荒野に試み

2018年01月 21日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書4章1~11節
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

<要約>

苦難を神からの鍛錬ととらえる:

神は悪魔の試みを許されて、御霊がイエス様を荒野に導きました。イエス様は、そこで苦しみに会われたのです。人が苦しみにあった時、その苦難を神からのものとして用いるなら、それは、神の鍛錬あるいは訓練となります。「耐え抜いて良しとされた人には、いのちの冠を受ける」とあります。代表的には、アブラハムです。かれは、100歳まで世継ぎを与えられず苦しみました。しかし、彼はそれにより忍耐を身に着けました。また、ひとり子、イサクをモリヤの山でささげるように命じられた時、苦しんだでしょう。しかし、復活の希望が与えられて従いました。逆に、人の苦難が悪魔に利用されると、信仰を捨てさせて、破壊や滅亡へと向かわせるのです。これが、悪魔の誘惑ないし試みと言えます。悪魔は、人の罪の性質に働きかけて、不平、不満、つぶやき、非難、恨み、復讐心、疑い恐れ、などを引き出し、ついには不信仰に貶め、教会から離れ、神から離れさせるのです。代表的人物は、イエス様の弟子のユダでしょう。最後は自害してしましました。私たちが、苦しみや困難にあった時、それをどのようにとらえるかが分かれ目となります。それを神が許された試練として用いれば、神の栄光のみわざを見るものとなります。神をどこまでも信頼して、神の最善がなることを信じていくことです。私たちがイエス様に祈るとき勝利があります。なぜなら、イエス様は今日の聖書箇所で証明なされたように悪魔に対して勝利されたからです。イエス様があなたに代わって戦ってくださいます。私たちは苦難を神が許されてお与えくださっていると考えることが大切です。私たちは、病や不幸と思われる災い、様々な困難、に遭遇します。信者はそれを神からの試練として受け止めて、悔い改め、神により頼み、み言葉に耳を傾け、祈りに専心します。自分の力の限界を感じ、ただ、神により頼み、神にすがるからです。その時、信仰の勝利を経験します。依然困難は目の前に立ちはだかっていても、神がご介入して、イエス様がその荷を共に負ってくださっていることを体験し心に平安が来ます。

イエス様の受けた試みの意味:

イエス様の試練の意味は、イエス様ご自身が神であることを証明するためのものです。悪魔の試みは三つありました。一つ目は、空腹を覚えられたイエス様に「石をパンに代えて食べなさい」というものでした。悪魔は最初の二つの誘惑では、「あなたが神の子なら」という言葉で迫りました。『メシヤで神の権力を持っているなら、飢える必要はないでしょう。空腹なら奇跡を起こしてパンを得なさい』と誘惑します。しかし、この空腹は神が御霊により荒野へ導かれたとあるように神がご計画のうちに定めたことなのです。悪魔はイエス様が神に従わないようにさせようとしました。それに対して、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」という、申命記のみことばを引用して反撃しました。二つ目は、悪魔はイエス様を、神殿の頂に立たせて、飛び降りてみなさい、神が「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』といいました。これは神を試みるという罪に当たります。信頼を裏切る行為です。イエス様は、「あなたの神である主を試みてはいけない」を引用して反撃しました。三つめは、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」いよいよ悪魔は本音を出しました。イエス様は、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と」を引用して反撃しました。イエス様が用いた三つの言葉は、みなモーセが言った言葉の引用でした。この申命記6から8章は、イスラエルの民が出エジプトして、荒野で様々な試みを受けた経験が書かれています。それは、民が約束の地に入ろうとする前に、荒野での40年の歴史を思い出させて、モーセが民を諭した記録です。イエス様の荒野での40日は、モーセ率いるイスラエルの民の荒野での40年間を思い出させます。現在、神の民であるクリスチャンがやがて入ろうとしている約束の地、それは天のみ国といえます。イスラエルの民は荒野の40年間で神を信頼しとおすことができずに様々な失敗をしました。民のつもり積もった不信の罪をよいことに、悪魔は神と民の関係を引き裂いたのです。このようにして、イスラエルの民を悪魔はうまく陥れたと言えます。イエス様は、かつてイスラエルの民が悪魔に負けたことにリベンジなさったのです。そればかりでなく、この悪魔への勝利は、アダムの罪以来悪魔の支配下にあった全人類を解放したのです。悪魔は人の罪によって人を縛り、自分の支配下に置いています。人は自分の力では、悪魔の支配から抜け出ることはできません。解放者が必要です。それがイエス・キリストです。

救いは十字架の死以外にない:

神と悪魔とイエス様と人間の四者の関係構図を思い浮かべてみましょう。神と人は、罪によって断絶しています。人は自らの罪によって、死と永遠の滅びに定められていると言えます。その罪を取り除くために来られたのが、神の御子キリストです。人であり神である無実のキリストがすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。そして、すべての人に罪の赦しを宣言なさっています。そのことを信じて罪の赦しを受け取る人は、罪赦されて、亡ぶことなく永遠のいのちにあずかれるのです。キリストにより罪を取り除かれた人間は、神との和解を得たのです。神と人との関係を断絶させている罪によって、悪魔にとらわれている人間を贖い、買い戻してくださったのです。和解を得させてくださるのは、キリストの十字架の死以外にないのです。また、イエス様が全人類の代表として、悪魔と戦ったと言えます。最終的には、十字架で悪魔からかかとを噛みつかれましたが、そのかかとで悪魔の頭を踏み潰したのです。ですから、私たち人間は悪魔からキリストの支配に移されたのです。神の国の一員とされたのです。それは、私たち人間の努力や力で得た者ではなく、すべて神が用意してくださった救いです。私たちは、空の手で神からその救いを受け取るだけでいいのです。