家族危機と救いの幻

2019年09月01日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記37章1~11節
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

<要約>

差別、ねたみ、憎しみ、殺意:

ヤコブの偏愛、差別によって、このヤコブの家庭には、子どもたちの不満や怒りがありました。このように、神の選びの民となるの家族の始まりは、惨憺たるものです。聖書は人間のありのままの姿を描いています。罪と争いの火種を持った家族に対して、神はその争いに直接介入することをなさいません。人間の罪によって最悪の状況に向かっていても神はそれをなお用いて、神のご計画を成就なさるのです。ヤコブ家では、家族機能が低下していました。そのような中で、ヨセフは、自分が見た二つの夢を家族に話しました。ヨセフの夢を聞いて、兄弟たちのヨセフに対する憎しみは尋常でないレベルに上がりました。兄たちのヨセフに対するねたみと殺意をはっきりと読み取ることができます。そして結果的にはヨセフはエジプトへ向かう商人の一行に売り飛ばされたのです。神の民とされたイスラエルの最初の家庭は問題がありました。それは、家族間の偏愛による差別、ねたみ、憎しみ、殺意でありました。これは、すべての人間関係の問題で全世界に広がり個人ばかりでなく民族、国家に及んでいます。人間の根底にある罪です。

愛、赦し、和解、救い:

この後、ヨセフは牢獄につながれました。ある時、パロのみた夢を解き明かして、エジプトは救われたのです。そして、ヨセフはエジプトのパロに次ぐ人物となったのです。やがて飢きんのためにヨセフの兄弟たちがエジプトに食料を買いにやってきました。そこで、ヨセフの夢が成就したのです。ヨセフは兄たちの憎しみ、殺意に代えて赦しと愛を返しました。兄たちと和解をしてイスラエルを救ったのです。ヨセフはイエス・キリストのひな型であるとされています。ヨセフの生涯はイエス様の生涯に似ています。イエス・キリストは人類の救いのために最も貧しい人間として生まれ、罪のないお方なのに人間のすべての罪を着せられて裁かれて十字架につけられ死んで葬られました。しかし、死人の内から復活し天に昇られて神の右に着かれました。万物の王であり支配者となられました。国家民族、地域社会、家庭、そして個人の中にも、キリストの十字架による罪の赦しは提供されています。神は、人が持つ憎しみ、殺意、に代えて、キリストにより愛と赦しと和解の福音を提供しておられます。

神の気前の良さ

2019年08月25日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

<要約>

平等で完全な神の恵み:

ぶどう園の主人が働きの長い短いに関係なく、全員同じものを与えたように、父なる神も御国に来るものには働きの大小に関係なく賜物、プレゼントをお与えになることを示しています。また、主人は、一デナリを「相当のもの」と言い換えています。これは、「義」という言葉と同義語です。「神の義」は絶対正義とでもいえるでしょう。それは神の清さから来ています。一点の汚れも妥協もない清さです。その清さのゆえに、一点の罪も赦すことができません。ですから、どんな罪に対しても裁きを下されるのです。それに対して、人の正しさとはどういうものでしょうか。人の内側から出てくるものが人を汚すとあります。心に浮かぶ悪い考え、情欲、貪欲、よこしまなどが人に罪を犯させるのです。「義人は一人もいない」と聖書が言っている通りです。しかし、人が罪のために滅んでしまうことを神は惜しまれて、すべての人の罪の裁きを御子キリストに負わせられました。すべての人は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる時、完全に罪赦されて神の前に義とされます。それが、神の与える義です。神の恵みは、無条件の罪の赦しと永遠のいのちです。そこに、平等で完全な神の恵みがあります。

不平等と感じる人の心:

神の恵みは無限です。その恵みの前には、努力して功績を積んだものが得をするという考えはありません。「働けば働くほどもっともらえる」というのは、この世の中では、当然の報酬ということになります。しかし、神の恵みは全く違います。ねたましく思うという思いは、人と比較するところから生まれます。不平等を感じて文句を言うのです。もし、先に雇われたものたちがこう考えたらどうでしょう。「仕事がないのに自分のようなものを雇ってくれた。それだけで感謝です。そうでなければ一日中無為に過ごしてしまうところだった。1デナリで十分です。ご主人様ありがとうございます。」謙遜になれば、文句など出なかったはずです。神の恵みに完全に浴したければ、自分に死ななければなりません。自分が無になったときに神の恵みは完全にあなたのものとなるからです。自分はまだましだ、自分はそんなに罪深くないと言っている人には、神の恵みは届きません。私たちが救われたのは神の一方的な恵めであることをもう一度確認しましょう。

失われた人を捜し求める神

2019年08月18日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>マタイの福音書18章11~20節
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。
18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

<要約>

滅びないでいのちに至るために:

イエス様が来られた動機は、「失われている者を救うためであった」ということです。失われた者とは、神を信頼せず、神を恐れず、神を愛することを知らない人でいのちを失って、滅びに向かっている人です。たとえ話は、教会学校ではよく「迷子の羊」と題して語られるところです。羊飼いであるキリストにとってその迷っている一匹の羊はどれほど尊いものであるかを示しています。迷い出た一匹のために他の九十九匹を山に残して、捜しに出かけるというのです。普通、人は、九十九匹を危険な目に合わせてまで、迷い出た一匹を捜しに行くことはないが、神の愛はそうではありません、というところです。イエス様は一人の人も滅びることを望んでいません。すべての人が悔い改めに進むことを願っています。その為に、神はひとりの人も自らの罪によって滅んでいくことが無いように、十字架による罪の赦しと永遠のいのちを提供してくださっているのです。

天国の鍵を握る教会:

兄弟が罪を犯しているのを知ったなら、まず、最初に、「行って、忠告しなさい」というものです。しかし、その人がそれでも悔い改めず、忠告を聞かないならば、次には、他の一人か二人を連れて行きなさいというものです。他の証人を連れて事実確認にいかなければならないというのです。それでも聞き入れないならば、教会に訴えるのです。教会には戒規規定があります。それは、あくまでもその人を裁いて滅びに至ることを宣言するためではなく、悔い改めて救うためです。そして、「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」これは、ペテロを代表として教会が受けた「天国の鍵」の権威です。教会で戒規に処したことは、天国でもその通り執行されるということです。教会は、キリストの十字架による罪の赦しを宣言し、それにより神のいのちに与り、永遠のいのちが与えるところです。それと同時に、教会は罪に対する神の怒りをも伝え、悔い改めない魂は永遠の滅びに落とされることを宣言します。地上の教会の祈りが天を動かすのです。教会は、積極的に罪の赦しを宣言していきます。みことばと聖礼典を通して罪の赦しが宣言されています。

信仰に富むとは

2019年08月11日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書<ルカの福音書12章13~21節

12:13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
12:14 すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

<要約>

人の前に富んでも神の前に富まない人:

この金持ちは、自分のいのちはずっと安泰であると考えました。いのちが神のものであり神の主権の中にあることに気づかなかったのです。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、魂や霊のいのちを支えることはできません。なぜなら、魂と心の満足は人格の満たしから来るからです。人は人と、そして神とのつながりの中で喜び、充実、希望、平安、感謝を感じることができる存在だからです。人は人格的な触れ合いによって癒され、人として成長するのです。それでも、真の神を信じない、生まれながらの人間にはなお、人格の中心に満たされない空洞があります。それは、霊のいのちをお与えになっておられる神によってしか満たすことができません。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富むことのない人間に対して、神の方から働きかけて富む者にしてくださるのです。

富む者としてくださる神:

神は、恵みにより私たち信じる者を富む者としてくださいます。どのくらい富む者としてくださるのでしょうか。キリストは、天の富を捨てて貧しくなり、もっとも貧しい人のひとりとしてこの世に来てくださいました。イエス様は天の富を信じる者にお与えになり、その代わりとして、私たちの貧しさを担われたというのです。すなわち、「私のすべての罪の負債はキリストのもの、キリストが持っている天にあるすべての富と祝福は私のもの」となったのです。これを喜びの交換といいます。私たちがすることはその罪のゆるしと永遠のいのちの祝福を信仰によって受けとめることなのです。「わたしの望みはあなたです」と神に望みを置く人生こそ、信仰に富む人生です。外面的に悲しくて不幸に見えても、この世の富に代えられない最も大切な事は信仰に富むことです。信仰の富は信じるあなた方にもうすでに与えられています。ですから、これからは使うのみです。天の宝をどのように使いますか。それは自分のためだけに使ってもむなしいものです。それをあなたの隣人のために用いましょう。

