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完全な信仰

2019年07月07日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記22章1~14節

22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
22:5 それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。

<要約>

アブラハムの試練:

これらの出来事の後、「神はアブラハムを試練に合わせられた」とあります。この度は最後の最も過酷なテストでした。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」イサクはアブラハムにとっては、自分のいのちより大切な我が子であったでしょう。神はその心情を理解して、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言ったのです。神はこの試練を通して、神の救いのご計画を示そうとされたのです。アブラハムの信仰は、復活の信仰といえます。そして今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神の最愛のひとり子イエス様を、すべての人のために、つまり、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけることです。試練は信仰を造るのです。ですから試練はあなたに有益です。クリスチャンは、「失望に終わらない希望」を持っています。世にある希望は、移ろいゆくものです。絶対大丈夫と言えるものはないでしょう。神が与えてくださる希望は決して失望に終わりません。神が与えてくださる希望は、「死を通って、いのちに至る」希望だからです。

死を通していのちに至る:

聖書が教える死は、誰でもが迎える肉体の死だけではありません。肉体の死の後に来る魂、あるいは霊の死です。永遠の滅びです。それは、罪から来る報酬です。神は人が滅びるのを惜しんで、人が持つ罪を無実の神の御子キリストに背負わせて身代わりに断罪しました。御子を信じる者は罪に定められることなくいのちに移されるのです。誰もが肉体の死を通らなければなりませんが、死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされます。ドイツの神学者であり、牧師であったボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画に加担し、絞首刑に処せられました。絞首台を目の前にして彼は、看守に言葉を残しました。「これが最後です。わたしにとっていのちの始まりです」と。神は、主イエスを信じる者が死を通していのちにいたることを告げています。神はどんなに悲しむ人をも慰めることができます。神は、御子の十字架でその悲しみを経験なさっているからです。

神の契約の実行と証印

2019年06月30日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記17章15~27節
17:15 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」
17:17 アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
17:18 そして、アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」
17:19 神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。
17:21 しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」
17:22 神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。
17:23 そこでアブラハムは、その子イシュマエル、彼の家で生まれたすべてのしもべ、また、金で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家のすべての男子を集め、神が彼に告げられたとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。
17:24 アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。
17:25 その子イシュマエルは、包皮の肉に割礼を受けたとき、十三歳であった。
17:26 アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。
17:27 彼の家の男たちはみな、家で生まれた奴隷も、異国人から金で買い取った者も、彼と一緒に割礼を受けた。

<要約>

勝利者は悩み苦しみ信仰に生きる:

主は、再度アブラハムに現れました。アブラハムは、心の中で笑ったと書いています。「百歳の者に子どもが生まれようか。九十歳のサラが子どもを宿すだろうか」彼は神の前にひれ伏しました。しかし、内面には葛藤、揺れ動きがありました。神の約束を受け止めきれない人間の弱さが見えます。信じ切れない思いを抱えながら神に向かい合っていたことがわかります。信仰とはそういうものです。私も過去を振り返ってみました。秋田大学3年生の時に信仰に導かれ洗礼を受けクリスチャンになりました。その後結婚し子どもも与えられ、米国留学をしました。そこで腎臓病になりました。突然、むくみがやってきて、高血圧になったのです。ネフローゼ症候群という病気です。将来の不安がありました。神様、私は大丈夫でしょうか。どうしたら良いのですか。と何度も祈りました。その度に、神はみことばで励ましてくださいました。私はあなたを癒す主であると。しかし、このようなみことばが与えれても、内面の揺らぎが常にあったのです。神は不信仰の笑いでも喜びの笑いに変えてくださいます。信じ切れない人間の思いと弱さを受け入れて、マイナスの思いをプラスに変えてくださるのです。悩み苦しみ、信仰の揺らぎを覚える時には主に向かいましょう。疑い退くか、信じて前に進むか、不信仰と信仰の選択が来ます。その時は信仰に立って前に進むのです。神は勝利を与えてくださいます。

心の割礼である洗礼がもたらすもの:

アブラハムはすぐに、神の契約に応え神の命令である割礼を全ての男子に執行いたしました。割礼は現在の洗礼の型であります。当時の割礼がアブラハム契約実行の出発点であったように、洗礼、バプテスマはあなたが神の民に加えられるという信仰の出発点です。割礼の包皮は何を表しているのでしょうか。それは、生まれながら持つ罪の性質です。あるいは、人の神を無視して自分を中心に生きようとする性質です。キリストと共に古い自分を十字架につけて、生まれながらの自分に死んで、キリストとともに復活することです。そして、新しい自分に生まれ変わることです。洗礼はそのような意味があります。誰でも無条件に、神の約束を自分のものとすることができます。

ハガルに現れたキリスト

2019年06月23日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>創世記16章1~14節
16:1 アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
16:2 サライはアブラムに言った。「ご覧ください。【主】は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
16:4 彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。
16:5 サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
16:6 アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
16:7 【主】の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。
16:8 そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」
16:9 【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
16:10 また、【主】の使いは彼女に言った。「わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。」
16:11 さらに、【主】の使いは彼女に言った。「見よ。あなたは身ごもって男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。【主】が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。
16:12 彼は、野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」
16:13 そこで、彼女は自分に語りかけた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。
16:14 それゆえ、その井戸はベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

<要約>

神の約束より自分の考えに動かされる人間:

サライは自分の女奴隷ハガルによって自分の子を儲けよと考えました。しかし、それは信仰から出ていることでありませんでした。神はアブラハムに約束し誓われました。それは確実に成就すると言うことです。しかし、アブラハムは10年待っても子どもが与えられませんでした。やはり、アブラハムには、心配があったのでしょう。そのような中で、神はもう一度アブラハムに約束の再確認をされました。アブラムは神の約束の再確認を受けて、信仰の絶頂期にいました。そのような時こそ、試練の時、あるいは誘惑が強く働いている時です。神の約束と誓いは確かですが、約束のものを得るには忍耐がいると言いました。この世の中は、人間中心の世界観です。そこには神のみ思いを推しはかることはないのです。そのような人間社会は、依然、混乱しています。人間関係の問題、家族の問題、分裂、それらは人の心にある罪の性質がなせる業です。

迷う人を探し、聞き、見てくださる神:

神はハガルを見つけ、サライの女奴隷ハガルと呼びかけます。あなたは、サライの女奴隷なのだ、その事をわきまえなさいとでもいうようです。すべての人を神は等しく愛されています。御子キリストのいのちに代えて愛してくださっています。どの人も神にとって高価で貴いと言えます。子を宿していたハガルの心配をご存知で主は、生まれてくる子の子孫を数えきれないほどに大いに増やすといわれました。そして、その子の名前はイシュマエルです。「神は聞かれる」という意味です。彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。これは「ご覧になる神」という意味です。ハガルに対してと同様に、神はあなたに耳を傾け、あなたを見ておられます。それは、あなたを心配しておられるからです。創世記12章の約束は、イエス・キリストによって成就しました。すべての人間は例外なく、アダムの罪を受け継いでいます。つまり、自らの罪により裁かれ永遠の滅びに定められています。しかし、キリストが十字架で死んでくださった事により、信じる者に罪の赦しをお与えになっています。さらに、キリストは復活することにより信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。今日も、イエス様はあなたを招いて、あなたを見出し、あなたに耳を傾けておられます。

無くてはならぬもの

2019年06月16日
説教者:岸義紘牧師

<聖書>ルカの福音書10章25~42節
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

メルキゼデクとイエス様

2019年06月9日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>へブル6章13~20節、7章1~4節
6:13 神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、
6:14 「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
6:15 このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。
6:16 確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。
6:17 そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。
6:18 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。
6:19 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
6:20 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

7:1 このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
7:2 アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。
7:3 父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
7:4 さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。

<要約>

神の約束と誓いの確かさ:

神は、アブラハムに「あなたを祝福し大いなる国民とする。あなたを通してあらゆる国民を祝福する」と約束しました。しかし、そればかりでなく、さらに神であるご自身にかけて誓われました。これは、今でいえば、口で約束してさらに誓約書にサインして実印を押したということです。間違いない、約束を破ったら弁償しますというようなものです。つまりこれ以上確実なことはないというのです。誓約書に実印が押されていたら、後で、言ったの言わないということで論争になることはありません。神が誓って約束してくださったことは疑いのない事実として歴史に成就しました。聖書の預言がことごとく成就しています。現在、すさまじい勢いで福音が届けられています。それらの歴史を見る時に、私たちは聖書に照らして時代を読むことができます。神は約束し、誓いをもって保証されます。それは私たちが前に置かれている望み、希望を捉えるために前進することを奨励しているからです。

