神と人と教会に仕える生活

2023年12月31日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>士師記6章1~14節
【新改訳2017】
6:1 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを行った。そこで、【主】は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。
6:2 ミディアン人の勢力がイスラエルに対して強くなったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟や洞穴や要害を自分たちのものとした。
6:3 イスラエルが種を蒔くと、いつもミディアン人、アマレク人、そして東方の人々が上って来て、彼らを襲った。
6:4 彼らはイスラエル人に向かって陣を敷き、その地の産物をガザに至るまで荒らして、いのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばもイスラエルに残さなかった。
6:5 実に、彼らは自分たちの家畜と天幕を持って上り、いなごの大群のように押しかけて来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。彼らは国を荒らそうと入って来たのであった。
6:6 こうして、イスラエルはミディアン人の前で非常に弱くなった。すると、イスラエルの子らは【主】に叫び求めた。
6:7 イスラエルの子らがミディアン人のゆえに【主】に叫び求めたとき、
6:8 【主】は一人の預言者をイスラエルの子らに遣わされた。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、
6:9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。
6:10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが【主】、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」
6:11 さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。
6:12 【主】の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、【主】があなたとともにおられる。」
6:13 ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし【主】が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『【主】は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、【主】は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」
6:14 すると、【主】は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

<要約>

敗北のサイクル(妥協と埋没):

イスラエルの民は妥協したために、彼らは敗北のサイクルに入っていきました。パウロは「あなた方は、この世と調子を合わせてはいけません」と言いました。具体的には、遊興や放蕩の仲間に入ってはいけません。また、低劣な話やうわさ話の輪に入ってはいけません。会社や組織で働く人々は、不正やごまかしに加担してはいけません。むしろ神は、「彼らの中から出て行って、彼らと分離せよ」と言っておられます。しかし、信者はこの世で孤立してはいけません。この世から遊離してはならないのです。この世の人々との付き合いを断ち切ってはいけません。この世の人々から遠ざかって孤立するのではなく、人々に感化を与えていくのです。この世の人々に影響力をもって行くのです。積極的に世の人々の中に入っていくのです。イスラエルの民のように敗北のサイクルに入ってはいけません。敗北のサイクルは、神のみことばを無視すること、そして、神に信頼を置かないことから始まるのです。それは罪であり行き着くところは死であり滅びです。

勝利のサイクル(分離と感化):

勝利のサイクルにいつもとどまる秘訣は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」です。旧約の神の民のようにリーダーを見失うのではなく、私たちのリーダーであり贖い主であるキリストから目を離さないことなのです。キリストを信じ続けることなのです。イエス様は、言われました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。また、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と。この世にあっては、私たちはそれぞれに与えられた賜物を用いて人々に仕えます。隣人愛の実践です。また、キリストの身体である教会の一員として、神の国を知らしめていくのです。つまり、神の救いを世に届けていくのです、つまり福音伝えていくのです。クリスチャンになれば苦難や困難はなくなるということはありません。しかし、そのときに叫び求める方がおられるのです。それは、勝利者であるキリストです。そして、勝利のサイクルに入れられて、嘆きは、感謝と喜びと賛美に変えられるのです。信仰の創始者であり完成者であるキリストから目を離さないでいなさい。そして、神に仕え、人に仕え、教会に仕えるのです。そうすれば、あなたを通して神の国は広がっていきます。

クリスマス、救いと喜びへの招き

2023年12月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書2章1~14節
【新改訳2017】
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

<要約>

神の救いのご計画と私たちの応答:

メシヤ、救い主は誰で、どこに生まれ、どのような生涯を送るか、というところまで、キリストの降誕前、すなわち紀元前約700年から1000年も前に、旧約聖書に預言されていました。イエス・キリストの処女降誕。ベツレヘムで生まれたこと。そして、父親となるヨセフはダビデの子孫であったこと。すべてが偶然の出来事ではなく神のご計画によるものでした。神のご計画は確実に進んでいます。そして、やがて御国の完成の時まで、この世界は変化していきます。「すべての国民に福音が宣べ伝えられて、終わりの時が来る」と書いています。現代は、地球の裏側まで全世界に教会ができ、福音はすべての国民に宣べ伝えられつつあります。ですから現代は終末の時代です。私たちの応答はどうあるべきでしょうか。聖書にはたくさんの警告が書いています。「目を覚ましていなさい」「わたしは盗人のように来る」とイエス様は言っておられます。いつ来られてもよいように心を備えておかなければなりません。そして、みことばにある通り、救いは、「御子キリストを信じるか信じないか」の一点にかかっています。このクリスマスに是非、イエス・キリストをあなたの救い主と信じて救われていただきたいと思います。

