主は私の羊飼い

2021年11月7日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

ヨハネの福音書10章1~15節
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
10:6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。

<要約>

背後で悪魔が働き聖書が、神が、キリストが、わからない;

聖書は罪についてさばきについて滅びについて警告を与えています。それと同時に、罪と死と滅びからの救いを提供しております。そして、すべての人はこの素晴らしい救いに招かれています。聖書は神からの手紙です。聖書に表される神は、天地万物の造り主です。その神が、私たち人類に、否、私たちひとりひとりにお語り下さっているのです。ですから、その内容はいかに重要なものか、想像することができるでしょう。神は、イエス・キリストをとおして、ご自身を現わし、また、聖書をとおして、今も、読者ひとりひとりにお語りになっています。私たちの敵は背後にいるサタン、悪魔と言うことができます。悪魔は、私たち人間が真理を知って、救われることのないように、知恵を働かせているのです。聖書がわかる読み方、あるいは、 聞き方の一つは聖書のメッセージを自分のこととして受け止めることです。自分に当てはめて聞くことです。もう一つは、素直な心で耳を傾けるのです。聖霊により頼んで、「神様、教えてください」と内なる叫び思って聞くことです。

あなたがいのちを得て豊に生きるためにいのちを捨てたキリスト;

イエス様は、ご自身が良い羊飼いであるという例えから、さらに話を展開していきます。「わたしは羊の門です」と言われました。そして、イエス様を通って入るなら救われると言いました。また、イエス様は、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり救われない、と言います。これは、イエス様ご自身が神であることの宣言でもあります。聖書は、人は教えである律法、十戒を守っても、救いに至らないことを何度も言っています。人は良い行いによってはよい人間にはなれません。かえって、高慢になってしまうのです。良い人間が良い行いをするのです。自分でよい人間になることはできません。三位一体の神である聖霊によって、良い人間に作り変えていただくのです。羊であるあなたや私が真のいのちを得るために、イエス様がいのちを捨てるということです。それは、私たち罪人のために、イエス様が十字架でご自身のいのちを捨ててくださった事により、私たちはいのちを得るのだという真理です。

赦し赦される

2021年10月31日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

マタイの福音書18章21~35節
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

<要約>

自分の罪がわからないので人を赦せない

私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。罪は人に、罪責感を呼び起こします。それは 悲しみであり、後悔であり、心の痛みです。しかし、罪を認めることは、必ずしも悔いや心の痛みや悲しみを呼び起こすことではありません。自分は罪深い人間であるということを認めること、認知することです。私たちは、み言葉を求めるときに、み言葉は鏡のように、私たちの心を映し出します。そして、自分の罪に気づきます。感情が動かされることもあるかもしれませんが、むしろ、自分が罪深い人間であること認めていくという作業じゃないかと思います。「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのはこのわたしである」と応えることは、聖書が読者のすべてに求めている応答です。あなたは、その事実を認め信じることです。それが信仰です。2000年前のキリストを十字架につけたなんて、現代に生きる私の責任でない、と言いますか?それでは、あなたはキリストと何の関係もない人間となります。

回復と再生への徹底した赦し

王は、彼をかわいそうに思って、赦し、借金を免除した、というのです。全部負債を赦し、無しにしてくれたのです。天のみ国では、地上と違って、負債すなわち罪の免除があるということ、完全に罪を赦すというのです。父なる神は、罪びとを「かわいそうに思って」おられるということです。父なる神は、哀れみのゆえに人間が持つ途方もない罪の負債を赦すことを決めました。そのために、罪の負債を身代わりに罪のない神の御子に支払わせたのです。その払うべき代価が御子イエス・キリストの十字架の死でした。キリストの十字架の贖いを信じる者を神は無条件で赦してくださいます。赦されたものは人を赦すことができます。人を赦すことで、自分も赦されていることに気づき神に感謝するのです。私たちは、主の十字架の贖いによって、永遠に返済不能、不可能を赦されたのです。これを認識できるでしょうか。これを実感できるでしょうか。聖霊によるのでなければ、罪について、義について、裁きについて、私たちの目は開かれることはないのです。

