大義に立つ戦争

2018年09月 30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記14章1~24節
14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、
14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。
14:3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。
14:5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
14:6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。
14:7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。
14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。
14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。
14:11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。
14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

<要約>

神の栄光のために用いる自由

アブラムは、彼から報告を受けロトを救出する決意をしました。アブラムは彼の家に生まれたしもべ318人を招集しました。それに、アネルとエシュコルとマムレの兵士たちを加えておそらく、500から1000人程度の軍隊となったと想像します。もちろん隊長はアブラハムです。しかし、ケドルラオメルの軍隊とは軍備ではかなわないとアブラハムは考えていたことでしょう。しかし、彼らは目的を果たして、帰途にあったことから油断していたことでしょう。そこで、夜襲をかける作戦を取りました。後に、ギデオンが少数の兵士で、深夜に圧倒的多数のミデアン人を打った時のように、何よりも主が加勢してくださって夜襲は大成功を修めました。アブラムはロトの家族や財産と大勢の人々を取り戻したのです。ケドルラオメル連合軍を打ち破って、ヘブロンへ帰る手前で、王の谷と言われるシャベの谷まできた時に二人の王がアブラムを出迎えました。シャレムの王メルキゼデクとソドムの王です。シャレムは現在のエルサレムです。シャレムの意味は平和です。平和の王メルキゼデクは戦争で疲れたアブラハムとその連隊に必要なパンとぶどう酒を持ってきて彼らの労をいたわりました。また、何よりも神の祝福の言葉を携えて来たのです。アブラムは、今回の戦争の大義を考えていました。当時は、戦争は自国の理のために、自分より弱い国を支配し、略奪して、国益増強のためのものでした。しかし、アブラムの戦いの目的はそれとは全く違っていました。それは、甥のロトの救出でした。ですから、アブラムは、今回の戦争は自分の財産を増やして勢力を張るためではなかったことを自分に言い聞かせていたと想像します。アブラムは多くの戦利品を携えての凱旋でした。それだけに、自分の行動の大義を考えていたところでした。アブラムはエジプトでの失敗を思い出していました。エジプトで妻のサラを妹であると言って偽りました。サラの美しさゆえにパロは宮廷にサラを召し入れました。そしてそのために、アブラムはパロから多くの家畜や多くの男女の奴隷をもらい富んだのです。しかし、それは、神への罪でした。その事があって、今度は、アブラムは自分の行動の動機を吟味して、神の承認を得たいと思っていました。そのような時、いと高き神の祭司であるサレムの王メルキゼデクの訪問を受けたのです。メルキゼデクは、アブラムを祝福して言いました。「天と地をつくられた神が、アブラムの敵を彼に渡された。いと高き神に誉れあれ。」と。アブラムは、この戦いが神に覚えられており、神が勝利を与えてくださった事がはっきり認識したのです。そして、神に栄光を帰すことを教えられたのです。このように、アブラハムの信仰を受け継いだクリスチャンは自分の行動を吟味するのです。常にみこころかどうかということです。すべてことはやっていいのです。しかし、それらのことが益になっているかを吟味するのです。クリスチャンになるといろいろ制限を受けて自由がなくなると思っている方が多いと思います。実はその逆です。クリスチャンはどんなことにも支配されません。ただそれが、神のみ心に沿ったことかを吟味します。イエス様を信じてみことばに立って生活を設計するとすべてが秩序だって、何にも縛られない本当の自由を得るのです。そして、アブラムはメルキゼデクから神に栄光を帰すことを教えられて、アブラムはすべての財の十分に一を彼に与えたのです。そこにアブラムの神への献身があります。このようにアブラムは戦利品を自分の富とすることもできたのですが、ロトの救出と言う大義に立ち神に栄光を帰したのです。

神からの祝福と悪魔の誘惑

メルキゼデクの訪問に対して、次の、ソドムの王は、アブラムに言いました。「人々は私に返して、財産はあなたがとってください」と。ソドムの王は、邪心をもってアブラムに近づいたと思われます。取引を持ち掛けます。彼には、エラムの王ケドルラオメルからの脅威がなくなりました。その分、アブラムが逆に目の上のたん瘤のように今後脅威となる存在となりました。そこで、彼は、富をアブラムに与え、アブラムを富ませたのは自分であるという思いをアブラムに刻み込もうとしたのです。それは心理作戦です。次には巧みにアブラムを邪悪な誘惑に誘い、アブラムをはめて弱みを握り、自分の支配下に置こうと考えたのです。アブラハムは、そのことに気付き、ソドムの王の申し出をはっきりと断るのでした。二人の全く違う王の訪問は何を意味しているのでしょうか。それは、何か一大事を成し遂げた後に来る神からの祝福と悪魔の誘惑です。私たちも一つの事業なり、計画なりを実行した後、それがうまくいったときに二通りのことがやってきます。それは、一つは神からの祝福です。そして私たちは、神に栄光と誉をお返しするのです。もう一つは自分の手柄を覚えて高慢になり、自分に栄誉を帰そうとする誘惑です。ソドムの王の申し出は悪魔の誘いでした。アブラムはソドムの王の申し出をきっぱり断り戦争で戻したすべての者を彼に返しました。よく言われるのは、霊的に一番危ないときは、何かを成し遂げた時だと言います。悪魔はあなたの心にささやきます。その時、私たちは神に申し上げましょう。『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と。

クリスチャンは万人祭司:

メルキゼデクは、キリストではありませんが、キリストの型であります。メルキゼデクは、王であり祭司でした。キリストも王であり、祭司の職務を担っていました。祭司の職務は、とりなしです。人を神に執り成すことです。当時では、罪の贖いの代価として、傷のない動物をいけにえとして神に捧げました。キリストはご自身を人の罪の贖いの代価として、ご自身のいのちを犠牲におささげ下さいました。そして、今も、キリストに来るものを神に執り成し、罪の赦しをご自身の十字架の贖いにより宣言しているのです。アブラムには神のことばが与えられて、その時に祭壇を築きいけにえを捧げて祈りました。それは、神への礼拝行為でした。私たちクリスチャンも礼拝の民と言われています。昔の人は、祭壇を築き神に礼拝しました。現代の私たちは、教会に来て賛美のいけにえを捧げ、自分の心と思いを主に捧げて礼拝します。クリスチャンは万人祭司であると言われています。つまり、すべてのクリスチャンは祭司としての職務を負っています。祭司は祭壇でいけにえの羊などの動物の血を携えて神のみ前に出ます。同様にクリスチャンは神の子羊であるキリストが十字架で流された血によって神の前に立つことができる存在です。そして、クリスチャンはすべての人の罪の贖いとなった神の子羊であるキリストにより、周りの人々のために執り成し祈る人々だからです。わたしたちも家族友人知人のために日々、とりなしの祈りをしましょう。

 

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