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福音の再発見

10月30日宗教改革記念礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ人への手紙1章1~7,16,17節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<要約>

神の義というプレゼント:

当時、神の義、神の正しさは一点の罪も赦さない恐ろしいものと解釈されていました。人の罪に対して、容赦のない神の裁きがあります。これが神の持っている義です。ルターは詩篇71篇2節の「あなたの義によって私を救い、助け出してください。」を読んで、繰り返しこのみことばを黙想しているとき、彼の心に光が差し込んだのです。神の義、この「の」と言う助詞に別の働きを見たのです。「義の神」と言われる、神の属性を表す義ではなく、「神の下さる義」と読み替えることができたのです。それが、福音の再発見につながりました。神の義は神のプレゼント、賜物であることが分かったのです。神はどうしようもない罪人を値なしに義と認めてくださるのです。それは素晴らしい神のプレゼントで、福音の中心です。神が与える義は、キリストの十字架に表される神の愛と言えます。この発見をしたルターは、自分は全く新しく生まれ変わった。聖書の戸が開かれた、と告白しています。これが福音の再発見でした。

信仰によって働く神の力:

ルターの95箇条の論題は、当時のカソリック教会へ、一修道士が起こした大批判とみなされました。ルターの意見に賛同する人々も多くいたようです。そのことによって、ルターは時の人となり、最終的に教皇から破門されました。さらに95か条の事件の4年後には、ドイツのヴォルムスで行われた国会にルターは呼ばれて、尋問されることになりました。ルターは答えた。「閣下と陛下の皆さん。私はありのままに答えましょう。私の良心は神のことばに捕えられています。私は聖書に反して何も言うことはできません。私は、法王と教会会議の権威を認めません。なぜなら、彼らは互いに矛盾しているからです。私は何も取り消すことができないし、取り消そうとも思わない。なぜなら良心に背くことは正しくないし安全でもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン 私はここに立つ。私はこうするより他にない。」福音は、全ての人に救いをもたらす神の力です。ここでパウロが強調したいのは「信じる」という行為です。信じる全ての人には福音は神の力となるのです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。

最高の宝を手に入れる

10月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書13章44~52節

【新改訳2017】
13:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
13:47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:51 あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。
13:52 そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」

<要約>

天国への招きと神のさばき:

天国へ入ることができるというのは、何ものにも代えがたい価値あります。聖書では、イエス様は繰り返し、天国に入る道は、イエス様を信じることだと言っています。三つ目の例え話を見てみましょう。それを理解して初めて、イエス様の御心がわかるのです。ここは、世の終わりの時の最後の審判が書かれています。天の御国は、最後のときであり、審判のときだからです。天国へ行く人と地獄へ行く人と分けられるというのです。神は、アダムから始まり、罪のゆえに滅んでしまう全ての人の為に、神の独り子 にその全ての罪を着せて十字架で裁きました。身代わりの死を遂げさせました。そのようにして 罪と死と滅びから全ての人を救う道を備えてくださったのです。それはどんなに大きな神の犠牲だったのでしょうか。三品一セットのたとえ話から、神は一人の人が滅びる事も望みません。イエス・キリストの十字架で表された神の愛を知り、信じて救われるように願っておられるのです。

神を愛し恐れ信頼する:

弟子たちは、天の御国とはどういうものであるか。天の御国の意味が分かってきました。 私たちも、クリスチャンになってからは、御国についての知識を持つものとされました。「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」とあります。それは、私たちが聖書から、福音と律法を区別して取り出すことができることを意味します。それが、成長したクリスチャン、天の御国の弟子となった学者であると言えるでしょう。福音と律法は、神の二つのお姿であると言えます。福音に示される神のお姿は、愛と赦しの神です。そして、律法に示される神のお姿は、怒りの神、裁きの神です。正義の神であるがゆえにどんなに小さな罪をも赦すことができず、焼き尽くす火のように、罪を裁くのです。二つの相反する神のお心をどのようにしたら調和させることができるでしょうか?そこにキリストの十字架があるのです。聖書全体を読んでいると、このように、愛の神と怒りの神に出会うのです。どちらも真実な神のお姿です。ですから、私たちは、その通り、受け止めなければなりません。つまり、神を恐れ、愛し、信頼して行くのです。