万民の救いと大きな喜び:

神はこの素晴らしい喜びの知らせを羊飼いと異邦人の博士たちに伝えました。当時、羊飼いは、ユダヤ人としては一般に最も貧しい最下層の人々でした。神は、謙遜でただ受けることしかできないような人々に神の救いを届けました。救いは心低くへりくだった人に届くのです。またもう1つは異邦人です。当時、異邦人は、汚れた国民とされていました。そして、異邦人の博士たちに救い主の誕生が届けられたのは、イエス・キリストの救いがユダヤ人ばかりでなく、万民の救いであることを物語っています。羊飼いたちはベツレヘムに着き、家畜小屋を見て回って、ついに、マリヤとヨセフとイエス様を探し当てました。キリストとお会いしたのです。羊飼いたちは喜びで満たされたでしょう。救いの喜びで神を賛美しました。彼らは、素直に信じました。素直に信じた人は人生が変わるのです。

偉大な光イエス・キリスト

2023年12月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイによる福音書4章12~17節
【新改訳2017】
4:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

<要約>

信仰者の立ち位置:

ヨハネはイエス様の現れを喜んだのです。そして、ヨハネは公言しました。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と。これは、主の使命に生きる我々クリスチャンのモデルと言うこともできるでしょう。これが私たち主に救われた者、主に贖われた者、主に選ばれた者の立ち位置です。私たちの人生は、自分の栄誉の為ではなく、主の栄光のためにあるのです。すなわち私たちは使命に生きるのです。使命と言うと何か大きなことのように響きますが、そうではありません。私たちはそれぞれ、職場に、家庭に、学校に遣わされています。そこで、自分にできる最善をすることです。そのことによりあなたの背後におられる神が崇められるのです。それが、信仰者の立ち位置です。

闇と死を打ち破る光:

「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る」というのは、ガリラヤ地方を代表として、深い闇と死の恐怖が最も強いところに大きな光が照り輝いたということです。すなわち、キリストは、私たち人間の悩み、苦しみ、死の恐怖が最も深いところに来てくださったということです。これは、個人的にも民族的にも国家的にも同様です。現代は、全世界が闇と死の蔭に覆われていると言えるのではないでしょうか。希望が見えない、将来に光が見えない。そこに光となって来てくださったのが、イエス・キリストです。大きな光を見る、とあります。私たちにはこの偉大な光が与えられているのです。神はどんなに悪い状況をもよい方向へと変えることができるのです。最終的には天の御国が来ます。偉大な光はその名のとおり私たちを死の恐怖からも完全に救うことができます。イエス様が私たちの一切の罪を十字架で贖い、取り除いてくださいました。ですから、罪の責めから解放されて、平安と喜びがついてきます。聖書の世界観は肯定的世界観です。結果オーライです。たとえ途中曲がりくねっても神はすべてのことを働かせて万事を益と変えてくださいます。たとえ死の影の谷を歩くような苦しい状況の中にあっても、です。私たちが、天の御国を待ち望んで歩むときすべてのマイナスはプラスに変えられます。

祝福と希望のクリスチャンライフ

2023年12月3日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>テトスへの手紙2章11~15節
【新改訳2017】
2:11 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
2:12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
2:13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
2:14 キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
2:15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

<要約>

不敬虔とこの世の欲を捨てる:

イエス様にお会いする前までの私たちの人生は、不敬虔とこの世の欲と生まれながら持つ罪の力に縛られていました。この世は不敬虔であると言えます。神を敬わず、神を認めない社会です。世は、神なんかいない、あるいは神なんか信頼するに足りないというメッセージを一人一人に送っています。そして、サタンがこの世の君として、君臨しています。世の支配者です。それが、人間社会を悪い方へ引っ張っています。また、「不敬虔とこの世と欲」の欲は、私たちすべての人が持っている罪の性質です。それは、ねたみ、不満、憤り、怒り、そしり、など、私たち人間の内側の悪い思いです。そのため、私たちは平和を求め、いたわりや愛を求めていますが、反対に、怒りには怒り、復讐には復習と悪の連鎖に陥ってしまいます。そのような不敬虔とこの世の欲を捨てるということはどういうことでしょうか。第一に、この世の価値観に捕らわれてはいけないということです。世の価値観は、神が教える健全な教えとはかけ離れています。また、第二に、この世と調子を合わせてはいけないということです。それでは、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活するためには、どうすればよいのでしょうか。それは、キリストの再臨を待ち望むことです。

