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将来と希望

2019年10月20日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>エレミヤ29章1~11節

29:1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。
29:2 この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、
29:3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。
29:4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
29:5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
29:6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
29:7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
29:8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。
29:9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』
29:10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
29:11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

<要約>

闇が深いほど背後の光は強い:

彼らは、エルサレムから異教のバビロンに連れて行かれました。ですから、神殿中心の信仰生活は絶たれました。宗教的枠組みを失っていたと言えます。イスラエル国家は消滅の危機にありました。先の見通しがつかないというのは、個人的にも、国家的にも、世界的にも、とてもつらいことです。現代に生きる私たちクリスチャンにおいても、教会統合や閉鎖するところも出て、霊的暗黒に包まれようとしています。思えば、イエス様のご降誕のときもイスラエルはローマの支配にあり、屈辱と困難、苦しみの中にありました。その「暗やみと死の世界」に「光といのちであるイエス・キリスト」を神は送ってくださったのです。今の時代にも、神は希望の約束を送ってくださっています。自分の前に映された自分の影、その闇が深いほど背後を照らす太陽の光は強いということです。同様に、もし皆さんが、個人的にも困難を覚え、あるいは行き詰まりを経験しているならば、今のピンチこそチャンスであることを知りましょう。

二つの領域でベストを尽くし希望に生きる:

彼らは、律法に則って生活していました。それがバビロンでは全くできなくなっていたので、絶望と無気力に陥っていました。その様な民に、神はエレミヤを通して、異郷の地でどのように生きて行ったらよいのかを、具体的に指示なさいました。その一つは、民がバビロニヤにいてもエルサレムに住んでいた時と同じように今を生きることです。そして、もう一つは、どんな状況にあっても主を礼拝しなさいというのです。そして、バビロンの町のために主に祈れと命じます。これは信者の二国論に通じます。信者は神の国に属して、教会では礼拝の民として礼拝を守ります。また、地上の国に属して、今を生きることです。つまり、遣わされた所で隣人愛の実践に励むのです。人々は教会で福音を聞きます。そして、クリスチャンを通して、背後のキリストを見るのです。聖書のみことばは、将来と希望を与えています。それは、主が再び来られること、そして、すべてのクリスチャンが新天新地に招き入れられるということです。信じるすべての人は、罪の赦しと永遠のいのちをいただいています。復活の命です。想像も絶する素晴らしい、栄光と喜びと賛美にあふれる御国でいつまでも主と共に生きるのです。

王の祝宴でキリストを着る

2019年10月06日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書22章1~14節
22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

<要約>

神の招きを拒絶する人間:

この例えで、王は神です。王子はキリストです。結婚の披露宴は神の国です。前もって、祝宴の招待状を差し上げていました。ところが、客は王の招待であるにもかかわらず、誰も来たがらなかった。今度は、王は別のしもべをつかわして、丁寧に再度招いたのです。王の驚くべき忍耐と寛容にもかかわらず、彼らは王の申し出に対してそれを気にもかけずに畑に行ったり、商売に行ったりしていました。また、他の者たちは王の使いに恥をかかせて、殺してしまったのです。これは、ひどい話だと思います。この例えは、メシヤを拒絶して、選民のくらいを取り上げられたイスラエル民族を指しています。これは一見イスラエル民族だけの問題のようですが、私たちすべての人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、心で見えるはずの創り主の神を見ることができなくなっています。イエス様がお話をした狙いは何でしょうか。それは、神を無視することはとんでもない愚かなことですよ。それに気づきなさいということです。

来る者にキリストを着せてくださる神:

神は御子イエス・キリストの祝宴にすべての人を招いています。祝宴、それはキリストが支配する神の国です。神の国は、教会に現れています。教会には、罪の赦しとそれに伴う永遠のいのちが提供されています。全世界に福音が述べ伝えられて、大勢の人々が福音を受け入れております。キリストを信じて、礼服であるキリストを着て天国に入れられている人々であふれています。福音はすべての民族に届けられようとしています。そこで、王は礼服を着ていない一人の人を見つけました。本来ここに来た人々は大通りで連れてこられた人々ですので、礼服は王が準備し、一人ひとりに支給されたものです。ですから、この人が礼服を着ていなかったというのはすごくおかしな話です。不思議な話ですが、これは神のせっかくの申し出を拒絶する人間の姿を現しています。この人は、自分の姿が分からない人間を表します。礼服は、キリストを表しています。クリスチャンは、神様からいただいたイエス様という礼服を着ているということです。無代価で提供される天国への招きです。ただ、キリストを受け取ってそれを着ればよいのです。キリストを信じて心の内にお迎えすることです。