にもかかわらずの神の愛

10月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エズラ記9章1~9、15節

【新改訳2017】
エズ
9:1 これらのことが終わった後、指導者たちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、
9:2 かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」
9:3 私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった。
9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座っていた。
9:5 夕方のささげ物の時刻になって、打ちのめされていた私は立ち上がり、衣と上着を引き裂いたまま、ひざまずき、自分の神、【主】に向かって手を伸べ広げて、
9:6 こう言った。「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです。
9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。
9:8 しかし今、しばらくの間、私たちの神、【主】はそのあわれみによって、私たちに逃れの者を残し、私たちのためにご自分の聖なる所に一本の杭を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちを少しでも生き延びさせてくださるためでした。
9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシアの王たちによって恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。
<中略>
9:15 イスラエルの神、【主】よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。」

<要約>

神のことばを恐れない人間;

イスラエルの罪と堕落に対して、イスラエルの神のみことばを恐れかしこむ者たちがエズラのところにやって来ました。当時のイスラエルの民は神のことばから遠く離れていました。みことばから離れると、神のみことばを恐れなくなります。心に神に対する恐れを持っているでしょうか。そして、もし、恐れがあれば、私たちは神のことばを守ろうとします。私たちは神の言葉を否定しないまでも、日常のことに追われて、みことばから離れてしまい聖書を読まない生活に陥っていないでしょうか。つまり、神のことば、聖書に重きを置かない生活になってしまっていないでしょうか。私たちは、黙っていれば神のことばを失ってしまいます。絶えず、心に刻み込まなければなりません。イスラエルの民は、神に対する恐れを失い、神のことばを守らなかったのです。そのために、当然の結果として、罪の結実を刈り取らなければなりませんでした。この世は、神のことばを知りません。十字架のことばを愚かなこととします。しかし、イエス・キリストの十字架は、救いを受ける私たちには神の力です。私たちを罪と死と滅びから救ってくださるのです。

にもかかわらず御前に立たせてくださる神:

そのように繰り返し犯した不信の罪を犯したイスラエルの民に、神は、エズラを通してメシヤ預言を語られました。そして、神はペルシア王を通して民に恵みを施し、民を生かしてくださいました。私たち、すべての人は、そのままでは、自らの罪のために御前に立つことも許されない者たちです。にもかかわらず、キリストの十字架によって立たせてくださいます。歴史を支配しておられる神は、現代も、哀れみによりイスラエルの民を祖国に立たせていてくださっています。また、私たちをも忍耐をもって、今、立たせてくださるのです。キリストは、私の罪の一切を取り除いてくださいました。(エペソ5:27)「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」罪のない神のひとり子が私たちの代わりになって罪を飲んで十字架で刑罰を受けてくださったからです。


喜びの交換

2022年10月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルツ記2章1~13節
【新改訳2017】
2:1 さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。
2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。
2:5 ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」
2:6 刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。
2:7 彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」
2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。
2:9 刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」
2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」
2:11 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。
2:12 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
2:13 彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

<要約>

イエス様を愛する人は人を愛する:

ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」これは、ルツのナオミへの献身の表明です。ちょうど、私たち信者が、イエス様に献身を表明する言葉のようです。すなわち、信仰によって生まれてくる言葉です。ルツを私、お母さまをイエス様に置き換えて、告白してみましょう。「私は、イエス様を捨て、イエス様から離れません。イエス様のいかれるところへ私も行き、イエス様がおられるところに私もいます。イエス様、あなたは私の神です。死を通しても私はあなたから離れることはありません。永遠にあなたは私の神です。」私たち信者がイエス様を愛していなければ隣人を愛するということはできません。イエス様を愛する愛が隣人を愛するという行為に表われるのです。イエス様の思いをもって、私たちも私たちの周りの人々にイエス様の愛を伝えていきましょう。