もう一度神と向き合うために

2019年08月04日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカによる福音書10章25~37節

10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>

向き合うことのできない人間:

彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」これは、律法の戒めを包括する教えであり、的を得た答えです。イエス様は「その通りです。それを実行しなさい。」と言われました。しかし彼は自分の正しさを示そうとして「隣人とはだれですか」とイエスに問いました。イエス様は、「良きサマリヤ人のたとえ」のお話をされました。このたとえ話で、イエス様は、隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も敵をも含んでいることを示されたのです。隣人愛を実践する前に「心を尽くして、思いを尽くして、知性を尽くして神を愛しなさい」というのです。それは別の言い方では、神としっかり向き合いなさいとの勧めです。人間は神と向き合うことをやめて、神の思いより自分の思いを優先し、神から遠く離れてしまっています。ですから、神を知ろうともせず、神と向き合うということもわからないのです。そのような人間は自分とも向き合えない家族とも向き合えない、ましてや隣人とどうして向き合えるでしょうか。

向き合ってくださる神:

中学生の時にいじめにあった長谷川少年は金八先生のような熱血教師と出会いました。その先生は、いじめにあっていた長谷川少年と向き合ってくれました。ある時、長谷川少年はこういう手紙を書いたそうです。仮に、町が大火事になり、先生はヘリコプターに助けられて上空に出ました。その時、下の方で、先生の息子さんが、逃げ惑っていました。すぐに助けようとヘリコプターは下降しました。そうしたら、その息子のそばに逃げ惑う長谷川少年を発見したのです。ヘリコプターにはあと一人しか乗せられません。先生はどうしますか?という内容です。「自分も人間だから、息子の方を助けると思う」という返事でした。長谷川少年はその先生が自分と最後まで向き合ってくれると、信じたかったのです。しかし、人間が自分の子どものいのちを犠牲にして他人のいのちを救うことはありません。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。それが、キリストの十字架です。その神が、ここにおられる皆さん一人一人と向き合ってくださいます。

祝福を下さらなければ引き下がりません

2019年07月28日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記32章1~5、22~32節

32:1 さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。
32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。
32:3 ヤコブは、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使いを送った。
32:4 ヤコブは彼らに命じた。「私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなた様のしもべヤコブがこう申しております。私はラバンのもとに寄留し、今に至るまでとどまっていました。
32:5 私には牛、ろば、羊、それに男女の奴隷がおります。それで私の主人であるあなた様にお知らせして、ご好意を得ようと使いをお送りしました。』」


32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
32:23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

<要約>

マハナイム、背後で守る神:

ヤコブはここに来て、多くの神の使いを見たのです。そこをマハナイムと呼びました。それは「二つの陣営、または二つの宿営」という意味です。神はマハナイムを用意されました。それは、神の二つの陣営がヤコブの二つの宿営を守ることを暗示しています。神はヤコブに生まれ故郷である約束の地に彼が入る前に、すなわち、今ここで、ヤコブが、イスラエルの父となるための必要な最初の関門を通過するために、神が導いてくださったのです。それは兄エソウとの和解でした。そして次の日の朝、プレゼントを用意するのです。兄エソウの怒りを和らげようと考えたのです。ヤコブは不安でした。恐れました。そして神に祈りました。神が背後で働かれ、十分な準備をしました。神は、私たちに祈り求めるように命令しております。苦難の中で祈り続けます。そうすれば、最後に「神は真実なかたである」という確信に行きつくのです。それが祈りの力です。

貪欲に神を求める祝福:

ヤコブは一人ヤボク川の渡しに残って再び祈り始めました。その時、神の陣営から一人の人がヤコブのところに近づいてきました。それは主の使いでした。彼が通り過ぎて行こうとするので、ヤコブは力づくで彼を引き留めました。何とか自分と自分の家族を守ってほしいと力ずくで迫ったのです。そこで、二人は取っ組み合いとなりました。一晩中戦いましたが、勝負がつきません。するとその人は、ヤコブの腿を打ってから、やっと口を開いて私を去らせなさいと云いました。ヤコブは、いいえ、私を祝福してくださらなければ放しません、と必死にしがみついたのです。その人は言いました。「あなたはこれからイスラエルと呼ばれる。あなたは神と戦い、人と戦い勝利したからだ。」その人は、ヤコブを祝福して立ち去りました。み使いは、彼の腿のつがいを打ったら腿のつがいが外れた、とあります。それはヤコブの自我ということができるでしょう。自分が自分がという、自分中心に気付き勝利したのです。ヤコブは神様の祝福を貪欲に求め見事にそれを得たのです。神は、あなたの悩みにこたえ、あなたに祝福の雨をそそぎたいのです。ヤコブはエソウと会い、和解がなされました。実はこの和解こそイエス様が十字架にお掛りになった目的です。十字架の目的は人が神と和解することです。

救いの計画の始動と展望

2019年07月21日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記28章10~22節
28:10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
28:11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
28:12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
28:13 そして、見よ、【主】がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
28:16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
28:19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
28:20 ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

<要約>

救いの計画の始動:

ヤコブは、旅の疲れもあって、いつの間にか眠り夢をみました。不思議な夢を見ました。天まで届く梯子のようなものが地面に立ち、天使たちがそれを上ったり下りたりしているのです。ふと気づくと、何と神がヤコブのそばに立っていらっしゃいました。神は、わたしはアブラハム、イサクの神である。わたしはあなたが横たわっている土地をあなたにあげる。目の前に現れてくださった神は、責めることも咎めることもなく、ただ、アブラハムとイサクにお与えになった祝福の約束を伝えただけでした。神は、私たちの罪を責めるためではなく、罪を悔いているものを赦し立たせてくださるお方なのです。神は赦しの神です。十字架は赦しのシンボルです。ヤコブは聖なる神と出会い、同時に愛の神を知って、真のおそれに至ったのです。梯子が天から地上に降りて、そこを天使が上がり降りしている情景です。この時をもって、神の救いのご計画がいよいよ動き始めたのです。その梯子は、イエス・キリストを表しています。

神の救いの計画の完成と展望:

この時の天からの梯子は、神がこれから人間の歴史の中に介入することを示しています。イスラエル民族を起こし、その民族を通して人類を祝福するために、立ち上がられたことを示しています。ヤコブは言いました。「ここは神の家に他ならない。ここは天の門だ」と。そして、ヤコブは枕にした石で柱を作り、それに油を注いだ、とあります。この「油を注ぐ」というのは、ここでは「聖別する」という意味です。この神の家、天の門は何を指しているのでしょうか。それは、現代における教会です。教会は天国の出張所、天国の領事館です。教会はイエス・キリストを土台として建てあげられています。キリストは教会の頭です。教会では、天国のルールがそれを治めています。そこは、神の一方的な愛によって治められています。教会では、誰にでも無条件に、キリストの十字架による罪の赦しと永遠のいのちが提供されています。そしてそれは、信仰によってのみ受け取ることができます。その為に、神は4千年も前に人類救済計画を始動されたのです。この救いは、すべての人に提供されています。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」書いている通りです。

