アブラハムの祝福とは?

2018年09月 23日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記12章1~9節
12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
<要約>

信仰を受け継ぐ祝福

「地上のすべての民族はアブラムによって祝福される」という預言があります。それは、アブラムの子孫のイスラエルに全人類の救い主イエス・キリストが誕生することによって成就しました。アブラムはすべての人々の祝福の基となるのです。ですから、キリストを信じるすべての人は、信仰によってアブラムの子孫となり、アブラムと一緒に祝福を受けるのです。神は、アブラハムを祝福し、その信仰の継承者であるクリスチャンを祝福するというのが神の約束です。私たちもアブラハムのように、神をどこまでも信頼していきましょう。

繁栄の祝福

アブラムの祝福の最初は、繁栄の約束です。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福しあなたの名を大いなるものとしよう」と言うみことばです。神はアブラムに土地を与える約束をします。そして、アブラムに子孫の約束を与えます。アブラハムの祝福を受け継ぐクリスチャンである私たちにも、神は天にある豊かなあふれる富をお与えになります。一国の帝王が、その子どもたちに自分の資産を相続させるのと同じです。アブラハムのように彼の地上での生涯の中では、その富を見ることがなかったとしても、天には多いなる宝が積まれているのです。

罪の赦しと永遠のいのちの祝福

聖書を読むと、神の二通りのお姿を見ます。一つは怒りの神です。神は焼き尽くす火、と書いているようにそれは恐ろしい、罪や悪に対しては容赦のない裁きを下される神です。もう一つのお姿は、やさしい、やさしい父親のようなお姿です。神の祝福は、罪の赦しと永遠のいのちです。それは、アブラハムの子孫イエス・キリストにより与えられるものです。律法の呪いから贖い出されたということです。神は罪のない神のひとり子を呪いの十字架にかけることを良しとしました。そして、神の全人類の罪に対する怒りを代りに御子の上に落とされたのです。ですから、キリストの十字架の贖いを信じる者には神の怒りはもう及ばないのです。彼らには、神の祝福しか及ばないと言えます。怒りの神のお姿は消えました。そして、もう一方の優しい愛の神のお姿があるのみです。

 

信仰が希望を保証する

2018年09月 16日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

 

<聖書>創世記11:10~26 へブル書1:1~6

11:10 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。
11:11 セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:12 アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。
11:13 アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:14 シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。
11:15 シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:16 エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
11:17 エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:18 ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。
11:19 ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:20 レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。
11:21 レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:22 セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。
11:23 セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:24 ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。
11:25 ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:26 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

ヘブル
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

<要約>

受け継いだ信仰にとどまる

このセムからアブラハムまでの系図は何を物語っているのでしょうか。それは信仰です。真の神への信仰がノアからセムと子孫に受け継がれたことを語っています。神は救いを信仰と言う手段で受け取ることを勧めています。へブル書には、「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。望んでいる事柄が必ず実現すると信じて、みことばを握っていくのです。信仰にとどまり続けるためにはどうすればよいでしょうか。それは、みことばと交わりです。毎週礼拝に来て、みことばを聞き交わりを持つことです。私たちが救われたのは、信仰が人から人へ受け継がれたからです。私たちも信仰にとどまり、受け継いだ信仰を次の人々へ継承していく勤めがあるのです。

向きを変えて神を仰ぐ

カインはアベルを妬み、殺しました。最初の殺人事件の動機は妬みでした。妬みは最も誰もが抱く罪です。自分にないものを欲しがるむさぼりからくる罪です。人を不幸に落とす最大の罪です。妬みは破壊的な悪の力を誘導します。妬みから解放されるように、私たちは常に神から与えられているものに満足して感謝していくことです。罪から守られるためにはどうすればよいのでしょうか。常に悔い改めることです。悔い改めは反省とは違います。後悔とも違います。悔い改めは、向きを変えることです。キリストの十字架を見上げて罪の赦しをいただくのです。

信仰によって大きな希望に生きる

主の祈りで、私たちは「御国が来ますように」と天国の到来を祈ります。「御国が来ますように」と言うのは、永遠の神ご自身に国ごとこっちに引っ越してきてくださいと言うような祈りです。これはあまりにも大きな願いです。もしイエス様がそのことを求めるように教えて下さらなかったならば、人間の心は、それを望むなど到底思いもつかないものです。イエス様は、父なる神に何でも求めるように私たちに教えています。私たちは自分では大それたと思えるような願いでもキリストにあっては大いに求めてもいいのです。いな、求めるべきなのです。神様は私たちを祝福しようと耳を傾けておられます。

 

降りて来られた神

2018年09月 09日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11章1~9節
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
<要約>

神中心から人間中心になった社会;

洪水後、船から出たノアの家族は「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の神の祝福を受けて人数も増しました。彼らはシヌアルの地へ移動していきました。最初の権力者となったニムロデは「主のおかげで力ある猟師となった」とあります。ニムロデは、主によって賜物を与えられて、地を治め、人々に平和と安全を与える役目を担った最初に人物でした。しかし、なんという皮肉でしょうか。ニムロデはこの後、バベルの塔事件を起こし、さらに後に、繁栄と堕落を極めたバビロン王国の始祖となったのです。ニムロデは、本来はそれらの能力を用いて世の人々に仕える役割を与えられたのです。しかし、残念ながら高慢となり、逆に人々を扇動して神に敵対するために立ち上がったのです。それが、バベルの塔の事件です。

正すために降りてこられた神;

「主は人間が立てた町と塔をご覧になるために降りてこられた」とあります。神は、ご覧になり、「今や、人間がすることはとどめられることはない」といわれました。人間は自分の知恵や力を結集して、神に反逆しようとしたのです。人は一つになって、神に敵対し無軌道な歩みしてしまいます。彼らが滅ぼしつくされないように、神は言葉を混乱させました。これは、神の配慮です。創造主なる神を無視して歩むときに人間は高慢となり、自分中心となり自滅の道を進むのです。神は言葉を混乱させて、バベルの塔建設を押しとどめました。私たちの人生も神中心にあるべきです。人間中心の世界には救いはありません。神のご支配をこの世に及ぼすために、キリストは見せかけの平和を打ち砕かれたのです。