悲しみと失意は喜びと希望に:

私たちはナオミやルツのように失意や苦しみに会うことがあります。私たちが希望を失い、喜びを失っているときほど、約束されているキリストの恵み、十字架による贖い、罪の赦し、永遠の命、天国の相続者としてのあらゆる祝福を受けているということをもう一度確認し、慰めと希望に生きたいと思います。ボアズとルツは結婚して夫婦になりました。ルツが夫を亡くした悲しみや苦しみは、ボアズによってすっかり拭い去られて、逆に喜びに変えられたのです。私たちもキリストにより私たちの持っているマイナスはすべてプラスに変えられます。一体となったキリストと私の間には喜びの交換がなされます。すなわち、キリストにある勝利、義、いのちなどが私のものになるのです。逆に、私の罪や死などはキリストのものとなっているからです。みなさん、自分の弱さや罪を覚えることができるのはむしろ幸いなのです。そのような時にこそ、神はあなたを多いに祝福しようとなさっているのです。

悲しみを喜びに代えてくださる神

2022年9月25日(日)礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エステル記4章1~17節
【新改訳2017】
4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。
4:2 そして王の門の前のところまで来た。王の門の中には、粗布をまとったままでは入ることができなかったのである。
4:3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。
4:4 エステルの侍女たちとその宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女はモルデカイに衣服を送り、それを着せて、粗布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。
4:5 エステルは、王の宦官の一人で、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。
4:6 ハタクは王の門の前の、町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
4:7 モルデカイは自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に納めると約束した、正確な金額も告げた。
4:8 また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。
4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに告げた。
4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

<要約>

悩み不安を通して神に近づく

エステルには、召されていないのに王の前に出るのはとても不安なことだったでしょう。エステルの決心は、次のみことばに現れています。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」信仰の決断は、先がわかってするものではありません。先は見えないが、神は最善をなしてくださる。だから、エステルも死ななければならなくても自分に与えられた最善の決断をしたのです。私たちが、不安になるのは、実は、みこころです。なぜなら、その時に、神に叫び求めるからです。そうして、もう一度、神の約束を再確認して生きていくのです。これがクリスチャンライフです。そして、み言葉の約束を確認します。そして脱出の道が備えられます。復活の希望いただいて、永遠の御国を目指して進んでいくのです。このようにして、信仰者は神に近づき、神と親しくなります。

悩み苦しみを担い背負ってくださるキリスト

王は言います。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。国の半分でも、あなたにやれるのだが。」エステルは丁重に応えます。「今日に引き続き、もう一度明日の宴会においでください。」王は、エステルのなぞめいた応答に、その夜はなかなか眠れませんでした。そして、過去の記録である年代記を読ませて、モルデカイが以前、王を危機から救ったことに対して、王はモルデカイにまだ、報いを与えていなかったことにも気づいたのです。その日の夕に二晩目のエステルの宴会があり、そこではじめて、エステルは、民族の救いを願いハマンの策略を王に述べるのです。エステルの悩み苦しみは解かれました。もしあなたが信じて歩むなら、神は一人ひとり、クリスチャンの人生を責任もって導いてくださいます。あなたの一切の重荷を担い、時にはあなた自身を背負って進んでいかれます。その根拠は、イエス・キリストの十字架です。鞭うたれた後、十字架を背負い処刑場までビアドロローサ、悲しみの道を歩いて行かれたイエス様を思い浮かべましょう。それはイエス様は私たちの一切の苦しみを担って、共に苦しんでくださることの証です。イエス様はあなたの苦しみをご存知であなたを招いておられるのです。あなたの罪や重荷を担いますから、いらっしゃいと招いておられます。