メルキゼデクの祝福の及ぶところ: 平和の王メルキゼデクは戦争で疲れたアブラハムに神の祝福の言葉を携えて来ました。「キリストはメルキゼデクの位に等しい祭司」と唱えられたとあります。祭司は、律法によりレビの子孫でなければなりません。イスラエルでの最初の大祭司はアロンでした。ところが、アロンよりずっと前の人物のメルキゼデクには系図もありませんでした。これは、イエス・キリストがレビの系図になく律法では祭司としては認められていないユダ族から発している事とも類似しています。モーセの律法を与えられた民は、律法を守ることによって神に近づこうとしました。しかし、決まりを守ることによっては、彼らの良心を満たすことはできませんでした。行いを積むことが返って、彼らの高ぶりとなりました。律法の本来の使命は、罪を示されて、心砕かれ、へりくだって、神を見上げ信仰へ進むことです。そして、赦されていることに感謝するのです。罪赦された人は前向きに歩み出します。そのことで、今度は隣人のために自分の賜物を使うようになります。自分の人生が他の人のために用いられている時にこそ人は真に生きるからです。メルキゼデクの祝福は、イエス様を通してすべてのクリスチャンに及んでいます。

神の一方的な選びと祝福

2019年06月2日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記12章1~9節

12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは、【主】が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
12:5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 【主】はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに【主】のための祭壇を築き、【主】の御名を呼び求めた。
12:9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。

<要約>

神は他の人ではなくあなたを選ばれる:

アブラムが神に選ばれた理由は書いていません。アブラハムを通して地上のすべての民族を祝福すると言われました。それと同じように、神はあなたに目を留め、あなたを祝福の伝達者、祝福の基とするというのです。神は個人的にあなたという人を選んでくださいました。アブラハムは、偉大な信仰者、信仰の父とも言われていますが、初めから、そうではありませんでした。徹底して、神を信頼しきった人生でした。希望を持ち続け、それにより信仰が建て挙げられたのです。私たちもアブラハムのように、神をどこまでも信頼していきましょう。

神があなたに与える祝福とは:

神に従うアブラムに、神は繁栄の約束を与えました。アブラハムの祝福を受け継ぐクリスチャンである私たちにも、神は天にある豊かなあふれる富をお与えになります。そして、「あなたを祝福する者を神は祝福し、あなたを呪うものを神は呪う」と宣言されました。イエス・キリストに頼るものはどんな時も圧倒的な勝利者となるのです。次に、神の祝福は、罪の赦しと永遠のいのちです。それは、アブラハムの子孫イエス・キリストにより与えられるものです。神は、あなたを愛し、神のひとり子イエス・キリストによって救いの道を用意してくださいました。キリストにより罪赦されて永遠のいのちに生かされているからです。

神の選びと祝福を受けた者の応答:

繁栄と勝利の祝福を受けたアブラハムは、どうしたでしょうか。彼は主のために祭壇を築き、主の御名によって祈ったと書いています。これが、神の約束を受けた者の応答です。イスラエルは祭司の民とも言われています。祭壇を築き、神を礼拝し、とりなしをしたのです。イスラエルの国家としてのスピリットは、世界の人々の破れ口に立つということです。ですから、他国の災害時にはいの一番に救助隊を送って最新の技術で救助します。また、イスラエルは技術国家として、様々な世界平和に寄与する先端技術を開発しています。同様に、霊的なイスラエルの民であるクリスチャンは、全国民の祝福の基となる人々です。神は、あなたを用いて、あなたの周りの人々を驚くべき光の中に招かれるのです。

教会はキリストの身体

2019年05月26日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>Ⅰコリント12章12~27節

12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

<要約>

神(キリスト)を失った身体:

人間社会の歩を見ると、分裂と争いの歴史であると言えます。衣食住が満たされるようになっても、人口減や核家族化、高齢者の孤立化などがあります。依然として、将来に希望を見いだすことができない社会です。多くの人々が孤独とあきらめの中にいます。これは、はっきり言って、神を失った人間の姿であり、歴史と言えます。神よりも自分を上に置く人間は神を失います。そして、神を失った人の人格の中心には空洞ができています。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける者は救われます。あなたの人格の中心にあった空洞に聖霊が住まわれます。そして、あなたには決して奪われることのない平安といのちの喜びがきます。

