十字架の最後のことば

2023年3月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書19章17~30節
【新改訳2017】
19:17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。
19:18 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」
19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。
19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

<要約>

キリストが十字架で死んだ意味:

イエス様は、十字架の上でいくつかのことばを残されました。最後のことばは「完了した」です。これは「イエス様の生涯はこの十字架にかかるためにあった」ということの証言です。イエス様は、全人類の罪を背負ってくださった。人間を罪と死と滅びの原理から解放しました。人類に救いの道を切り開いてくださったのです。そして、神は、最後まで従い通し死んで葬られたキリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。復活したキリストは振り返ってそこにやり遂げた喜びと満足を見たのです。実に、キリストの十字架の意味はそこにあったのです。イエス様は十字架で人の罪を取り除くために人となって、私たちのところに来てくださったのです。

キリストの十字架がもたらしたこと:

キリストの十字架は何をもたらしたのでしょうか。第一に救いです。ある高松市の女性のことを紹介します。一人息子が自殺しました。その後を追うために、高松のホテルで服薬自殺しようと宿泊するのでした。しかし、備え付けのギデオン聖書を開いて読んでいるうちに、自分のうちにも光が見えてきたのです。彼女はクリスチャンとなりました。第二に聖霊です。聖霊は三位一体の神です。聖霊にはご人格があります。ご意思を持っておられますので神の御心を推し進めようとなさっております。神は全地をごらんになり御心と一致しているものをお用いになります。第三は癒しです。約15年前、月が丘教会のある姉妹のことを思い出します。肺の病気で酸素を吸っても息苦しい状況にありました。いつも癒しのために祈っていましたが、私たちが願ったかたちではなかったですが、最終的にはこの肉体を脱ぎ捨てて苦しみから解放され、今は死も苦しみも悲しみもない天国におります。ここに完全な癒しがあるといえるのではないでしょうか。第四に永遠のいのちです。地上の命が終わった後、天国ですごすいのちです。第五は祝福です。最大は、キリストが共にいてくださると言う祝福です。私たちの生活領域には三つあります。家庭、教会、職場あるいは学校です。共にいてくださるキリストが与えてくださる能力を用いて最善を尽くすことです。神がキリストを通してお与えくださる祝福は、天の窓を開いて秤をよくして私達のポケットにゆすりいれてくださる祝福、余りある祝福です。そのようなものを体験していきたいものです。

ポンテオ・ピラトの裁判

2023年3月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書27章11~26節
【新改訳2017】
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
27:12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
27:14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
27:15 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
27:17 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
27:19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
27:20 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
27:21 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
27:23 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
27:24 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
27:25 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
27:26 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

<要約>

空の手でイエスを救い主として受け止める:

キリストを前にしたピラトは、その受け答えからして、謙遜な求道者でありました。キリストが神の子であり、救い主であり、真理であることを直観的に察していました。ピラトは、イエス様が死刑に値するようなことは何もしていない事を知っていました。ピラトは真理を求めていました。イエス様を神の国の王、救い主と信じたいという思いが彼の心にありました。この裁判の後、十字架、死、復活、聖霊降臨、エルサレム教会の誕生など、一連の事件の成り行きを見て、ピラトは福音の真理を理解したと想像します。彼は、キリストを十字架に引き渡したことを後悔し、自責の念を持ったことでしょう。しかし、「私の愚かな取り返しのつかない誤った決断を神は赦してくださった。そして、その悪い仕打ちを逆に用いて、全人類の救いの道を開いてくださったのだ」という信仰に至ったのです。彼は、罪を悔い改めて、空の手でイエス様の救いを受け止めたのです。あなたは、イエス様をどのように受け止めておりますか。どうすればよいのでしょうか。私たちに必要なことは何でしょうか?何も持たない空の手です。それを神に差し出して、神の下さる救いをただ受け取ればよいのです。信仰は、神がイエス様を通してくださるもの、それは、信じて受け取る祝福と救いなのです。 

イエス様を十字架につけたのは誰?:

瞬きの詩人といわれた水野源蔵さんのことを思い出します。障害者である彼のコミュニケーション手段は唯一、瞬きです。彼の母親が、あいうえおの50音表を使って、目的の文字を瞬きで知らせます。そのようにしてたくさんの詩を作り残っています。その彼が、あるとき、一枚の版画を目にしました。それは、ピラトの裁判で法廷に立たされたイエスと、ピラトの前に、『十字架に付けろ。十字架に付けろ。』と叫ぶ群衆を描いていました。それを見て、源蔵さんは『十字架に付けろと叫ぶ群集の中に、自分がいる。』と言って、涙したということです。イエス・キリストを十字架につけたのは、自分であるという、その告白を水野源蔵さんは神の前にしたのです。「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのはこのわたしである」と応えることは、聖書が読者のすべてに求めている応答です。あなたは、その事実を認め信じることです。


ゲッセマネでの祈り

2023年3月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~46節
【新改訳2017】
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

<要約>

共に祈り悲しみは半減し喜びは二倍となる

イエス様は、弟子たちを苦しみも悲しみも分かち合える友であると思っておられました。イエス様はご自分が試練にあったときに彼らが一緒についてきてくれたことを喜んでいました。イエス様は、弟子たちに祈りを要請しましたが、弟子たちは眠ってしまい、イエス様の求めに応えることができませんでした。私たちはそういうように弱い者たちです。弱く迷いやすく失敗しやすいからこそ、イエス様は共に祈るように勧めています。イエス様はクリスチャンである皆さんを友とみなしてくださっています。ですから、皆さんと重荷を分かち合い祈ってほしいと願っておられるのです。私たちも様々な苦難にある時、信仰の友が祈り、苦しみを共有してくれるのは大きな慰めであり励ましであります。それは、「喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しみなさい」と、みことばが語っているとおりです。

あなたを救うために立ち上がられた主

イエス様はこのゲッセマネの園で苦しみ悶えて祈られました。イエス様がこれからすすんで味わおうとなさったことは、人間が自らの罪によって滅んでしまう、その滅びの恐ろしさです。神なしで滅ぶ人間の苦しみ悲しみです。イエス様は滅びゆくすべての人の苦しみ悲しみを味わわれたのです。イエス様は、父なる神から完全に切り離されて見捨てられた苦しみを十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と。聖書に書いています。すべての人は、罪を犯したので神の栄光を受けられない。また、罪の報酬は死です、と。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると述べています。しかし、一人の人も滅びることを臨まない神は、罪のない神のひとり子イエス・キリストを全人類の罪の身代わりとして十字架で断罪しました。イエス・キリストを信じるだけで、滅びないで永遠のいのちが与えられるのです。イエス様は、祈りぬかれて、最後に「立ちなさい。さあ、行くのです。」と堂々と足を踏み出し勇気をもって目前の十字架に向かいました。この後、捕えられて裁判にかけられ、十字架につけられて殺され葬られましたが、三日目によみがえりました。イエス様は、死は絶望ではなくその向こうにある復活と永遠のいのちを示してくださいました。そして、この復活と永遠のいのちは信じる者すべての人に与えられるプレゼントです。イエス様を信じて救われて戴きたいと思います。