ピンチがチャンスに変わるとき

2019年09月29日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>エステル記4章1~17節

4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。
4:2 そして王の門の前のところまで来た。王の門の中には、粗布をまとったままでは入ることができなかったのである。
4:3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。
4:4 エステルの侍女たちとその宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女はモルデカイに衣服を送り、それを着せて、粗布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。
4:5 エステルは、王の宦官の一人で、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。
4:6 ハタクは王の門の前の、町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
4:7 モルデカイは自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に納めると約束した、正確な金額も告げた。
4:8 また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。
4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに告げた。
4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

<要約>

勇気ある決断が状況を変える:

エステルはモルデカイに再び返事を送ります。エステルの決心は、次のみことばに現れています。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」信仰の決断は、先がわかってするものではありません。先は見えなくても、神は最善のことをしてくださる。王は内庭に立つエステルを見ると金の笏を差し伸べて、謁見を赦しました。王は言います。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。国の半分でも、あなたにやれるのだが。」王はエステルが法令を犯してまでも王の前に来たのにはそれなりの用件があったに違いないと思いました。王は、エステルのなぞめいた応答に、その夜はなかなか眠れませんでした。そして、過去の記録である年代記を読ませて、モルデカイの功績に気付くのです。モルデカイが以前、王の暗殺計画を未然に察知して王をその危機から救ったことに対して、王はモルデカイにまだ、報いを与えていなかったことにも気づいたのです。王は栄誉をモルデカイに与えるようにハマンに命じます。モルデカイに対する計画は見事に頓挫しました。そこではじめて、エステルは、民族の救いを願い、ハマンの策略を王に述べるのです。ハマンはモルデカイを木にかけて処刑するために準備したその木に自らかけられて殺されてしまいました。私たちは勇気をもってみことばに則って歩むとき、現時点で死に瀕していても必ず、神の与える勝利を手にすることができるのです。

不安の中でも踏み出す一歩が現状を開く:

エステルは不安の中で、主を呼び求めます。そして、ユダヤ人たちに祈りの要請をしたのです。それが、信仰者の姿です。スサにいるユダヤ人を集めて三日三晩断食をして祈ることを願いました。その時には、どのように王に取り入るか、まだ、わからなかったと思います。しかしまず、決断したのです。それは、神の民として最善を尽くすということです。そして、信仰者としてまず祈りの中に備えるということです。今まで歩んできたところを思い浮かべましょう。問題を抱えていました。そして、その時は、ピンチだったかもしれませんが、今それがチャンスに変えられたから今があるのではないでしょうか。神様は一人ひとり、クリスチャンの人生を責任もって導いてくださっていると確信をもって言えます。

悲しみと失意を喜びと希望に

2019年09月22日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルツ記2章1~13節
2:1 さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。
2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。
2:5 ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」
2:6 刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。
2:7 彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」
2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。
2:9 刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」
2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」
2:11 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。
2:12 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
2:13 彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

<要約>

麗しい人間関係の土台:

嫁と姑は一般的には仲良くなれないことが多いのです。大げさではなく、嫁姑の関係は、人類の永遠の課題であると言えます。信仰の父と呼ばれるアブラハムの子のイサクの妻リベカも、長男エソウの嫁のことで、悩んでいたという記事があります。それは、聖書にみられる嫁姑の事例です。嫁姑の問題を見ましたが、信仰の父といわれるアブラハムも親子の問題、夫婦の問題で苦労しました。このように、私たちクリスチャンも嫁姑の問題、親子の問題でつまずくのです。私たちは最も近い隣人である親子の人間関係から発して、兄弟関係、夫婦関係、嫁姑の関係など絶えず問題を抱えています。それは、結局のところ私たち人間は自分中心で、他人のことを優先して考えることができないところにその原因があるのです。イエス様が言われた「あなたの隣人をあなたと同様に愛しなさい」という道徳律法を現実には守ることができないのが私たちの姿です。それは私たち人間の罪ということができます。ですから、ルツのナオミに対する誠意のある言葉は、私たちの普通の心からは出てこない言葉なのです。信仰によってしか生まれてこない言葉です。それは、私たち信者がキリストに対する誠意を表す言葉ということができます。ですから、麗しい人間関係の土台は信仰であると言えます。

