安息日の主

2018年02月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書12章1~14節
12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
12:4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
12:8 人の子は安息日の主です。」
12:9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。
12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。
12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

<要約>

神のお心を失った人間:

民の指導者であった律法学者やパリサイ人は、安息日にイエス様の弟子たちが麦の穂を積んで食べていたのを、安息日には仕事をしてはいけないので律法違反だと訴えました。当時、律法の専門家は律法をより詳しく解釈して、生活に当てはめることを人々に勧めていました。十戒の第三戒は、「安息日を聖なる日として、どんな仕事もしてはならない」とあります。「どんな仕事もしてはならない」というのはどういうことかをより詳細に解釈して、様々な決まりをつくったのです。それらの多くは、規則のための規則です。意味のない規則です。もう一つの訴えは、片手のなえた人の癒しです。安息日に病気の人を治すのは、律法違反だという考えから出たことです。安息日は人のためにあるのに、逆に安息日が人を苦しめたらどうでしょうか。人が安息日の奴隷、あるいは人が規則の奴隷になってしまいます。当時の宗教指導者たちは、自分は律法を守っているから正しい人間であると主張し、他人を裁くのです。それを律法主義と言います。神は奴隷状態で休みのない生活を送っていた民に、休息と自由を与えるために安息日を定めました。律法学者やパリサイ人を含む宗教指導者人たちは、その神のお心を失いました。代わり規則に規則を作り、民の自由を奪ったのです。さて、私たちは、神のお心を覚えて主の日を過ごしているでしょうか。休息と自由を得ているでしょうか。主日は、神が私たちに仕えてくださる日です。神が私たちのためにその時を定め、休息を与え、聖なるものに触れさせ、みことばを与え、罪を赦してくださる日です。また、同時に、私たちクリスチャンは、王である祭司ですので、日曜日に、祭司の務めとして伝道したり、愛の奉仕をしたりするのも良いことです。以前、あるクリスチャンが、日曜日が一番疲れる、と言っていました。それは神のお心ではありません。日曜日は、魂の安息、自由と喜びの日です。私たちは神のお心を失わないようにしたいものです。

神のお心を取り戻したキリスト:

安息日は、神が人間のために設けてくださった日です。今日の箇所を見ると、逆に安息日が、人間を苦しめているということがわかります。そこで、イエス様はかれらに神が大切にされていることは何かをお示しになったのです。イエス様はホセヤ書のみことばを引用して、『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』と言われました。ここでイエス様はご自身があわれみの神であることを示されました。一匹の羊を持っている人が、その羊が穴に落ちたら、安息日でも引き上げてあげるでしょう。しかし、羊よりはるかに価値のある人間にはあわれみのない対応をするというのは、何かおかしくないか、よく考えてみなさい、と問われているのです。そして、男の手をいやしてあげました。イエス様は、愛とあわれみが優先することを示されました。安息日に病人を癒してあげてもいいのだよ、それが安息日の規則を破っていることにはならないのだよ、と教えられたのです。イエス様のお心は、「わたしにはあなたは高価で貴いのだよ。あなたの代わりに裁かれ死に定められてもかまわないと思うほどにあなたを愛しているよ。」というものです。それは敵をも愛する愛です。その憐れみと愛の大きさをイエス様は十字架で示されたのです。これまで、旧約の民は神殿、つまり宮に折々に行き、神の臨在に触れ、また、動物や穀物の犠牲の贖いにより罪の赦しを、祭司を通して受けていました。イエス様は、「ここに宮よりも大きなものがいる」とご自分を指して言われました。これからは、私たちはイエス様のところへ行き、イエス様を信じて、罪の赦しを受け、神との正しい関係に入るのです。神はあなたを哀れみ、罪と死の束縛から解き放ち、救うために御子イエス・キリストを送られました。キリストは安息日の主としてご自身を提供されました。キリストを通して信じる者は永遠の安息に入れるのです。

御心を選び自由にされる:

イエス様を心にお迎えして、神のお心を知った者は、心に自由があります。神は私たちを幸せにするために律法を与え、安息日を定められました。神は私たちに十戒を守って幸せになりなさい、と命じています。特に第三戒の「安息日を聖なる日として守る」については、イスラエルの民は歴史を通しても守ってきたことです。彼らは真の神を礼拝することにより、自分たちが神の民であることの自覚を持ち続けました。神様のみ心は、「安息日を聖としなさい」です。すなわち、全世界を創り私たちをおつくりになった神を礼拝しなさいということです。聖書には、「安息日には、仕事をしてはいけない」と書いています。すなわち、「仕事に支配されてはいけない」ということです。優先順位をつけて、生活を律しなさいというのです。「時間に振り回されるのではなく、時間を支配しなさい」ということです。安息日を守り、あなたの神を礼拝しなさいという神の強い意志を見ます。私たちクリスチャンも毎週教会の礼拝に来ます。主日を守るという自己選択によって、あなたは自由であることを証明しているのです。神様の真意は、私たちが主日を守ることにより、時間にコントロールされるのではなく、私たち自身が時間に対する決定権を握っていることをわからせることです。礼拝は神様が準備して私たちを招いてくださっているのです。礼拝では、神様はあなたにみ言葉を与え、イエスご自身を与えてくださいます。時間からの解放と自由、それはとりもなおさず、やがて来る死からも自由にされることで永遠のいのちといえるでしょう。