救うために降りてこられた神

神はもう一度人間社会に降りてきてくださいました。それがクリスマスです。神が人となって来てくださったのです。イエス・キリストは、あなたを罪と死と悪魔から救うために来られました。神は、言葉を混乱させて人々を散らされたのとは反対に、キリストにより全人類を一つの国民一つの民にしたいと願っています。サタンの支配からキリストの支配に取り戻そうと願っておられるのです。私たちはそのために先に救われたのです。

 

 

 

ノアと洪水

2018年09月 02日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記6章1~22節
6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。
6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。
6:15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。
6:16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。
6:17 わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。
6:18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。
6:19 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。
6:20 また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。
6:21 あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

<要約>

見えるものに傾く人間;

「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、」と言う文章があります。「神の子ら」は何かと言うことです。これは主にセツの子孫で「神を信じる者」つまり信者を指していると考えて良いでしょう。人の娘というのは、主にカインの子孫で神を信じない人々の娘です。信者たちは、不信者の娘たちに心ひかれたということでしょう。信仰で物事を判断しなくなった姿勢、信仰を大切にしなくなった姿がうかがえます。そこに、目に見える物に傾く人間の姿があります。ネフィリムは昔の勇士で名のある者たちであるとあります。ネフィリムは「落ちる」という意味があることから、堕落した者たちをさしています。これは、主にカインの子孫であったと思われます。これは、巨人であり、力があり、勇士であり、名のある者、すなわち、権力や勢力を持った人間でした。人々が目に見えない神よりも、目に見える力ある人に心惹かれて行ったのです。信者たちも信仰の事より世の事に心を奪われるようになりました。目に見える物に傾く傾向です。心の目は曇ってしまし、肉の目で見える物しか、知ろうとしなくなります。人間は、神を追い出して、神なき世界を作り出していくのです。それは、神を追い出して人間中心の世界を築き上げてきた人類の姿です。「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」のを神はご覧になったのです。神から離れた人間は、神を恐れ、愛し、信頼することがなくなります。善悪の判断基準は自分にありますので、自分中心の生き方になります。それぞれの人々が、自分中心になれば、必ず、争いが起きます。神は私たちを愛の対象として創られました。土から創られて、鼻から神の霊を吹き込まれたのです。そして、人間は神に似たものとなったのです。しかし罪が入り、人は御霊を心の内から追い出してしまったのです。人間は御霊に聞き従うより、肉、すなわち罪の性質に従うことを選択して生きるようになりました。いつしか、神の存在を認めなくなったのです。私たちクリスチャンは、聖霊をいただいた者たちですが、肉といわれる罪の性質が残っています。もし、御霊によって生きなければ肉によって生きることになります。ついには、聖霊を追い出してしまうのです。日本では、洗礼を受けてクリスチャンになっても、信仰の破船に会い、教会から離れて行く人々が多くあります。聖霊に聞き従うより、自分の肉に従う人々です。このように現代の多くの人々は、神の存在がわからない、神がおられることも認めないのです。これは神を離れていく人間の姿ということができます。何度も神は悔い改めを迫ったでしょう。実際、箱舟を建造する数十年の期間を用いて、ノアは宣教したことがうかがわれます。しかし、聞く耳を持たなかった人類に、ついに裁きの時が来たのです。7章を見ると雨が降り始めたその日にノアとその家族は箱舟に入りました。あらゆる動物たちも中に入りました。その時も、箱舟の扉は空いていたのです。人々は招かれていたのです。7章16節で、最後に神が後ろの戸を閉められたのです。神の忍耐とあわれみは大きいことを知ってください。また、最後に後ろの戸を閉めなければならない神の痛みと悲しみを知ってください。

見えない神を第一とするノア;

「ノアは正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」と書いています。正しい人、というのは、神との関係において正しいということです。神との関係において正しいことと、人との関係において正しいこととは必ずしも同じではありません。ノアは神との関係をいつも第一としていたのです。人生は選択の連続です。何を選んで進んでいったらよいか迷うこともあります。その時はまず、神との関係を第一とするのです。最善の道が開かれます。どうしたら、御心を知ることができるでしょうか。神のみこころはどこに表れていますか?十戒に表れています。ですから、原則的には十戒に照らして、みこころかどうかを判定します。このように、ノアは神様との関係を第一としてその信仰を認められた人です。私たちも、ノアのように神様との関係を正す必要があります。

信仰によって義とされる人生

神は「わたしはあなたと契約を結ぼう」とノア一人を指して誓われました。神は一人の人ノアに人類救済を託したのです。ノアの信仰についてはへブル書11章を見てみましょう。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」ノアは箱舟で水を潜り抜けて救われました。そして、信仰によって義とされました。彼は、箱舟をつくって、人々をそこに入るように招いたものの、世の人々は不信仰になり、神の警告を聞きませんでした。その事により世は罪に定められたのです。神はノアを選び、契約を結び、彼に人類救済を託しました。同様に、神は私たちクリスチャンを選び、約束を与えて、他の人々の救いのために遣わしてくださっています。ノアの時代の人々は、箱舟に救いがあることを信じないで滅びました。同様に、イエス様の十字架に救いがあることを信じない人は滅びます。なぜなら、十字架の救いの道が提供されているからです。十字架を信じれば救われるのです。しかし、十字架を信じない人は罪に定められます。不信仰によって罪が明らかにされるのです。ノアは、その時代の人々にとって、浮いた存在だったでしょう。私たちクリスチャンも信仰を守ろうとするとき、世にあっては生きづらいこともあるでしょう。しかし、ノアのように神を恐れ、神を愛し、神に信頼していくならば、ノアのように必ず、大いなる祝福を受け継ぐものとなるのです。

 

 

皮の衣

2018年08月 26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記3章1~15節
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

