イエスの最初の弟子

2018年10月 07日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネ1章35~51節
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

<要約>

招きに応えキリストを切に求める:

当時、イスラエルはローマの圧政下にあり、国家的にも民族的にも宗教的にも暗黒でした。そのような圧迫された状況の中で、群衆は、バプテスマのヨハネこそ国民が待ち望んでいたキリストではないかとさえ思うようになりました。アンデレやヨハネのような志のある青年たちはそのようなバプテスマのヨハネに弟子入りしたのです。彼らは、自分たちの夢や希望をヨハネと言う人物に賭けようとしていたのでしょう。そのような中で、ヨハネは、自分はキリストではなく、荒野で叫ぶ声である、と自己紹介をします。そして、主の来られる道を整える働きをしている者だというのでした。そして、そのバプテスマのヨハネがイエス様を指して言いました。「この方は私よりも優れた方で、私はこの方の靴のひもを解く価値もない」と。それを聞いたアンデレとヨハネの思いに変化が出てきました。彼らは、ローマの圧政から人々を解放してくれる政治的なメシヤを期待していたからです。青年たちには立身出世の野望もあったと思います。彼らには、ヨハネよりもイエス様に着いたほうが有利であると考えたでしょう。イエス様について行ったのです。それに対して、イエス様は「あなた方は何を求めているのですか」と言う問いかけをしました。あなた方は「誰を」求めているのですか、と言わないで、「何を」求めているのですか、と問うています。イエス様に自分たちの夢を見出そうとしている彼らの心をイエス様は見透かしました。そして、「あなた方は何を求めているのですか」の質問によって彼らの思いを正そうとなさったのです。「わたしがイスラエルの政治的な解放者となってあなた方の夢や希望がかなうことか」と問われたのです。彼らは、イエス様に「何を求めているか」と言われて、その瞬間、イエス様に「何か」を求めていた自分たちに気付かされました。そして、自分たちの思いを正されました。そして、「ラビ。今どこにお泊りですか。」と尋ねたのです。私たち信者は、イエス様にいろいろな求めをします。しかし、イエス様ご自身を知らないでいることがないでしょうか。また、お願いばかりで、イエス様と人格的なお交わりをしていないことはないでしょうか。もし、あなたの子どもたちが、何か欲しい時だけ、あなたのところに来て、欲しいものが手に入ったらあと用はないと言う態度であったら親は悲しい限りです。親は単に利用されていると感じるでしょう。自分の平安、自分にとっての利ばかりを求めていて、キリストにあなたを明け渡していないということはないでしょうか。もしそうならば、それは、神を利用していることにはならないでしょうか。私たちは自分をキリストに明け渡して、キリストを知ることを切に求めましょう。なぜなら、あなたがイエス様を求める以上にイエス様はあなたを求めておられるからです。イエス様は言われました。「来なさい。そうすればわかります。」彼らはイエス様についていきました。そして、イエス様の泊まっておられるところで、おそらく一緒に食事をして、夜遅くまで語らったのでしょう。そこで、アンデレは、この方こそメシヤであると信じたのです。すなわち、アンデレは、バプテスマのヨハネが言っている通りこの方こそ聖書に約束されていた救い主だと確信したのです。イエス様はすべての人を招いています。わたしに来なさいと。わたしのところに来なさい、そうすれば私が誰であるかわかるようになります。その様に招いています。目には見えませんが、イエス様は教会に今日もいらっしゃいます。心の目を開いて、みことばを聞くならばイエス様はあなたにご自身を現します

十字架の血で和解を得て永遠のいのちに至る:

イエス様は真の救い主であります。信じる者に決して消すことのできない平安と生きる喜びをお与えくださいます。そのことを、バプテスマのヨハネがイエス様を指して言った「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」ということばとイエス様ご自身が言った「天が開けて、神のみ使いたちが人の子の上を上り下りするのをあなた方は今にみます」と言う言葉から考えたいと思います。はじめの「罪を取り除く神の小羊」は、イエス・キリストの働きについての預言です。旧約時代は、罪を犯した民を贖うために神殿の祭壇で傷の無い小羊の血が繰り返し流されていました。動物が身代わりとなって民の罪を負って祭壇で殺されたのです。それは、無罪のキリストが十字架で全人類の罪を贖うことの予表でした。すなわち、とき至って、全人類の身代わりとなって罪の罰をあなたの代りに十字架で受けて死んでくださった事です。神の御子キリストは全人類の罪を贖うため、ただ一度十字架で血を流されたのです。それが「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」の意味です。もしあなたが、イエス様の十字架があなたのためであったことを信じるならば、あなたのすべての罪は赦されて、あなたは救われます。次に、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」から考えてみます。これは、創世記28章12節のヤコブの見た夢からの引用です。イエス様は天と地をわたす梯子となられて、天使たちがイエス様の上を上り下りしているという情景です。これは、イエス様が神と人間の橋渡しとなり和解となることを表しています。イエス様は生涯一度も罪を犯したことがない神の御子です。その無罪の神が人となったのです。そして、すべての人の罪の身代わりとなって十字架で死んで、罪の代価を支払ってくださいました。その事によって、神の怒りは取り去られました。神との和解ができたのです。その事を信じた人は神との平和を得ているともいえます。神の怒りが臨むことはもうありません。その代わり、神の愛のみが注がれます。すなわち、永遠のいのちです。神のいのちにつながりしぼむことのない希望の人生が約束されるのです。イエス様は人々に君臨するのではなく仕えるために来られました。そして、十字架でご自身の命を捨てるほどにへりくだられました。人々を父なる神様にとりなし、結び付ける働きをなさったのです。すなわち、天の梯子となられたのです。イエス様は十字架で死んだばかりでなく、三日目に復活し、天に昇り神の右の座にお着きになりました。私たちの最後の敵である死に対しても勝利の道を開いてくださったのです。かくして、死は滅びではなく永遠の命の入り口となったのです。

イエス様に結びつけるアンデレ

アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でしたがイエス・キリストにお会いして、その目で見、その人格に触れて、イエス・キリストこそメシヤ、救い主だという確信を持ちました。そして、彼は兄弟ペテロをイエスのもとに連れてきました。また五千人の給食の時には、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年を見つけ、イエス・キリストのもとに連れてきました。またイエスに会いたいというギリシア人をイエス様に伝えたのもアンデレでした。アンデレは人々をイエス様につれてきてイエス様と引き合わせる人でした。そのような賜物を持っている人であったと思います。彼はイエス様の最初の弟子となった者ですが、ペテロやヨハネやヤコブのように表立った人物ではなかったようです。イエス様は山上での変貌の時、ゲッセマネの祈りの時、ヤイロの娘の癒しのときも、ペテロとヨハネとヤコブの三人を連れて行かれました。しかし、アンデレは連れて行きませんでした。普通であれば妬みや恨みを買うことになるのでしょう。しかし、アンデレはその点、十分に謙遜な人物であったようです。隠れた役割に徹することを喜べる人間になりたいと思います。主イエスは、「あなた方の間で偉くなりたいと思うものは皆に仕えるものになりなさい。」と言われました。それは、実はイエス様ご自身のお姿なのです。イエス様が言われたように、皆に仕えるということこそが偉大さのしるしなのです。私たちはこの主の教えをどのくらい本気で受け止めているでしょうか。この視点に立つならアンデレこそ偉大な人物ということになります。彼は素直に自分の賜物を認識しそれを守り、そして人々をイエス・キリストに連れてきた人物でした。アンデレは、自分を無にして仕えるもの、人々をイエス様に連れてくる、あるいは結びつけるものとなりました。アンデレはイエス様の生き様を正しくまねた人物でした。人々の注目を浴びるキリストではなく、自分を無にして神に仕えるイエス様の姿です。アンデレのように、つぶやきでなく、自分が今与えられた状況や与えられた賜物に満足し感謝したいと思います。私たちはキリストの僕として徹しているでしょうか。神様のことより自分のことを優先させていないでしょうか。神のみなが褒めたたえられることを喜びとしているでしょうか。何よりも私たちの罪のために死んでくださり、私たちに真実の命を与えるために復活してくださったイエス様をいつも意識して今週も生活しましょう。

 

 

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