皮の衣

2018年08月 26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記3章1~15節
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

<要約>

呪いとしての人生

アダムの罪により、人は完全に堕落してしまいました。彼らは罪によって呪われたものとなってしまいました。女性に対しては、うめきと苦しみです。その内容の一つが、苦しんで子を産むということです。出産にかかわる苦しみです。女性は、妊娠すれば、つわりなど肉体の苦しみがあります。また、お産の時は陣痛を経験します。次に、女性は夫となる人をしたい求めるが、夫からは支配されるというのです。そこに生じるのが力関係です。すなわち、女性は男性から力で支配されるのです。堕落まえは、支配される関係ではなく、愛と信頼の関係があったと思います。妻は夫に従い、夫は妻を愛するのです。そこには人格的な関係があり、力で相手を利用するということはありません。次に、男性の方です。自然界は、アダムの罪により呪われます。土地はアザミと茨を生じさせて、食を得るためには苦しまなければなりません。労働は食べるためであり、それには困難と苦しみが伴います。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」人生では労苦とわざわいを経験し、ついには土にかえるのです。それが、悪魔の支配下にある人の歩であると言えます。

神の恩寵と祝福の人生

アダムは、死の決定を受けた後、エバが多くの子孫の母となることを悟りました。すなわち、自分たちが、いのちを繫いでゆく存在であることを自覚しました。そして、神は彼らのために動物を殺して、その皮を用いてアダムとエバに着物をつくられました。これは、私たちのために十字架で神の子羊となって血を流してくださったキリストの尊い犠牲を暗示しているとも言われています。またこれは、この後、人が動物のいけにえを捧げて、神に近づくことのしきたりに通じています。すなわち、罪によって、人はだれも神に近づくことはできないからです。モーセの時代になって、神は民に律法をお与えになりました。律法によると、人は、動物の犠牲によって罪の赦しを得ることができるのです。すなわち、自分の罪を傷のない清い動物の頭に着せてその動物を殺して血を流すことで、祭司から罪の赦しが宣言されます。罪の赦しのために繰り返し流された血は、とき至って現れたキリストの十字架で流される血を予表していました。やがて、キリストの十字架による完全な罪の赦しが成就することになります。次に、神は、人間を環境から守るために動物の皮で着物をつくり与えてくださったと言えます。エデンの園から追い出された人間には、いばらとアザミが待っていました。すなわち、自然界は裸の人間には危険であることが示唆されます。寒さから体を守る必要もあったでしょう。これ以降、人間は自然界の動植物を自分たちの福利のために用いるようになりました。シェルターとなる家も必要でしょう。また、土地を耕すための道具も必要となったでしょう。そのために、様々な器具をつくるようになりました。そのように人間社会には文化、文明が芽生え、発展していくのです。それは、人が自然界を自分たちの福利のために用いることができるようになさったのです。皮の衣は、神からの恩寵です。プレゼントです。現在、私たちは神から多くのプレゼントをいただいています。あまりにも多くあり、当たり前になっているのです。私たちが毎日食に与り、住む場所も与えられていること、それも神の恩寵です。主の祈りで、「日毎の糧を今日もお与えください」と祈ります。日ごとの糧は、小教理では、私たちの身体や生活のために必要なすべてのもののこと、とあります。アダムとエバを守り祝福するために、神が動物の皮の着物を与えられて以来、その恩寵は発展して人類の福利になっております。アダムとエバは、彼らの子どものためにそして子孫のために働くことになりました。それは、人が他の人のために奉仕していくことの原型です。クリスチャンは、神からそれぞれに賜物が与えられて、それで隣人に仕えることに召されているといえます。イエス様が命じられた隣人愛の実践です。「自分と同様にあなたの隣人を愛しなさい」という戒めです。神はこの地上で人が幸せに生きるためにこの地を住みよいものにしてくださっています。これは、地上に神の恵みが及んでいるからです。それは、すべての人に注がれる神の恩寵と祝福です。神が私たち人間を愛してくださったように私たちも互いに愛し合うことが神のみ心なのです。私たちクリスチャンは神の愛を隣人に届けるように召されているからです。

断絶と回復の希望

人は、神の戒めを破って、善悪の知識の木からとって食べました。そして、神から断絶されるのです。人が、神を押しのけて、自ら善悪の判断をするようになったのです。それは越権行為です。ボーダー、境界線を越えたことによる彼らの罪です。それに対しての対価は、エデンの園から追放でした。罪がもたらしたものは、断絶された神との関係です。エデンの園から追い出された人間が、勝手に戻ってこられないように、神はケルビムという天使に園の入り口を守らせました。「いのちの木からとって食べ、永遠に生きないように」と神は言われました。それは、神との関係を絶ったものは永遠のいのちを失うことを示しています。人は、やがて土に帰ります。そして、神と断絶された魂は、永遠の滅び、永遠の暗黒へと落とされるのです。永遠のいのちとは、永遠でおられる神のいのちにつながっていること、すなわち、神との交わりに生きていることです。しかし、神は人を惜しんで、関係回復を願っておられます。神は、人が罪を犯して堕落してしまったすぐ後に、原始福音と言われるやがて来られるキリストを暗示されました。それは、壊れてしまった神との関係回復の道です。罪を犯す前にあった愛と信頼の関係です。神との関係回復は、やがて来られるキリストの十字架の贖いにより成就しました。キリストが信じる者の罪を取り除いてくださいます。そして、神と人の隔ての壁を取り除いてくださるのです。サタンの支配から神の支配に移してくださるのです。旧約の時代に生きた人々も信仰によって救われました。へブル11章は、そのことを証しています。 旧約時代の人々は、その時は神の約束を受け取ることはできなかったのですが、神が備えてくださった「さらにすぐれたもの」を待ち望んでいました。それは神のご支配、天の御国ということができます。天のみ国は、女の子孫であるイエス・キリストが治める国です。それは原始福音にみられる救い主の約束です。イエス・キリストです。旧約時代の人々については、新約の私たちのように、イエス・キリストの救いをはっきりと今、受け取ることはなかったといえます。でも、彼らも私たちと同様に、イエス・キリストにより罪の赦しを受け天の御国へ移されたのです。そのことは、アブラハムを例に見ることができます。アブラハムはまだ、キリストを見ていませんでしたが、信仰によって義とされたことが書いています。彼に与えられたのは、神のことばでした。神の約束でした、しかし、「あなたは大いなる国民とされる」、「あなたによってすべての民族は祝福される」というようなことは彼の存命中には何一つ実現しませんでした。しかし、彼は神の国の到来と救い主の来臨を信じて一生を全うしました。自分の目の前の状況がたとえ開かれなくても信じて待ち望み、人生を全うしたのです。回復の希望は、神の愛への信頼、神のことばへの信頼、にあるからです。