永遠を見据えて今を生きる

2021年10月17日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢 森田友明

<聖書>Ⅱペテロ3章1~18節
3:1 愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。
3:2 それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。
3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、
3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」
3:5 こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、
3:6 そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。
3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
3:11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。
3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。
3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。
3:17 ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。
3:18 私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。

<要約>

神を認めない人間中心主義の生き方

この世界は「義と愛の神」によって創られました。「義と愛の神」のご性質がこの世界、全宇宙に反映させられています。まったく正しく正義の神、つまり罪のない神、そして、私たち罪びとをご自身の独り子イエスの命に代えて、救おうとなさる愛の神であるということです。不敬虔な者たちとは、神を認めず、恐れず、神を無視し、嘲る人々のことを指します。 不敬虔な者は自らの罪により裁かれ滅びに落とされるのです。この宇宙万物は、神の創造によって始まり、そしてやがて終焉を迎えます。神のご計画が実行されていくのです。被造物である私達には、全てを理解することはできません。しかし、 神は人をご自身の目的のためにお造りになりました。ですから、だれでも人には、神から与えられた生きる目的があるのです。しかし、多くの人々は真の神を無視するためにこの目的を失っています。キリストは、そのような人々を救うために、神が人となって、世に来てくださったのです。さばきと滅びの日が来る前に、すべての人を天の御国に招くために、罪びとを招くために来てくださったのです。

神の日を待ち望む生き方

それに対してペテロは、「愛する者たち」と異邦人クリスチャンに向けて言います。そして、主は、ある人たちが遅れていると思っているように約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。神は、誰も滅びることがなく全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。天地は滅び、私たちの地上の命は失われるでしょう。しかし、神の約束に従って義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。これは、神が約束される天のみ国です。これから試練の時代に入る異邦人クリスチャンに向けて、ペテロは、み言葉を慕い求めること、救い主キリストの教えにとどまること、しみも傷もない純真なものとして信仰と祈りによる堅実な生き方を勧めているのです。そのような恵を覚えて、忍耐深く、今の時を敬虔に生きることこそ、神の日を待ち望む生き方であると思います。その上で、イエス様が私たちに勧めています。神を愛し、人を愛しなさいと。

クリスチャン生活の中心

2021年10月10日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰペテロの手紙2章1~10節

【新改訳2017】
Ⅰペテ
2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
2:3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
2:5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
2:7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
2:8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

<要約>

みことばを慕い求める生活

純粋な霊的な乳、それはみ言葉です。みことばを熱心にしたい求めること。クリスチャンはみことばを読むこと、みことばを聞くことにより、成長して救いを得るのです。生まれたばかりの乳飲み子は貪欲に乳を慕い求めます。それと同じように私たちも神のみことばを慕い求めることを生活の中心に置いていきたいと願います。3節では、「あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました」と書いています。赤ちゃんは自分の欲求に応えてくれる母親に対して愛と信頼の心を培っています。私たち生まれながらの人間が、もしみことばを熱心に慕い求めるならば、主は応えてくださいます。この味わうという言葉の中に繰り返し、繰り返し、何度も何度も、み言葉を読み説教を聞くという行為が含まれています。私たちはそれによって、主のいつくしみ深い養いのみ言葉を自らの心に受け取ることができます。

神の民とされている自覚に生きる

私たちクリスチャンは心も身体もすべてを主に捧げて、生きていくのです。それがクリスチャンライフです。自分の欲望を追求するのではなく、神のみこころを追求して行く生き方です。そう言うと何か堅苦しい、自由のない生き方のように聞こえるかもしれません。しかし、 そこにこそ本当の自由な生き方があるのです。人間の欲望は、限りがありません。「真理があなたがたを自由にする」とあります。真理はイエス・キリストを指します。今イエス様を信じる者は神の民であり、憐みを受けて、神の栄誉と祝福を約束された民であるということができます。ペテロは、そのように私たちに神の民としての生き方を示したのです。この方に信頼するものは決して失望されることはない。さまざまな困難苦難に出会うで会う事でありますが、私たちは、最後の勝利者です。そして私たちは、驚くべき光の中に召された者達です。この素晴らしい福音をあなた方が告げ知らせるためです、とある通り、私たちは周りの方々にこの素晴らしい救いの福音を宣べ伝えるのです。そのために召されているということができます。

