最初の奇跡

2018年02月 04日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章1~11節
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

<要約>

自由と喜びの時代の到来:

バプテスマのヨハネは律法を守るものにふさわしい禁欲的な生活をしていました。イエス・キリストの到来により、律法を守らなければ裁かれるという禁欲の時代は終わりました。そして、結婚式の祝宴に象徴される喜びと楽しみそして希望の時代が来たのです。自分の内面の罪に責められて、神の裁きに悩む律法の束縛の時代は終わって、罪の赦しと律法からの解放を喜ぶ時代が来たのです。私たちは、ああしていけないこうしてはいけないという生き方から、ああすることもこうすることもできるという生き方になっているのです。失敗を恐れて退くのではなく、失敗を益に代えてくださるイエス様にゆだねて前に進むのです。それが、クリスチャンライフです。

人の思いを超えた神のご計画:

さて、婚宴の席でぶどう酒がなくなってしまいました。イエス様の母は「ぶどう酒がありません」とイエス様に訴えました。彼女は、イエス様が特別な人であること、神の子であること認めていました。イスラエルを救うために来られたことを信じていました。そのイエス様が、ヨハネからバプテスマを受け、そして、弟子たちをも得て、ガリラヤに帰ってきたのです。マリヤはイエス様が民の救いのために立ち上がる時が来たのだ、とみていたと考えます。

母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と言いました。イエス様がその力を表して、ご自分を世に表すことをひそかに期待していたのです。それに対して、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と母マリヤに言われました。この後7章で、同様に「わたしの時はまだ来ていません」と、イエス様はご自分の兄弟たちにも言いました。イエス様の母マリヤも兄弟たちも、イエス様の時が、十字架を意味するとは思わなかったのです。私たち人間の思いと神の思いとは違うということです。私たちは現状を憂えて、何とかしてほしいと考えます。しかし、神の御心はそこにはないということがよくあります。この時点では、母マリヤも弟子たちもイエス様に別の期待を持っていたでしょう。イスラエルの民の願いは、ローマの圧政から、自分たちを解放するダビデの再来である王を願っていました。しかし、イエス様の心にあったのは、すべての人の救いです。神が人となって来てくださったことの意味です。バプテスマのヨハネが言ったように「世の罪を取り除く、神の子羊」となることです。人を滅びから救い出すためです。神と人間の和解となるために来られた。神との関係回復です。それにより人は人として回復するのです。現代社会に生きる人々は、神を無視して、神から遠く離れています。それが罪の元となっています。万物は神によって造られ、神によって存続し、神の栄光のために存在しています。ですから、歴史も世界も神中心に動いています。神から離れた人間は、世界は人間中心に動いていると思っています。否、自分中心に動いていると思っています。それは神のおつくりになった秩序に反した歩みです。だから、人間は目的を失っています。あなたが、自分中心から神中心で、神の栄光のために生きるなら、自由と喜び、感謝と賛美の人生を送ることができるのです。マリヤは、イエス様から拒絶の言葉をもらいました。しかし、マリヤはイエス様が、母の願いを何とかしてくださることを信じていました。それで、手伝いの人たちに「あの方が言われることは何でもしてあげてください」といったのです。これはマリヤの立派な信仰の態度です。私たちも、祈りがその時聞かれなくても神のみ旨を求め続け願いが聞かれる時を待たなければなりません。神は愛ですから、あなたの願いを必ずお聞きになるのです。私たちは目先のことしかわからない存在です。自分の思う通りに状況が開けなくても、神を信頼していくことです。神のなさることは最善であるということです。

恵みによって変えてくださる神:

無味な水を豊かで味わいの深い良質のぶどう酒に変えてくださったように、イエス様に来るものを、イエス様は、役に立たないしもべから高価で貴いものへとつくり変えてくださるのです。宴会の世話役は「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだ」と言いました。これは、最初はぶどう酒のおいしさがわかっても、飲んでいるうちに味覚はマヒしてきます。だから、後から質の落ちたぶどう酒をだしてもわからないというのです。そして、普通はそうするというのです。これが世の常だというのです。人間は、相手によって対応を変えます。身分の高い人やお金持ちにはそれなりの対応、貧しい人には質の低い対応をします。しかし、神の御子は人間のようではなく、だれにでも一貫して、最初から最後まで最も良いものをお与えくださるのです。キリストの福音は、だれにでも、どんなに罪深くても、重罪を犯した死刑囚に対しても最高のプレゼントとして提供されています。そして、私たちがどのような状況にあっても、病気であと一日しか命がないとしても、イエス様の救いの福音は届いています。信じれば救われます。どんな人も、イエス様の十字架により罪が完全に取り除かれて、神との完全な交わりに入ることができるのです。これが福音です。福音は、私たちを罪の奴隷状態から解放し、自由の身とするのです。イエス様は、あなたの人生を味わい深い良質なぶどう酒にたとえられるような豊かな人生にしてくださるのです。もし、信じるなら、あなたはキリストに結び合わされて、天に国籍を持つ、神の子どもとされるのです。