 

 

2018年08月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記3章1~15節
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

<要約>

罪の本質

サタンは堕天使とも言います。堕落した天使です。神は、二種類のいのちを造られました。目に見えるものと見えないものです。いのちを持つもので、目に見えない存在が天使です。天使は、神をほめたたえ、神のみ心をなし、神の創造されたものに仕える存在です。元天使であった霊が、高慢と不従順のゆえに天から落とされたのが、サタンをかしらとするもろもろの悪霊たちです。彼らは、神に逆らい、み心を拒み続けます。聖書にはサタンは人殺しで嘘つきであると書いています。天使も悪霊も無数にいるといわれています。サタンが蛇の姿をとって人を誘惑しました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と。神のことばをまげて伝えています。神は、食べてはいけないのは善悪の知識の木だけ、と言われたのです。サタンはそれを「どんな木も」と言って、すべての木を禁止の対象としました。ここに誇張があります。サタンはこれにより、エバの心に神へのマイナスの思いを増大させています。同様に人がするうわさ話も必ず誇張があります。実際以上に悪く言うのです。ですから、うわさ話に対しては、サタンが背後でその人への信頼を落とそうと巧みに働いていることを知らなければなりません。蛇は、「触れただけで死ぬわけがないでしょう」と言わんばかりに、「あなたは決して死にません」と断言します。巧妙な手口です。これは神のことばの完全な否定です。逆なことを断言しています。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、彼女を誘惑に落とすのです。この「神のようになり」というのは、罪の本質をついています。罪とは、人間が神になろうとするところから始まるからです。これは、人間が持つ強い誘惑です。神のようになって、何でもできる。決まりは自分で作る。誰にも命じられない、思うままに人を動かす、ほしいものは何でも手に入れる。最高権力ですべてを従えたい、というものです。 アダムがどのように罪を犯したか、もう一度まとめてみましょう。罪の本質は、みことばに対する不従順です。つぎに、悪魔のことばの採用です。神は食べれば死ぬといわれましたが、悪魔は食べても死なないといいました。人は悪魔を選んだのです。そして、人間の究極の欲望は、神のようになりたいということです。神のようになり、周囲の人々を自分の思うままにコントロールしたいというのです。

罪がもたらすもの

その木の実は「食べるのによく、目に慕わしい、いかにも好ましかった」とあります。誘惑は華美で、素晴らしく映るのです。そして、食べたのです。誘惑に対しての敗北です。一線を越えてしまいました。ボーダーを超えてしまったのです。とって食べるという行為はとても簡単で容易な行為です。しかし、その重大さは計り知れません。「ちょっとくらい」という思いが雪だるまのように大きくなり、嘘に嘘を重ねるようになり、取り返しのつかないところまで来るのです。入り口は、簡単で容易に見えますが、その重大さは測り知れないのが、それが罪の性質です。私たちは、サタンと私たち自身が持つ罪の性質には注意しなければなりません。彼らが食べた後には、彼らが見えたものは、自分たちが裸である事実です。自分たちが恥ずべき存在であることの自覚です。罪は恥をもたらすということです。神の戒めを破った瞬間から良心にひびが入り、ごめんなさいといって、神に帰ることもせずに逃げ隠れしたのです。神は「あなたは、どこにいるのか」と問うています。これは、神が人を見失ったのではなく、人が神との交わりを絶ったからです。アダムもエバも神から問われたとき、他に罪を転嫁しています。これが人間の姿です。最終的には、神が悪いとするのです。こんな世界にしたのは神が悪い、もし神ならば、もっと良い世界を造れと言わんばかりです。堕落前は、神を主としていましたので、人は神の支配下にありましたが、堕落後は、人は罪に縛られて悪魔の支配下に移ったのです。ですから、現在、人類は悪魔の支配下で苦しんでいます。個人レベルでも国家レベルでもそうです。国は、戦争はいけないとわかっていても戦争をやめられないのです。個人レベルでは、健康に悪いとわかっていても悪い習慣をやめることができません。赦さなければならないとわかっていてもなかなか心で赦すことができない。これらは、悪魔の支配下で苦しんでいる人間の姿なのです。新約聖書は、このアダムの罪をどのように解釈しているでしょうか。ひとりのアダムの違反によって罪が入り、罪によって死が入り、こうして、全人類に死が入ったと書いています。アダムが全人類の代表となっています。これを聖書の代表性といえます。アダムの罪を全人類が引き継いだということです。私たちの代表の行動は私たち自身の行動と受け止められるのです。聖書はさらに、アダムだけの罪ではなく、その罪の性質が遺伝してすべての人は生まれながら罪びとであると宣言しているのです。ですから、堕落以降、生まれながらの人間は、本当の意味で神を知ることがなく、また、神がなさることを理解することができません。また、神を愛することも喜ばせることもできないししません。皆、悪魔の支配下にあるからです。でも、ご安心ください。イエス様は私たちを、悪魔の支配からキリストの支配に移してくださいました。イエス様の救いは、移動、引っ越しであるといいました。クリスチャンは、キリストの支配下にありますので、もう悪魔に支配されることはありません。では、どのように神は、悪魔の支配下から人を神の支配下、キリストの支配下に移してくださったのでしょうか。