イエス・キリストの系図

2021年9月26日主日礼拝 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書1章1~21節
1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、
1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、
1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、
1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、
1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、
1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、
1:8 アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、
1:9 ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、
1:10 ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、
1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。
1:12 バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、
1:13 ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、
1:14 アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、
1:15 エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、
1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

<要約>

罪人を救うために人となったキリスト

系図を通して、キリストはユダヤ人の王、そしてユダヤ人の救い主としてお生まれになりました。それと同時に、異邦人や罪人と言われている人々のために。すなわちすべての人々の救い主であることを物語っています。また、神はありのままの人間を受け入れているということです。そのような罪深い私たちの真ん中にご自身のひとり子イエス様を送ってくださったのです。罪人を救うために人となって来てくださったのです。イスラエルは真の神、力ある全能の神、愛とあわれみの富む神を信頼できず、イスラエルの民は人の知恵や偶像に頼りました。そのような中で、祭司エズラは、これまでのイスラエルの歴史を振り返り、宗教改革を断行します。律法に帰る運動です。エズラの後、宗教指導者たちは、律法に厳格であろうとして、さらに細則を儲けて規則に規則を作るようになりました。十戒をはじめとした律法をとにかく守ることを重要視したのです。 行きつくところ、律法を守ってさえいればよい、という考え方です。心はどうでもよい。それが律法主義です。そして、また、神のみ心から遠く離れるのです。

心砕かれ悔い改めてイエスを信じる

神は、ご自分が選んだイスラエル民族を宝の民としました。それに対してイスラエルは偶像に身をやつし、まことの神からはなれてしまいました。そこに、神の真実を見ると同時に人間の罪深さ、人間の不真実、不誠実を見ることができます。私たちは、自分を罪人と認めてへりくだった信仰こそが神に喜ばれるのです。私たちには目に見えない神を信じ続ける事は難しく、目に見えるものに心を奪われ信頼を置きやすい弱さを持っています。私たちの罪が赦されるためには誰かが身代わりとなって罪の刑罰を受けなければなりません。神は人間を罪の裁きから救うために、神の一人子であるイエス・キリストを十字架につけ、私たちの身代わりとして、その十字架の血によって私たちの罪を赦すという驚くべき救いの道を備えてくださったのです。それがキリストが世にこられた目的です。キリストはあなたの苦しみと困難のただ中に来てくださいます。否、これまでもキリストはあなたのところへ来て下さっていたのです。でも、あなたはそれに気付かなかったのです。 砕かれた、悔いた心を持って、イエス様を信じることです。

キリストを信じて従う喜び

2021年9月19日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰペテロの手紙1章1~9節
1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、
1:2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

<要約>

信仰の故に苦難を受ける

誰でも真剣に信仰に生きようとするならば人生において試練を経験するものです。それは神ご自身が御子の十字架の死を通して 苦しみと悲しみを経験なさったことと関係します。私たちは、どんなときもイエス様に従うこと、そして、たとえつまずいたり失敗したりしても、キリストの十字架の赦しを受けて、前に進むことです。十字架の苦難は、無実の神の御子が、極悪人にしか適用されない十字架刑に処せられたことです。それは、すべての人、そしてあなたの罪を背負って身代わりとなって死刑を受けてくださったことによります。本来、人はそのままでは自らの罪によって永遠の滅びに至ります。しかし、神の恵みは、十字架を信じる者には誰にでも、無条件に罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださいます。イエス様に従う私たちクリスチャンも、苦難と悲しみを経験するものとして召されている、ということができます。ペテロは 断言しております。信仰のゆえに生じる試練や困難は、後に称賛と栄光と誉をもたらすというのです。もし、クリスチャンであることのために悪口雑言を受けるなら幸いです。栄光の御霊があなたを見守っていてくださるからです。そして、あなたは神を崇めるようになるのです。そこに、信仰の故の苦難と悲しみの意義があるからです。