キリストを待ち望む人生:

信者はキリストにより、不法から贖いだされています。つまり、罪から贖いだされている、と言うこと。もう少し詳しく言うと、キリストの十字架により罪の代価が支払われたということです。罪の刑罰はキリストが代わって受けて下さったので、無罪とされました。さらに罪の束縛から解放され自由になりました。このように、キリストはご自身を私たちのために捧げられたのです。そして、私たちは神に選ばれて、良いわざに熱心なものとされました。再臨を待ち望むことは、祝福に満ちた希望です。それは、私たちが現在、困難や苦難の中にいて希望が見えないようでもやがて、この生涯の終わりには、祝福に満ちた希望があるということです。人生の最後のときは、すべてのマイナスはプラスに変えられるということです。やがて、信じて贖われた者たちは約束された御国に入り、永遠のいのちを神と共に送るのです。キリストを待ち望む人生は、祝福に満ちた希望の人生です。そして、神の栄光を見続ける人生です。

神の臨在と祝福

2023年11月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>第二サムエル記6章2~19節
【新改訳2017】
6:2 ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上げようとして、自分とともにいたすべての兵と一緒に出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の【主】の名でその名を呼ばれている。
6:3 彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。
6:4 それを、丘の上にあるアビナダブの家から神の箱とともに移したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。
6:5 ダビデとイスラエルの全家は、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らし、【主】の前で、すべての杉の木の枝をもって、喜び踊った。
6:6 彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである。
6:7 すると、【主】の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ。
6:8 ダビデの心は激した。【主】がウザに対して怒りを発せられたからである。その場所は今日までペレツ・ウザと呼ばれている。
6:9 その日、ダビデは【主】を恐れて言った。「どうして、【主】の箱を私のところにお迎えできるだろうか。」
6:10 ダビデは【主】の箱を自分のところ、ダビデの町に移したくなかった。そこでダビデは、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。
6:11 【主】の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。【主】はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。
6:12 「【主】が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。
6:13 【主】の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。
6:14 ダビデは、【主】の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、【主】の箱を運び上げた。
6:16 【主】の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が【主】の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。
6:17 人々は【主】の箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた。ダビデは【主】の前に、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。
6:18 ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、万軍の【主】の御名によって民を祝福した。
6:19 そしてすべての民、イスラエルのすべての群衆に、男にも女にも、それぞれ、輪形パン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えた。民はみな、それぞれ自分の家に帰った。

<要約>

恐れと愛と信頼をもって神に近づく:

この事件は、何を示しているのでしょうか?まず、私たちが神に近づくためには、第一に神を畏れなければなりません。神を恐れるならば、みことばに従います。自分の思いではなく、みこころを求めます。次に神に近づくためには、神を愛さなければなりません。神は何を喜ばれ、何を嫌われるか、みことばを調べ、考えて実行することです。そして、何よりも神を信頼しなければなりません。ダビデは、みことばを調べたのです。へりくだって神の前に出たのです。このままでは神をお迎えすることはできないと考えたのでしょう。しかし、ダビデは信じていました。神はイスラエルを祝福し最善のことをなしてくださると。私たちも、目の前のさまざまな困難や苦難がやってきても、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを信頼しなければなりません。神の前にへりくだり、謙遜となってみこころをまず求めます。そして、みこころを実行します。人が神に近づき、救われる方法はただ一つしかありません。神がお与えになったイエス・キリストを救い主と信じることです。

神中心の祝福された人生:

この事件を通して、ダビデは神中心の人生を送るようになりました。神をあなたの心の中心にお迎えして生きることが、祝福の道です。あなたはあなたの心の王座に主をお迎えしていますか。心の王座にあなた自身が座り、主を足元に置いていませんか。旧約聖書には、神を中心において人生を歩んだ多くのモデルがあります。彼らは皆、神が信じる者と共にいてくださると確信し、神中心の生涯を送りました。そして、イエス様は父なる神のみこころを第一として、すべての人の救いのためにそのご生涯を歩まれました。イエス様の生涯は神中心でした。あなたが真の神を信じて、神中心の人生を歩むならば、神はあなたの人生を大いに祝福してくださいます。人はいろいろな知恵を働かせて、神に近づこう、真理に近づこうとしますが、神の示される方法でしか、真の神を見出すことはできません。イエス・キリストは「わたしが道であり、真理でありいのちです。私を通してでなければだれも父の御許に行くことはできません」と言われました。神中心の人生を歩んでください。それが、神が共におられる祝福です。