原始福音

そこで神は、15節をお与えになりました。これは原始福音と呼ばれるものです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえはサタンですから、サタンとエバの間に、そして、サタンの子孫と女の子孫との間に神が敵意を置く、というのです。この女の子孫は、単数であることからキリストを表しています。この「彼は」は、キリストで、サタンの頭を踏み砕くというのです。これはサタンとその力に対する完全な勝利を意味します。蛇を殺す一番の方法は頭を踏み潰すことだからです。「お前は彼のかかとにかみつく」これは、相手に激しい苦痛を与えるが、致命的なものにはならないというのです。神は、人の罪に対して、すぐに救いの道を計画なさりました。サタンは救い主を亡き者にしようとしました。最初は荒野で四十日四十夜、サタンはイエス様を誘惑しました。アダムはサタンの誘惑に落ちましたが、イエス様はみことばによってサタンの誘惑を退けました。落とすことができなかったサタンは、イエス様を抹殺しようともくろみます。そして、当時の宗教指導者たちや民衆を用いて、さらに弟子たちの裏切りを使って、ついに十字架で殺すに至るのです。これはサタンがキリストのかかとにかみついた瞬間です。一瞬、サタンは勝って、神は負けたかのように見えます。しかし、これは何という不思議でしょうか。また、神の知恵でしょうか。この負けと見える十字架刑により、キリストはすべての人の罪を、そしてあなたの罪をその身に負われました。すべての人の代わりに罪に対する神の怒りをキリストご自身がうけて、十字架で苦しみ死んでくださったのです。すなわち、人が受けるべき罪の裁きを代わりに受けて、あなたを無罪にしてくださったのです。「キリストの打ち傷によってあなたはいやされた。」とイザヤ書にある通りです。そればかりではなく、神はキリストの従順のゆえに、キリストを復活させて、それにあずかるものに永遠のいのちをお与えくださいます。これは、サタンの頭を踏み潰した瞬間です。サタンはもう、神の子キリストに勝利することはできないのです。このようにして、私たち信じる者はサタンの支配から、キリストの支配と移されました。アダムの違反によりすべての人に罪が入りました。しかし、イエス・キリストの従順と義の行為、それはとりもなおさず十字架であります。これにより、すべての人が義、すなわち神の前で正しいものとみなされて、永遠のいのちが与えられるということです。神が提供してくださるのは、罪と死と滅びからの救いです。どうすればそれをいただくことができるでしょうか。それは、ただいただくというだけです。なんの行いもいりません。信仰によって、いただくのです。自らの罪を認めて十字架を仰ぐことです。あなたは神のいのちといつながっているので、たとえ、地上のいのちが終わっても神のみ手の中で永遠を祝福と恵みの中で生きるのです。

 

 

人の創造と罪

2018年08月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記2章7~25節
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

<要約>

人は神の似姿であり代理者

神は、いのちの息を吹き込むことによって人をご自身のかたちに似せてつくられました。神のかたちに似せてつくられたということは、神のご性質や人格に似せて人をつくられたということです。それは、神は人を他の被造物と区別されたということです。神がいのちの息を吹き込まれた、それは神の霊です。ですから、人間は霊的な存在といえます。動物は霊がないので、神を求めることもありません。ですから、動物には宗教はありません。霊によって私たちは神のいのちとつながり、永遠に生きるものとされていました。しかし、人間は自分が神のようになれるという誘惑を受けて、自分を神の上に置こうとしました。そして戒めを破り、罪を犯してしまいました。そこで、人間は、堕落して、神から離れて真のいのちを失いました。神は人をおつくりになった後、人に使命をお与えになりました。それは、地を従え、すべての生き物を支配することです。つまり、管理することです。神は人をエデンの園に置き、そこを耕させ、そこを守らせたとあります。神は、世界を人の幸せのために用意され、さらに彼らにすべての被造物を管理させたのです。すべての被造物の長として支配させたのです。すなわち、人に仕事と使命を与えたのです。それはまた、人を神の代理者として地上を治めさせるということです。堕落前の人は、神からの知恵を用いて、地上のすべての物を正しく管理できました。ですから、人には素晴らしい労働と豊かな生活があったのです。現代も、人間は地上のあらゆる動植物を管理するものとしての使命を持っています。しかし、アダムの堕落以来、人は正しく管理することができずにいます。乱獲により絶滅寸前の動植物もあります。また、化石燃料の使い過ぎにより、地球温暖化が起こり、南極の氷は溶けだして海の水位が上昇して、水没しようとしている島国もあります。人が神中心の生き方から、人間中心の生き方を選んだ結果、正しく治めることができなくなったのです。それが現代に及んでいることです。神の代理人であったのに、自分が主人となった人間の姿です。それ以来人と神とは敵対関係にあるといえます。神の似姿であり代理者であるというのが、人の本来の姿です。今は、私たちはキリストにより神と和解して、親しい関係に入っています。神は再び私たちを神の代理者として立たせてくださっています。そして、神は私たちに使命と労働を与えておられます。また、今度は、神は私たちをキリストの代理者として、もう一度遣わしておられるのです。あなたは小さなキリストであることを忘れないでください。小さなキリストとしてあなたの隣人に仕えていくことです。また、隣人が神との和解を受けて幸せになるためにみことばを伝えるのです。