教会員の多様性と一致:

人間の身体は、各器官が共に働いて生命活動をしています。それぞれの器官はかけがえのないものです。クリスチャン各自はその器官であり、各自が違っていてよいというのです。教会は一つのからだです。すなわち教会は多様な人々で構成されています。他の人と比較して卑屈になったり、ねたんだりしてはいけないというのです。その自覚に立って、自分に与えられた分で精いっぱいキリストのからだである教会のために全力を尽くすのです。人体の器官に優劣をつけることはできません。教会は多様な人々で構成されていて、キリストによって一つにされている統一体です。私たちはキリストのからだとして、兄弟姉妹の重荷を分かち合い、ともに苦しみともに喜ぶ教会でありたいと思います。

キリストのからだの使命と目的:

身体の各器官が体全体のためにあるのです。同様に、私たちクリスチャンも他の人々のためにあると言えます。さらに、キリストが頭となって、キリストの思うところをなし、キリストの望むところを探り行うのです。教会では、かえって、劣った人、弱い人、貧しい人を尊ぶのです。教会はキリストの花嫁で、キリストは教会のためにご自身を捧げられました。そして、教会をシミやしわやそのようなものが何一つない、清く傷のないものとしてくださいます。キリストのからだを建て挙げるというのは、教会が質的にも量的にも成長することです。

何にも勝るプレゼント、聖霊

2019年05月12日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書:使徒の働き2章1~11,36~42節

2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」


2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

要約:

聖霊は復活のいのちに繋ぐ:

聖霊降臨の時、激しい風、あるいは炎のような分かれた舌、という象徴的な現象が表れました。そして、聖霊が各人にとどまったときに、彼らは聖霊が話させる通りに他国語で話し出したのです。さらに、ペテロはダビデ王の詩編16編の詩を引用して、自分たちはキリストの復活の証人であると明言しました。そして、聖霊はキリストの復活の証人である信者を用いて福音を全世界に届けるのです。聖霊は、聖書のみことばと共に人々に働いて、人々が福音を理解できるようにします。聖霊は、信じて洗礼を受ける人の中に住んでくださいます。そして、聖霊はあなたの人生を希望と喜びの人生に導いてくださいます。そして、聖霊は信じる者をキリストの復活のいのちに結び付けます。それは永遠のいのちです。

聖霊は罪と死の束縛から救う:

ペテロは大胆に、聴衆に言います。「あなた方はイエス・キリストを十字架につけたのだ」と。人が神を無視し神から遠く離れていること、それが根源にある罪です。群衆は心刺されて、「兄弟たち、私たちはどういたらよいのでしょうか」といいました。彼らは、罪を悔いて痛み悲しんだのです。自分の罪を認めたのです。ペテロが勧めているように、すべての人は自分の罪を認めて、悔い改めてキリストを信じて洗礼を受けることです。そうすれば、賜物として聖霊を受けるというのです。聖霊はキリストの十字架の血によってあなたの罪を赦し永遠のいのちに生かします。死は絶望ではなく、永遠のいのちへの門と言えます。こうして信じる者は罪と死と罪の束縛から救われているのです

聖霊は永遠の希望と喜びで満たす:

なぜ、人は心満たすものを求めるのでしょうか。神から離れ、神のいのちを失った人間には人格の中心に空洞ができています。アウグスチヌスは、その空洞はあなたを造られた神しか満たすことはできないと言いました。永遠に、そして完全にあなたの心の空洞を満たすことのできるのは神である聖霊です。そして、聖霊は、決して消えない、喜びを与えます。それは、世にはないものです。いつまでも残るものです。もし、聖霊を意識して、心開くなら、あなたの心の奥深くに、あなたの存在の根底に、決して消えない喜びを持つことができるのです。

教会の基礎

2019年05月05日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


聖書:マタイの福音書16章13~19節
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

要約:

人生で最も重要な質問:(13~15節)

