりこれ以上確実なことはないというのです。誓約書に実印が押されていたら、後で、言ったの言わないということで論争になることはありません。神が誓って約束してくださったことは疑いのない事実として歴史に成就しました。聖書の預言がことごとく成就しています。現在、すさまじい勢いで福音が届けられています。それらの歴史を見る時に、私たちは聖書に照らして時代を読むことができます。神は約束し、誓いをもって保証されます。それは私たちが前に置かれている望み、希望を捉えるために前進することを奨励しているからです。

メルキゼデクの祝福の及ぶところ: 平和の王メルキゼデクは戦争で疲れたアブラハムに神の祝福の言葉を携えて来ました。「キリストはメルキゼデクの位に等しい祭司」と唱えられたとあります。祭司は、律法によりレビの子孫でなければなりません。イスラエルでの最初の大祭司はアロンでした。ところが、アロンよりずっと前の人物のメルキゼデクには系図もありませんでした。これは、イエス・キリストがレビの系図になく律法では祭司としては認められていないユダ族から発している事とも類似しています。モーセの律法を与えられた民は、律法を守ることによって神に近づこうとしました。しかし、決まりを守ることによっては、彼らの良心を満たすことはできませんでした。行いを積むことが返って、彼らの高ぶりとなりました。律法の本来の使命は、罪を示されて、心砕かれ、へりくだって、神を見上げ信仰へ進むことです。そして、赦されていることに感謝するのです。罪赦された人は前向きに歩み出します。そのことで、今度は隣人のために自分の賜物を使うようになります。自分の人生が他の人のために用いられている時にこそ人は真に生きるからです。メルキゼデクの祝福は、イエス様を通してすべてのクリスチャンに及んでいます。

神の一方的な選びと祝福

2019年06月2日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記12章1~9節

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
12:5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 【主】はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに【主】のための祭壇を築き、【主】の御名を呼び求めた。
12:9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。

<要約>

神は他の人ではなくあなたを選ばれる:

アブラムが神に選ばれた理由は書いていません。アブラハムを通して地上のすべての民族を祝福すると言われました。それと同じように、神はあなたに目を留め、あなたを祝福の伝達者、祝福の基とするというのです。神は個人的にあなたという人を選んでくださいました。アブラハムは、偉大な信仰者、信仰の父とも言われていますが、初めから、そうではありませんでした。徹底して、神を信頼しきった人生でした。希望を持ち続け、それにより信仰が建て挙げられたのです。私たちもアブラハムのように、神をどこまでも信頼していきましょう。

神があなたに与える祝福とは:

神に従うアブラムに、神は繁栄の約束を与えました。アブラハムの祝福を受け継ぐクリスチャンである私たちにも、神は天にある豊かなあふれる富をお与えになります。そして、「あなたを祝福する者を神は祝福し、あなたを呪うものを神は呪う」と宣言されました。イエス・キリストに頼るものはどんな時も圧倒的な勝利者となるのです。次に、神の祝福は、罪の赦しと永遠のいのちです。それは、アブラハムの子孫イエス・キリストにより与えられるものです。神は、あなたを愛し、神のひとり子イエス・キリストによって救いの道を用意してくださいました。キリストにより罪赦されて永遠のいのちに生かされているからです。

神の選びと祝福を受けた者の応答:

繁栄と勝利の祝福を受けたアブラハムは、どうしたでしょうか。彼は主のために祭壇を築き、主の御名によって祈ったと書いています。これが、神の約束を受けた者の応答です。イスラエルは祭司の民とも言われています。祭壇を築き、神を礼拝し、とりなしをしたのです。イスラエルの国家としてのスピリットは、世界の人々の破れ口に立つということです。ですから、他国の災害時にはいの一番に救助隊を送って最新の技術で救助します。また、イスラエルは技術国家として、様々な世界平和に寄与する先端技術を開発しています。同様に、霊的なイスラエルの民であるクリスチャンは、全国民の祝福の基となる人々です。神は、あなたを用いて、あなたの周りの人々を驚くべき光の中に招かれるのです。