神のご支配にある自由

神はすべての被造物を見て、そして、人がそれらを正しく管理している姿を見て、「非常に良かった」と思われました。そして、人は神のご支配のもとで祝福の中にいたということです。地上で考えうるあらゆる最善、幸せ、愛、喜び、感謝、平安を持っていました。神は、エデンの園に人を置き、そこで動物たちを管理させました。そこは理想郷という場所でした。神の清さと義が支配していました。神は人に自由意思を与えておられます。人は、それをもって神に完全に従う幸いを味わっていました。神は人にどのようにして自由を与えられたのでしょうか。それは、園の中央に善悪の知識の木を生えさせることによってです。人に自由を与えるために、善悪の知識の木を植えられたのです。神は人に命じて仰せられたとあります。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。ボーダーを与えたのです。これ以上踏み込んではいけないという境界線を与えたのです。禁止命令です。どうして、自由を与えるために禁止命令を出したのでしょうか。境界線があって初めて人は自由になれるからです。幼稚園の園児も柵で囲まれた園庭にいることによって、安全に自由に遊べるのです。柵がなければ、道路から自動車が入ってきて、自由な空間ではなくなってしまいます。規則があって、範囲が決められて、人は初めて自由を味わえるのです。範囲も決まりを与えないのは放縦であって、自由ではありません。神は、善悪の知識の木を植えることにより、人が自らの自由意思をもって神に従うことを良しとしたのです。そこに愛と信頼の関係ができるからです。人はロボットや奴隷のようにではなく、自らの自由意思で強制されることもなく神に信頼を寄せることができます。これが、神と人、人格を持った者同士の愛と信頼と喜びの交わりなのです。善悪の知識の木の実を食べることは、人が神になりあがって、善悪の判断基準を自分のものとすることです。すなわち、神の上に自分を置くことになるのです。神は人間との関係に、秩序をお与えになったともいえます。神が上で人が下です。人が神の上に立とうとするとき、ボーダーを超えるということが起きるのです。原罪は、神が定めたボーダーを超えることから生じた罪です。神のご支配に入るということは、神を信じて、神のルールの中で自由を得ることです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と、イエス様は招いています。

断絶の架け橋となった十字架

人には、隣人が必要です。家族、友人、知人が必要です。人は自分のためだけに生きていくことにさみしさや虚しさを感じることが多いのです。人は、家族のために、隣人のために、他の人々のために生きる時にこそ喜びや意欲、生きる力が出てくるのです。ここで、最初の人アダムにとって初めての隣人であるエバが与えられました。そして、家族ができました。神の「生めよ増えよ、地を満たせ」という祝福の約束のように、この後、人類が形成されていきました。神は、人の関係を通して私たち一人ひとりに祝福を届けておられます。人は誰でも、父と母からこの世に生まれます。人にとって最初の隣人は、父母です。子どもとして父母のもとにいる間は親子、兄弟の関係の中で成長します。社会性を身につけます。そして、大人になって、独立します。独り立ちするのです。そして、また、新しい家庭を築くのです。彼らは裸であったが、恥ずかしいと思わなかったとあります。それは、彼らはまだ、罪を犯す前であったからです。彼らには罪がなく、心とことばと行いにおいて不一致がなかったのです。外側と内側に不一致はありません。私たちのように外側は正しく見えても内側には罪のけがれを隠しているというようなことはありません。透明性に富んでいました。悪魔の誘惑に乗って神に反逆して、堕落してしまうまでは恥ずかしさ、不面目、不名誉など罪に起因する感情はなかったのです。しかし、罪を犯した後、彼らは自分が裸であったことを恥ずかしく思うようになりました。そして、木の葉で身体を隠したとあります。そのアダムの罪の性質を受け継いだ私たちすべての人は不面目、羞恥心を持っています。外側は清く正しく見せても、内側は罪と汚れでいっぱいであるということがあります。聖書には、罪は人の内側から出ていると書いています。「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と書いています。神は心を見られます。人は自分の内側を偽って表面上は正しく美しく見せているのです。また、人は神の上に自分を置いて、神から遠く離れ、神を認めず、自分を優先して生きています。そこに人間の根本的な罪があります。そのような罪を神は悲しんでおられるばかりでなく、人の罪を受け入れることはできません。なぜなら、人の罪は、神の清いご性質、つまり神の正しさとは相いれないものだからです。私たちは自ら罪によって聖い神に近づくことも神の前に立つこともできないのです。神は清く正しい神ですから、人のいかなる罪も赦すことができません。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると言えます。それゆえ、神と人は断絶状態にあると言えます。そのような人間を神は惜しんで、「わたしに来なさい」と、招いておられます。そのために、神はイエス・キリストによって救いの道を用意してくださいました。キリストの十字架は、神と人の間の断絶に橋を架けて、あなたのところに来て、あなたを招いておられるのです。

 

四日までの創造

2018年08月 05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記1章1~19節
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。

<要約>

人は生きる意味を求めている

創造の目的は二つあります。神はご自身の栄光のために世界をつくられたということです。ご自身が崇められるために万物は存在しているのです。天地創造のもう一つの目的は、人に栄光と誉の冠をお与えになるためにです。平たく言うと、人間をこの上もなく幸福にするためにです。詩篇8章には、「神は人を神よりいくらか劣るものとし、栄光の誉れの冠をかぶらせた」とあります。ここから、神が人をどのように見ておられるのかがわかります。神は、人を高価で貴い存在として、栄光と誉がふさわしい価値あるものと見て下さっています。それは、王にあっては王子の身分と言えます。聖書は、キリストを信じる者は神の子とされる身分が与えられると書いています。これはとりもなおさず、あなたがこの上もなく幸福となるために、あなたに神の子の身分を与え、世界を造られたということです。 神は、このように、目的と意図をもって全世界をおつくりになりました。それに対して、万物は偶然にできたという考え方があります。ある日突然、偶然に物ができた、さらに偶然と偶然が重なり、生命ができた。そして、環境に適応して生命は進化して、単細胞生物から複雑な生命体に代わり、類人猿が生まれて、最後に人間になった、という考え方です。偶然は意味を語りません。突き詰めて言えば、偶然にできたというのは、存在の意味はないということです。人は意味を持たなければ生きることはできません。私たちは、毎日の生活で何らかの意味を見出して生きています。生活のために仕事をします。それを通して家族が幸せになるため、愛する人々のためにつらい仕事もこなします。どろぼうも自分の家族や子供たちを養うためにそれを仕事として行っているのだということです。良きも悪しきもそれなりの意味を見出して生きています。その意味を失ったときに人間は生きていくことができなくなります。聖書は、人間の存在の意味を教えています。その価値を教えています。聖書はあなたの存在の意味と価値を教えています。神の栄光のために、神が崇められるためにあなたに命を与え、あなたに目的と使命、価値をお与えになったのです。 神が万物を創造した目的は、神がほめたたえられること。そして、神があなたを愛して、あなたが幸せになり、幸せなあなたによって神が崇められることなのです。神はあなたにいのちを与え、使命を与えておられます。自分のためだけに生きても、人は幸せになれません。あなたのいのちを神と人のために使う時にこそ、本当の幸いな生き方ができるのです。