喜びの交換:

ベツレヘムに着いたナオミとルツは、食べていくために早速落穂ひろいに行きます。ルツが仕事を始めていると、ちょうどその時、ボアズがやってきました。ルツとボアズの出会いは実に美しく絵になる情景であったと思います。やがて二人は結婚して、男の子が与えられました。その名はオベデ。オベデはダビデの父エッサイの父と書いています。ダビデのおじいさんということです。そしてダビデの子孫にイエス・キリストがお生まれになるのです。ルツ記は、ハッピーエンドです。信仰によって決断していく人はハッピーエンドです。信仰者はどんなことがあっても最後は、ハッピーエンドの人生なのです。私たちに約束されている天国の希望と祝福は永遠のものです。そのことが本当に分かると、この世の束の間の苦しみは取るに足りないものとなるのです。私たちはナオミやルツのように失意や苦しみに会うことがあります。その様な時こそ、神はあわれみと祝福の御手を伸べていてくださるということを覚えたいと思います。ボアズに買い取られたルツの幸いは、キリストに代価を払って買い取られた私たち信者の幸いを映しています。ボアズとルツは結婚して夫婦になりました。ボアズとルツの関係はキリストと教会の関係を示しています。夫婦のきずなは一心同体です。教会である私たち一人ひとりとキリストの関係は、一心同体です。夫婦では、夫あるいは妻の苦しみは双方の苦しみとなり、夫あるいは妻の喜びは双方の喜びとなるのです。ルツが夫を亡くした悲しみや苦しみは、ボアズによってすっかり拭い去られて、逆に喜びに変えられたのです。私たちもキリストにより私たちの持っているマイナスはすべてプラスに変えられるのです。ルターは、キリストとの結合を「わたしとキリストは膠でくっついている。」と表現しています。キリストと信者とは一体であり、一人の人格となり、分離することができないというのです。一体となったキリストと私の間には喜びの交換がなされるのです。すなわち、キリストにある勝利、義、いのちなどが私のものになるのです。逆に、私の罪や死などはキリストのものとなっているからです。それは、大変な負債を抱えた貧しい娘が、巨万の富を持つ王子と結婚するようなものです。貧しい娘の負債は全くなくなり、娘は王女としての身分、そして富や豊かさを全部もらうのと同じです。これを喜びの交換と言います。キリストを信じてキリストにつく者とされた私たちは、喜びの交換を体験しているのです。あなたの持つ悲しみと失意は、キリストのものとなりやがて溶け去ります。逆に、キリストの喜びと希望があなたの中に宿るのです。

罪の贖いによる和解

2019年09月15日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記45章1~15節
45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2 ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。
45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。
45:6 というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。
45:7 神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
45:8 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。
45:9 どうか、急いで父上のところに上って行き、言ってください。『息子のヨセフがこう言いました。「神は私をエジプト全土の主とされました。ためらうことなく私のところに下って来てください。
45:10 ゴシェンの地に住んで、私の近くにいてください。父上も、子と孫、羊と牛、また父上に属するすべてのものも。
45:11 飢饉はあと五年続きますから、父上も家族も、また父上に属するすべてのものも、困ることのないように、私が父上をそこで養いましょう」と。』
45:12 さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」
45:14 彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
45:15 彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。

<要約>

罪の負債を清算できない人間:

彼らは、過去の自分たちが行った悪に対して後悔しておりました。一人の人の人生を奪った罪は大きいのです。長男ルベンの説得で殺人は犯さなかったにせよ、兄弟であるヨセフにあわれみをかけることなく奴隷として売り飛ばしました。罪は呪いとなって帰ってきます。これは、壁に向かって投げたボールが跳ね返って帰ってくるのと同じくらい確かな法則です。蒔いた罪の種のために災いを刈り取りらなければなりません。ヨセフの兄弟たちを見ると、罪の負債を返すことのできない人間の姿が描き出されています。「彼の血の報いを受けているのだ」とルベンは言っています。これは、罪の呪いを恐れる人間の姿です。罪の結果は刈りとらなければならないのです。盗んだら返さなければならない、損害を与えたら弁償しなければならないのです。心の罪が行いになると実害が生じます。憎しみは十戒に照らすと殺人罪です。兄弟に向かって腹を立てる者は燃えるゲヘナに投げ込まれる、また、情欲を抱いて女性を見たら姦淫罪であるとイエス様は言われました。十戒を中心とした律法は私たちの罪を指摘し絶えず責め立てます。律法は天地が滅び失せない限り消えません。つまり、罪も消えないのです。罪を消す唯一の方法を神はお与えくださいました。それがキリストの十字架の血です。罪はその代価を払うことによってのみ取り除くことができるからです。それが、キリストの十字架の贖いです。罪のない神のひとり子が人間のすべての罪を背負い身代わりとなってすべての罪の罰を受けてくださったことによるのです。それ以外、人間の罪は消せません。キリストの十字架の贖いを受け取らない限り、罪に対する容赦のない神のさばきがあるのです。

代わって罪を清算されたキリスト:

しかし、四男のユダがヤコブを説得しついに兄たちはベニヤミンを連れて食料の買い出しにエジプトに出発するのです。弟ベニヤミンに再会したヨセフは高ぶる気持ちを何とか抑え兄弟たちと食事をしました。しかし、まだ、兄たちを信用しきれないヨセフは、もう一度彼らを試みることにしました。彼らに食料を持たせて帰らせたのですが、ベニヤミンの袋にヨセフ所有の盃を入れておいたのです。兄弟たちの帰り道にヨセフのしもべが彼らに追いつきました。ヨセフのしもべは盃をベニヤミンの袋の中に発見したのです。ヨセフは、ベニヤミンを泥棒としてエジプトの奴隷とすることを命じました。その時、ユダがひれ伏して弁明するのです。ユダは、ヨセフに言います。ベニヤミンの代わりに自分をエジプトの奴隷としてほしいということです。ユダのこの言葉が、ヨセフの心を溶かしたのです。なぜ、ヨセフのこころは溶けたのでしょうか。兄たちはヨセフの命をエジプトに売り飛ばしたという罪がありました。ヨセフはその自分の命を兄弟たちに買い戻してもらいたいと思っていたのです。すなわち、二十数年前に戻って、エジプト人の奴隷とされている自分の命を買い戻してもらいたいと願ったのです。しかし、過去に戻れませんのでそれは無理なことです。そこで、ヨセフは同じ母の兄弟である自分の分身ともいえるベニヤミンを自分の代わりにしたのです。エジプトの奴隷にしたのです。そして、兄弟たちを試したのです。もし、昔と同じで悔い改めていないのなら、ベニヤミンをエジプトに残して彼らはカナンに帰るでしょう。しかし、そうではありませんでした。ユダが悔い改めたのです。ユダが自分の命を身代わりとしてベニヤミンの命を救おうとしたのです。これにより、ヨセフも救われたのです。ここに、イエス・キリストの贖いの意味が見事に説明されています。このユダの決意は、神の目にも喜ばれました。また、神はユダに特別な祝福をお与えになりました。それは、ユダの子孫にダビデ王が出て、さらにその子孫にイエス・キリストがお生まれになったのです。ユダは、ヨセフと兄弟たちの和解のための身代わりとなったのです。ユダの子孫、そしてダビデの子孫であるイエス・キリストも神と人類の和解のために身代わりとなったのです。もう一度、この単純な真実「キリストは私の代わりに死んでくださった。そして、私の命のために復活なさった。」ことを覚えたいと思います。ヨセフをエジプトに遣わしたのは神であるとヨセフは述べます。それは、節理の中にイスラエル一族に大いなる救いを与えるためでありました。神は、兄たちの失敗やヨセフの苦難もすべてを益に変える力を持っておられます。私たちにとって絶対絶命と思える状況にあってもキリストの大いなる救いがあるのです。その救いは確固たる救いです。その救いは根底からの救いです。何物も奪うことのできない救いです。キリストの十字架による救いは罪と死と悪魔からの救いです。この救いをいただくにはどうしたらよいのでしょうか。それはただイエス・キリストを信じて受けることです。