<要約>

呪いとしての人生

アダムの罪により、人は完全に堕落してしまいました。彼らは罪によって呪われたものとなってしまいました。女性に対しては、うめきと苦しみです。その内容の一つが、苦しんで子を産むということです。出産にかかわる苦しみです。女性は、妊娠すれば、つわりなど肉体の苦しみがあります。また、お産の時は陣痛を経験します。次に、女性は夫となる人をしたい求めるが、夫からは支配されるというのです。そこに生じるのが力関係です。すなわち、女性は男性から力で支配されるのです。堕落まえは、支配される関係ではなく、愛と信頼の関係があったと思います。妻は夫に従い、夫は妻を愛するのです。そこには人格的な関係があり、力で相手を利用するということはありません。次に、男性の方です。自然界は、アダムの罪により呪われます。土地はアザミと茨を生じさせて、食を得るためには苦しまなければなりません。労働は食べるためであり、それには困難と苦しみが伴います。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」人生では労苦とわざわいを経験し、ついには土にかえるのです。それが、悪魔の支配下にある人の歩であると言えます。

神の恩寵と祝福の人生

アダムは、死の決定を受けた後、エバが多くの子孫の母となることを悟りました。すなわち、自分たちが、いのちを繫いでゆく存在であることを自覚しました。そして、神は彼らのために動物を殺して、その皮を用いてアダムとエバに着物をつくられました。これは、私たちのために十字架で神の子羊となって血を流してくださったキリストの尊い犠牲を暗示しているとも言われています。またこれは、この後、人が動物のいけにえを捧げて、神に近づくことのしきたりに通じています。すなわち、罪によって、人はだれも神に近づくことはできないからです。モーセの時代になって、神は民に律法をお与えになりました。律法によると、人は、動物の犠牲によって罪の赦しを得ることができるのです。すなわち、自分の罪を傷のない清い動物の頭に着せてその動物を殺して血を流すことで、祭司から罪の赦しが宣言されます。罪の赦しのために繰り返し流された血は、とき至って現れたキリストの十字架で流される血を予表していました。やがて、キリストの十字架による完全な罪の赦しが成就することになります。次に、神は、人間を環境から守るために動物の皮で着物をつくり与えてくださったと言えます。エデンの園から追い出された人間には、いばらとアザミが待っていました。すなわち、自然界は裸の人間には危険であることが示唆されます。寒さから体を守る必要もあったでしょう。これ以降、人間は自然界の動植物を自分たちの福利のために用いるようになりました。シェルターとなる家も必要でしょう。また、土地を耕すための道具も必要となったでしょう。そのために、様々な器具をつくるようになりました。そのように人間社会には文化、文明が芽生え、発展していくのです。それは、人が自然界を自分たちの福利のために用いることができるようになさったのです。皮の衣は、神からの恩寵です。プレゼントです。現在、私たちは神から多くのプレゼントをいただいています。あまりにも多くあり、当たり前になっているのです。私たちが毎日食に与り、住む場所も与えられていること、それも神の恩寵です。主の祈りで、「日毎の糧を今日もお与えください」と祈ります。日ごとの糧は、小教理では、私たちの身体や生活のために必要なすべてのもののこと、とあります。アダムとエバを守り祝福するために、神が動物の皮の着物を与えられて以来、その恩寵は発展して人類の福利になっております。アダムとエバは、彼らの子どものためにそして子孫のために働くことになりました。それは、人が他の人のために奉仕していくことの原型です。クリスチャンは、神からそれぞれに賜物が与えられて、それで隣人に仕えることに召されているといえます。イエス様が命じられた隣人愛の実践です。「自分と同様にあなたの隣人を愛しなさい」という戒めです。神はこの地上で人が幸せに生きるためにこの地を住みよいものにしてくださっています。これは、地上に神の恵みが及んでいるからです。それは、すべての人に注がれる神の恩寵と祝福です。神が私たち人間を愛してくださったように私たちも互いに愛し合うことが神のみ心なのです。私たちクリスチャンは神の愛を隣人に届けるように召されているからです。

断絶と回復の希望

人は、神の戒めを破って、善悪の知識の木からとって食べました。そして、神から断絶されるのです。人が、神を押しのけて、自ら善悪の判断をするようになったのです。それは越権行為です。ボーダー、境界線を越えたことによる彼らの罪です。それに対しての対価は、エデンの園から追放でした。罪がもたらしたものは、断絶された神との関係です。エデンの園から追い出された人間が、勝手に戻ってこられないように、神はケルビムという天使に園の入り口を守らせました。「いのちの木からとって食べ、永遠に生きないように」と神は言われました。それは、神との関係を絶ったものは永遠のいのちを失うことを示しています。人は、やがて土に帰ります。そして、神と断絶された魂は、永遠の滅び、永遠の暗黒へと落とされるのです。永遠のいのちとは、永遠でおられる神のいのちにつながっていること、すなわち、神との交わりに生きていることです。しかし、神は人を惜しんで、関係回復を願っておられます。神は、人が罪を犯して堕落してしまったすぐ後に、原始福音と言われるやがて来られるキリストを暗示されました。それは、壊れてしまった神との関係回復の道です。罪を犯す前にあった愛と信頼の関係です。神との関係回復は、やがて来られるキリストの十字架の贖いにより成就しました。キリストが信じる者の罪を取り除いてくださいます。そして、神と人の隔ての壁を取り除いてくださるのです。サタンの支配から神の支配に移してくださるのです。旧約の時代に生きた人々も信仰によって救われました。へブル11章は、そのことを証しています。 旧約時代の人々は、その時は神の約束を受け取ることはできなかったのですが、神が備えてくださった「さらにすぐれたもの」を待ち望んでいました。それは神のご支配、天の御国ということができます。天のみ国は、女の子孫であるイエス・キリストが治める国です。それは原始福音にみられる救い主の約束です。イエス・キリストです。旧約時代の人々については、新約の私たちのように、イエス・キリストの救いをはっきりと今、受け取ることはなかったといえます。でも、彼らも私たちと同様に、イエス・キリストにより罪の赦しを受け天の御国へ移されたのです。そのことは、アブラハムを例に見ることができます。アブラハムはまだ、キリストを見ていませんでしたが、信仰によって義とされたことが書いています。彼に与えられたのは、神のことばでした。神の約束でした、しかし、「あなたは大いなる国民とされる」、「あなたによってすべての民族は祝福される」というようなことは彼の存命中には何一つ実現しませんでした。しかし、彼は神の国の到来と救い主の来臨を信じて一生を全うしました。自分の目の前の状況がたとえ開かれなくても信じて待ち望み、人生を全うしたのです。回復の希望は、神の愛への信頼、神のことばへの信頼、にあるからです。