人のために地は整えられた

1節は、神は最初に天と地をつくられました。対照的な二つのことば、天と地、を用いて全体を表しています。すなわち、天と地は万物を意味します。天は、目に見えない神の臨在を表すところで、地は目に見える宇宙と地上を指しています。天は目には見えませんが、神のご支配と臨在です。神は、目に見えるいのちと、目に見えないいのちをおつくりになりました。目に見えるいのちは、人間と動物です。目に見えないいのちは天使です。天使は、性別もなく、死もなく、そして罪もない被造物です。神と人に仕える者たちです。神がこの天の領域で造られた者が天使です。それは、霊的存在です。しかし、神がおつくりになった天使の中のある者たちは、高慢になり、神に反抗して神のご支配である天から落とされました。それが、サタンと呼ばれる悪魔と無数の悪霊です。2節からは、地の領域に属するものの創造が書かれています。そして、19節までに、創造が完成する6日のうち4日までに整えられたものが書かれています。それは、地上と海と空と太陽、月、星、植物など、人間と動物がすむための環境となるものです。神は、光よあれ、と命じて光ができました。光がなければ、私たちは物が見えません。また、光がなければ光合成による植物の生育もありません。温熱も赤外線という目に見えない光です。次に神は、水をおつくりになりました。地球は水の惑星と言われているほど豊富な水によってできています。生命のためには水は欠かせません。宇宙探索でも生命の存在の条件として水のある惑星を探しました。火星など地球より外があにある惑星には水があります。しかし、すべて氷になっています。水であっても液体でなければ生命に役立ちません。次に神は大空をおつくりになりました。これは、地球の大気です。大空の上の水とは水蒸気層であると思います。下の水とは海であります。海は、海流により地球の温度を保っています。地球の大気の層はわずか、地球の半径の1%程度だそうです。宇宙から見れば非常に薄い青色の層です。大気の役割は何でしょうか。大気は、宇宙からくる有害な放射線をブロックしています。また、空気の層には気流が発生して地上の温度を一定に保っています。大気には生命に必要な酸素、窒素、わずかな二酸化炭素が含まれております。これも絶妙なバランスです。酸素は動物のために、二酸化炭素は植物の光合成のために、重要です。三日目に、「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と言われ、乾いたところ、陸ができました。陸も海も地球の地殻の上に載っています。陸は言うまでもなく、人間を含めて動植物が住むところです。地殻は動いています。地殻の中身は鉄を中心とした重い物質で、内部はドロドロに溶けています。そして、対流しており、その流れによって地磁気が発生しています。地磁気は太陽からくる有害な電磁波をブロックして、大気の層を守りひいては地上の生命を守っています。陸地には、植物が創造されました。それは、次につくられる動物たちの食べ物となりました。つぎに、四日目に、太陽、月、星々です。太陽の必要性については、言うまでもありません。しかし、地球の太陽からの距離は非常に重要で、狭い範囲を公転しています。もし、公転軌道が5%太陽に近づいたら高温のために今の地球環境は保たれません。また、地球には地球の直径の四分の一もある大きな衛星、月が公転しています。そして、地軸は23.5度傾いており、月の引力によって潮の満ち引き、そして地球の自転により海流が発生しています。また、地軸の傾きにより、春夏秋冬があり、生命にとって最適な環境を与えています。宇宙物理学者によると、人間のような高等生物が生きるための環境がこの宇宙で整えられる確率は一千兆分の一だそうです。宇宙には一千億の銀河があると言っても、地球はまことに稀有な惑星であると言えます。無数の星があり、無数の惑星があっても確率的には地球のような高等生命をはぐくむ星は無に等しいのです。宇宙観測が進めば進むほどに、被造物の存在は偶然ではないことに気付かされています。そして、先端の宇宙物理学者は、インテリジェントデザイナーの存在を認めつつあります。しかし、それを神とは言わないのです。人間の罪の性質が神を認めようとしないのです。これらのことを考えると、実にこの地球も太陽も、月も地上に生きる生命のためにあつらえられたと言えます。聖書によると、この地は特に人のために意図して造られたといえます。

みことばはあなたを生かす

「神は仰せられる」という行為によって万物がつくられました。仰せられたという言葉は、命じたという意味もありますが、宣言したといえると思います。神はみことばという手段で、世界を創造なさいました。このように、世界は六日間でできたのです。現在の動植物の食物連鎖を考えると短い期間に一緒に創造される必要があります。たとえば、草木には受粉のために蜂が必要です。蜂のためにも蜜を与える花が必要です。ですから、本当に一週間で造られたというのは地上の動物や植物がともに生存するためにはリーズナブルな期間であるのです。創造は、神のことばによって始まりました。そして、神のことばは全宇宙を保っておられます。現在も神の創造の御業は行われ続けています。あなたも、神の目的とご計画によって、この地上に生まれてきたのです。それは創造の初めからのご計画です。そして、神のみことばを聞いて、自分が神から離れていたことを知りました。造り主である方を無視して生きていたことにあなたは気づきました。神のみことばによって罪がわかりました。そして、みことばで、イエス様とお会いしました。みことばによりイエス・キリストの十字架が自分のためであったことを知りました。みことばにより、イエス様が罪を代わりに受けて十字架で死んでくださったことがわかりました。そして、すべての罪が赦されていることを信じることができました。みことばにより永遠のいのちが与えられていることがわかりました。また、あなたは聖書のみことばによって、日々神のお取り扱いを受けているのです。また、礼拝に集い、聖礼典を通して、メッセージを通して、今週もイエス様は生けるパンとなってあなたに神のいのちを注いでくださっています。神には偶然という言葉はありません。神はあなたにご計画を持っておられます。また、あなたが今直面している様々な問題にみ言葉を通してお語りになっています。それは、あなたが、幸いを得て幸せになるためです。悩みの中にいる方、困難の中にいる方、心の願いを神に申し上げましょう。神は心配してくださるからです。信仰を働かせて、みことばを握ってゆきましょう。神は、あなたを幸せにしたいと願っておられるからです。忍耐がいるでしょう。しかし、主イエスを信頼し続けることが大切です。