栄えに満ちた喜びに至る救い

イエス様の御生涯は苦しみと悲しみで終わったのではありません。復活により、生ける望みに、栄に満ちた喜びに、逆転勝利したのです。ですからここで、ペテロは勧めています。神はあなたを新しく生れさせ、生ける望みを持たせてくださったのだと。新しく生まれるためには、まず、死ななければなりません。それは、自分中心の古い自分に死ぬことです。つまり罪の自分に死んで聖霊に内に住んでいただくことです。イエス様は水と霊によって生まれなければ神の国を見る事ができないと、語りました。水は洗礼を意味します。洗礼により罪に死んで内に住まわれる聖霊によって生きるのです。キリストは命に至る道です。私たち信者は信仰の結果である、罪の赦しからくる救いを得ています。人生は死んで終わりではありません。やがて、信仰の報いである天での栄えに満ちた喜び踊る生活があなたを待っています。私たちは天国を先取りして今、喜んでいます。

復活の希望

2021年9月12日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記22章1~14節
22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
22:5 それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。

<要約>

試練の先に備えあり:

アブラハムの信仰は、復活の信仰といえます。アブラハムは、イサクのいのちを神が死者の中から取り戻してくださると信じました。神もアブラハムを信頼していました。そして今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神の最愛のひとり子イエス様を、すべての人のために、つまり、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけることです。アブラハムは、刀を振り上げてイサクを屠ろうとしたその時、神様の「待った」が入ったのです。イサクの代わりとなる一頭の雄羊が藪に角をかけていました。アブラハムはそこを「アドナイ・イルエ」名付けました。「主の山には備えがある」という意味です。主の山には備えがある。試練の先にも、神は備え、すなわち準備をしていてくださるということです。私たちは、時には死に至るような試練に遭うかもしれません。しかし、驚き怪しむことなく、神の備えを期待し、信仰によって、すなわち、み言葉と祈りによって勝利することです。それが信仰者の試練の対処の仕方ということができます。

死を通していのちに至る:

聖書が教える死は、誰でもが迎える肉体の死だけでなく、肉体の死の後に来る魂、あるいは霊の死です。誰もが肉体の死を通らなければなりませんが、死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされます。なぜ、神は地上にいる間、この肉体の死を残しておられたのでしょうか。もし、キリストの贖いにより、キリストを信じ洗礼を受けたとたんに罪赦されて永遠のいのちが与えられて、死が無くなったらどうでしょうか。私たちの周りは、死なない人と死ぬ人が混在することになります。洗礼を受けた人は死なない人、その逆は死ぬ人。それが一目瞭然であったらどうでしょうか。当然みな死にたくないので、とにかく洗礼を受けるでしょう。この世に信仰はいらなくなりますし、信仰はなくなります。神は、信仰を通して人を救おうとなさっています。神は信仰を最も大切なこととしておられるからです。信じた者にも地上で肉体の死が残されているわけは、クリスチャンが最後まで、信仰に生きるためです。死を迎えるまで、信仰の訓練は続きます。死がいのちの終わりではなく、死がいのちの始まりとなるからです。

祝福の約束

2021年9月5日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11:31~12:7

【新改訳2017】
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。
11:32 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
12:5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 【主】はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。

<要約>

神が与えてくださる祝福とは:

神はアブラムに土地を与える約束をします。そして、アブラムに子孫の約束を与えます。子孫が大いなる国民となることです。繁栄の約束です。アブラハムの祝福を受け継ぐクリスチャンである私たちにも、神は天にある豊かなあふれる富をお与えになります。そして、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」と宣言されました。それは、神はどんな時もあなたの味方であること。そして、神がどんな時もあなたとともにいてくださる約束です。さらにそれは、繁栄と勝利の祝福と言えます。なぜなら、勝利の主がいつもあなたと共にいてくださるからです。次に、神の祝福は、罪の赦しと永遠のいのちです。それは、アブラハムの子孫イエス・キリストにより与えられるものです。すべての人には罪があるので、神の祝福を受けることはできません。そのあらゆる罪から私達を贖いとってくださったのが、イエス・キリストの十字架です。私たちクリスチャンもアブラハムのように地上では旅人で苦労の多い人生かもしれませんが、神を信頼して歩んでいきましょう。

