イスラエルの選びと救い

2018年01月 07日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙11章13~29節
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

<要約>

行いではなく信仰によって救われる:

聖書が示している罪は根元的で、根深く、人間性の腐敗と言えるものです。マルコの福音書には、具体的な罪が書かれています。悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみなどです。その腐敗である罪は心から発しているというのです。私たちは、行いにおいてはそのようなことをしないと言っても、心においては、犯してしまう無数の罪があります。そして、その罪に対して、私たちはどんなに良い行いを積んでも、それで神は罪を帳消しにしてはくださらないのです。それは、神は正義の神だからです。神は一点の汚れもシミもないきよい神です。まったく正しい神です。ですから、人のどんなに小さな罪も受け入れることはできません。さらに、罪からくる報酬は死と聖書に書いている通り、罪の結果は死です。ですから、人は生まれながら罪により、死に定められて、永遠の滅びへと向かっています。では、人はどこに救いがあるのでしょうか。そこで、神が人を救うために用意してくださったのが、キリストの十字架です。人を救うために神が人となって来てくださった。罪なきキリストがすべての人の罪をその身に受けて十字架で身代わりとなって死んでくださいました。十字架で死ぬことで私たちが払うべき罪の代価を支払ってくださいました。それを十字架の贖いと言います。その十字架の贖いを信じた者は、義と認められます。キリストの十字架のゆえにすべての罪は赦されます。罪の赦しをただ信じて受け取るだけでよいのです。良い行いもお金もいらない、ただ空の手で受け取ればよいのです。わたしたちは、キリストの十字架を信じるとき、罪の赦しによる永遠のいのちをいただきます。それは、神からの大いなる祝福と喜びです。キリストの救いは、罪と死と悪魔からの救いです。悪魔から救われてキリストの支配に移されます。つまり、神の民に移籍されるのです。それでは、信じれば救われると言って、行いはいらないのかという質問です。罪が赦され救われるためには行いはいりません。しかし、信じて罪赦された人は、赦された結果としてよい行いに励む人になります。救いの結果としての善行です。そこを間違えないようにしましょう。

神の約束と選びは変わらない:

神は罪によって滅びに向かっている人を救うために人類救済のご計画を遂行なさいました。ひとりの人を選び、その人の子孫である一民族を選び、その民族を通して他のすべての民族に救いと祝福を届けようとなさいました。そのひとりの人がアブラハムです。その人の子孫がユダヤ民族あるいはイスラエル民族です。アブラハムが選ばれたのは神の一方的な選びです。アブラハムは、行いではなく、信仰により救われました。彼の罪を贖うために、やがて子孫に現われるメシヤ、キリストをはるかに仰いで救われたのです。そのアブラハムへの選びはイスラエル民族に継承され、イスラエルは神の民となりました。彼らには律法が与えられました。聖なる国民として他の民族とは自らを区別するようにということです。また、王である祭司として、他の国々へ真の神の恵みを伝達していく働きを与えられました。約束の土地も与えられました。しかし、彼らは他の神々、すなわち偶像に心惹かれてしましました。十戒の第一戒の「わたし以外に神々を持ってはいけない」の戒めを破り、真の神でない偶像を拝むようになり、霊的姦淫を犯したのです。神はたびたび預言者を送り、イスラエルが悔い改めて神のもとに帰ってくるようにいつも手を差し伸べておられたにもかかわらず、立ち返らず神から離れてしまったのです。そして、自らの罪のために、非常に弱くなり大国に支配されて、痛めつけられたのです。さらに、彼らは、律法を信仰によって追い求めないで、行いによって追い求めました。ついには、神がお送りになった神のひとり子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。彼らはメシヤを待ち望んでいたのですが、イエス・キリストをそれと認めることができずにつまずいてしまいました。キリストは彼らにとってつまずきの石となったのです。つまずいて彼らは倒れてしまったのです。そのために、この救いは異邦人へ届けられるようになりました。異邦人への使徒として立てられたパウロはアジア、ギリシャ、ローマへと異邦人の地へイエス・キリストの救いを届けたのです。それでは、神はイスラエルをお見捨てになったのでしょうか?イスラエルはキリストを十字架で殺し呪われたものとなってしまったのでしょうか?否です。イスラエルに与えられた神の約束は破棄され、クリスチャンたちに置き換わったという考えがあります。しかし、それは間違いです。パウロは異邦人への使徒としての召しを受けてその勤めに命を懸けていました。しかし、それはまた、異邦人が救われて神の民に加えられることにより、ユダヤ人がねたみを起こして、幾人かでも救いに入ることを願ってのことです。ここでのパウロの狙いは、福音が異邦人に届けられて、彼らが救われて祝福されるのを見たユダヤ人にねたみを起こさせることです。ユダヤ人たちにこう思わせたいのです。「どうして異邦人がこのような祝福を受けるのだろうか。どうして、この祝福が私たちを飛び越えて異邦人に行ってしまったのだろうか?」と。イスラエルが神に捨てられることで、福音が異邦人に伝えられました。そして、彼らが信じることで、神と世界との和解が実現しました。しかし、イスラエルが悔い改めて救われるなら、霊的に死んでいたイスラエルは、死者の中から生き返ることになります。イスラエルが捨てられたのは一時的なことであり、彼らはやがて悔い改めて救われるのです。福音が異邦人の間に広がり、異邦人世界に福音がいきわたったとき、その福音の波がイスラエルに戻ってくるのです。そしてついに、イスラエルに救いが届き民族的救いが成就するというのです。現在、異邦人世界にすさまじい勢いで福音は届いています。すべての国民に福音が証されて世の終わりが来ると書いています。神が言い送ったことは必ずなります。約束は必ず行われます。そのことを信じて待ち望む者でありましょう。

恵みの接ぎ木に恐れと謙遜で留まる:

野生種のオリーブの枝は異邦人です。栽培種のオリーブはイスラエルです。栽培種の枝、イスラエルは不信仰によって折られて野生種の枝、異邦人が信仰によって接がれました。そして、オリーブの根から豊かな養分を受けているのなら、あなた方、枝である異邦人は自分を誇ってはいけない、根があなた方を支えているからです。高ぶらないで、謙遜でいなさい。恐れなさい。もともと、私たち異邦人は、受けるに値のない、優先権のない、資格のない者であったからです。ただ、神のあわれみと恵みによって救っていただき、神の民に加えられたのです。しかし、神に留まらない、信仰に留まらない、教会を離れ、聖書も読まない、祈らない、ということになれば、あなた方は切り落とされるとパウロは言います。逆に信仰に留まり続けるなら救いの完成を見るのです。神の選びも約束もキリストも、もとはと言えばイスラエルのものです。落としてしまったこの素晴らしい恵みを私たちは彼らにお返しするのです。私たち異邦人クリスチャンは神の一方的な恵みで接ぎ木された者たちです。神の民とされたのはイスラエルであり、今もそれは変わりありません。ですから、神を恐れつつ、謙遜になり、自分を誇ることを戒めましょう。また、イスラエルに対しては、彼らを軽蔑したり裁いたりしてはいけません。彼らを尊敬して、イスラエルが悔い改めて神に立ち返ることを祈り続けましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です