成功する人生の秘訣

2019年09月08日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記41章14~37節

41:14 ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
41:15 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
41:16 ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」
41:17 それで、ファラオはヨセフに話した。「夢の中で、見ると、私はナイル川の岸に立っていた。
41:18 すると、ナイル川から、肉づきの良い、つやつやした雌牛が七頭上がって来て、葦の中で草をはんでいた。
41:19 すると、その後を追って、弱々しい、とても醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、上がって来た。私は、このように醜い牛をエジプト全土でまだ見たことがない。
41:20 そして、この痩せた醜い雌牛が、先の肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。
41:21 ところが、彼らを腹に入れても、腹に入ったのが分からないほど、その姿は初めと同じように醜かった。そのとき、私は目が覚めた。
41:22 また、夢の中で私は見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの穂が出て来た。
41:23 すると、その後を追って、貧弱で、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
41:24 そして、そのしなびた穂が、あの七つの良い穂を?み込んでしまった。そこで私は呪法師たちに話したが、だれも私に説明できる者はいなかった。」
41:25 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。
41:26 七頭の立派な雌牛は七年のことで、七つの立派な穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。
41:27 その後から上がって来た七頭の痩せた醜い雌牛は七年のことで、痩せ細り東風に焼けた七つの穂も同様です。それは飢饉の七年です。
41:28 これは、私がファラオに申し上げたとおり、神が、なさろうとしていることをファラオに示されたのです。
41:29 今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。
41:30 その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。飢饉が地を荒れ果てさせ、
41:31 この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。
41:32 夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。
41:33 ですから、今、ファラオは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように。
41:34 ファラオは、国中に監督官を任命するよう、行動を起こされますように。豊作の七年間に、エジプトの地の収穫の五分の一を徴収なさるためです。
41:35 彼らに、これからの豊作の年のあらゆる食糧をすべて集めさせ、ファラオの権威のもとに、町々に穀物を蓄えさせるのです。彼らは保管し、
41:36 その食糧は、エジプトの地に起こる七年の飢饉のために、国の蓄えとなります。そうすれば、この地は飢饉で滅びることがないでしょう。」
41:37 このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。

<要約>

苦難の中に主が共におられる祝福:

ヨセフは苦難の人でした。ヨセフは17歳の時に肉親である兄たちに裏切られて、ただ一人、奴隷の身でエジプトへ連れてこられました。そこで、やっとエジプトで王様の高官の家で認められ、愛されて、信用されました。しかし、そこでも罠にかけられて、牢獄につながれました。彼はどんな境遇にあっても神を信じすべてを主のみ手にゆだねて、決してつぶやくことをせず、すべてのことを働かせて益として下さる方にお任せしていました。聖書の約束は、神様はともにいてくださるということです。インマヌエルは「神が共にいてくださる」という意味です。主がヨセフとともにいてくださる、それは、ヨセフの側からは、神をいつもそばに意識していたということです。ジョン・ウエスレーは臨終のとき、「自分の人生で一番幸いだったことは、神がともにいてくださったことだ」と証を残しています。皆さんは、先週一週間を振り返って、「主がともにいてくださった」という経験をどれくらい思い出すことができますか。なぜなら神がともにいてくださることほどすばらしい祝福はないからです。

過去は今のために今は未来のために:

牢獄で、パロの夢を解き明かしたヨセフは、パロから徴用されパロに次ぐ第二の権威をあたえられました。ヨセフは七年間の豊作の間にできる限りの蓄えをしました。七年間の食糧備蓄という大事業を推進するために、彼は計画し、立案し、実行していったのです。そのようなヨセフの資質はどこで身についたのでしょうか。それは、ポティファルの家で主人の家財や土地や資産を管理運用し使用人の労務など扱った経験が生かされたのです。このように神はわたくしたちとってやがて必要となる訓練を今、与えて下さっています。今はわからなくても後でわかることは多くあります。ヨセフも兄弟たちに言いました。「売られてエジプトに来たのは、あなたがたを救うために自分を先に神が遣わしたのだ」と。ヨセフはエジプトを救いました。イスラエル民族を救いました。ここにもキリストのひな型としてのヨセフがあります。ヨセフは不当に扱われ無実の罪を着せられて、苦難の道を歩かせられました。そして、エジプトを救いに導いたのです。イエスさまは十字架で私たちの罪をになって苦しみ私たちを救い出してくださいました。

家族危機と救いの幻

2019年09月01日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記37章1~11節
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