 

 

2018年08月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記3章1~15節
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

<要約>

罪の本質

サタンは堕天使とも言います。堕落した天使です。神は、二種類のいのちを造られました。目に見えるものと見えないものです。いのちを持つもので、目に見えない存在が天使です。天使は、神をほめたたえ、神のみ心をなし、神の創造されたものに仕える存在です。元天使であった霊が、高慢と不従順のゆえに天から落とされたのが、サタンをかしらとするもろもろの悪霊たちです。彼らは、神に逆らい、み心を拒み続けます。聖書にはサタンは人殺しで嘘つきであると書いています。天使も悪霊も無数にいるといわれています。サタンが蛇の姿をとって人を誘惑しました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と。神のことばをまげて伝えています。神は、食べてはいけないのは善悪の知識の木だけ、と言われたのです。サタンはそれを「どんな木も」と言って、すべての木を禁止の対象としました。ここに誇張があります。サタンはこれにより、エバの心に神へのマイナスの思いを増大させています。同様に人がするうわさ話も必ず誇張があります。実際以上に悪く言うのです。ですから、うわさ話に対しては、サタンが背後でその人への信頼を落とそうと巧みに働いていることを知らなければなりません。蛇は、「触れただけで死ぬわけがないでしょう」と言わんばかりに、「あなたは決して死にません」と断言します。巧妙な手口です。これは神のことばの完全な否定です。逆なことを断言しています。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、彼女を誘惑に落とすのです。この「神のようになり」というのは、罪の本質をついています。罪とは、人間が神になろうとするところから始まるからです。これは、人間が持つ強い誘惑です。神のようになって、何でもできる。決まりは自分で作る。誰にも命じられない、思うままに人を動かす、ほしいものは何でも手に入れる。最高権力ですべてを従えたい、というものです。 アダムがどのように罪を犯したか、もう一度まとめてみましょう。罪の本質は、みことばに対する不従順です。つぎに、悪魔のことばの採用です。神は食べれば死ぬといわれましたが、悪魔は食べても死なないといいました。人は悪魔を選んだのです。そして、人間の究極の欲望は、神のようになりたいということです。神のようになり、周囲の人々を自分の思うままにコントロールしたいというのです。

罪がもたらすもの

その木の実は「食べるのによく、目に慕わしい、いかにも好ましかった」とあります。誘惑は華美で、素晴らしく映るのです。そして、食べたのです。誘惑に対しての敗北です。一線を越えてしまいました。ボーダーを超えてしまったのです。とって食べるという行為はとても簡単で容易な行為です。しかし、その重大さは計り知れません。「ちょっとくらい」という思いが雪だるまのように大きくなり、嘘に嘘を重ねるようになり、取り返しのつかないところまで来るのです。入り口は、簡単で容易に見えますが、その重大さは測り知れないのが、それが罪の性質です。私たちは、サタンと私たち自身が持つ罪の性質には注意しなければなりません。彼らが食べた後には、彼らが見えたものは、自分たちが裸である事実です。自分たちが恥ずべき存在であることの自覚です。罪は恥をもたらすということです。神の戒めを破った瞬間から良心にひびが入り、ごめんなさいといって、神に帰ることもせずに逃げ隠れしたのです。神は「あなたは、どこにいるのか」と問うています。これは、神が人を見失ったのではなく、人が神との交わりを絶ったからです。アダムもエバも神から問われたとき、他に罪を転嫁しています。これが人間の姿です。最終的には、神が悪いとするのです。こんな世界にしたのは神が悪い、もし神ならば、もっと良い世界を造れと言わんばかりです。堕落前は、神を主としていましたので、人は神の支配下にありましたが、堕落後は、人は罪に縛られて悪魔の支配下に移ったのです。ですから、現在、人類は悪魔の支配下で苦しんでいます。個人レベルでも国家レベルでもそうです。国は、戦争はいけないとわかっていても戦争をやめられないのです。個人レベルでは、健康に悪いとわかっていても悪い習慣をやめることができません。赦さなければならないとわかっていてもなかなか心で赦すことができない。これらは、悪魔の支配下で苦しんでいる人間の姿なのです。新約聖書は、このアダムの罪をどのように解釈しているでしょうか。ひとりのアダムの違反によって罪が入り、罪によって死が入り、こうして、全人類に死が入ったと書いています。アダムが全人類の代表となっています。これを聖書の代表性といえます。アダムの罪を全人類が引き継いだということです。私たちの代表の行動は私たち自身の行動と受け止められるのです。聖書はさらに、アダムだけの罪ではなく、その罪の性質が遺伝してすべての人は生まれながら罪びとであると宣言しているのです。ですから、堕落以降、生まれながらの人間は、本当の意味で神を知ることがなく、また、神がなさることを理解することができません。また、神を愛することも喜ばせることもできないししません。皆、悪魔の支配下にあるからです。でも、ご安心ください。イエス様は私たちを、悪魔の支配からキリストの支配に移してくださいました。イエス様の救いは、移動、引っ越しであるといいました。クリスチャンは、キリストの支配下にありますので、もう悪魔に支配されることはありません。では、どのように神は、悪魔の支配下から人を神の支配下、キリストの支配下に移してくださったのでしょうか。

