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幸せな人生への招き

2020年4 月5日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ヨハネの福音書5章1~18節

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
5:4 【本節欠如】
5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
5:16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
5:18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

<要約>

新しい人生に招かれる主:

  • 真の神から離れた人生を生きる人は失われた人である
  • キリストは失われた人を探して救うために来られた
  • 人任せで無気力に流されていた人生が信仰により救われる
  • 日常のことを思い煩わないで願いを全能の父に申し上げる

神は失われた人を救うためにいのちの代価を払ってくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。罪によって失われたいのちを神のひとり子のいのちに代えて買い戻してくださったのです。今、みことばを聞いている方々に罪の赦しと永遠のいのちが提供されています。キリストの十字架の贖いにより無代価で提供された罪の赦しです。そして同時に信じて受け止める者には罪が完全に赦されて決して滅びることのない永遠のいのちが与えられます。

律法(十戒)は幸せのルール:

  • 神は安息日にも休むことなく私たちのために働いておられる
  • 神は信じる者に将来と希望を与えてくださる
  • キリストを通して神と親子の関係に入れてくださる

神は、38年間病床に臥せっていたこの男に、「良くなりたいか」と声をかけられました。この言葉は、今日、みことばを聞くすべての人に投げかけられています。「良くなりたいか」。あるいは「幸せになりたいか」と言い換えることもできると思います。神はあなたに自由と幸せな人生を与えようとされています。その自由は、死からさえも自由にします。信じる者に将来と希望を与えてくださるのです。それが神の約束です。救い主イエス・キリストを信じて、神との親しい関係に入り、神の子供としてその祝福を受け継ぐ決断をしてみませんか。それは神のいのちにつながる永遠に続く素晴らしい祝福と恵みです。

新しい天と新しい地

2020年3 月15日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>黙示録21章1~8節
21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」

<要約>

神が共に住み悪いものは過ぎ去る:

  • やがて今の世は過ぎ去り、新天新地が創造されます。
  • 新天新地には永遠の住みか新しいエルサレムが準備されます。
  • 十字架を信じ罪赦されてシミも汚れも除かれた聖なる者が新しいエルサレムに招かれます。
  • そこでは一切の悪や罪は過ぎ去り神と人が共に住むこと。それは神の目的です。

聖書の約束は成就しこの世の終わりの時が来ます。信じる者には、新しいいのちの始まりです。誰でも、第一の死を通過しなければなりません。しかし、その後、信じる者は復活し、新天新地で新しいエルサレムで永遠を過ごすのです。悲しみ、苦しみは過ぎ去り、喜びと感謝があふれている新しいいのちです。

すべてが新しくされ信者は勝利の中に永遠の御国に入る

  • 神は常に新しい創造をなさっています。キリストを信じた者は新しく生まれたものです。
  • 真の勝利者は自分の罪を認めて自分に死んで神を見上げて救われる人です。
  • キリストは最初であり終わりです。万物の創造者であり、存在の目的でもあります。いのちの根源です。

キリストは世を救うために来られました。そして、すべての人の罪を贖うために2千年前に十字架で身代わりの死を遂げました。それは、「あなたがあなたの罪ゆえに滅ぼされることのないためです。キリストはあなたが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったことによります。」やがて、キリストは審判者として来られます。それまでの、時代は「恵みの時代、救いの日」であると聖書は宣言しています。今日、イエス・キリストをあなたの救い主として信じてください。

福音による真に幸いな人生

2020年3 月8日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>Ⅰコリント15章1~20節
15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
15:11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
15:15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。
15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

福音の最も大切なこと:

  • イエスの十字架はあなたの罪を赦し、イエスの復活はあなたのいのちを保証する
  • 福音を信じると困難があっても喜びと感謝と希望に生きることができる
  • 福音はキリストの十字架と復活という歴史的事実に根拠を置いている
  • この福音は二千年来、信仰により受け語り伝えられてきた。無数の証人がいる。

パウロは最も大切なことの中に、復活のイエス様にあって救われた多くの人々の事を挙げている。それは、多くの人々がこの福音によって、人生が変えられて、迫害をも恐れないで、大胆に喜びと感謝をもって生きてきた。コリント教会の信者の中にもそのような人々がいたでしょう。福音によって神の力を体験した典型的な例がパウロその人である。

