神をお父さんと呼ぶ祝福

2020年1月5日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

神を父と呼べない人の姿:

この神をご自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。それまでは父祖の神と言っていました。神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。信仰によりイエス様の者とされた私たちは、「天の父なる神様」といのります。本来、被造物である私たち人間は創造主なる神に近づくことも向き合うこともできません。その神を私たちが「お父さん」と呼べる近い存在に、イエス様が、縮めてくださったのです。人は神から遠く離れていて、生まれながらのままでは創造主なる神を認めることも、信じることもできません。依然、罪と死と悪魔の支配下にあるのです。それが、神と出会うまでの私たち人間のありのままの姿です。それは、大きな断絶です。その断絶は、人間の努力や力では埋め合わすことのできない溝です。その溝にご自身が横たわり架け橋となってくださったのがキリストです。罪のない神のひとり子が、すべての人の罪をその身に受けて十字架で裁かれ死んでくださいました。御子を信じる者はその罪が赦されて、断絶は取り除かれます。

神を父とする祝福の人生:

イエス様は13歳を前にして、父母の神、父祖の神ではなく、ご自分の父であると宣言したのです。その後、ナザレに帰って両親に仕えられた、と書いています。聖書は、イエス・キリストを模範として生きるように勧めています。しかし、イエス様のようになることはできないでしょう。イエス様は神と人に愛され、最後まで神に従いとおしました。十字架さえも従いとおしたのです。その友のために命を捨てるほど大きな愛はないと言われました。しかし、友ばかりではなく、敵をも愛し、敵のために自分の命をも差し出したのです。私たちはいつも自分を優先して物事を考え進めています。また、自分に対してよい思いを持っていない人は避けます。しかし、イエス様はご自分に危害を与える人々とも向き合いました。また、イエス様は私たちに自分の十字架を負ってついてきなさいと命じています。それは、私たちを祝福にあずからせたいからです。天にあるあらゆる祝福を信じる者に与えたいのです。私たちが、感謝と喜びから献身するときに、神の栄光、真実、祝福の中に置かれていることに気づかせられるのです。

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