 

 

神さまのビジョンは私のビジョン

2018年07月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔誠宰

<聖書>Ⅱペテロ3章8~13節
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 

関係回復への招き

2018年07月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き15:1~17
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。
15:13 ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
<要約>

行いによっては救われない:

ユダヤ教から信じてクリスチャンになったある人々が、エルサレムからアンテオキアに来て、教会の人々に「兄弟たち、モーセが命じた割礼を受けなければあなた方は救われない」と言い出したのです。そして、割礼を主張するユダヤ人クリスチャンと激しい対立となったのです。そこで、彼らはエルサレム教会で、議論してもらい、教会会議に諮ることにしました。二人はエルサレムに着いて、「教会と使徒と長老たちに迎えられ、神が彼らと共にいて行われたことを、皆に報告した」のです。そこで開かれたのは、AD50年に開催された、エルサレム教会会議です。果たして、救われるためには割礼が必要なのか、律法を守ることができなければ救われないのか、という議論です。パリサイ派出身のパウロも、キリストに救われる前までは、厳格に律法を遵守していました。パウロは「律法による義についてなら、非難されるところもない」と言っています。すなわち、以前のパウロは、律法を厳しく守って自分は義とされている、だから神の前で正しい人間だと思っていました。このように、パリサイ人たちにとって、律法は、自分の正しさを主張するためのものとなっていました。自分を立派で美しく見せるための道具としていたのです。それを自己義認と言います。そして、彼らは神に対しても自分を正しい人間であると主張していたのです。そこにはへりくだった悔いた心はありません。神の嫌われる高慢な心があります。彼らは神がお与えになった律法を誤用していました。律法は人が自らの正しさを証明するためのものではなく、むしろ、罪を示されて神の前に謙遜にさせられるためのものです。ペテロはそのことに気付いていました。そして、ペテロは言います。「律法は父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきであった」と。十戒にある、父と母を敬え、姦淫してはいけない、殺してはいけない、盗んではいけない、偽証してはいけない、など表面的には、守ることができることでしょう。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人守ることができないのです。そのことで反って責められるのです。つまり、自分の罪に気付かされるのです。人は行いによって神に近づくことはできません。神は心を見られるからです。いくら純粋に見える行為でも、人は神に栄光を帰すのでなければ、それを自分の栄誉にしてしまうからです。そこに、罪深い人間の姿があります。良い行い、善行を積んだら神はそれを評価して、天国へ導いてくださるでしょうか。誤りです。天国へ入るための条件は、罪が完全に赦されていることのみです。すなわち、その人には全く罪が認められないことです。聖書は、キリストの十字架以外にあなたの罪をきよめるものは何もないと主張しています。救いは外にあります。わたしの内にはありません。人間の内にはありません。いくら内側をきよめようと難行苦行を積んでも、人間は聖くなりません。行いは救いの条件ではないということです。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださるのです。

恵みによって救われる:

ユダヤ人たちには強い選民思想というのがあって、まず、一つの疑問は、異邦人は本当に救われるのか、というものでした。また、もし、異邦人が救われるのであれば、異邦人もまず、ユダヤ人のようになってから、ユダヤ人の習慣に習って、また、モーセの律法に沿った生活をしてからでないと、イエスの十字架の救いに預かれないと思っていたのかもしれません。よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。ありのままで神の前に来ればよいのです。悔いた低い心で来ればよいのです。ペテロは「私たちは主イエスの恵によって救われたのです。」と言いました。この後、パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、このただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認の問題を、何度も説いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、律法によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエスキリストの十字架のあがないを信じ、キリストに従っていくこと、によってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、もし、悔い改めて、キリストの十字架を仰ぎ見れば、すべての罪が赦される、ということです。私たちはそれぞれに過去の経験というものをもっています。それをよりどころとしているということがあります。それはとても大切ですし、当たり前のことでもあります。難しい手術をこなすベテランの外科医は、たくさんの手術の経験を持っていて、技術を磨いてきた人です。その経験に頼って困難な手術も成功させることができるのです。しかし、信仰義認、神様の前で罪赦されて救われるのには、過去の経験や実績も関係ありません。ただ、ただ信じて救われるのです。信じて神の前で正しいものとされるのです。人間的な力や努力や才能も全く無力にしたのがこの福音です。誰でも幼子のようにならなければ神の国を見ることができません。とあるとおりです。信仰による義は、イエス様の十字架の死が自分のためであった、あるいは自分がイエスを十字架につけたと認め、神の許しの約束を握るというところから来る平安と喜びです。

