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新しい天と新しい地

2025年1月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの黙示録21章1~8節
【新改訳2017】
21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」

<要約>
人の罪ゆえに滅びに定められた現代の天と地:

創世記によると、神が全世界をつくられて、人をおつくりになったとき、「世界は非常に良かった」と書いています。しかし、アダムの堕落以来、人類に罪が入り、罪と死と滅びがすべての人に及びました。その罪ゆえに人は神から遠く離れてしまいました。ですから、生まれながらの人は、罪人で、神を認めることができません。信じることができません。罪ゆえに人には死が入りました。そして人は滅ぶべき存在となったのです。しかし、神は、人と最初の麗しい信頼と愛の関係を取り戻し、幸せな関係を取り戻したいと願っておられる愛と憐みの神です。キリストは世を救うために来られました。そして、すべての人の罪を贖うために2千年前に十字架で身代わりの死を遂げました。それは、「あなたがあなたの罪ゆえに滅ぼされることのないためです。キリストはあなたが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったことによります。」

新しい天と地に招かれた者に約束された勝利の人生:

やがて、キリストが再び来られて、最後の審判と新しい創造による新天新地ができます。それは、私たちにとって、神と共に生きるという新しい命の始まりなのです。ここに、キリストの十字架により、罪赦された人々の集まりである教会の姿が描かれてあります。それでは新しい人新しい天に招かれた者として相応しい生き方とは何でしょう。先ほども言いましたが、私たちは生まれながらの罪びとです。そして同時に、罪許された罪びとです。罪の責めの一切はイエス様が十字架で追ってくださいました。ですから、赦された罪人は、罪に支配されません。では、新天心地に招かれた罪人のふさわしい生き方とは何でしょうか。それは、これからは、自分の弱さや罪に翻弄されることなく赦された罪びとして前向きに生きることです。失敗を恐れず神を愛し人を愛する生き方に注力していることです。神を愛し、人を愛する生き方とは具体的には何でしょうか。勝利を得るものとは何でしょうか?それは、日々、最も小さな、最も弱い姿で私たちの前に現れてくださる小さなイエス様に心を向ける生き方です。そして、そのようなイエス様を見上げる時に、キリストはあなたを新しく作り替えてくださるのです。すなわち、弱さを覚えて、キリストを見上げる者をキリストは新しく作り変えてくださるのです。ですから勝利を得るものはこれらのものを相続するのです。

古い人を脱ぎ捨て新し人を着る

2024年12月29日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神なき人生のむなしさ(17~22節)

クリスチャンになるということは、単にキリスト教に入信することではありません。クリスチャンになることは、新生、新しく生まれることです。人は神に似せてつくられ、神のように正義を愛し、悪を憎んでいました。神は、人に曲げることのできない自由意思をお与えになりました。その自由意思をもって、人は神を愛し信頼する交わりの中で真の自由を得ていたのです。しかし、人は神に反駁して、自分を神の上に置いたのです。その罪により、すべての人は生まれながらの罪人です。そして、神を心の中心から追い出してしまいました。それ以来すべての人は、神なき人生を歩んでいます。すべての人は、腐敗した古い人を脱ぎ捨てて、新しい人に生まれ変わらなければなりません。それが、バプテスマによる洗いと新生です。私たちは、罪を悲しみ、悔い改めて、イエス・キリストを信じなければなりません。そして、キリストの聖さ、正しさ、愛、真実を身につけようと努力するのです。

キリストにある新しい人生(23~32節)

クリスチャン生活の実践には、対神関係のもの、対人関係のもの、対自関係のものがあります。対神関係と対人関係はコインの表裏です。神を愛していますが、人は愛しません。ということはありえないのです。神は目に見えない方ですので、神を愛するということは、人を愛するということを通して表されるからです。神を愛すると言う事は人を愛することです。逆に人を愛するということは神を愛するということです。キリストにある新しい人生と題してお話してきました。パウロは私たちの中の腐敗していく古い人を脱ぎ捨てなさいと言っています。その古い人は、生まれながらの罪びとで死ぬべき古い人です。神を認めない、神を信じない、自分中心の人です。古い人を脱ぎ捨てるというのは、パウロは別の言い方をしています。「キリストとともに十字架につけられた」と言っています。つまり、罪に支配された古い人を殺して、あるいは脱ぎ捨てて、新しい人に生きことです。それは、神を信じてパプテスマを受けることで私たちの内に起こることです。キリストにある新しい人生とは、古い自分を脱ぎ捨てて、キリストを着る生き方です。新しい人生です。神を愛し、人を愛する人生です。失敗を恐れずに、前向きに生きる生き方です。