教会はキリストの身体

2019年05月26日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>Ⅰコリント12章12~27節

12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

<要約>

神(キリスト)を失った身体:

人間社会の歩を見ると、分裂と争いの歴史であると言えます。衣食住が満たされるようになっても、人口減や核家族化、高齢者の孤立化などがあります。依然として、将来に希望を見いだすことができない社会です。多くの人々が孤独とあきらめの中にいます。これは、はっきり言って、神を失った人間の姿であり、歴史と言えます。神よりも自分を上に置く人間は神を失います。そして、神を失った人の人格の中心には空洞ができています。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける者は救われます。あなたの人格の中心にあった空洞に聖霊が住まわれます。そして、あなたには決して奪われることのない平安といのちの喜びがきます。

教会員の多様性と一致:

人間の身体は、各器官が共に働いて生命活動をしています。それぞれの器官はかけがえのないものです。クリスチャン各自はその器官であり、各自が違っていてよいというのです。教会は一つのからだです。すなわち教会は多様な人々で構成されています。他の人と比較して卑屈になったり、ねたんだりしてはいけないというのです。その自覚に立って、自分に与えられた分で精いっぱいキリストのからだである教会のために全力を尽くすのです。人体の器官に優劣をつけることはできません。教会は多様な人々で構成されていて、キリストによって一つにされている統一体です。私たちはキリストのからだとして、兄弟姉妹の重荷を分かち合い、ともに苦しみともに喜ぶ教会でありたいと思います。

キリストのからだの使命と目的:

身体の各器官が体全体のためにあるのです。同様に、私たちクリスチャンも他の人々のためにあると言えます。さらに、キリストが頭となって、キリストの思うところをなし、キリストの望むところを探り行うのです。教会では、かえって、劣った人、弱い人、貧しい人を尊ぶのです。教会はキリストの花嫁で、キリストは教会のためにご自身を捧げられました。そして、教会をシミやしわやそのようなものが何一つない、清く傷のないものとしてくださいます。キリストのからだを建て挙げるというのは、教会が質的にも量的にも成長することです。

何にも勝るプレゼント、聖霊

2019年05月12日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書:使徒の働き2章1~11,36~42節

2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」


2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

要約:

聖霊は復活のいのちに繋ぐ:

聖霊降臨の時、激しい風、あるいは炎のような分かれた舌、という象徴的な現象が表れました。そして、聖霊が各人にとどまったときに、彼らは聖霊が話させる通りに他国語で話し出したのです。さらに、ペテロはダビデ王の詩編16編の詩を引用して、自分たちはキリストの復活の証人であると明言しました。そして、聖霊はキリストの復活の証人である信者を用いて福音を全世界に届けるのです。聖霊は、聖書のみことばと共に人々に働いて、人々が福音を理解できるようにします。聖霊は、信じて洗礼を受ける人の中に住んでくださいます。そして、聖霊はあなたの人生を希望と喜びの人生に導いてくださいます。そして、聖霊は信じる者をキリストの復活のいのちに結び付けます。それは永遠のいのちです。

聖霊は罪と死の束縛から救う:

ペテロは大胆に、聴衆に言います。「あなた方はイエス・キリストを十字架につけたのだ」と。人が神を無視し神から遠く離れていること、それが根源にある罪です。群衆は心刺されて、「兄弟たち、私たちはどういたらよいのでしょうか」といいました。彼らは、罪を悔いて痛み悲しんだのです。自分の罪を認めたのです。ペテロが勧めているように、すべての人は自分の罪を認めて、悔い改めてキリストを信じて洗礼を受けることです。そうすれば、賜物として聖霊を受けるというのです。聖霊はキリストの十字架の血によってあなたの罪を赦し永遠のいのちに生かします。死は絶望ではなく、永遠のいのちへの門と言えます。こうして信じる者は罪と死と罪の束縛から救われているのです

聖霊は永遠の希望と喜びで満たす:

なぜ、人は心満たすものを求めるのでしょうか。神から離れ、神のいのちを失った人間には人格の中心に空洞ができています。アウグスチヌスは、その空洞はあなたを造られた神しか満たすことはできないと言いました。永遠に、そして完全にあなたの心の空洞を満たすことのできるのは神である聖霊です。そして、聖霊は、決して消えない、喜びを与えます。それは、世にはないものです。いつまでも残るものです。もし、聖霊を意識して、心開くなら、あなたの心の奥深くに、あなたの存在の根底に、決して消えない喜びを持つことができるのです。

教会の基礎

2019年05月05日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


聖書:マタイの福音書16章13~19節
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

要約:

人生で最も重要な質問:(13~15節)

「あなたは、私をだれだと言いますか?」これは、非常に重大な質問です。この問いがなぜそれほどまでに重大なのでしょうか?なぜなら、その問いに答える者の永遠を決めてしまうからです。この問いは、歴史を通して、失われることはありませんでした。先々月、ローマを旅しました。当時、先の問いに「キリストは真の神、私の救い主です」と告白する者は処刑されました。でも、彼らは地上のいのちを捨てても、それに応えてきました。この問いは、あなたの生死を決定する問いです。教会は、その問いを人々に投げかけています。

幸いと勝利が保証された人生:(16~18節)

ペテロの信仰告白の上に教会は建てられています。教会に集う信者一人ひとりに、人生の幸いと勝利が保証されています。ペテロの信仰告白の後、イエス様ははっきりご自身がこれからお受けになる受難についてお話になられました。それに対して、ペテロはそれを否定して、イエス様をいさめ始めました。ペテロは、あれほどの信仰告白をしたあとですが、キリストについて、よく分かっていなかったのです。後になって、自分の力に頼っていたペテロは砕かれました。そして、自分中心から神中心に変えられました。クリスチャンライフは自分中心ではなく神中心です。

教会は天国の主張所:(19節)

教会には、天国への扉があり、その鍵があります。教会は天国の出張所です。では、鍵の権威の行使の第一番は何でしょうか。それは、罪の赦しです。教会は、キリストに代わって罪の赦しを宣言します。信じる者は誰でもこの罪の赦しを受けます。そして、滅びではなく永遠のいのちをいただくのです。鍵の権威の行使のもう一つは、キリストを拒み悔い改めない者を罪に定めることです。クリスチャンは二重国籍の民です。地上では日本国民として、遣わされたところで与えられた才能や技術を用いて、人々の福利のために努力します。天の国籍については、地上の教会を通して神の国の働きに参加することです。教会の一員として、キリストの代理者としてとりなし罪の赦しを宣言します。

ヨーロッパ初のクリスチャン

2019年04月28日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書 使徒の働き16章6~18節
16:6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
16:7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
16:8 それでミシアを通って、トロアスに下った。
16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
16:11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。
16:13 そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
16:14 リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。
16:16 さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。
16:17 彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。
16:18 何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。

要約

みこころを知り前進する:

私たち人間が立てる計画と神の思いと違っている事がよくあります。聖霊は行くべき道を示してくださいます。聖霊の導きによりパウロ一行はマケドニア宣教の使命を確信して出発しました。私たちはどのように神のご計画を知って歩んでいったらよいのでしょうか。まず、第一に神は志を与えてくださるというのです。次がわからない、でも目の前の一歩は示されているということがあります。クリスチャンライフは、結果オーライの人生です。最終的なゴールは天の御国です。そこに至るまで、私たちは一歩一歩この地上の人生を歩んでいきます。

賜物を用いて主に仕える:

パウロ一行は、祈り場と思われる川岸に行きそこに腰を下ろして集まった女たちに話しました。そこにテアテラ市の紫布の商人で神を敬うルデアという女性が登場します。彼女は成功した女商人でした。ビジネスで忙しい生活を送ってましたが、さらに重要なことのために時間を割いていました。それは唯一の真の神を礼拝することです。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされました。ルデヤとその家族はバプテスマを受けました。ルデヤは、ヨーロッパで最初のクリスチャンとなったのです。その後のルデヤは、ピリピにずっととどまり、パウロたちを経済的に支え続けたと思われます。ピリピ教会は、獄中にいたパウロの手紙から判断すると、喜びの教会と言えるでしょう。私たちの教会も、喜びの教会とさせていただきたいと思います。そのためには、お一人お一人が、イエス・キリストの救いの喜びに満たされてほしいと思います。