<要約>

差別、ねたみ、憎しみ、殺意:

ヤコブの偏愛、差別によって、このヤコブの家庭には、子どもたちの不満や怒りがありました。このように、神の選びの民となるの家族の始まりは、惨憺たるものです。聖書は人間のありのままの姿を描いています。罪と争いの火種を持った家族に対して、神はその争いに直接介入することをなさいません。人間の罪によって最悪の状況に向かっていても神はそれをなお用いて、神のご計画を成就なさるのです。ヤコブ家では、家族機能が低下していました。そのような中で、ヨセフは、自分が見た二つの夢を家族に話しました。ヨセフの夢を聞いて、兄弟たちのヨセフに対する憎しみは尋常でないレベルに上がりました。兄たちのヨセフに対するねたみと殺意をはっきりと読み取ることができます。そして結果的にはヨセフはエジプトへ向かう商人の一行に売り飛ばされたのです。神の民とされたイスラエルの最初の家庭は問題がありました。それは、家族間の偏愛による差別、ねたみ、憎しみ、殺意でありました。これは、すべての人間関係の問題で全世界に広がり個人ばかりでなく民族、国家に及んでいます。人間の根底にある罪です。

愛、赦し、和解、救い:

この後、ヨセフは牢獄につながれました。ある時、パロのみた夢を解き明かして、エジプトは救われたのです。そして、ヨセフはエジプトのパロに次ぐ人物となったのです。やがて飢きんのためにヨセフの兄弟たちがエジプトに食料を買いにやってきました。そこで、ヨセフの夢が成就したのです。ヨセフは兄たちの憎しみ、殺意に代えて赦しと愛を返しました。兄たちと和解をしてイスラエルを救ったのです。ヨセフはイエス・キリストのひな型であるとされています。ヨセフの生涯はイエス様の生涯に似ています。イエス・キリストは人類の救いのために最も貧しい人間として生まれ、罪のないお方なのに人間のすべての罪を着せられて裁かれて十字架につけられ死んで葬られました。しかし、死人の内から復活し天に昇られて神の右に着かれました。万物の王であり支配者となられました。国家民族、地域社会、家庭、そして個人の中にも、キリストの十字架による罪の赦しは提供されています。神は、人が持つ憎しみ、殺意、に代えて、キリストにより愛と赦しと和解の福音を提供しておられます。

神の気前の良さ

2019年08月25日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

<要約>

平等で完全な神の恵み:

ぶどう園の主人が働きの長い短いに関係なく、全員同じものを与えたように、父なる神も御国に来るものには働きの大小に関係なく賜物、プレゼントをお与えになることを示しています。また、主人は、一デナリを「相当のもの」と言い換えています。これは、「義」という言葉と同義語です。「神の義」は絶対正義とでもいえるでしょう。それは神の清さから来ています。一点の汚れも妥協もない清さです。その清さのゆえに、一点の罪も赦すことができません。ですから、どんな罪に対しても裁きを下されるのです。それに対して、人の正しさとはどういうものでしょうか。人の内側から出てくるものが人を汚すとあります。心に浮かぶ悪い考え、情欲、貪欲、よこしまなどが人に罪を犯させるのです。「義人は一人もいない」と聖書が言っている通りです。しかし、人が罪のために滅んでしまうことを神は惜しまれて、すべての人の罪の裁きを御子キリストに負わせられました。すべての人は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる時、完全に罪赦されて神の前に義とされます。それが、神の与える義です。神の恵みは、無条件の罪の赦しと永遠のいのちです。そこに、平等で完全な神の恵みがあります。

不平等と感じる人の心:

神の恵みは無限です。その恵みの前には、努力して功績を積んだものが得をするという考えはありません。「働けば働くほどもっともらえる」というのは、この世の中では、当然の報酬ということになります。しかし、神の恵みは全く違います。ねたましく思うという思いは、人と比較するところから生まれます。不平等を感じて文句を言うのです。もし、先に雇われたものたちがこう考えたらどうでしょう。「仕事がないのに自分のようなものを雇ってくれた。それだけで感謝です。そうでなければ一日中無為に過ごしてしまうところだった。1デナリで十分です。ご主人様ありがとうございます。」謙遜になれば、文句など出なかったはずです。神の恵みに完全に浴したければ、自分に死ななければなりません。自分が無になったときに神の恵みは完全にあなたのものとなるからです。自分はまだましだ、自分はそんなに罪深くないと言っている人には、神の恵みは届きません。私たちが救われたのは神の一方的な恵めであることをもう一度確認しましょう。