神の祝福にとどまり続けるためには:

どのようにしたら神の祝福にとどまり続けることができるのでしょうか。それは、ずばり、あなたを造り、あなたを愛しておられる神を認め、信じることです。そして、神が送ってくださった神の独り子イエス・キリストをあなたの救い主として信じて洗礼を受けることです。アブラハムの祝福があなたのものとなります。なぜなら、神がアブラハムに約束してくださったこの祝福と救いは、イエス・キリストにおいて成就しました。現在、全世界の教会を通して、すべての人々に等しく提供されています。聖書は多くの箇所を通してイエス・キリストこそ、私たちすべての人を、罪と死と悪魔から救い出してくださる真の救い主であることを主張しております。イエス・キリストを信じる者は、罪赦されて、永遠のいのちをいただくのです。それが祝福です。アブラムは特別な人だったのでしょうか。否、アブラムは偉い人であったと思いますが、失敗も多くしました。普通の人であったと思います。そのアブラハムのように、神はあなたに目を留め、あなたを祝福の伝達者、祝福の基とするのです。

バベルの塔

2021年8月22日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11章1~9節
【新改訳2017】
11:1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
11:2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
11:4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
11:6 【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
11:7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
11:8 【主】が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで【主】が全地の話しことばを混乱させ、そこから【主】が人々を地の全面に散らされたからである。

<要約>

神中心から人間中心になった社会;

バベルの塔は、人間こそが最高の存在であり、人間に栄光を帰する象徴でもあります。実はこれは、サタンの策略です。アダムの失敗以来見事に人類はサタンの支配下で操られているのです。最初の人、アダムは、「神のようになれる」というサタンの言葉で誘惑されて、神になろうとして罪を犯しました。人間は神に似せて作られたがゆえに、人間の知恵のすばらしさは今の科学や技術革新を見てもわかります。しかし、欲望が知性を後押しすると人間は自滅の道を進みます。ダイナマイトを発明したノーベルは平和利用を願っていましたが、人類はそれを戦争に使いました。問題点はどこにあるのでしょうか。特別に悪い人が人類を悪い方向へと導いているのでしょうか。そうではありません。聖書は、これらの原因は私たち一人ひとりの内にあると指摘します。罪の根が私たち誰にでもあるからです。ノアは箱舟から大地に立った時、すぐに祭壇を築き、神に全焼のいけにえをささげ、礼拝を捧げました。ノアは神中心で再出発しましたが、ここでニムロデの時代に至って人間中心に戻ってしまいました。自分達の為に塔を立てたのです。神の聖名を崇めるためではなく、自分たち人間の名を挙げるためです。ここに人間中心主義の始まりを見ることができます。

正すために降りてこられた神;

神は、悪に傾く人間をもう一度滅ぼし尽くすこともできたでしょう。しかし、神はあわれみによって、滅ぼさないで、ことばを混乱させることにより、分裂させたのです。人間中心の世界には救いはありません。かくして、言葉が通じなくなった人々は、地の全面に散らされたのです。次章では、セム族の中にアブラハムが登場します。神はアブラハムを通して、すべての国民を祝福すると約束されました。アブラハムから二千年の歳月を経て、アブラハムの子孫のイスラエル民族から救い主イエス・キリストがお生まれになりました。その約束通り、イエス・キリストにより、現代すべての国民は祝福されています。イエス・キリストは、あなたを罪と死と悪魔から救うために来られました。神は、言葉を混乱させて人々を散らされたのとは反対に、キリストにより全人類を一つの国民一つの民にしたいと願っています。サタンの支配からキリストの支配に取り戻そうと願っておられるのです。私たちはそのために先に救われたのです。