出エジプトと十字架

2022年9月18日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>出エジプト12章29~42節
【新改訳2017】
12:29 真夜中になったとき、【主】はエジプトの地のすべての長子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までもみな打たれた。
12:30 その夜、ファラオは彼の全家臣、またエジプト人すべてとともに起き上がった。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである。
12:31 彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って【主】に仕えよ。
12:32 おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」
12:33 エジプト人は民をせき立てて、その地から出て行くように迫った。人々が「われわれはみな死んでしまう」と言ったからである。
12:34 それで民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ。
12:35 イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。
12:36 【主】はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。
12:37 イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった。
12:38 さらに、入り混じって来た多くの異国人と、羊や牛などおびただしい数の家畜も、彼らとともに上った。
12:39 彼らはエジプトから携えて来た生地を焼いて、種なしのパン菓子を作った。それにはパン種が入っていなかった。彼らはエジプトを追い出されてぐずぐずしてはいられず、また自分たちの食糧の準備もできなかったからである。
12:40 イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった。
12:41 四百三十年が終わった、ちょうどその日に、【主】の全軍団がエジプトの地を出た。
12:42 それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、【主】が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、【主】のために寝ずの番をするのである。

<要約>

神の裁きとキリストの十字架の救い:

ファラオをはじめとするエジプト人は、主こそ真の神と思っていたと考えます。でも、パロをはじめエジプト人は謙遜になって真の神にひれ伏そうとせず、依然、神を無視して、偶像を頼りとしていました。ここに人間の愚かさが見えます。神は全知全能ですべての創り主であるとは聞いているし、その通りだと思う。しかし、自分の神として信じることはできない。そのように言う人は大変多いのです。しかし、創り主なるまことの神は、聖書を通して、そして、人となった救い主キリストを通して、ご自身を表しています。しかし、ファラオとエジプトは神を無視し続けました。それ故、神はエジプト全土を裁かれました。聖書にはやがて、世の終りの時に裁きが行われる、すべての人は審判者である神の前に立たされます。神の正しい裁きがエジプトのすべての人々の家に下ったのと同じように世のすべての人に下るのです。神の裁きと十字架の救いは今もすべての人に及んでいます。神ご自身が、キリストの十字架によってあなたを裁かず、あなたを救うと約束しております。

真の自由をもたらす十字架:

出エジプトで、イスラエル人は奴隷の身分から自由の身分になりました。これはわたしたち人間が罪と死と悪魔から自由になることを表しています。それを得させるために、贖いの業がなされました。贖いというのは、代価を払って買い取る、あるいは、買い戻すという意味です。出エジプトの時、奴隷であったイスラエルの家々の長子のために傷のない一才の雄羊が犠牲になりました。傷のない、すなわち、罪のないキリストが、すべての人の罪を引き受けて身代わりとなって裁かれました。すなわち、キリストが十字架の死といういのちの代価を払って、すべての人のいのちを買い取ってくださったのです。誰でもイエス・キリストの十字架を信じれば、罪赦され、神の子とせられて、永遠のいのちが与えられます。現代の私たちの出エジプトは、キリストの十字架により罪と死と悪魔から救われることです。イエス様を信じている者は心の自由が与えられています。すなわち、あらゆる困難や苦しみ、迫害、死からさえも自由にされています。ですから、今度はその自由をもって、隣人のために自ら喜んで仕えることができるのです。

神はその独り子をお与えになったほどに

9月4日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書3章1~16節
【新改訳2017】
3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

<要約>

聖霊によって生まれるとは?:

「水と御霊」これは、洗礼によって、罪をきよめ、聖霊を頂くことです。洗礼は新しい人の誕生ということができます。聖霊は三位一体の神です。聖霊は霊なる神です。ですから目には見えませんが、生きて働いておられます。みことばを通してあなたに語り、罪を示し、キリストへと導きます。聖霊をいただくことにより、私たちは新しく永遠のいのちが与えられます。洗礼を受けて、聖霊を頂く前は、人は罪のために神から離れて真のいのちを失っています。罪とは何でしょうか。最大の罪はあなたをつくりあなたに命を与えておられる神を認めないことです。あるいは神を無視し、神が居ないかのごとく歩んでいることです。ちょうど、父親が目の前に居るのに「私には父はいない」と言っているようです。それは、神のいのちから遠く離れていのちを失っている状態です。聖書は、それを「死んでいる」と言っています。だから、人は、聖霊をいただいて神のいのちにつながらなければなりません。新しく生まれるとは、古い自分に死んで新しい自分に生まれかわることです。

人は十字架を仰いで救われる:

16節は、聖書の中の聖書と言われています。この聖句は聖書全体を一言で言っているといえます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」と書いています。神のお心はあなたへの愛です。「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神はあなたを罪の責めである死と滅びから解放し永遠のいのちを持つために、イエス・キリストを世に送られました。「そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された。」神は、全く罪のないご自身のひとり子イエスに、すべての人の罪を背負わせて、十字架にかからせました。その御子の苦難と死によって、私たちの罪を赦したのです。「御子を信じる。」神様があなたに求めておられることは、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じることです。あなたを赦しあなたに真のいのちを与え、本来の関係を取り戻したいのです。神は、あなたを裁くためではなく、あなたを祝福するためにイエス・キリストを送ってくださり、十字架で罪の贖いをなしてくださいました。

王の祝宴に通される条件

8月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書22章1~14節

【新改訳2017】
22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

<要約>

創造主、祝福の神を無視する人間

これは一見イスラエル民族だけの問題のようですが、私たちすべての人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、心で見えるはずの創り主の神を見ることができなくなっています。そして、神の存在を心で否定しているのです。神はおられることは、「その被造物によって知られている」と書いています。神は確実におらます。ギリシャのアテネには、アクロポリスという丘にパルテノン神殿があります。大変大きな石の建造物です。どうやってそんなに大きな石を積み上げたのか、想像もできませんでした。でも、そこにあるということは数千年前に誰かが、造ったからです。同様に宇宙万物、そしてすべての地上にある生き物も自然にできたのではありません。神が意図をもって作られ、また、その創造の業は継続しているのです。この例話の招かれた人々は王様が眼中になかったのです。それはとても変な話です。同様に、創り主であり、全世界を保っておられる神を無視することもとんでもないことです。

あなたの罪を覆い栄光をお与えになる神

クリスチャンは、神様からいただいたイエス様という礼服を着ているということです。この例話から大通りにいたすべての人が招かれたのです。神の救いに与る条件は、良い人間、悪い人間、その人の人格は関係ない。ただ、神が提供してくださった礼服であるイエス・キリストを着るということだけでよいのです。これは、イエス・キリストを救い主として信じることです。これが神の恵みです。キリストを信じて心の内にお迎えすることです。もう一つ、神の恵みということについて、大切なことがあります。神は、招きに応じてキリストを受け入れた者たちに栄誉を与えようとしておられます。ただそれだけで、と思いますか。そうです。それだけで神はあなたを誉めてくださり、神の子ども、天国の世継ぎとまでしてくださるのです。それが神の約束です。すべての人にイエス・キリストの救いが提供されています。しかし、洗礼を受けてキリストを着る、すなわち救われる人は少ないと言えます。神が一番求めておられるのはこの信仰による応答なのです。神はあなたの罪を覆い、栄光をお与えになる神です。

神との関係回復への道

2022年8月21日(日)礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書12章1~10節
【新改訳2017】
12:1 そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。
12:2 おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。
12:3 ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです。
12:4 わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。
12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
12:6 五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。
12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。
12:8 あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。
12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
12:10 人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒?する者は赦されません。

<要約>

悪いパン種は生まれながらの罪の性質:

イエス様はまず弟子たちに話始められました。悪に傾きやすい私たち人間の罪の性質、弱さをご存知で、「パリサイ人のパン種」に注意しなさい、とおっしゃったのです。神を心の中心に据えて、神を畏れ、信じ、愛しなさいという命令に対しても、神よりも、人間中心、自分中心に傾き、少しずつずれていくのです。そして、当時のパリサイ人、律法学者たちのように聖霊に心を開くこともなく、悔い改めることをしなければ、ますます罪みがわからなくなり、神から離れてしまうのです。イエス様は、人の罪に対する罰を十字架でお引き受けなさったのです。そこに救いがあります。それが福音です。聖霊は人に罪を目覚めさせ、悔い改めて神を仰ぐことに導きます。悪いパン種、それはすべての人の内側の生まれながらの罪の性質と言うことができます。それにより神との関係が断絶状態にあるのです。現に生まれながらの人は、神を認めることもできないし、神を信じることもできません。それは、霊的内面には腐敗したパン種があるからです。もし、今日あなたの内に悪いパン種があることをお認めになるのなら、それを取り除いていただきましょう。

神を恐れ、信じ、愛し続ける祝福:

神を本当に恐れるならば罪から離れます。神を本当に信頼するならば目の前の状況が思わしくなく悪く見えても、つぶやくことをせず、全能の神を信じて忍耐します。神を本当に愛しているなら常に心の中心に神を置き、神の喜ばれることを行なうのです。神を畏れ、信じ、愛することを常に心の中心に置き、励むならばあなたは幸せになります。「主が共におられる」幸いな人生を歩むことができます。また、私たちクリスチャンは、何よりも神を恐れ、神を信頼し、神を愛していても、時々神より人を恐れてしまいます。神より自分の経験に信頼を置いたり、神を愛していると言いながら、自分中心の行動をしたりしてしまいます。神の律法であり命令を完全に守れないのです。そのことを聖霊によって示されたなら素直になって、悔い改めましょう。キリストの十字架のゆえに神はあなたを完全に赦してくださいます。あなたが神を畏れ、信頼し、愛し続ける時、神は、あなたに祝福と勝利の人生を約束してくださいます。

神と向き合いいのちに生きる

8月7日(日)主日礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書10章25~37節
【新改訳2017】
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>

神と向き合わず永遠のいのちを失った人間:

永遠のいのちというのは、私たちの今のいのちが天国で永遠に続くというのではありません。いのちの質が全く違います。それは、神のいのちです。ですから、朽ちることもしぼむことのないいのちです。死も、苦しみも、悲しみも、悩みもない永遠の祝福の中で喜びと賛美に満ち溢れるいのちです。永遠のいのちは、行いによって得るのではなく、信仰によって恵みによって与えられるのです。隣人を愛する前に、第1番目に、あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。それは別の言い方だと、神としっかり向き合いなさいということです。神は人をご自身の形に似せてつくられました。最初の人間の心は神を理解し、神を知り、神のみ心を行うことができたのです。しかし、人間は神と向き合うことをやめて、神の思いより自分の思いを優先し、自分を神の上に置きました。そして、神から遠く離れてしまい、いのちを失ったのです。ですから、神を知ろうともせず、神と向き合うということもわからないのです。本来あるべき関係から大きくずれているのです。それを罪といいます。永遠のいのちを失っているのです。

あなたと向き合って永遠のいのちをくださる神:

イエスさまは、そのような人間の本質をご存じです。私たちに向き合って下さるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という言葉は重いのです。自分の家族や愛する人のために自分のいのちを犠牲にする人はいるでしょう。しかし、誰でも敵であり憎んでいる人のために自分のいのちを捨てることはできません。神は、私たち人間がそのままでは自らの罪によって滅んでしまうのを惜しみ、独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架におかけになりました。長谷川少年はその先生が自分と最後まで向き合ってくれると、信じたかったのです。そのような愛を信じたかったのです。しかし、誰も人間にそのような愛を要求することは無理と考えます。その先生が、長谷川与志充を愛するために、自分の子どものいのちを犠牲にするなどということは、起こりえません。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。それが、キリストの十字架です。