罪が人を道具とする:

占い女の主人たちは儲けるのぞみがなくなってしまい、彼らはそれを恨んで、言いがかりをつけてパウロとシラスを訴えました。罪は人間を道具として、その人から搾り取るのです。人間を自分の利益のために利用するのです。それは、人を自分の思い通りにしたいという欲望です。自己中心で自分さえ良ければよいという人間の姿です。これは、私たち人間が持っている罪の性質です。その罪を取り除いてくださるのがイエス・キリストの十字架の血です。私たちは、ルデヤの信仰を見習うものとなり、皆さんで、喜びの教会を建て挙げていきたいと思います。

復活はすべてのマイナスをプラスに変える

2019年04月21日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明



ヨハネによる福音書20章1~18節
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

<要約>

死は別離の悲しみを与える:

もし、復活の希望がなければ、死は人間の力ではどうしようもなくあきらめなくてはならないことになります。福音は死に対する勝利です。イエス様は全人類の罪を背負って、罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったこと。そして、今度は、死者の中から復活して私たち人間にとって最後の敵である死を滅ぼされたということ。信じる者には、ただ、神からのプレゼントとしての永遠の命があるのです。しかし、現代においてもイエス様が罪と死と滅びからの救い主であることを知らない人々がほとんどです。そのような方々には、いまだに死の別離はどうしようもない悲しみであり、また、自分の死もあきらめの中にあるのです。

イエス様を独占してすがりつく信仰:

イエス様は、最初に卑しく罪深い女とされていたマグダラのマリヤに表れました。イエス様は朝陽を背に受けていたのでマリヤには識別できなかったのでしょう。イエス様は彼女に言われた。「マリヤ」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」と。マリヤはイエス様と分かって、恐れと喜びがまじりあったのでしょう。マリヤは「だれかが私の主を取っていきました」と「私の主」と言いました。マリヤは、私たちの主、ではなく、私の主とイエス様を独占しています。これは何を意味しているのでしょうか?私たちは、イエス様を独り占めにしておすがりしてよいということです。私の主と言って、いつもイエス様にすがりついていきましょう。

復活しあなたに会いに来てくださるイエス様:

彼女は死んだイエス様ではなく、よみがえって生きておられるイエス様に会ったのです。深い悲しみは大きな喜びに、絶望は大いなる希望に変えられたのです。これがクリスチャンライフに起こることです。人生で涙の谷を越えることもあるでしょう。希望を失って、絶望を感じる時もあるでしょう。しかし、復活したイエス様から離れないクリスチャンには、マイナスはプラスに、悲しみは喜びに変えられるのです。イエス様は天に帰られて、信じる者に神の子となる特権をお与えになり、神の国の相続者にするために聖霊を送ってくださったのです。罪の奴隷であったものが、自由の王となり、御国の世継ぎとなったのです。

必要は一つキリストに留まる

2019年04月014日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師

聖書:ルカの福音書10章38~42節
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

要約:

不平不満に代わりやすい人間の愛:

マルタは喜んでイエス様一行をお迎えしました。イエス様に喜んでもらいたい一心であったと思います。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、ついにイライラして、先ほどの「喜んで」が「イライラ」に変わり、ついに「怒り」に変わってしまったのです。マルタの心には、「マリヤだけがイエス様のそばにいて良い思いをして、わたしは忙しく食事の準備をしている、不公平だ」という思いです。マリヤに対する不平ばかりでなく、イエス様に対しても、「イエス様、あなたは何とも思わないのですか」と不平を漏らしています。わたしたち人間の愛はつぶやきや憎しみに変わりやすいということも知っておかなければなりません。

神の愛とご計画は人の思いを超える:

この後、マルタとマリヤの家に大変なことが起きました。弟ラザロが重病になったのです。そしてマルタとマリヤはイエス様に使いを送って、すぐ来てラザロの病気を治して下さいと頼んだのです。しかし、イエス様は遅れてベタニアに来られました。ラザロは既に死んで四日も経っておりました。しかし、そこで主は、死んだラザロを復活させました。そのラザロを、イエス様の復活の予表となさったのです。このように、彼らを通して、主は栄光を表されたのです。神は、あなたを愛して、あなたにとって最善を導いてくださっているという確固とした神への信頼を持たなければなりません。そこに、人の思いをはるかに超えた神のご計画があるのです。

イエス様にとどまり神の栄光を見る:

イエス様はどうしても必要なことは、一つだけだといいました。イエス・キリストにとどまり続けること、別の言葉で言えば、イエス・キリストを信じ続けることです。マルタとマリヤ姉妹はこの後、弟ラザロの死と復活を通して、「信じれば神の栄光を見る」と言う体験をしました。彼女らは、ラザロの復活によって、神の栄光を見ました。さらに、イエス様の十字架と復活に与り、栄光に栄光を拝したのです。私たちがイエス様にとどまる人生は、この、神の栄光を見る人生に招き入れられているということです。

渇くことのない生ける水

2019年04月07日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師

聖書:ヨハネの福音書4章3~26節

4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

要約:

渇き続ける人間の現状:

このサマリヤの女性は、ほかの女性たちを避けて、だれも来ない真昼に水を汲みに来ました。彼女は、心の癒えない渇きを持っていたのです。イエス様は、そのことをご存知で、「わたしに水を飲ませてください」と語りかけます。イエス様は「この水を飲むものは誰でも、また、渇きます。しかし、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちのへの水がわき出ます。」と言われ、彼女に本当に必要なものについて話を進めます。彼女は、孤独で、疎外感を感じていました。それが霊的渇きから来ていることがわからないのです。霊的渇きというのは永遠なるものを求める人間の魂と言えます。一時的でない永遠なるもの、絶対的なもの、変わらないもの、それらに対して人間は渇きをもっています。人間は最初に土で作られて、神からの霊のいのちを吹き込まれて生きるものになったのです。しかし、アダムの罪以来、魂の中心から神を追い出してしまった人間は、その空洞を何かで満たそうとしています。それが霊的渇きです。「この水を飲むものはまた渇きます」とイエス様が言われ、この霊的渇きに気づくよう導いたのです。

キリストが与える水を飲むとは:

渇くことのない水をください、という彼女の心を知って、イエス様は「あなたの夫を連れてきなさい」と彼女の罪の問題に切り込みを入れます。彼女の抱えていた問題は人間関係のことです。結婚、家族の問題と言えるでしょう。人間関係の根本にあるのは、神との関係です。礼拝は神との出会いです。そして、礼拝は神との関係回復の道なのです。どのようにして、イエス様はわたしたちと神様との関係回復の道を開いてくださったのでしょうか。その罪を取り除くために、十字架で罪の贖いをしてくださったのです。神への礼拝は場所が大事なのではなく、神を霊とまことによって礼拝しなければならないというのです。それは、心から神を恐れ、愛し、信頼することです。まこと(真実)をもってというのは、人と神の間の唯一の仲介者キリストを通して、神を礼拝しなさいということです。イエス様が「わたしが与える生ける水を飲みなさい」というのは、イエス様を信じなさいということです。

救いの喜びに満たされる:

「わたしの言うことを信じなさい」とイエス様は、信仰の決断を迫ったのです。そして彼女は、心でイエス様を信じました。決して渇くことのない生ける水を心にいただいたのです。孤独と疎外感でずっと苦しんでいた彼女の心に永遠の命の水が泉となってあふれたのです。彼女に劇的な変化がきました。人目を避けてきたこの女性が街に出かけていって、イエスのことを人々に伝えたのです。真の救い主を受け入れて、心の渇きが癒されると、生きる喜びに満たされます。私たちも心にその生ける水をいただくことができます。それは、真の救い主イエスキリスト心の内にお迎えすることなのです。