<聖書>エペソ人への手紙4章17~32節
【新改訳2017】
4:17 ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:18 彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。
4:19 無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。
4:20 しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。
4:21 ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。
4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、
4:23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、
4:24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。
4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。
4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。
4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。
4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

クリスマスは気づきの時

2024年12月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

ルカの福音書2章11~14節
【新改訳2017】
い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

<要約>
私たちは、周りに当たり前にあると思っていて、大切なことに気づいていないことがあるのではないでしょうか。私たちの体や生活に必要なすべてのものが備えられて与えられていることを。例えば、食べ物や衣服、住居や家庭、家族や職場の交わり、など。神があなたの近くにおられてあなたのすべての必要を満たそうと、あなたを愛しておられる神がおられるのに気付かないのです。いずれにせよ、私たちの心は暗く、光を当てられなければ、何も見えないのです。近くにいてくださる神に気付かないことから隣人の必要にも気づかない、私たちの内にはそういう、自分中心の人間の姿があるのです。クリスマスは、もとから世におられる神が人となられてこられたことです。神は天の御座を捨てて、へりくだって、私たちに現れてくださいました。私たちは共におられる神ご自身に気づくのです。そして、自分に気づくのです。普段私たちの目が見なかったこと、思いも浮かばなかったこと、に気づくのです。クリスマスは気づきの時です。神は共にいてくださった。私の過去から現在までともに歩んでくださった。私のためにすべての良いものを備えてくださった。あらゆる危険から守ってくださり、これからも守ってくださることを。

  (クリスマスストーリー):クリスマスに実際にあったお話です。自分が愛されて、大切にされていることに気付いたお話です。

御子キリストは、神の私たちすべての人へのプレゼントです。キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちは、無償で提供された神のプレゼントです。私たちは、それはをただ、空の両手を差し出して、受けとるだけなのです。私たちは、生まれながらの罪びとですが、イエス様の十字架と復活により、罪赦された罪人となりました。これからは、赦された人として、神を愛し、人を愛する、人となりましょう。罪赦され、永遠のいのちが与えられ、希望と喜びの人生に入るのです。クリスマスは気付きの時です。もう一度、私たちはどんなに愛されており、愛されて現在に至っているかを確認するのです。それは、ベツレヘムの家畜小屋で御子イエス・キリストを通して示された神の愛です。

クリスマスの衝撃

2024年12月15日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
闇にとどまる人間社会;

多くのユダヤ人は、救い主がユダヤ人の王として来られ、社会が不安定になるのを恐れていました。現状にあまんじ、変化を恐れていたのです。そこに当時のユダヤ人を含めて人間の罪の姿があります。教会やキリスト教に深入りしたくない、私にはキリストは必要がないという声を聞くのです。結果的に、私たちの罪を取り除いてくださるキリストを拒むのです。正しいことを実行し、正しいことを信じる力がない人間の姿があるのです。闇にとどまる人間社会と題して話しました。多くの人々は、闇にとどまることを良しとして、その罪ゆえに、死と滅びに定められている、と聖書は警告しています。しかし、神は憐れみの神です。人が滅びに向かっていくことを惜しんで悲しんでおられます。そのために、罪のない神の独り子イエス様は十字架で私たちのすべての罪を背負い身代わりとなって死んでくださったのです。そればかりでなく、3日目に復活し死を打ち破り復活のいのちを与えてくださいました。もう死の苦しみは過ぎ去りました。死はいのちに至る門となり、永遠に続く希望と喜びの人生が待っています。

クリスマスはこの上もない良い知らせ:

キリストはご自分の民に拒絶されました。しかし、異邦人に歓迎されました。彼らは、この幼子を人類の救い主、神の子、キリストとして認識したのです。そのお姿は、最も低くなってこられたキリストです。私たちを支配するのではなく、人々に仕えるものの姿で来られました。軍隊に守られた王ではなく、貧しい無防備な幼子でした。それは、力を持って力のある人々を救うのではなく、貧しいものとなって心の貧しい人々を救うために来られたのです。それとは反対に、ご自身を拒絶する人々、「救いはいらない」、「私にはキリストは必要がない」、と言う人々に対しても、忍耐を持って待っておられるのです。それは、ご自身を害するもののために祈られたことからもわかります。キリストは私たちを赦し生かすために来られました。最も貧しい姿で、しかも、私たちの罪を背負って十字架に付けられるために来て下さったのです。東方の博士たちは、幼子イエスに会って、この上も無く非常に激しく喜んだのです。私たちもキリストをこのように歓迎しているでしょうか。私たちもキリストの証人として使命をいただいて自分の使わされている場所で主を証いたしましょう。

<聖書>マタイによる福音書2章1~12節
【新改訳2017】
2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

将来と希望の約束

2024年12月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
闇が深いほど背後の光は強い:

先の見通しがつかないというのは、個人的にも、国家的にも、世界的にも、とてもつらいことです。現代も、人類の未来は楽観できない状況です。日本も戦争に巻き込まれる危険を抱えています。日本は人口減に入り、超高齢化社会になっています。若者も未来に希望が持てず、闇バイトに手を出す子どもたちも増えており、社会不安も広がっています。不登校になる子どもの数も過去最高になっています。日本の教会の現状を見ても、牧師や伝道者のなり手が不足して、クリスチャン人口も減り教会も統合したり、閉鎖したりするところも出てきます。自分の前に見える自分の影、その闇が深いほど後ろから背中を照らす太陽の光は強いということです。同様に、もし皆さんが、個人的にも困難を覚え、あるいは行き詰まりを経験し、低迷無気力にあるならば、今のピンチこそチャンスであることを知りましょう。私たちが困難や苦難の中に居る時こそ神の恵みの光が強く注がれていることに気づきましょう。

礼拝の民として三つの領域でベストを尽くし希望に生きる:

神はエレミヤを通して、異郷の地でどのように生きて行ったらよいのかを、具体的に指示なさいました。まず、一つのことは、民がバビロニヤにいてもあたかもエルサレムに住んでいた時と同じように生活をすることです。もう一つのことは、今置かれたバビロンの町のために主に祈れ、そこで礼拝を守りなさいということです。同様に、現代に生きるクリスチャンたちは礼拝の民として、この地に根好き、仕事をし、家庭を立ち上げ、そして教会生活をするのです。すなわち私たちは、神を礼拝することを中心において、教会生活、社会生活、家庭生活の三つの領域に励んでいるものです。当時のイスラエルの民への70年後の祖国帰還の約束は歴史において成就しました。それは彼らには将来と希望でした。同様に、現代に生きる私たちクリスチャンにも聖書のみことばは、将来と希望を与えています。それは、主が再び来られること、そして、やがて新天新地に信じるすべての人々が招き入れられるということです。信じるすべての人は、罪の赦しと永遠のいのちをいただいています。神の将来と希望の約束をしっかり握っていなさい。そして、今を生きなさいというのです。先ほども言ったように落ち着いて生活し礼拝の民として神を中心とした生活をしなさいと言うことです。

<聖書>エレミヤ書29章1~11節
【新改訳2017】
29:1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。
29:2 この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、
29:3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。
29:4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
29:5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
29:6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
29:7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
29:8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。
29:9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』
29:10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
29:11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

主と私たちの麗しい関係

2024年11月3日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書10章7~17節
【新改訳2017】
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

<要約>
背後で働く悪魔と救い主;

狼に例えられる敵は何でしょうか。狼は羊の命を奪いにやって来ます。それは サタンあるいは悪魔と言うこともできるでしょう。当時のローマ帝国下のクリスチャンにとっては悪魔はローマ皇帝であったかもしれません。なぜなら当時のローマ皇帝はクリスチャンを捕まえて円形競技場で飼育している猛獣の餌にしたからです。そればかりではなく、歴史を通して信者には常に敵があることを心しておかなければなりません。私たちの戦いは、目に見える血肉に対する戦いではない、背後にいる悪魔や悪霊に対する戦いであるとエペソ書に書いています。私たちは、聖霊とみ言葉によって武装していなければなりません。悪魔は、私たち人間の全人格に働きかけます。知性、感情、意志をコントロールします。それとは反対に、わたしは良い牧者は、牧者は救い主です。私たちを罪と死と悪魔から救ってくださいます。イエス様は、羊のためにいのちを捨てる、つまり、すべての人の罪を取り除くために、身代わりとなって十字架でいのちを捨ててくださったのです。「世の罪を取り除く神の子羊」となって、すべての人の審判を受け、自ら進んで死ぬのです。主は言われました。「わたしはまたこの囲いに属さないほかの羊たちがいます、それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちは私の声に聞き従います。そして一つの群れ、一つの牧者となるのです」。イエス・キリストはイスラエルだけでなく全民族を一つにする救い主であることをご自身が自ら宣言しておられるのです。一人の人が滅びてしまうのを惜しんでいます。その動機は、あなたへの愛です。