成功に至る確かな道

2019年07月14日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記24章34~48節
24:34 彼は言った。「私はアブラハムのしもべです。
24:35 【主】は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は主人に、羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。
24:36 私の主人の妻サラは、年をとってから主人に男の子を産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。
24:37 私の主人は、こう言って、私に誓わせました。『私が住んでいるこの地のカナン人の娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。
24:38 あなたは、私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子に妻を迎えなさい。』
24:39 そこで私は主人に申しました。『もしかしたら、その娘さんは私について来ないかもしれません。』
24:40 すると主人は答えました。『私は主の前に歩んできた。その【主】が御使いをあなたと一緒に遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家から、私の息子に妻を迎えなさい。
24:41 次のようなときは、あなたは私との誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行ったときに、もし彼らがあなたに娘を与えないなら、そのとき、あなたは私との誓いから解かれる。』
24:42 今日、私は泉のそばに来て言いました。『私の主人アブラハムの神、【主】よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら──。
24:43 ご覧ください。私は泉のそばに立っています。若い娘が水を汲みに出て来たなら、私は「あなたの水がめから少し水を飲ませてください」と言います。
24:44 その人が私に、「どうぞ、お飲みください。あなたのらくだにも水を汲みましょう」と言ったなら、その娘さんこそ、【主】が私の主人の息子のために定められた方です。』
24:45 私が心の中で言い終わらないうちに、なんと、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来たのです。そして、泉に下りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください』と言うと、
24:46 急いで水がめを肩から降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。
24:47 私が尋ねて、『あなたは、どなたの娘さんですか』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です』と答えました。そこで私は、彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。
24:48 そして私はひざまずき、【主】を礼拝し、私の主人アブラハムの神、【主】をほめたたえました。主は、私の主人の親族の娘さんを主人の息子に迎えるために、私を確かな道に導いてくださったのです。

<要約>

神の約束を握って進む道:

アブラハムには、神の約束の成就のために信仰の次の段階に進みます。それは、世継ぎと決まったイサクに嫁を迎えることです。アブラハムは、最年長で、アブラハムの全財産を管理していたしもべに命じます。アブラハムの郷里のハランへ行ってイサクの嫁を連れてくるようにとのことです。アブラハムはイサクを約束の子として、神の祝福の座に置いたのです。アブラハムはイサクを自分の子であっても、神の約束の子どもであるとしっかり認識していました。子育て中の皆さんも、神があなた方にお与えくださった子どもたちは、神があなたに託した神の約束の子どもです。その認識が大切です。私たちは、子どもたちを神にお返ししていくのです。アブラハムは、結果を前もって見ることはできなくても、二つのことにしっかり立っていました。一つは、神は約束を撤回することはないという信仰です。二つ目は、人は神の約束を撤回してはいけないということです。神はあなたを幸せにすると、そして喜びにあふれる人生を与えると約束しているのですから、疑ってはいけません。

キリストの祝福を隣人に届ける道:

このしもべは勇気と信仰をもって大胆に神に近づいています。リベカは非常に美しいばかりでなく、健康で体力もあり、オープンで勇気があり積極的な女性であったと想像します。リベカは自分の親や家族を離れて、イサクの下へ旅立つのです。そこに、リベカの信仰と行動力を見ます。イサクは、イエス・キリストのひな型です。このイサクのために用いられたアブラハム、このしもべ、そしてリベカの三人には決断、勇気、行動という資質を見ることができます。それは、同時に、キリストのために生きる者の資質ということができます。その時から約二千年を経て、「すべての民族はアブラハムによって祝福される」というアブラハムの契約は、イエス・キリストによって成就しました。キリストが全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、私たちの罪を赦し永遠のいのちに生きる者としてくださったからです。その名を信じた者には神の子どもとされる特権をお与えになったのです。キリストを信じる者は神の国の相続者として永遠の祝福にあずかるのです。是非、イエス・キリストをあなたの救い主と信じてください。

完全な信仰

2019年07月07日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記22章1~14節

22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
22:5 それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。

<要約>

アブラハムの試練:

これらの出来事の後、「神はアブラハムを試練に合わせられた」とあります。この度は最後の最も過酷なテストでした。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」イサクはアブラハムにとっては、自分のいのちより大切な我が子であったでしょう。神はその心情を理解して、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言ったのです。神はこの試練を通して、神の救いのご計画を示そうとされたのです。アブラハムの信仰は、復活の信仰といえます。そして今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神の最愛のひとり子イエス様を、すべての人のために、つまり、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけることです。試練は信仰を造るのです。ですから試練はあなたに有益です。クリスチャンは、「失望に終わらない希望」を持っています。世にある希望は、移ろいゆくものです。絶対大丈夫と言えるものはないでしょう。神が与えてくださる希望は決して失望に終わりません。神が与えてくださる希望は、「死を通って、いのちに至る」希望だからです。