失われた人を捜し求める神

2019年08月18日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>マタイの福音書18章11~20節
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。
18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

<要約>

滅びないでいのちに至るために:

イエス様が来られた動機は、「失われている者を救うためであった」ということです。失われた者とは、神を信頼せず、神を恐れず、神を愛することを知らない人でいのちを失って、滅びに向かっている人です。たとえ話は、教会学校ではよく「迷子の羊」と題して語られるところです。羊飼いであるキリストにとってその迷っている一匹の羊はどれほど尊いものであるかを示しています。迷い出た一匹のために他の九十九匹を山に残して、捜しに出かけるというのです。普通、人は、九十九匹を危険な目に合わせてまで、迷い出た一匹を捜しに行くことはないが、神の愛はそうではありません、というところです。イエス様は一人の人も滅びることを望んでいません。すべての人が悔い改めに進むことを願っています。その為に、神はひとりの人も自らの罪によって滅んでいくことが無いように、十字架による罪の赦しと永遠のいのちを提供してくださっているのです。

天国の鍵を握る教会:

兄弟が罪を犯しているのを知ったなら、まず、最初に、「行って、忠告しなさい」というものです。しかし、その人がそれでも悔い改めず、忠告を聞かないならば、次には、他の一人か二人を連れて行きなさいというものです。他の証人を連れて事実確認にいかなければならないというのです。それでも聞き入れないならば、教会に訴えるのです。教会には戒規規定があります。それは、あくまでもその人を裁いて滅びに至ることを宣言するためではなく、悔い改めて救うためです。そして、「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」これは、ペテロを代表として教会が受けた「天国の鍵」の権威です。教会で戒規に処したことは、天国でもその通り執行されるということです。教会は、キリストの十字架による罪の赦しを宣言し、それにより神のいのちに与り、永遠のいのちが与えるところです。それと同時に、教会は罪に対する神の怒りをも伝え、悔い改めない魂は永遠の滅びに落とされることを宣言します。地上の教会の祈りが天を動かすのです。教会は、積極的に罪の赦しを宣言していきます。みことばと聖礼典を通して罪の赦しが宣言されています。

信仰に富むとは

2019年08月11日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書<ルカの福音書12章13~21節

12:13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
12:14 すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

<要約>

人の前に富んでも神の前に富まない人:

この金持ちは、自分のいのちはずっと安泰であると考えました。いのちが神のものであり神の主権の中にあることに気づかなかったのです。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、魂や霊のいのちを支えることはできません。なぜなら、魂と心の満足は人格の満たしから来るからです。人は人と、そして神とのつながりの中で喜び、充実、希望、平安、感謝を感じることができる存在だからです。人は人格的な触れ合いによって癒され、人として成長するのです。それでも、真の神を信じない、生まれながらの人間にはなお、人格の中心に満たされない空洞があります。それは、霊のいのちをお与えになっておられる神によってしか満たすことができません。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富むことのない人間に対して、神の方から働きかけて富む者にしてくださるのです。

富む者としてくださる神:

神は、恵みにより私たち信じる者を富む者としてくださいます。どのくらい富む者としてくださるのでしょうか。キリストは、天の富を捨てて貧しくなり、もっとも貧しい人のひとりとしてこの世に来てくださいました。イエス様は天の富を信じる者にお与えになり、その代わりとして、私たちの貧しさを担われたというのです。すなわち、「私のすべての罪の負債はキリストのもの、キリストが持っている天にあるすべての富と祝福は私のもの」となったのです。これを喜びの交換といいます。私たちがすることはその罪のゆるしと永遠のいのちの祝福を信仰によって受けとめることなのです。「わたしの望みはあなたです」と神に望みを置く人生こそ、信仰に富む人生です。外面的に悲しくて不幸に見えても、この世の富に代えられない最も大切な事は信仰に富むことです。信仰の富は信じるあなた方にもうすでに与えられています。ですから、これからは使うのみです。天の宝をどのように使いますか。それは自分のためだけに使ってもむなしいものです。それをあなたの隣人のために用いましょう。