「あなたは、私をだれだと言いますか?」これは、非常に重大な質問です。この問いがなぜそれほどまでに重大なのでしょうか?なぜなら、その問いに答える者の永遠を決めてしまうからです。この問いは、歴史を通して、失われることはありませんでした。先々月、ローマを旅しました。当時、先の問いに「キリストは真の神、私の救い主です」と告白する者は処刑されました。でも、彼らは地上のいのちを捨てても、それに応えてきました。この問いは、あなたの生死を決定する問いです。教会は、その問いを人々に投げかけています。

幸いと勝利が保証された人生:(16~18節)

ペテロの信仰告白の上に教会は建てられています。教会に集う信者一人ひとりに、人生の幸いと勝利が保証されています。ペテロの信仰告白の後、イエス様ははっきりご自身がこれからお受けになる受難についてお話になられました。それに対して、ペテロはそれを否定して、イエス様をいさめ始めました。ペテロは、あれほどの信仰告白をしたあとですが、キリストについて、よく分かっていなかったのです。後になって、自分の力に頼っていたペテロは砕かれました。そして、自分中心から神中心に変えられました。クリスチャンライフは自分中心ではなく神中心です。

教会は天国の主張所:(19節)

教会には、天国への扉があり、その鍵があります。教会は天国の出張所です。では、鍵の権威の行使の第一番は何でしょうか。それは、罪の赦しです。教会は、キリストに代わって罪の赦しを宣言します。信じる者は誰でもこの罪の赦しを受けます。そして、滅びではなく永遠のいのちをいただくのです。鍵の権威の行使のもう一つは、キリストを拒み悔い改めない者を罪に定めることです。クリスチャンは二重国籍の民です。地上では日本国民として、遣わされたところで与えられた才能や技術を用いて、人々の福利のために努力します。天の国籍については、地上の教会を通して神の国の働きに参加することです。教会の一員として、キリストの代理者としてとりなし罪の赦しを宣言します。

ヨーロッパ初のクリスチャン

2019年04月28日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書 使徒の働き16章6~18節
16:6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
16:7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
16:8 それでミシアを通って、トロアスに下った。
16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
16:11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。
16:13 そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
16:14 リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。
16:16 さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。
16:17 彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。
16:18 何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。

要約

みこころを知り前進する:

私たち人間が立てる計画と神の思いと違っている事がよくあります。聖霊は行くべき道を示してくださいます。聖霊の導きによりパウロ一行はマケドニア宣教の使命を確信して出発しました。私たちはどのように神のご計画を知って歩んでいったらよいのでしょうか。まず、第一に神は志を与えてくださるというのです。次がわからない、でも目の前の一歩は示されているということがあります。クリスチャンライフは、結果オーライの人生です。最終的なゴールは天の御国です。そこに至るまで、私たちは一歩一歩この地上の人生を歩んでいきます。

賜物を用いて主に仕える:

パウロ一行は、祈り場と思われる川岸に行きそこに腰を下ろして集まった女たちに話しました。そこにテアテラ市の紫布の商人で神を敬うルデアという女性が登場します。彼女は成功した女商人でした。ビジネスで忙しい生活を送ってましたが、さらに重要なことのために時間を割いていました。それは唯一の真の神を礼拝することです。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされました。ルデヤとその家族はバプテスマを受けました。ルデヤは、ヨーロッパで最初のクリスチャンとなったのです。その後のルデヤは、ピリピにずっととどまり、パウロたちを経済的に支え続けたと思われます。ピリピ教会は、獄中にいたパウロの手紙から判断すると、喜びの教会と言えるでしょう。私たちの教会も、喜びの教会とさせていただきたいと思います。そのためには、お一人お一人が、イエス・キリストの救いの喜びに満たされてほしいと思います。

罪が人を道具とする:

占い女の主人たちは儲けるのぞみがなくなってしまい、彼らはそれを恨んで、言いがかりをつけてパウロとシラスを訴えました。罪は人間を道具として、その人から搾り取るのです。人間を自分の利益のために利用するのです。それは、人を自分の思い通りにしたいという欲望です。自己中心で自分さえ良ければよいという人間の姿です。これは、私たち人間が持っている罪の性質です。その罪を取り除いてくださるのがイエス・キリストの十字架の血です。私たちは、ルデヤの信仰を見習うものとなり、皆さんで、喜びの教会を建て挙げていきたいと思います。