原始福音

そこで神は、15節をお与えになりました。これは原始福音と呼ばれるものです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえはサタンですから、サタンとエバの間に、そして、サタンの子孫と女の子孫との間に神が敵意を置く、というのです。この女の子孫は、単数であることからキリストを表しています。この「彼は」は、キリストで、サタンの頭を踏み砕くというのです。これはサタンとその力に対する完全な勝利を意味します。蛇を殺す一番の方法は頭を踏み潰すことだからです。「お前は彼のかかとにかみつく」これは、相手に激しい苦痛を与えるが、致命的なものにはならないというのです。神は、人の罪に対して、すぐに救いの道を計画なさりました。サタンは救い主を亡き者にしようとしました。最初は荒野で四十日四十夜、サタンはイエス様を誘惑しました。アダムはサタンの誘惑に落ちましたが、イエス様はみことばによってサタンの誘惑を退けました。落とすことができなかったサタンは、イエス様を抹殺しようともくろみます。そして、当時の宗教指導者たちや民衆を用いて、さらに弟子たちの裏切りを使って、ついに十字架で殺すに至るのです。これはサタンがキリストのかかとにかみついた瞬間です。一瞬、サタンは勝って、神は負けたかのように見えます。しかし、これは何という不思議でしょうか。また、神の知恵でしょうか。この負けと見える十字架刑により、キリストはすべての人の罪を、そしてあなたの罪をその身に負われました。すべての人の代わりに罪に対する神の怒りをキリストご自身がうけて、十字架で苦しみ死んでくださったのです。すなわち、人が受けるべき罪の裁きを代わりに受けて、あなたを無罪にしてくださったのです。「キリストの打ち傷によってあなたはいやされた。」とイザヤ書にある通りです。そればかりではなく、神はキリストの従順のゆえに、キリストを復活させて、それにあずかるものに永遠のいのちをお与えくださいます。これは、サタンの頭を踏み潰した瞬間です。サタンはもう、神の子キリストに勝利することはできないのです。このようにして、私たち信じる者はサタンの支配から、キリストの支配と移されました。アダムの違反によりすべての人に罪が入りました。しかし、イエス・キリストの従順と義の行為、それはとりもなおさず十字架であります。これにより、すべての人が義、すなわち神の前で正しいものとみなされて、永遠のいのちが与えられるということです。神が提供してくださるのは、罪と死と滅びからの救いです。どうすればそれをいただくことができるでしょうか。それは、ただいただくというだけです。なんの行いもいりません。信仰によって、いただくのです。自らの罪を認めて十字架を仰ぐことです。あなたは神のいのちといつながっているので、たとえ、地上のいのちが終わっても神のみ手の中で永遠を祝福と恵みの中で生きるのです。

 

 

人の創造と罪

2018年08月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記2章7~25節
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

<要約>

人は神の似姿であり代理者

神は、いのちの息を吹き込むことによって人をご自身のかたちに似せてつくられました。神のかたちに似せてつくられたということは、神のご性質や人格に似せて人をつくられたということです。それは、神は人を他の被造物と区別されたということです。神がいのちの息を吹き込まれた、それは神の霊です。ですから、人間は霊的な存在といえます。動物は霊がないので、神を求めることもありません。ですから、動物には宗教はありません。霊によって私たちは神のいのちとつながり、永遠に生きるものとされていました。しかし、人間は自分が神のようになれるという誘惑を受けて、自分を神の上に置こうとしました。そして戒めを破り、罪を犯してしまいました。そこで、人間は、堕落して、神から離れて真のいのちを失いました。神は人をおつくりになった後、人に使命をお与えになりました。それは、地を従え、すべての生き物を支配することです。つまり、管理することです。神は人をエデンの園に置き、そこを耕させ、そこを守らせたとあります。神は、世界を人の幸せのために用意され、さらに彼らにすべての被造物を管理させたのです。すべての被造物の長として支配させたのです。すなわち、人に仕事と使命を与えたのです。それはまた、人を神の代理者として地上を治めさせるということです。堕落前の人は、神からの知恵を用いて、地上のすべての物を正しく管理できました。ですから、人には素晴らしい労働と豊かな生活があったのです。現代も、人間は地上のあらゆる動植物を管理するものとしての使命を持っています。しかし、アダムの堕落以来、人は正しく管理することができずにいます。乱獲により絶滅寸前の動植物もあります。また、化石燃料の使い過ぎにより、地球温暖化が起こり、南極の氷は溶けだして海の水位が上昇して、水没しようとしている島国もあります。人が神中心の生き方から、人間中心の生き方を選んだ結果、正しく治めることができなくなったのです。それが現代に及んでいることです。神の代理人であったのに、自分が主人となった人間の姿です。それ以来人と神とは敵対関係にあるといえます。神の似姿であり代理者であるというのが、人の本来の姿です。今は、私たちはキリストにより神と和解して、親しい関係に入っています。神は再び私たちを神の代理者として立たせてくださっています。そして、神は私たちに使命と労働を与えておられます。また、今度は、神は私たちをキリストの代理者として、もう一度遣わしておられるのです。あなたは小さなキリストであることを忘れないでください。小さなキリストとしてあなたの隣人に仕えていくことです。また、隣人が神との和解を受けて幸せになるためにみことばを伝えるのです。

神のご支配にある自由

神はすべての被造物を見て、そして、人がそれらを正しく管理している姿を見て、「非常に良かった」と思われました。そして、人は神のご支配のもとで祝福の中にいたということです。地上で考えうるあらゆる最善、幸せ、愛、喜び、感謝、平安を持っていました。神は、エデンの園に人を置き、そこで動物たちを管理させました。そこは理想郷という場所でした。神の清さと義が支配していました。神は人に自由意思を与えておられます。人は、それをもって神に完全に従う幸いを味わっていました。神は人にどのようにして自由を与えられたのでしょうか。それは、園の中央に善悪の知識の木を生えさせることによってです。人に自由を与えるために、善悪の知識の木を植えられたのです。神は人に命じて仰せられたとあります。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。ボーダーを与えたのです。これ以上踏み込んではいけないという境界線を与えたのです。禁止命令です。どうして、自由を与えるために禁止命令を出したのでしょうか。境界線があって初めて人は自由になれるからです。幼稚園の園児も柵で囲まれた園庭にいることによって、安全に自由に遊べるのです。柵がなければ、道路から自動車が入ってきて、自由な空間ではなくなってしまいます。規則があって、範囲が決められて、人は初めて自由を味わえるのです。範囲も決まりを与えないのは放縦であって、自由ではありません。神は、善悪の知識の木を植えることにより、人が自らの自由意思をもって神に従うことを良しとしたのです。そこに愛と信頼の関係ができるからです。人はロボットや奴隷のようにではなく、自らの自由意思で強制されることもなく神に信頼を寄せることができます。これが、神と人、人格を持った者同士の愛と信頼と喜びの交わりなのです。善悪の知識の木の実を食べることは、人が神になりあがって、善悪の判断基準を自分のものとすることです。すなわち、神の上に自分を置くことになるのです。神は人間との関係に、秩序をお与えになったともいえます。神が上で人が下です。人が神の上に立とうとするとき、ボーダーを超えるということが起きるのです。原罪は、神が定めたボーダーを超えることから生じた罪です。神のご支配に入るということは、神を信じて、神のルールの中で自由を得ることです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と、イエス様は招いています。