虹は再生と祝福の約束

2021年8月15日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記8:1~22、9:8~13
8:1 神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。神は地の上に風を吹き渡らせた。すると水は引き始めた。
8:2 大水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨がとどめられた。
8:3 水は、しだいに地の上から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始めた。
8:4 箱舟は、第七の月の十七日にアララテの山地にとどまった。
8:5 一方、水は第十の月まで減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。
8:6 四十日の終わりに、ノアは自分の造った箱舟の窓を開き、
8:7 烏を放った。すると烏は、水が地の上から乾くまで、出たり戻ったりした。
8:8 またノアは、水が地の面から引いたかどうかを見ようと、鳩を彼のもとから放った。
8:9 鳩は、その足を休める場所を見つけられなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を伸ばして鳩を捕らえ、自分がいる箱舟に入れた。
8:10 それからさらに七日待って、再び鳩を箱舟から放った。
8:11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ、取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地の上から引いたのを知った。
8:12 さらに、もう七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。
8:13 六百一年目の第一の月の一日に、水は地の上から干上がった。ノアが箱舟の覆いを取り払って眺めると、見よ、地の面は乾いていた。
8:14 第二の月の二十七日には、地はすっかり乾いた。
8:15 神はノアに告げられた。
8:16 「あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい。
8:17 すべての肉なるもののうち、あなたとともにいる生き物すべて、鳥、家畜、地の上を這うすべてのものが、あなたとともに出るようにしなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そして増えるようにしなさい。」
8:18 そこでノアは、息子たち、彼の妻、息子たちの妻たちとともに外に出た。
8:19 すべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものも、種類ごとに箱舟から出て来た。
8:20 ノアは【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。
8:21 【主】は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で【主】はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。
8:22 この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」
9:8 神は、ノアと、彼とともにいる息子たちに仰せられた。
9:9 「見よ、わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。そして、あなたがたの後の子孫との間に。
9:10 また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に。鳥、家畜、それに、あなたがたとともにいるすべての地の獣、箱舟から出て来たすべてのものから、地のすべての生き物に至るまで。
9:11 わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。」
9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがたとの間に、また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に、代々にわたり永遠にわたしが与えるその契約のしるしは、これである。
9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。

<要約>

終わることのない労苦;

雨が全地を覆う前に、ノアは、もうじき洪水によって神の裁きが起こることを同胞や隣人に伝えていたのです。しかし、当時の人々も、ノアの話は空想話のようで、聞く耳を持たなかったのです。現代も多くの人々は同じ反応をします。聖書の警告は空想話のように響くのです。神はノアの心を守ってくださいました。人生の歩みの中においても、多かれ少なかれ労苦は続きます。生活の労苦もそうです。また、信念を持って行ったことが思うようにならなかったこともあるでしょう。しかし、その中にあっても神は私たちの心を守って下さいます。神があなたに、心を留めてくださっているからです。試練と思われることにあっても神は、信じる者の心を守ってくださいます。最近、同じ開業医の仲間ですが、長男さんが心臓発作から脳に広範なダメージを受けて植物状態になったことを聞きました。 お電話をいただき祈っていたのですが、最近メールで、こう書いていました。「神の思し召しは大いなる愛によるもので、試練も乗り越えて行けるものと信じて参ります」と。私たちは、自分のすべての領域を神に明け渡してお取り扱いいただく必要があります。心を守り、あなたを祝福してくださいます。

再生と祝福の約束;

神は、土地を呪うことはないが、悪に走る人間の現実を覚えておられて、種蒔きと刈り入れ、暑さと寒さなど、人間の罪ゆえに、人間は生きるための苦しみや困難を経験していくということを示唆されました。そのうえで、神は、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」とノアの家族を祝福しました。そして、もう世界を洪水で滅ぼすことはないと約束されました。聖書に映る神には、大きく分けて二つの御思いがあります。一つは、人の罪に対する怒りです。もう一つは、変わることのない神の愛です。聖書を通して見える神の二つのお姿ということもできます。矛盾するような二つの思い、怒りと愛、それに筋を通したのが、イエス・キリストの十架です。神は虹により、水によって世界を滅ぼさないと約束されました。神はひとりでも滅びることを望まず、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。最終的には天地は滅びます。しかし、イエス様の十字架により、神の怒りは過ぎ去って、愛が注がれています。赦されているがゆえに感謝と賛美をもって従っていきましょう。


岩手県滝沢市のプロテスタント教会