福音は人生を変える神の力

  • 復活のキリストに会ったパウロは迫害者から宣教者へ大転換した。
  • 福音を信じたとき生きる意味と人生の目的が分かり前向きに生きるようになった
  • 復活の信仰がなければ、死んだら終りの人生となる
  • 復活のキリストに出会って死に打ち勝ち人生を変えられた無数の証人がいる

キリストの十字架と復活は、すべての人の罪を赦し、永遠の命与えるために神がなしてくださった歴史的事実だ。そして、キリストによって全ての人が生かされる。キリストを信じて、復活のいのちを自分のものとしているものは、最も幸せな人生を送るものとなる。

キリスト再臨の備え

2020年3 月1日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>Ⅰテサロニケ5章1~11節
5:1 兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。
5:2 主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。
5:3 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。
5:6 ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。
5:11 ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

<要約>

再臨がもたらす裁きと救い:

  • 再臨の時には、世に裁きが行われると同時に救いが成就する
  • 再臨の時、信者は復活し天に挙げられ、いつまでも主と共に生きる
  • 再臨はいつ来るかわからないが確実に来る。現代は、近いことが分かる。
  • 再臨に備え、キリストを信じて闇の者から光の子とされましょう

再臨の日は、キリストを知らず、認めず、神から遠く離れている者にとっては突如として襲う滅びです。しかし、キリストにある者にとっては、それは、救いであり希望であります。ですから、キリストを信じて光の子とされましょう。

闇ではなく光を選び取っていく幸い:

  • 以前は闇の中にいたがキリストを信じて光の中へ移された
  • 闇でなく光を選ぶとき祝福の法則が動く
  • 心の闇に神は光を与えて、罪を赦し、暗闇を取り除いてくださる
  • イエス・キリストを信じる者は永遠に主と共に生きる

キリストの再臨の備えは、特別なことではなく、現に行っているように、互いに励まし合い、互いに高め合いなさいというのです。それは、集まることをやめてしまうのではなく、今までの様に、信者は交わりを保ち、礼拝を守り、互いに励まし、愛し合い、得を高め合い、信仰と希望と愛に生きなさいということです。これが、今日の結論ということができます。

赦すためです主の十字架

2020年2月23日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書27章27~44節
27:27 それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
27:28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。
27:29 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。
27:30 またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。
27:31 こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。
27:32 兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。
27:33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、
27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。
27:36 それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた。
27:37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
27:38 そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
27:40 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
27:42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

<要約>

私がイエスを十字架につけたのです:

  • 多くの人々は神が近くに居られるのに偏見で見ることができない
  • 神に頼るのは弱い人間と決めつけるのは、自分は神以上だと思っている人
  • 多くの人々が「神がいるなら世界を救え。そうしたら信じてやる」という。
  • 「イエスの十字架が私の罪のため」と分かることが信仰の第一歩

皆さんにお訊ねします。イエス・キリストを十字架につけたのはあなたですか?とんでもない。2000年前の出来事にどうして現代の私に責任があるというのか。もしあなたが、自分とは関係の無いことであると考えているなら、聖書にあるとおり、神の力を体験することはできません。信じて救われてください。

全能の力であなたを愛し赦す神:

  • イエスは人の罪の呪いを身代わりになって十字架で負われた
  • 神の義は人の罪を正しく裁くvs神の愛は人の罪を無代価で赦す
  • 神は御子の十字架で、二つの相矛盾する御思いに筋を通した

「十字架のことばは、救いを受ける私たちには、神の力です。」十字架のことば、それは罪の赦しです。素直に十字架の赦しを受けるならば、神の怒りが取り除かれて、その人は救われて永遠のいのちに生きます。しかし、十字架を無視する人は裁かれて永遠の滅びに向かいます。イエス・キリストの十字架は今日みことばを聞くあなたのためです。そのことを信じて罪赦されて永遠のいのちに生きることができますように祈ります。

ゲッセマネ、イエスの悲しみと勝利

2020年2月16日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~46節
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

<要約>

共に祈るとき悲しみは半減し喜びは二倍となる:

  • イエスは、苦しみも悲しみも分かち合える友を求めておられる。
  • イエスは、あなたに切なる祈りを要請しておられる。
  • 教会の交わりは、「喜ぶ者と喜び、悲しむ者と悲しむ」のである

私たちが一緒に礼拝し、一緒に祈ることの大きな意義がそこにあります。イエス様と共に歩み、ともに苦しみ、ともに喜ぶことを私たちは続けなければなりません。教会はイエス様を中心とした兄弟姉妹の交わりです。私たちは試練にあっても祈り支え合うのです。さらに、クリスチャンは教会から出て、隣人に対しても、一緒にイエス様に祈ることを広げていくことが大切です。共に喜ぶとき、喜びは倍になり、共に悲しむとき、悲しみは半分になる、それは、万有引力の法則の様に確かな霊的法則です。

イエスはあなたを救うために十字架に向かって立ち上がられた:

  • 生まれながらの人は自らの罪により滅びへと向かっている
  • イエスは滅びへと向かっている人々を惜しまれ、悲しまれている
  • 創り主がおられることは偏見のない目で自然界を見れば明らかである
  • イエスは、死の向こうに復活と永遠のいのちの希望を示された

イエス様は、祈りぬかれて、最後に「立ちなさい。さあ、行くのです。」と堂々と足を踏み出し目前の十字架に向かいました。この後、捕えられて裁判にかけられ、十字架につけられて殺され葬られましたが、三日目によみがえり、40日間弟子たちに現れて、オリーブ山で弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。そして再び来られると約束しました。イエス様は死は絶望ではなくその向こうにある復活と永遠のいのちを示してくださいました。そして、この復活と永遠のいのちは信じる者すべての人に与えられるプレゼントです。イエス様を信じて救われましょう。

洗足、十字架、極みの愛

2020年2月9日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ヨハネ13章1~14節
13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

<要約>

洗足により極みまで愛してくださる神:

  • 神が無になり仕える者となってあなたに行動を起こしておられる
  • 神は神に敵する者をも極みまで愛される
  • 神に汚れた足を差し出し洗っていただく謙虚さと勇気を神は喜ばれる
  • あなたのいのちが救われるためにイエス様は十字架であなたの身代わりとなった
  • あなたがイエス様に心を開いて罪をきよめていただくときイエス様の弟子となる

皆さんは、イエス様があなたをその極みまで愛しておられるということばを信じていますか。今も生きておられここにおられるイエス様が、「わたしはあなたを完全に、極みまで、この上もなく愛しているのだよ」と宣言しておられます。それは無条件の愛です。イエス様はユダも愛していました。罪人を愛されているということがわかります。しかし、ユダはその愛を受け止めないで、悔い改めることなく裏切り、ついには自殺してしまいました。私たちはユダにならないでイエス様のこの愛を素直に受け止めましょう。

互いに赦し合い互いに仕えあう:

  • イエス様は模範を示し、お互いに赦し合い仕え合いなさいと言われた
  • 無条件の罪の赦しはこの世にはない、神の国の出張所である教会にはある

私たちは兄弟姉妹の罪を赦すのです。それが、互いに足を洗うことの意味です。クリスチャンは日ごとに主に足を洗っていただく者であり、同時に兄弟姉妹の足を洗う者たちです。キリストの弟子である私たちクリスチャンはお互いに仕えあうことによってその愛を全うしなさいというのです。

病気も死も神の栄光

2020年2月2日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ヨハネの福音書11章1~17節
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」
11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。

<要約>

神のいのちに生きる者は病気も死で終わらない:

  • 私たちは人との交わりの中で、生きる喜びや生きる力が与えられる。
  • 人との交わりの中でいのちは育つ
  • 人は神との交わりの中で永遠に続く喜びと希望に生きる
  • 神のプレゼントは、病気と死に代えて、復活による永遠のいのち

病気と死はもともと、人の罪の結果です。アダムの罪以来、罪はすべての人を支配しています。アダムの罪以来、病が人に入り、人は死ぬものとなりました。しかし、神のプレゼントは、すべての人の罪と死に代えて、永遠のいのちを備えてくださった事です。すなわち、復活の希望です。イエス・キリストが十字架ですべての人の罪を背負い代わりに死んでくださった。そして、3日目に復活されたことによります。その復活にすべての人は与れるのです。自らの罪を悔い改めてイエス様を信じる者は誰でも永遠のいのちをいただくことができるのです。

聖霊とみことばの光の中を歩く:

  • 人は「聖霊とみことば」の光の中を歩くときつまずく事は無い。

イエス様は「誰も働くことができない夜が来ます」と言っています。また、「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」と言われています。すなわち、聖霊とみことばが届いているこの地上の生涯の中に、神の命令に耳を傾けなさい、というのです。光を信じなさい、すなわち、イエス様を信じなさいというのです。

神との関係は大丈夫?