断絶の架け橋となった十字架

人には、隣人が必要です。家族、友人、知人が必要です。人は自分のためだけに生きていくことにさみしさや虚しさを感じることが多いのです。人は、家族のために、隣人のために、他の人々のために生きる時にこそ喜びや意欲、生きる力が出てくるのです。ここで、最初の人アダムにとって初めての隣人であるエバが与えられました。そして、家族ができました。神の「生めよ増えよ、地を満たせ」という祝福の約束のように、この後、人類が形成されていきました。神は、人の関係を通して私たち一人ひとりに祝福を届けておられます。人は誰でも、父と母からこの世に生まれます。人にとって最初の隣人は、父母です。子どもとして父母のもとにいる間は親子、兄弟の関係の中で成長します。社会性を身につけます。そして、大人になって、独立します。独り立ちするのです。そして、また、新しい家庭を築くのです。彼らは裸であったが、恥ずかしいと思わなかったとあります。それは、彼らはまだ、罪を犯す前であったからです。彼らには罪がなく、心とことばと行いにおいて不一致がなかったのです。外側と内側に不一致はありません。私たちのように外側は正しく見えても内側には罪のけがれを隠しているというようなことはありません。透明性に富んでいました。悪魔の誘惑に乗って神に反逆して、堕落してしまうまでは恥ずかしさ、不面目、不名誉など罪に起因する感情はなかったのです。しかし、罪を犯した後、彼らは自分が裸であったことを恥ずかしく思うようになりました。そして、木の葉で身体を隠したとあります。そのアダムの罪の性質を受け継いだ私たちすべての人は不面目、羞恥心を持っています。外側は清く正しく見せても、内側は罪と汚れでいっぱいであるということがあります。聖書には、罪は人の内側から出ていると書いています。「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と書いています。神は心を見られます。人は自分の内側を偽って表面上は正しく美しく見せているのです。また、人は神の上に自分を置いて、神から遠く離れ、神を認めず、自分を優先して生きています。そこに人間の根本的な罪があります。そのような罪を神は悲しんでおられるばかりでなく、人の罪を受け入れることはできません。なぜなら、人の罪は、神の清いご性質、つまり神の正しさとは相いれないものだからです。私たちは自ら罪によって聖い神に近づくことも神の前に立つこともできないのです。神は清く正しい神ですから、人のいかなる罪も赦すことができません。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると言えます。それゆえ、神と人は断絶状態にあると言えます。そのような人間を神は惜しんで、「わたしに来なさい」と、招いておられます。そのために、神はイエス・キリストによって救いの道を用意してくださいました。キリストの十字架は、神と人の間の断絶に橋を架けて、あなたのところに来て、あなたを招いておられるのです。

 

四日までの創造

2018年08月 05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記1章1~19節
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。

<要約>

人は生きる意味を求めている

創造の目的は二つあります。神はご自身の栄光のために世界をつくられたということです。ご自身が崇められるために万物は存在しているのです。天地創造のもう一つの目的は、人に栄光と誉の冠をお与えになるためにです。平たく言うと、人間をこの上もなく幸福にするためにです。詩篇8章には、「神は人を神よりいくらか劣るものとし、栄光の誉れの冠をかぶらせた」とあります。ここから、神が人をどのように見ておられるのかがわかります。神は、人を高価で貴い存在として、栄光と誉がふさわしい価値あるものと見て下さっています。それは、王にあっては王子の身分と言えます。聖書は、キリストを信じる者は神の子とされる身分が与えられると書いています。これはとりもなおさず、あなたがこの上もなく幸福となるために、あなたに神の子の身分を与え、世界を造られたということです。 神は、このように、目的と意図をもって全世界をおつくりになりました。それに対して、万物は偶然にできたという考え方があります。ある日突然、偶然に物ができた、さらに偶然と偶然が重なり、生命ができた。そして、環境に適応して生命は進化して、単細胞生物から複雑な生命体に代わり、類人猿が生まれて、最後に人間になった、という考え方です。偶然は意味を語りません。突き詰めて言えば、偶然にできたというのは、存在の意味はないということです。人は意味を持たなければ生きることはできません。私たちは、毎日の生活で何らかの意味を見出して生きています。生活のために仕事をします。それを通して家族が幸せになるため、愛する人々のためにつらい仕事もこなします。どろぼうも自分の家族や子供たちを養うためにそれを仕事として行っているのだということです。良きも悪しきもそれなりの意味を見出して生きています。その意味を失ったときに人間は生きていくことができなくなります。聖書は、人間の存在の意味を教えています。その価値を教えています。聖書はあなたの存在の意味と価値を教えています。神の栄光のために、神が崇められるためにあなたに命を与え、あなたに目的と使命、価値をお与えになったのです。 神が万物を創造した目的は、神がほめたたえられること。そして、神があなたを愛して、あなたが幸せになり、幸せなあなたによって神が崇められることなのです。神はあなたにいのちを与え、使命を与えておられます。自分のためだけに生きても、人は幸せになれません。あなたのいのちを神と人のために使う時にこそ、本当の幸いな生き方ができるのです。