備えられた神との関係回復の道

ヤコブは、バルナバとパウロが会衆に語り終えるのを待って、立ち上がりました。ヤコブの説教は始まります。神が異邦人を顧みて、「御名をもって呼ばれる民」を起こしてくださった事は、先に、シメオンが説明した通りです。と口火を切りました。このシメオンというのは、シモンのヘブル語で、シモン・ペテロのことです。すなわち、今までは、ユダヤ人だけが神に選ばれた神の民という認識でしたが、コルネリオの回心という事件を通して、神は、異邦人もご自身の民となさることを明らかに示されました。そして、そのことは、今になって言われたことではなく、昔の預言者が語っていたことだと、説明します。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」とあります。「わたしは帰ってきて」というのは、父と同格の御子イエス様が来られたことです。「倒れたダビデの幕屋」「廃墟と化した幕屋」は同じ意味です。幕屋は天国の模型でした。すなわち、サタンによって奪い取られたこの地に、神のご支配を回復するということです。イエス様は、宣教の初めに「神の国は近づいた」と言って、ガリラヤで立ち上がりました。サタンが支配しているこの世に、神の国の到来を告げたのです。ですから、もうここに神の国は来ています。このエルサレム会議以来、パウロを中心として、異邦人社会に福音が届けられるようになり、現在は全世界に及んでいます。そして、最後「それを元どおりにする」。これは壊れた幕屋を元どおりにする、ということです。この霊的意味は、アダムの罪以来、壊れてしまっていた人と神との関係を元どおりにするということです。最初の人アダムは、神に逆らい罪を犯してしまいました。それにより、神との関係は完全に壊れてしまいました。その神との断絶は、アダムの罪を受け継いだ全人類に及んでいます。しかし、そのすぐ後、救い主の到来の預言がなされたのです。女の子孫に救い主が表れ、彼は、サタンにかかとを噛まれるが、その足でサタンの頭を踏み砕くというのです。神のその預言はどのように成就したのでしょうか。紀元前二千年ころ、神はメソポタミアにいた一人の人アブラハムを選び、アブラハムに約束を与えられました。神はアブラハムを祝福し、地上のすべての民族は彼によって祝福されるということです。アブラハムの子孫であるイスラエル民族の中から全人類の救い主イエス・キリストが与えられました。全人類は、イエス・キリストにより祝福されています。また、神との関係回復を得ています。キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、神の国の世継ぎとされ、天国のあらゆる祝福と富をいただくことができるからです。このように神との関係回復の道が供えられました。そして、とき至って、今、その神との関係回復にあなたも招かれています。

 

 

みことばは必ず成る

2018年07月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き12章1~17節
12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
12:6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
12:7 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
12:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい」と言った。
12:9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
12:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
12:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。
12:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
12:17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。

<要約>

最悪の中に神のご計画がある:

国家の最高権力者によって、初代教会は最も重要な人物が捕えられて、殺されようとしています。エルサレムの教会は窮地に立たされていました。ペテロは牢の中で、決して逃げられない。絶体絶命、教会にとってもなすすべがない状態でした。イエス様の直弟子であり、教会のリーダーの一人ヤコブが殺されました。さらに、イエス様が、「あなたの上に私の教会を建てる」と言われたペテロが明日殺されようとしているのです。最悪の状況の中で、教会は祈りました。そこに神のご計画があらわされました。ペテロが救出されたのは、絶対起こりえないことが起こったということです。ペテロは二本の鎖に繋がれて二人の兵士の間で寝ていたというのです。翌朝殺されようとする前の晩のことです。すると突然、主の使いが現れ、光が牢屋を照らしました。御使いはペテロの脇腹を叩いて起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。すると鎖が彼の手から落ちたのです。立ち上がった。そうしたら鎖が落ちたのです。神は御使いを用いて、ペテロを牢獄から救出したのです。出口のないトンネルはない、開けない夜はない、同じように、試練や困難にも脱出の道はあるのです。日本では、ここ毎年のように、豪雨の被害を受けています。今年は西日本で、広範囲にわたり大雨による被害があり、大勢の人々が命を失いました。豪雨の災害は日本中、どこででも起こりうるそうです。災害にあった人、災害に会わなかった人、そこには何の違いもありません。今日の聖書のはなしを見ても、ペテロは救出されたのにヤコブは殺された、ということです。どうしてそのように片一方は救出されもう片一方は救出されることなく死んでしまったのでしょうか。しかし、その答えはありません。この世はそのような疑問で満ちています。しかし、神はすべてを知っておられるということです。人間は神のなさることを完全には理解できません。もし、人間の思考や理性の中に神様をすっぽりと入れることができるならばそれは神ではありません。それは、人間が考え出した神と言うことでしょう。それは真の神ではありません。はっきりしていることは、神は愛の方であるということです。神はご自身の独り子のいのちを与えてもよいと思われるくらい、人間を愛しておられるということです。キリストの十字架を見るとそれがわかります。十字架が語っているのは、私たち一人一人に対する神の愛です。言葉で言い尽くすことのできない愛です。十字架のメッセージは全世界の真の教会で毎週のように語られております。二千年間も語ってきたのに、語り尽くせないのです。私たちは、近視眼で、目先の事しか見えません。しかし、長いスパンで見ると、神の最善がなされています。聖書の預言は必ず成就しています。それは歴史が証明しています。もし、あなたが、今、試練や困難の中にいるのでしたら、あなたにいのちを与えて、あなたを愛しておられる神を信頼して見て下さい。必ず、神の最善が明らかにされる時が来ます。

祈りは状況を変える:

ペテロが捕えられて殺されることになったとき、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けたと書かれています。窮地に陥れられたときすべきただ一つのことは祈りです。どんな所でもどんな状況でも私たちは祈りに向かうべきです。熱心な祈りは神を動かすのです。また祈りに期待しなければ、結果を見ることができません。彼らは、徹夜の祈り会をしていました。リーダーのペテロもヤコブを取りされる。これから教会はどうなるのだろうか。不安でいっぱいでした。しかし、最終的には、「みこころがなりますように」と祈ったでしょう。私たちも困難に会ったとき、御心が最善であると信じ「御心がなりますように」と祈りましょう。彼らは、ペテロが救出されるとは思っていなかったことがわかります。予期していない神のみわざに彼らは驚き、さらに神を恐れたのです。私たちが、なすすべがない、何にもできない、と言うときも、祈りはできるのです。人生には絶対起こりえないと思うことが起こるのです。神さまの奇跡を見るのです。最大の奇跡は救われるはずがない人が救われたということではないでしょうか。祈りは状況を変えます。たとえ、願ったように外的状況は開けなくても、祈るものの内的状況、心の状況は変わります。祈ることによって、神は全能であることを思い起こします。祈ることによって、神は愛の方であることを思い起こします。祈ることによって、神が最善をなしてくださることを確信するからです。ですから、皆さん、いつも祈りましょう。