死を通していのちに至る:

聖書が教える死は、誰でもが迎える肉体の死だけではありません。肉体の死の後に来る魂、あるいは霊の死です。永遠の滅びです。それは、罪から来る報酬です。神は人が滅びるのを惜しんで、人が持つ罪を無実の神の御子キリストに背負わせて身代わりに断罪しました。御子を信じる者は罪に定められることなくいのちに移されるのです。誰もが肉体の死を通らなければなりませんが、死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされます。ドイツの神学者であり、牧師であったボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画に加担し、絞首刑に処せられました。絞首台を目の前にして彼は、看守に言葉を残しました。「これが最後です。わたしにとっていのちの始まりです」と。神は、主イエスを信じる者が死を通していのちにいたることを告げています。神はどんなに悲しむ人をも慰めることができます。神は、御子の十字架でその悲しみを経験なさっているからです。

神の契約の実行と証印

2019年06月30日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記17章15~27節
17:15 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」
17:17 アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
17:18 そして、アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」
17:19 神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。
17:21 しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」
17:22 神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。
17:23 そこでアブラハムは、その子イシュマエル、彼の家で生まれたすべてのしもべ、また、金で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家のすべての男子を集め、神が彼に告げられたとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。
17:24 アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。
17:25 その子イシュマエルは、包皮の肉に割礼を受けたとき、十三歳であった。
17:26 アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。
17:27 彼の家の男たちはみな、家で生まれた奴隷も、異国人から金で買い取った者も、彼と一緒に割礼を受けた。

<要約>

勝利者は悩み苦しみ信仰に生きる:

主は、再度アブラハムに現れました。アブラハムは、心の中で笑ったと書いています。「百歳の者に子どもが生まれようか。九十歳のサラが子どもを宿すだろうか」彼は神の前にひれ伏しました。しかし、内面には葛藤、揺れ動きがありました。神の約束を受け止めきれない人間の弱さが見えます。信じ切れない思いを抱えながら神に向かい合っていたことがわかります。信仰とはそういうものです。私も過去を振り返ってみました。秋田大学3年生の時に信仰に導かれ洗礼を受けクリスチャンになりました。その後結婚し子どもも与えられ、米国留学をしました。そこで腎臓病になりました。突然、むくみがやってきて、高血圧になったのです。ネフローゼ症候群という病気です。将来の不安がありました。神様、私は大丈夫でしょうか。どうしたら良いのですか。と何度も祈りました。その度に、神はみことばで励ましてくださいました。私はあなたを癒す主であると。しかし、このようなみことばが与えれても、内面の揺らぎが常にあったのです。神は不信仰の笑いでも喜びの笑いに変えてくださいます。信じ切れない人間の思いと弱さを受け入れて、マイナスの思いをプラスに変えてくださるのです。悩み苦しみ、信仰の揺らぎを覚える時には主に向かいましょう。疑い退くか、信じて前に進むか、不信仰と信仰の選択が来ます。その時は信仰に立って前に進むのです。神は勝利を与えてくださいます。

心の割礼である洗礼がもたらすもの:

アブラハムはすぐに、神の契約に応え神の命令である割礼を全ての男子に執行いたしました。割礼は現在の洗礼の型であります。当時の割礼がアブラハム契約実行の出発点であったように、洗礼、バプテスマはあなたが神の民に加えられるという信仰の出発点です。割礼の包皮は何を表しているのでしょうか。それは、生まれながら持つ罪の性質です。あるいは、人の神を無視して自分を中心に生きようとする性質です。キリストと共に古い自分を十字架につけて、生まれながらの自分に死んで、キリストとともに復活することです。そして、新しい自分に生まれ変わることです。洗礼はそのような意味があります。誰でも無条件に、神の約束を自分のものとすることができます。