人のために地は整えられた

1節は、神は最初に天と地をつくられました。対照的な二つのことば、天と地、を用いて全体を表しています。すなわち、天と地は万物を意味します。天は、目に見えない神の臨在を表すところで、地は目に見える宇宙と地上を指しています。天は目には見えませんが、神のご支配と臨在です。神は、目に見えるいのちと、目に見えないいのちをおつくりになりました。目に見えるいのちは、人間と動物です。目に見えないいのちは天使です。天使は、性別もなく、死もなく、そして罪もない被造物です。神と人に仕える者たちです。神がこの天の領域で造られた者が天使です。それは、霊的存在です。しかし、神がおつくりになった天使の中のある者たちは、高慢になり、神に反抗して神のご支配である天から落とされました。それが、サタンと呼ばれる悪魔と無数の悪霊です。2節からは、地の領域に属するものの創造が書かれています。そして、19節までに、創造が完成する6日のうち4日までに整えられたものが書かれています。それは、地上と海と空と太陽、月、星、植物など、人間と動物がすむための環境となるものです。神は、光よあれ、と命じて光ができました。光がなければ、私たちは物が見えません。また、光がなければ光合成による植物の生育もありません。温熱も赤外線という目に見えない光です。次に神は、水をおつくりになりました。地球は水の惑星と言われているほど豊富な水によってできています。生命のためには水は欠かせません。宇宙探索でも生命の存在の条件として水のある惑星を探しました。火星など地球より外があにある惑星には水があります。しかし、すべて氷になっています。水であっても液体でなければ生命に役立ちません。次に神は大空をおつくりになりました。これは、地球の大気です。大空の上の水とは水蒸気層であると思います。下の水とは海であります。海は、海流により地球の温度を保っています。地球の大気の層はわずか、地球の半径の1%程度だそうです。宇宙から見れば非常に薄い青色の層です。大気の役割は何でしょうか。大気は、宇宙からくる有害な放射線をブロックしています。また、空気の層には気流が発生して地上の温度を一定に保っています。大気には生命に必要な酸素、窒素、わずかな二酸化炭素が含まれております。これも絶妙なバランスです。酸素は動物のために、二酸化炭素は植物の光合成のために、重要です。三日目に、「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と言われ、乾いたところ、陸ができました。陸も海も地球の地殻の上に載っています。陸は言うまでもなく、人間を含めて動植物が住むところです。地殻は動いています。地殻の中身は鉄を中心とした重い物質で、内部はドロドロに溶けています。そして、対流しており、その流れによって地磁気が発生しています。地磁気は太陽からくる有害な電磁波をブロックして、大気の層を守りひいては地上の生命を守っています。陸地には、植物が創造されました。それは、次につくられる動物たちの食べ物となりました。つぎに、四日目に、太陽、月、星々です。太陽の必要性については、言うまでもありません。しかし、地球の太陽からの距離は非常に重要で、狭い範囲を公転しています。もし、公転軌道が5%太陽に近づいたら高温のために今の地球環境は保たれません。また、地球には地球の直径の四分の一もある大きな衛星、月が公転しています。そして、地軸は23.5度傾いており、月の引力によって潮の満ち引き、そして地球の自転により海流が発生しています。また、地軸の傾きにより、春夏秋冬があり、生命にとって最適な環境を与えています。宇宙物理学者によると、人間のような高等生物が生きるための環境がこの宇宙で整えられる確率は一千兆分の一だそうです。宇宙には一千億の銀河があると言っても、地球はまことに稀有な惑星であると言えます。無数の星があり、無数の惑星があっても確率的には地球のような高等生命をはぐくむ星は無に等しいのです。宇宙観測が進めば進むほどに、被造物の存在は偶然ではないことに気付かされています。そして、先端の宇宙物理学者は、インテリジェントデザイナーの存在を認めつつあります。しかし、それを神とは言わないのです。人間の罪の性質が神を認めようとしないのです。これらのことを考えると、実にこの地球も太陽も、月も地上に生きる生命のためにあつらえられたと言えます。聖書によると、この地は特に人のために意図して造られたといえます。

みことばはあなたを生かす

「神は仰せられる」という行為によって万物がつくられました。仰せられたという言葉は、命じたという意味もありますが、宣言したといえると思います。神はみことばという手段で、世界を創造なさいました。このように、世界は六日間でできたのです。現在の動植物の食物連鎖を考えると短い期間に一緒に創造される必要があります。たとえば、草木には受粉のために蜂が必要です。蜂のためにも蜜を与える花が必要です。ですから、本当に一週間で造られたというのは地上の動物や植物がともに生存するためにはリーズナブルな期間であるのです。創造は、神のことばによって始まりました。そして、神のことばは全宇宙を保っておられます。現在も神の創造の御業は行われ続けています。あなたも、神の目的とご計画によって、この地上に生まれてきたのです。それは創造の初めからのご計画です。そして、神のみことばを聞いて、自分が神から離れていたことを知りました。造り主である方を無視して生きていたことにあなたは気づきました。神のみことばによって罪がわかりました。そして、みことばで、イエス様とお会いしました。みことばによりイエス・キリストの十字架が自分のためであったことを知りました。みことばにより、イエス様が罪を代わりに受けて十字架で死んでくださったことがわかりました。そして、すべての罪が赦されていることを信じることができました。みことばにより永遠のいのちが与えられていることがわかりました。また、あなたは聖書のみことばによって、日々神のお取り扱いを受けているのです。また、礼拝に集い、聖礼典を通して、メッセージを通して、今週もイエス様は生けるパンとなってあなたに神のいのちを注いでくださっています。神には偶然という言葉はありません。神はあなたにご計画を持っておられます。また、あなたが今直面している様々な問題にみ言葉を通してお語りになっています。それは、あなたが、幸いを得て幸せになるためです。悩みの中にいる方、困難の中にいる方、心の願いを神に申し上げましょう。神は心配してくださるからです。信仰を働かせて、みことばを握ってゆきましょう。神は、あなたを幸せにしたいと願っておられるからです。忍耐がいるでしょう。しかし、主イエスを信頼し続けることが大切です。

 

 

神さまのビジョンは私のビジョン

2018年07月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔誠宰

<聖書>Ⅱペテロ3章8~13節
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 

関係回復への招き

2018年07月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き15:1~17
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。
15:13 ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
<要約>

行いによっては救われない:

ユダヤ教から信じてクリスチャンになったある人々が、エルサレムからアンテオキアに来て、教会の人々に「兄弟たち、モーセが命じた割礼を受けなければあなた方は救われない」と言い出したのです。そして、割礼を主張するユダヤ人クリスチャンと激しい対立となったのです。そこで、彼らはエルサレム教会で、議論してもらい、教会会議に諮ることにしました。二人はエルサレムに着いて、「教会と使徒と長老たちに迎えられ、神が彼らと共にいて行われたことを、皆に報告した」のです。そこで開かれたのは、AD50年に開催された、エルサレム教会会議です。果たして、救われるためには割礼が必要なのか、律法を守ることができなければ救われないのか、という議論です。パリサイ派出身のパウロも、キリストに救われる前までは、厳格に律法を遵守していました。パウロは「律法による義についてなら、非難されるところもない」と言っています。すなわち、以前のパウロは、律法を厳しく守って自分は義とされている、だから神の前で正しい人間だと思っていました。このように、パリサイ人たちにとって、律法は、自分の正しさを主張するためのものとなっていました。自分を立派で美しく見せるための道具としていたのです。それを自己義認と言います。そして、彼らは神に対しても自分を正しい人間であると主張していたのです。そこにはへりくだった悔いた心はありません。神の嫌われる高慢な心があります。彼らは神がお与えになった律法を誤用していました。律法は人が自らの正しさを証明するためのものではなく、むしろ、罪を示されて神の前に謙遜にさせられるためのものです。ペテロはそのことに気付いていました。そして、ペテロは言います。「律法は父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきであった」と。十戒にある、父と母を敬え、姦淫してはいけない、殺してはいけない、盗んではいけない、偽証してはいけない、など表面的には、守ることができることでしょう。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人守ることができないのです。そのことで反って責められるのです。つまり、自分の罪に気付かされるのです。人は行いによって神に近づくことはできません。神は心を見られるからです。いくら純粋に見える行為でも、人は神に栄光を帰すのでなければ、それを自分の栄誉にしてしまうからです。そこに、罪深い人間の姿があります。良い行い、善行を積んだら神はそれを評価して、天国へ導いてくださるでしょうか。誤りです。天国へ入るための条件は、罪が完全に赦されていることのみです。すなわち、その人には全く罪が認められないことです。聖書は、キリストの十字架以外にあなたの罪をきよめるものは何もないと主張しています。救いは外にあります。わたしの内にはありません。人間の内にはありません。いくら内側をきよめようと難行苦行を積んでも、人間は聖くなりません。行いは救いの条件ではないということです。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださるのです。

恵みによって救われる:

ユダヤ人たちには強い選民思想というのがあって、まず、一つの疑問は、異邦人は本当に救われるのか、というものでした。また、もし、異邦人が救われるのであれば、異邦人もまず、ユダヤ人のようになってから、ユダヤ人の習慣に習って、また、モーセの律法に沿った生活をしてからでないと、イエスの十字架の救いに預かれないと思っていたのかもしれません。よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。ありのままで神の前に来ればよいのです。悔いた低い心で来ればよいのです。ペテロは「私たちは主イエスの恵によって救われたのです。」と言いました。この後、パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、このただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認の問題を、何度も説いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、律法によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエスキリストの十字架のあがないを信じ、キリストに従っていくこと、によってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、もし、悔い改めて、キリストの十字架を仰ぎ見れば、すべての罪が赦される、ということです。私たちはそれぞれに過去の経験というものをもっています。それをよりどころとしているということがあります。それはとても大切ですし、当たり前のことでもあります。難しい手術をこなすベテランの外科医は、たくさんの手術の経験を持っていて、技術を磨いてきた人です。その経験に頼って困難な手術も成功させることができるのです。しかし、信仰義認、神様の前で罪赦されて救われるのには、過去の経験や実績も関係ありません。ただ、ただ信じて救われるのです。信じて神の前で正しいものとされるのです。人間的な力や努力や才能も全く無力にしたのがこの福音です。誰でも幼子のようにならなければ神の国を見ることができません。とあるとおりです。信仰による義は、イエス様の十字架の死が自分のためであった、あるいは自分がイエスを十字架につけたと認め、神の許しの約束を握るというところから来る平安と喜びです。

備えられた神との関係回復の道

ヤコブは、バルナバとパウロが会衆に語り終えるのを待って、立ち上がりました。ヤコブの説教は始まります。神が異邦人を顧みて、「御名をもって呼ばれる民」を起こしてくださった事は、先に、シメオンが説明した通りです。と口火を切りました。このシメオンというのは、シモンのヘブル語で、シモン・ペテロのことです。すなわち、今までは、ユダヤ人だけが神に選ばれた神の民という認識でしたが、コルネリオの回心という事件を通して、神は、異邦人もご自身の民となさることを明らかに示されました。そして、そのことは、今になって言われたことではなく、昔の預言者が語っていたことだと、説明します。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」とあります。「わたしは帰ってきて」というのは、父と同格の御子イエス様が来られたことです。「倒れたダビデの幕屋」「廃墟と化した幕屋」は同じ意味です。幕屋は天国の模型でした。すなわち、サタンによって奪い取られたこの地に、神のご支配を回復するということです。イエス様は、宣教の初めに「神の国は近づいた」と言って、ガリラヤで立ち上がりました。サタンが支配しているこの世に、神の国の到来を告げたのです。ですから、もうここに神の国は来ています。このエルサレム会議以来、パウロを中心として、異邦人社会に福音が届けられるようになり、現在は全世界に及んでいます。そして、最後「それを元どおりにする」。これは壊れた幕屋を元どおりにする、ということです。この霊的意味は、アダムの罪以来、壊れてしまっていた人と神との関係を元どおりにするということです。最初の人アダムは、神に逆らい罪を犯してしまいました。それにより、神との関係は完全に壊れてしまいました。その神との断絶は、アダムの罪を受け継いだ全人類に及んでいます。しかし、そのすぐ後、救い主の到来の預言がなされたのです。女の子孫に救い主が表れ、彼は、サタンにかかとを噛まれるが、その足でサタンの頭を踏み砕くというのです。神のその預言はどのように成就したのでしょうか。紀元前二千年ころ、神はメソポタミアにいた一人の人アブラハムを選び、アブラハムに約束を与えられました。神はアブラハムを祝福し、地上のすべての民族は彼によって祝福されるということです。アブラハムの子孫であるイスラエル民族の中から全人類の救い主イエス・キリストが与えられました。全人類は、イエス・キリストにより祝福されています。また、神との関係回復を得ています。キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、神の国の世継ぎとされ、天国のあらゆる祝福と富をいただくことができるからです。このように神との関係回復の道が供えられました。そして、とき至って、今、その神との関係回復にあなたも招かれています。