福音はあなたを救う神の約束

2023年10月29日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ガラテヤ書3章15~29節
【新改訳2017】
3:15 兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
3:16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。
3:17 私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。
3:18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。
3:19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。
3:20 仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。
3:21 それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。
3:22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。
3:23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

<要約>

信仰によって受け取る約束:

ルターは懺悔告白して、自らの罪を洗い流そうと努力しました。しかし、そのことで罪が赦されているという確信が得られませんでした。すべの人は生まれながらに罪人であることに気づいたのです。そして、自分で罪を取り除くことはできない、神がお与えくださる救いに目が向けられました。それは、神の約束、福音です。福音は信じるあなたを神の義で覆い隠します。あるいは、あなたに義という着物を着せます。それを義の衣と言います。それを着せられると、あなたは、どこから見ても正しい、罪がないということになります。罪が義に覆われてしまうからです。そして、あなたには、永遠のいのちが与えられ、神の子とされ、御国の世継とされ永遠の祝福に生きるのです。それが福音の働きです。罪がないとされる、すなわちあなたの罪がすべて赦されていることです。それを自分のものとするためには、思いを変えて、つまり悔い改めて、信じることが必要です。福音はイエス様の十字架と復活に現わされた罪の赦しと永遠のいのちです。あなたがどうであろうと、どんなに罪深い者であっても、悔い改めて、ただ信じて受け取る赦しといのちです。何の功績も働きも要りません。無条件で与えられる救いです。是非、あなたに差し出されたこの救いと祝福をただ信じて受け取っていただきたいと思います。

信仰によって働く神の力:

ヴィテンブルク大学の一室で、聖書に真剣に向き合ったルターは、そこで、福音を再発見して、信仰によって働く神の力を体験するのでした。キリストの十字架の贖いを信じる信仰によりすべての罪は赦され、義の衣を着て神の前に出ることができるのです。行いは要らない無条件で天国に招かれるのです。ただ信仰によるのです。そして、その信仰による罪の赦しを得て、人は、今度は、福音の力によって、神を愛し、人を愛する人生へと向かうのです。そして、律法の中心である十戒は幸せな人生へのガイドラインとなるのです。福音は輝きを取り戻しました。福音は信じるすべての人をすくう神の力です。福音を知らないために多くの人々は未だに罪の暗闇の中にいます。そこから、救い出されて、赦しと永遠のいのちをいただくことができ、神が準備してくださる決してしぼまない希望の人生、幸いな人生へと導かれますよう祈ります。

勝利の秘訣

2023年10月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰサムエル記17章8~11、24~27、46~51節
【新改訳2017】
17:8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。
17:9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」
17:10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」
17:11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。

17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。
17:25 イスラエルの人々は言った。「この上って来た男を見たか。イスラエルをそしるために上って来たのだ。あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」
17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」
17:27 兵たちは、先のことばのように、彼を討ち取った者には、これこれをされる、と言った。
17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」

17:46 今日、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。
17:47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」
17:48 そのとき、そのペリシテ人はダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
17:49 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。
17:50 ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。
17:51 ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。

<要約>

立ちはだかる目に見えない敵:

世界には目に見える敵ばかりでなく、それ以上に恐ろしい目に見えない敵があることを知らなければなりません。目に見えない敵は、三つあります。一つは、エペソ書にある、空中の権威を持つ支配者、闇の世の支配者である悪魔、サタンです。悪魔は初めから人殺しで真理に立っていません。神に敵対しているわけですから、信者にも敵対しています。目に見えない敵の二番目は、私たち誰でもが持っている罪の性質です。私たちの内側には、神に喜ばれない罪の思いがあります。してはならないことを欲します。そして、したくないことをしてしまいます。目に見えない敵の三番目は、この世です。この世の本質は不遜です。この世は神を認めていません。目に見えない敵と題してお話ししています。目に見えない敵と言っても、それは目に見える形で表れています。すなわち、目に見える困難、苦難、誘惑の背後に目に見えない敵がいるのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と。

