イエスの弟子であるとは

2025年1月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書14章25~35節
【新改訳2017】
14:25 さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
14:28 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。
14:29 計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、
14:30 『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。
14:32 もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。
14:33 そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。
14:34 塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」

<要約>
自分を捨てて本当の自由を得る:

イエス様の弟子となるための条件は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってついてきなさいというものです。そして、イエス様のために命を投げ出しなさいということです。救いは神の一方的な恵みです。無条件の救いです。私たちの側の努力はいらないのです。しかし、神は私たちが方向転換をすること、今までのように自分中心の思いでなく、思いを変えて神に従っていくことを要求なさるのです。先に述べましたが、自分中心から神中心に生き方を変える時にあなたの人生は本当に幸せで豊かになるからなのです。この「財産をすべて捨てる」というのは、自分の持ち物に対する権利を放棄するということです。もともと、私たちは裸で生まれ裸で死んでいかなければなりません。この地上におけるすべての富も財産ももともとすべて神の物です。私たちはそれらを管理するように任されているのです。自分を捨てて本当の自由を得る、と題してお話してきました。私たちは、自分の持ち物や自分の才能、自分自身にしがみついて、手放すことができないために本当の自由を失うのです。むしろ、神のために自分の権利を放棄して、神中心の生活をするときに、神はあなたのすべてをお用いになり、本当の自由といのちを自分のものとすることができるのです。

イエスの弟子に与えられるいのちと平安:

あなたは、ありのままのあなたで、イエス様のところへ行きましょう。イエス様はあなたを休ませてくださいます。そして、あなたには平安が与えられます。なぜでしょうか。それは、イエス様があなたの重荷となっている様々なことを代りに担ってくださるからです。あなたの重荷、それは、家族であるかもしれません。財産であるかもしれません。また、自分自身であるかもしれません。人間関係であるかもしれません。仕事であるかもしれません。それらはあなたを疲れさすでしょう。ですからそれらを手放して、イエス様にお委ねしなさいというのです。皆さん、「いのちが一番大切」と思って、自分のいのちにしがみついていませんか。だから苦しいし、疲れるのではないでしょうか。いのちより大切なもの、私にとって、それはイエス様の愛です。イエス様によって与えられるいのちの平安と喜びがあります。 イエス様の弟子であることは決して難しい生き方ではありません。イエス様を信じて、イエス様を愛して、イエス様と一緒に歩むとこから始まるのです。それがイエス様の弟子に与えられるいのちと平安です。

狭い門から入りなさい

2025年1月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書13章22~30節
13:22 イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。
13:23 すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。
13:24 「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
13:26 すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』
13:27 しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』
13:28 あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:29 人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30 いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」

<要約>
救いの道は狭い門から入る:

「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。」民族の救い主を待ち望んでいた当時の宗教指導者たちは、ユダヤ人は神に選ばれた特別な民であり、ユダヤ人たちは自動的に救われ、天の御国には入れると考えていたようです。ところが、イエス様は、「そうではない。あなたがた律法を与えられて、神から特別に選ばれた民であっても、悔い改めないなら皆同じように滅ぶ」と言ったのです。そこである人の質問があります。これは自動的に救われ天国に行けるという問題ではなくて悔い改めるということがなければ、みな滅びるということであれば、救われる人は少ないのですかという質問になったのです。イエス様が提供される救いは、もっと人間の根源的な救いです。それはすべての人が抱えている問題です。罪と死の問題です。多くの人は、宗教は恐ろしいと思っています。また、無神論で、天に至る救いなんてあるものか、と思っています。また、楽観的に誰でもこの世の命が終われば、天国に入ると思っている方々もいるかもしれません。しかし、聖書は救いの道は狭いと書いています。ほとんどの人が天の御国に入れずして、死と滅びに至る、と聖書は述べています。

救われるためになすべきこととは:

救われるために努力しなさいというのです。誤解していただきたくないのは善行を積んだり人に施しをしたりすることが救いの条件ではありません。神を恐れ、愛し、信頼することです。それは行いではなく、心の姿勢です。油断せず、常に心の内で神を恐れ、愛し、信頼していくこと。神を中心とした人生を築き上げていくことです。すなわち信仰です。信仰によって救われるのです。私たちは信仰を持ち続けるために、どうすればいいでしょうか。難しくないです。日々の生活の中の努力です。毎日、神の心を向けます。すなわち、思いを変えて、つまり悔い改めて、祈り、聖書読みます。そして礼拝を守ること、聖餐式を守ることです。それらは行いです。それらの行いをしていくとき、信仰が伴います。行いをとおして働く信仰です。日々の生活の中での行い、それが信仰をつくるのです。イエス様は共にいてくださいます。ここにあるおひとりの人には最後まで落ちることなく救われることを望んでおります。お祈りしましょう

新しい天と新しい地

2025年1月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの黙示録21章1~8節
【新改訳2017】
21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」

<要約>
人の罪ゆえに滅びに定められた現代の天と地:

創世記によると、神が全世界をつくられて、人をおつくりになったとき、「世界は非常に良かった」と書いています。しかし、アダムの堕落以来、人類に罪が入り、罪と死と滅びがすべての人に及びました。その罪ゆえに人は神から遠く離れてしまいました。ですから、生まれながらの人は、罪人で、神を認めることができません。信じることができません。罪ゆえに人には死が入りました。そして人は滅ぶべき存在となったのです。しかし、神は、人と最初の麗しい信頼と愛の関係を取り戻し、幸せな関係を取り戻したいと願っておられる愛と憐みの神です。キリストは世を救うために来られました。そして、すべての人の罪を贖うために2千年前に十字架で身代わりの死を遂げました。それは、「あなたがあなたの罪ゆえに滅ぼされることのないためです。キリストはあなたが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったことによります。」

新しい天と地に招かれた者に約束された勝利の人生:

やがて、キリストが再び来られて、最後の審判と新しい創造による新天新地ができます。それは、私たちにとって、神と共に生きるという新しい命の始まりなのです。ここに、キリストの十字架により、罪赦された人々の集まりである教会の姿が描かれてあります。それでは新しい人新しい天に招かれた者として相応しい生き方とは何でしょう。先ほども言いましたが、私たちは生まれながらの罪びとです。そして同時に、罪許された罪びとです。罪の責めの一切はイエス様が十字架で追ってくださいました。ですから、赦された罪人は、罪に支配されません。では、新天心地に招かれた罪人のふさわしい生き方とは何でしょうか。それは、これからは、自分の弱さや罪に翻弄されることなく赦された罪びとして前向きに生きることです。失敗を恐れず神を愛し人を愛する生き方に注力していることです。神を愛し、人を愛する生き方とは具体的には何でしょうか。勝利を得るものとは何でしょうか?それは、日々、最も小さな、最も弱い姿で私たちの前に現れてくださる小さなイエス様に心を向ける生き方です。そして、そのようなイエス様を見上げる時に、キリストはあなたを新しく作り替えてくださるのです。すなわち、弱さを覚えて、キリストを見上げる者をキリストは新しく作り変えてくださるのです。ですから勝利を得るものはこれらのものを相続するのです。