敬虔な人コルネリオ

2018年07月 08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き10章1~17,34~43節
10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
10:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。
10:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。
10:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
10:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。
10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。

10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
10:41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。
10:42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
10:43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

<要約>

神を求めて祈る人に主は顕れる:

カイザリヤにいるローマの百人隊長コルネリオは異邦人ですが立派な人物でありました。彼は敬虔な人で、ユダヤ教の教理を受け入れて、宗教的慣習を守っていました。コルネリオは天地万物の創り主である神を信じていました。神の民ユダヤ人に与えられた律法を重んじて、律法に則った生活をしていました。神の望んでおられる生き方を目指していたと言えます。ユダヤ教徒としてするべきわざを心得ていました。一家をあげてユダヤ人社会に溶け込み、会堂(シナゴグ―)に集い、律法や預言書の朗読を聞き、ラビたちの説教を聞いていたことでしょう。ですから、ユダヤ人が救い主を待ち望んでいたことも理解していました。そして、彼自身も救い主を待ち望んでいたことでしょう。今日の記事から、彼は午後3時の祈りの時を持ちました。それは、ユダヤ教徒の夕方の祈りの時として一般的に持たれていたことです。コルネリオはなぜ、全世界の造り主であるユダヤ教の神を信じるに至ったかは何も書いていません。しかし、ローマの百人隊長という職業からも推し量ることができます。百人隊長は短命で死と隣り合わせに生きていた人間でありました。コルネリオは自分が異邦人ではありますが、そのことで卑下することもなく、神を愛し、恐れ、信頼する人でした。打算のない真心を主に捧げていました。そのようなコルネリオに聖霊がお降りになりました。聖霊は、自分を主に明け渡し、従う人におくだりになるのです。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」彼の祈りと奉仕は神への献身の現れでした。それに対して、当時の宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちの祈りは、自分の敬虔さを誇示する祈りであったようです。神は私たちのささげものそのものより、それを差し出す私たちの心をご覧になって喜びます。砕かれた、悔いた心です。謙遜でへりくだり、自分の罪をはっきりと認識している人を求めています。私たちの祈りや奉仕もそこに立ちたいと思います。

祝福と恵みを隣人に届ける:

ある時、み使いがコルネリオの前に現れてペテロを家に招いて話を聞くように促しました。ペテロはペテロで不思議な夢を見ました。天から四角を吊るされた大きな風呂敷が降りてきて中にある様々な四足の動物や這うもの空の鳥などを屠って食べなさいという声を聞いたのです。律法で、食べてはいけないものは食べられないとペテロは断ったものの、三回同じようなことがあり、「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」と戒めを受けたのです。そのような夢を見ていたちょうどその時に、コルネリオから使わされた人たちが彼の家の門口に立っていたのです。ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり訪問したりするのは律法にかなわないことだったのです。異邦人の家に入ることも、共に食事をすることも許されていなかったのです。そのことはコルネリオも十分承知していたことでした。しかし、ペテロもコルネリオもそのような慣習にとらわれず、また人の目を恐れずに、ためらわず聖霊に聞き従ったのです。ここでペテロは神の御心そして、神の救いの御業は異邦人にまで及んでいるということを発見しました。ペテロはコルネリオとあって、神は偏ったことをなさらないということに気付いたのです。イスラエルには、二つの湖があります。それらは神のメッセージを伝えています。ガリラヤ湖と死海です。ガリラヤ湖は豊かな緑に囲まれていて、湖にはたくさんの魚が取れます。しかし、死海は名前の通り死の海です。生物は濃厚な塩分のために住むことができません。また、死海の周囲には緑が全くなく砂漠となっています。死海にはヨルダン川から水が流入しています。しかし、死海から流出している川はありません。一方、ガリラヤ湖では、周囲の山々から多くの川が流入しています。そして、ガリラヤ湖もヨルダン川へ流出しているのです。ここに一つの教訓があります。死海は恵みを受けているが、その恵みを他に流さない人の生き方を示しています。ガリラヤ湖は恵みを受けて、それを他の人々へ流していく人の生き方です。コルネリオもペテロも共通点は、自分に与えられた賜物や才能を隣人のために用いていたということです。私たちクリスチャンも神の恵み、祝福を受けた者たちです。それは一方的な憐れみであったことを覚えます。しかし、それを他の人の祝福のために用いていくのです。

信じれば誰でも罪の赦しを受ける:

「イエス・キリストによって平和がもたらされる」。イエス・キリストが神と私たち人間の間に立ち、神との和解を成し遂げて下さったのです。イエス様は人と神の仲介者です。私たちのためにいつも神にとりなしていてくださるのです。そして「イエス・キリストはすべての人の主です」とあります。聖書が主張していることは、信者、未信者にかかわりなく、イエス・キリストは全人類の主であるということです。私たち一人ひとりは受け継いだ復活の証人なのです。これが神の方法です。神は長い年月をかけて、私たち一人ひとりを用いて福音を拡大させておられます。「その名によって罪の赦しが受けられる」とあります。最後に最も重要なことがのべられています。聖書にこう書かれています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(Ⅰテモテ1:15)イエスさまは私たちの罪を赦すために来られた。道徳教育のために来られたのではありません。人間の正しい生き方を教えるためにではありません。私たちに模範の人生を示すためにでもありません。また、自分で悟りを得るために来られたのではありません。自ら私たちの罪を背負って、身代わりとなって死ぬために来られたのです。私たちの罪を取り除くために来られたのです。ただ、十字架にかかり、身代わりとなって私たちの罪を赦すためにです。罪の赦しがそんなに重要なのでしょうか。なぜなら、罪の赦しがなければ、私たちは誰も救われません。罪と死の中に依然閉じ込められているのです。自分の罪のために滅びるばかりなのです。他の宗教はこの罪の問題を正面切って取り扱っていません。人間の最大の問題はこの罪の問題です。人間のどんな力や努力でも取り除くことができない。神がご自身の命を捨てなければならなかった。そうしなければ、罪を人間から取り除くことができないのです。福音の中心は罪の赦しです。キリストの十字架から罪の赦しが流れ出て、今は、全世界に及んでいます。世界中のどんな人もこの罪の赦しを受けることができます。それは、空の両手を上げて、神から受けるだけでいいのです。