いのちに至る門;

イエス様は、「わたしは羊の門です」と言われました。わたしは門です。誰でもわたしを通って入るなら救われます、と書いています。そして、牧草を見つけます。イエス様のところへ行き、イエス様の囲いにいれば、牧草を見つけます。これは、いのちが救われ、敵から守られると言ことです。また、イエス様は、「わたしを通してでなければ、だれひとりすくわれない」と言います。これは、イエス様ご自身が神であることの宣言でもあります。イエス様は、羊の門、救いの門です。聖書は、人は教えでは救われないことを明言しています。人は行いによっては救われないと明言しています。聖書は、人は教えである律法、十戒を守っても、救いに至らないことを何度も言っています。人は良い行いによってはよい人間にはなれません。かえって、高慢になってしまうのです。良い人間が良い行いをするのです。自分でよい人間になることはできません。三位一体の神である聖霊によって、良い人間に作り変えていただくのです。門であるイエス様を通して入るというのは、イエス様をあなたの救い主と信じることです。

安心して生きる

2024年10月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書5章21~26節
【新改訳2017】
5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。

神の日を心に据えて今を生きる

2024年10月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神を認めない人間と神の忍耐:

世の中の人々は、キリストが神であることを認めず生きています。そして、その人生観、生き方は歴史を通して、ずっと人間社会を支配してきました。あざける者たちが、敬虔に生きようとしている信者たちをあざけっていました。それに対して、ペテロは、こう述べています。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。ここに主のみこころがあります。キリストは、そのように神を認めず、神を知らず、神から遠く離れている人々、そして自らの罪のために死と滅びに定められている人々を救うために、世に来てくださったのです。さばきと滅びの日来る前に、すべての人を天の御国に招くために、罪びとを招くために来てくださったのです。「私を信じて、罪と死と滅びから救われなさい」と、今日も招いてくださっております。まだ、キリストを信じて洗礼を受けてない方は、是非、信じて救われてください。

終わりを見据えて希望に生きる:

最終的には世界は滅びます。しかし、この世界は「義と愛の神」が創られ、そして保っておられる世界です。神は義であるということは、神は正しくさばかれるということです。罪を放置しておくことは神にはできません。すなわち神の裁きは必ず起こるということです。また、愛の面では、神はすべての人を愛し、滅んでしまうのを惜しんでおられます。そして、すべての人が幸せになってもらいたいと考えておられます。私たちは、生まれながらの罪人です。しかし、イエス様の十字架により過去現在未来に至るまでの罪は赦されています。ですから赦された罪人です。罪が許されたものとして、これからは、どのように生きて行けばよいのでしょうか。罪が赦され、復活のいのちが与えられています。そして、やがて、新しい天と新しい地を相続する者たちです。神は、この地上にあって、一人一人に使命と目的を与えて神の民として、決してしぼまない、希望と喜びの人生を歩んでほしいと願っておられます。イエス様が命じているように、神を愛し、人を愛することです。具体的にはそれぞれに与えられた場所で与えられた職務や身分を通して、最善を尽くすことです。

<聖書>ペテロ第2の手紙3章1~14節
【新改訳2017】
3:1 愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。
3:2 それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。
3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、
3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」
3:5 こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、
3:6 そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。
3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
3:11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。

赦された罪人と赦し

2024年10月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書18章21~35節
【新改訳2017】
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

<要約>
罪がわからない人間:

自分が罪びとであるということが自覚できなければ、自分がどんなに赦されているかもわかりません。自分には赦される必要があることもわかりません。私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。アウグスブルク信仰告白に以下のように記述されています。「実に、人は母の胎内にいるときから悪への傾向と欲とに満ちており、生まれながら神への恐れもない」と。さらに、この原罪というものは、遺伝的罪であり、真の罪であると書いています。そのままでは、すべての人は、神の永遠の怒りのもとにあり、罪の裁きを受け滅びに至るのです。しかし、神は怒りの神である以上に憐みの神です。この例話の主君は家来をかわいそうに思って、家来の負債をご自身が担い帳消しとされたのです。イエス・キリストが、すべての人の罪を担い十字架で死んでくださり、そればかりでなく、三日目に今度は信じるすべての人のいのちのために復活してくださった。その事実を信じて、罪と死と滅びから救われるのです。王から「悪い家来だ」と言われたその男は、自分に百デナリ借金のあるしもべ仲間を牢獄に入れました。その結果、自分も牢獄に入れられたのです。これは、赦さない人は結果的に自分を牢獄につないでしまうということです。赦さない人はそれが自分にかえってきて自分を束縛し心の自由を失うのです。

赦された罪びととして人を赦し愛する:

人はそのままでは死と滅びに定められています。神は、人が滅びに向かうのを惜しんでおられます。そこで神は、すべての人の罪を赦すという決断をなされました。それは、罪のない神の一人子イエス・キリストに人類のすべての人の罪を着せて、すべての人の身代わりとして十字架で断罪し、死に至らせました。そのことにより、過去現在未来に至るまでのあなたの罪は赦されました。キリストは十字架で死んだばかりでなく、三日目に復活しました。それにより、信じる者は、罪赦されるばかりでなく、キリストが復活して生きておられるように、復活のいのちをいただき永遠のいのちに生きるのです。これからは、私たちは罪赦された罪びととして、隣人の罪を赦し、隣人を愛する人生を選び取っていくのです。それは、決してしぼむことのない自由と希望と喜びの人生です。ぜひそのことを受け止めて歩んでいただきたいと思います。

クリスチャンの身分と職務

2024年9月29日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明


<要約>
古い自分に死にみことばに生きる:

クリスチャンになるということは、古い自分に死んでみことばにより新しい人に生きることです。私たちは、バプテスマにより、腐敗していく古い人を脱ぎ捨てたのです。私たちは、生まれながらの罪びとです。その行き着く先は、死と滅びです。そのような私たちが、神に選ばれ、新しく生まれさせられました。私たちの古い人は、バプテスマにより、イエス様と一緒に十字架につけられて死んだのです。そして、イエス様が復活されたように、私たちもやがて、尽きない永遠のいのちに復活します。生まれたばかりの乳飲み子のように貪欲に乳を慕い求める、それと同じように私たちも神のみことばを慕い求めることを生活の中心に置いていきたいと願います。私たちは古い自分に死んで生まれ変わり新しいいのちに生きるものとして、決してしぼまない希望といつまでも続く喜びに生きるのです。私たちは赦された罪びととして、新しいいのちにより、失敗を恐れず、前向きに歩んでいくのです。

聖なる国民、祭司としての新しい人生:

クリスチャンは、選び分かたれた聖なる国民で、神の民、王である祭司です。私たちは、祭司として神との和解の仲介者とされました。家族知人、友人のため、他の人々のために神にとりなし、栄光の神を証しするのです。この世の中にあって、私たちは三つの領域に生きています。家庭、職場、教会です。三つのそれぞれの場所で、身分と職務に最善を尽くすことが、ペテロが命じている「立派なふるまい、立派な行い」といえます。私たちは、全能の神の子どもとされ、素晴らしい身分と職務を与えられた者たちです。地上のあらゆる富や名誉にはるかに勝る御国を受け継ぐものとされたのです。ですから、神の子、御国の世継ぎの身分にふさわしい願いを神に申し上げましょう。それは、大胆に神に祈り求めることです。神は大胆に祈り求める祈りを喜ばれます。最後にペテロは「この方に信頼するものは決して失望させられることがない」と確信を持って述べています。ペテロは、苦難の死の向こうに栄光に輝く希望をもって生き抜いたのです。「この方に信頼するものは決して失望させられることがない」という言葉は、決して地に落ちることはありません。イエス・キリストに信頼して、決してしぼまない希望と喜びのいつまでも続く人生を自分のものとしていただきたいと思います。

<聖書>ペテロ第1の手紙2章1~12節
【新改訳2017】
2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
2:3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
2:5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
2:7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
2:8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
2:11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。