2020年1月19日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイ3章1~6,13~17節
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

神と正しい関係に入るには:

聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に人は罪を犯すものだと。聖書には、すべての人は罪を犯したから、神の栄光を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪です。自分の罪が分からない人は、イエス・キリストの救いもわかりません。実にイエス様は私たちの罪を取り除くために来られたからです。悔い改めは、今まで神を無視してきたことを悔いて、神に立ち返り、神との関係を正すことです。さて、イエス様は本来神の子で、生まれながら罪のないお方です。そのイエス様が、ヨハネの下に来てバプテスマを受けようとなさいました。この「すべて正しい」の「正しい」は、原語で「義」という言葉が使われています。義という字は、「神との関係で正しい」ということを意味しています。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げ、神を心にお迎えするという心の姿勢から出てきます。まだ、神との正しい関係に入っていない人は、信じて洗礼を受けることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

神との正しい関係を取り戻してくださるキリスト:

神はイエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これから救いのわざ、人類の贖いのわざに立ち上がったことを喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。イエス様ご自身は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意しておられました。すなわち受難を心に決めていました。無罪の神がすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれいのちを落としてくださったのです。信じる者は誰一人裁かれることなく、神のいのちにあずかり、復活の希望に生きるのです。このように、キリストは私たち人間と神との関係をご自身の血によって取り戻してくださったのです。ですから、悔い改めて信じれば、神の国はあなたのものになるのです。私たちのいのちはこの地上だけではありません。永遠を過ごすことになります。あなたには、いつまでも続く希望と喜びがついてくるのです。


神をお父さんと呼ぶ祝福

2020年1月5日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

神を父と呼べない人の姿:

この神をご自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。それまでは父祖の神と言っていました。神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。信仰によりイエス様の者とされた私たちは、「天の父なる神様」といのります。本来、被造物である私たち人間は創造主なる神に近づくことも向き合うこともできません。その神を私たちが「お父さん」と呼べる近い存在に、イエス様が、縮めてくださったのです。人は神から遠く離れていて、生まれながらのままでは創造主なる神を認めることも、信じることもできません。依然、罪と死と悪魔の支配下にあるのです。それが、神と出会うまでの私たち人間のありのままの姿です。それは、大きな断絶です。その断絶は、人間の努力や力では埋め合わすことのできない溝です。その溝にご自身が横たわり架け橋となってくださったのがキリストです。罪のない神のひとり子が、すべての人の罪をその身に受けて十字架で裁かれ死んでくださいました。御子を信じる者はその罪が赦されて、断絶は取り除かれます。

神を父とする祝福の人生:

イエス様は13歳を前にして、父母の神、父祖の神ではなく、ご自分の父であると宣言したのです。その後、ナザレに帰って両親に仕えられた、と書いています。聖書は、イエス・キリストを模範として生きるように勧めています。しかし、イエス様のようになることはできないでしょう。イエス様は神と人に愛され、最後まで神に従いとおしました。十字架さえも従いとおしたのです。その友のために命を捨てるほど大きな愛はないと言われました。しかし、友ばかりではなく、敵をも愛し、敵のために自分の命をも差し出したのです。私たちはいつも自分を優先して物事を考え進めています。また、自分に対してよい思いを持っていない人は避けます。しかし、イエス様はご自分に危害を与える人々とも向き合いました。また、イエス様は私たちに自分の十字架を負ってついてきなさいと命じています。それは、私たちを祝福にあずからせたいからです。天にあるあらゆる祝福を信じる者に与えたいのです。私たちが、感謝と喜びから献身するときに、神の栄光、真実、祝福の中に置かれていることに気づかせられるのです。