神の戦いと勝利の約束:

サウルとイスラエルは意気消沈してしまいましたが、ダビデは、自分には勝ち得る戦いだと考えました。私たちも知らなければなりません。試練は困難ですが、どの試練も勝ち得る戦いであるということです。どんな試練にも必ず勝つことができるのです。なぜそのようなことが言えるのでしょうか。それは、イエス様があなたと共に戦ってくださるからです。人生には戦いがある、しかし、主イエスは世に勝っています。また、神は、「あなたはわたしのもの」と言われて、どんなわざわいもあなたに及ばない、と言われます。イエス様の十字架は一見敗北に見えます。しかし、それが勝利だったのです。悪魔は、主イエスの弟子のユダを用いて主イエスを捕えて、ローマ帝国に渡し、十字架刑につかせたのです。救い主を世から消し去るということでは悪魔は勝ったように見えます。しかし、神は逆転勝利に導いたのです。このことにより、すべての人の罪を取り除くための贖いのわざが成就しました。そして、三日目により、悪魔と、罪と死から、そして、神の怒りからどんな人でも信じる者は救われるのです。勝利の約束は、十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのちです。

罪ののろいからの解放

2023年10月15日(日)礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰサムエル記2:22~26、3:8~14
新改訳2017
2:22 さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。
2:23 それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。
2:24 息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は【主】の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。
2:25 人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、【主】に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころだったからである。
2:26 一方、少年サムエルは、【主】にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。

3:8 【主】は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、【主】が少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
3:10 【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。
3:11 【主】はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。
3:12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
3:13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。
3:14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」

<要約>

神はみことばを通して語られる:

聖書が完成する前の時代は、神のことばは、預言者を通して、与えられました。そして、それらが記録されて、聖書としてまとめられたのです。聖書は66の書物としてまとめられています。時代も立場も違う約30人の人々によって書かれたものです。聖霊が人々に神のことばを授けて語らしめたのです。ですから、真の著者は聖霊です。よって、聖書は神のことばと言えます。サムエルは神の箱が安置されている主の宮で寝ていました。早朝でまだ薄暗い時に、サムエルに主が直接お語りになったのです。聖書が完成している現代では、神は聖書のみことばを用いてお語りになります。聖書を読んで、思いめぐらすときに神はお語りくださいます。神との対話は、話しては聞く、聞いては話す、というものです。ですから、祈りは対話です。毎日のことですが、神は豊かに語ってくださるのです。それは小さな声かもしれませんが、祈りの中で、示してくださいます。そして、状況を開いてくださいます。私たちは信じて一歩前に進んでいくのです。共にいて声をかけてくださるイエス様と歩む幸いを覚えたいと思います。

罪ののろいと救い主キリスト:

あなたへの神の切なる思いは、あなたを呪うことではなく祝福することです。その根拠は十字架です。神はその独りの御子のいのちをも惜しまず、あなたを救いあなたを祝福しようとしておられます。律法は、神の民としてあるべき姿への要求です。しかし、一方、そのような律法の要求に到達しようとしてもできない人間の姿があります。そこで、人間は律法の要求に対峙した時に、どのような心の態度になるかを神は見ておられます。エリの息子たちのように神のことばを無視して、高慢にも自分たちの欲望を果たそうとするのか、あるいは、心打ち砕かれて、心低くして、神の前でへりくだり、悔い改めるか、それを神は見ておられるのです。神は、砕かれた心をもって主の前でへりくだっている人の罪を豊かに赦し、そのような人を喜ばれます。旧約時代の人間の罪も、キリストの十字架の贖いによって赦されていたのです。イエス様は私たちすべての人の罪ののろいをご自身が代わりとなって受けてくださいました。そのことにより、信じる者には、罪ののろいは過ぎ去って、神の愛と祝福のみが注がれています。クリスチャンライフは、神との生きた交わりと約束された祝福の人生を歩むことです。


福音は神の力

2023年10月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ人への手紙1章8~17節
【新改訳2017】
1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<要約>

信じる者に働く神の力:

神の力の力は、ドミナス、ダイナマイトと同じ語源で、その力は敵の要塞をも爆破する力です。最強の力と言えます。福音は神の力であり、最強の力です。それは悪魔の力、罪の力、死の力にも打ち勝ちます。それこそ、全知全能の神の力だからです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。パウロは行いによって、神の前で正しい者とされようと一生懸命に神の命令である十戒を守ろうと頑張りました。しかし、それは、無駄であることがわかったのです。反って、自分の足りなさや罪深さを示されたのです。そしてついに、神が与えてくださる義は、神ご自身が無償でくださるものであることに気づいたのです。神の義は信仰によって受け取るものであることがわかったのです。「福音は信じる者に働く神の力」であると言いました。福音は、罪と死と滅びからの救いです。さらに、誰でも、それに代えて、永遠のいのちと決して消えない希望が与えられるのです。ですから、福音はすべての人に提供された救いで、何にも勝る神の力なのです。それを自分のものとするためには、信仰が必要です。すなわち、神の力、福音を私のものと信じることです。

福音の力を体験して生きる:

もともと 人は神に似せて作られました。それは神と交わり、神に従うことによって、神の栄光を現す幸せな生活を送るためでした。ところが、人間は神に背を向け、良心の命令に従う能力を失ってしまいました。しかし、神は人を 罪の生活、罪の奴隷から救い出すためにひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。罪なき神が人のすべての罪の重荷を負い十字架で身代わりの死を遂げたのです。あなたが、神が提供する福音を空の両手を広げて、ただ信じ受け入れるだけで良いのです。福音の力を体験して生きるとき、今の試練や困難、苦難は後の栄光につながることが分かります。クリスチャンライフには困難や苦難はつきものです。しかし、そのことを通して、私たちは、神に近づきます。神の祝福は苦難と言うラップに包まれてやって来ることがあります。苦難の覆いの下に祝福が待っています。そしてそれは、決してしぼまない希望、復活のいのち、永遠のいのちの祝福につながっているからです。私たちも、イエス様の福音の力を日々体験してクリスチャンライフを感謝と喜びをもって生きていくのです。

パウロに見るイエスの愛ととりなし

2023年9月24日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ピレモンへの手紙1~19節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、
1:2 姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。
1:3 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:4 私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
1:5 あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。
1:6 私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
1:7 私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。
1:8 ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、
1:9 むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、
1:10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。
1:12 そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
1:13 私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。
1:14 しかし、あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。
1:15 オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。
1:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。
1:17 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。
1:18 もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。
1:19 私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。

<要約>

神から離れ役立たなくなった人間:

オネシモは、以前ピレモンにとって役に立たないものであった。それは、罪を犯し、ピレモンの元を離れていた状態を指します。オネシモはかつての私たちの姿を表しています。罪によって真の神から離れている人間の姿です。また、生まれながらの人間の姿でもあります。オネシモは、自由を得ようとして、反って不自由になりました。それどころか、見つけられたら殺されるという死の恐れを抱きながらの隠れた生活です。そこには何の平安も喜びもありません。ピレモンから逃げて遠ざかったオネシモは、神から離れて、神を否定して生きる人間の姿を現しています。神を心の中から追い出すのです。神なんかいないというのです。そのように多くの人は神を否定して自らを滅びの道を歩んでいます。当時のオネシモが死刑に定められているのと同じです。そのような神に敵対するような私たち人類に対して神は何をしてくださったのでしょうか。

愛と信頼のまなざしが人を変える:

オネシモは逃亡奴隷として、ローマ帝国の雑踏の中に身を隠していました。ローマでの逃亡生活に疲れ、心に平安はなく苦しんでいたと考えられます。道でパウロの同労者テキコに偶然にあったのかもしれません。それとも、囚人となっていたパウロの噂を聞いて彼自らがパウロを訪れたのかもしれません。パウロを通してイエス様が彼に働いてくださった。そのお心を表し、やさしい視線を向けてくださったのです。オネシモは癒され、そして十字架による罪の赦しを自分のものとしたのです。悔い改めてイエス・キリストを主と信じたのです。人はどのようにして変わるのでしょうか。それは、愛と赦しによるのです。あるいは愛と信頼によるといえます。愛と信頼のまなざしによって人は変えられるのです。そして、神と人に役立つものとなるのです。人との出会いの背後にはイエス様がおられます。私たちもかつては、真の神がおられるのに、神を離れて、神を認めず、自分中心で自分を神の上において歩んでいました。神の前に役に立たないものでした。しかし、一方的な神の恵みによって、主イエスに捕らえられて、今は神に役立つものと変えられました。遣わされたところで、隣人愛の実践と福音宣教に励もうではありませんか。