神のみことば止められない

ヘロデ・アグリッパはユダヤ全土を統括する王でした。彼の策略によっても、神の言葉を止める事はできませんでした。悪魔はキリスト教を撲滅させようとしました。歴史を通して働いています。紀元303年ローマ皇帝ディオクリティアヌスは世界中の聖書を集めて焼き払いました。ローマ帝国内に1冊も聖書がないと言う状態までしました。しかし、その約10年後にはキリスト教はローマ帝国の国教となったのです。近世になっても、聖書撲滅を試みた人々がいます。しかし、聖書は消失することはありません。逆に、聖書はあらゆる言語に翻訳されて、今も全世界に広がり続けています。ここに神の勝利があります。人間、そして、悪魔のいかなる策略に対しても聖書の言葉、神のみ言葉は決して止めることはできないのです。苦しみの中にもみ言葉は流れています。神のみことばは止めることのできません。その証をします。2014年2月に、クリスチャンの友人夫妻の次男が20歳の若さで突然亡くなりました。大学時代、教会で一緒の兄姉です。なぜ、どうしてそんなに若くして亡くなったのか、答えは出ないのです。4年半もなりますが、現在も、痛みと悲しみがあります。しかし、朝晩、夫婦で神の御前に出て、聖書を読み、祈っていると聞きました。神と交わる時間を持っています。それにより、神と親しい交わりの中に入れられています。今は次男の死の意味がわからない。しかし、いつかあるいは御国で知ることができるのです。みことばは止められることなく、彼らのうちに流れ続けています。永遠の希望に生きているのです。もう一つは、ハレルヤ保育園の園児の教育に係る証です。今から約20年前のことです。順兄が岡山の倉敷市にある川崎医科大学に入学した年のことです。5月の連休に関西方面へ家族旅行をしました。彼は最初のころ、西大寺キリスト教会に通っておりました。私たちは旅行中の主日に、そこで礼拝を守りました。その時教会の隣に大きな建物があり、そこには教会の幼稚園がありましたので、見学させてもらいました。そこで初めて、モンテッソーリ教育に出会ったのです。盛岡に帰って、その教育法について学び、これだと思いました。そして、ハレルヤ保育園にモンテッソーリ教育を導入することをきめたのです。私たちは西大寺キリスト教会の隣に教会の三倍くらい大きな立派な幼稚園を見た時は、なんでこんな大きな立派な建物があるのだろうかと思いました。その後で、耳にした話ですが、その時を遡る数年前に教会は大変な試練にあったのです。窮地に立たされたのです。教会のキャンプで連れて行った中学生が海に溺れて死亡したのです。教会全体が冷え込み、牧師は責任をとって辞任したのです。その後、新しい牧師が使わされてきました。祈りの中で、その牧師に与えられたことは、溺死した子どものことを覚えて、子どもに宣教していくというビジョンでした。そして、その大きな建物が与えられました。そこで、モンテッソーリ教育に取り組んだのです。苦しみを通して与えられた宣教のみ言葉は止まることがありません。そして、宣教のみことばはハレルヤ保育園にも流れています。そしてこのチャペルに流れているのです。最後に、イザヤ書のみことばを読んで終わります。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

敬虔な人コルネリオ

2018年07月 08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き10章1~17,34~43節
10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
10:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。
10:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。
10:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
10:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。
10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。

10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
10:41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。
10:42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
10:43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

<要約>

神を求めて祈る人に主は顕れる

カイザリヤにいるローマの百人隊長コルネリオは異邦人ですが立派な人物でありました。彼は敬虔な人で、ユダヤ教の教理を受け入れて、宗教的慣習を守っていました。コルネリオは天地万物の創り主である神を信じていました。神の民ユダヤ人に与えられた律法を重んじて、律法に則った生活をしていました。神の望んでおられる生き方を目指していたと言えます。ユダヤ教徒としてするべきわざを心得ていました。一家をあげてユダヤ人社会に溶け込み、会堂(シナゴグ―)に集い、律法や預言書の朗読を聞き、ラビたちの説教を聞いていたことでしょう。ですから、ユダヤ人が救い主を待ち望んでいたことも理解していました。そして、彼自身も救い主を待ち望んでいたことでしょう。今日の記事から、彼は午後3時の祈りの時を持ちました。それは、ユダヤ教徒の夕方の祈りの時として一般的に持たれていたことです。コルネリオはなぜ、全世界の造り主であるユダヤ教の神を信じるに至ったかは何も書いていません。しかし、ローマの百人隊長という職業からも推し量ることができます。百人隊長は短命で死と隣り合わせに生きていた人間でありました。コルネリオは自分が異邦人ではありますが、そのことで卑下することもなく、神を愛し、恐れ、信頼する人でした。打算のない真心を主に捧げていました。そのようなコルネリオに聖霊がお降りになりました。聖霊は、自分を主に明け渡し、従う人におくだりになるのです。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」彼の祈りと奉仕は神への献身の現れでした。それに対して、当時の宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちの祈りは、自分の敬虔さを誇示する祈りであったようです。神は私たちのささげものそのものより、それを差し出す私たちの心をご覧になって喜びます。砕かれた、悔いた心です。謙遜でへりくだり、自分の罪をはっきりと認識している人を求めています。私たちの祈りや奉仕もそこに立ちたいと思います。

祝福と恵みを隣人に届ける

ある時、み使いがコルネリオの前に現れてペテロを家に招いて話を聞くように促しました。ペテロはペテロで不思議な夢を見ました。天から四角を吊るされた大きな風呂敷が降りてきて中にある様々な四足の動物や這うもの空の鳥などを屠って食べなさいという声を聞いたのです。律法で、食べてはいけないものは食べられないとペテロは断ったものの、三回同じようなことがあり、「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」と戒めを受けたのです。そのような夢を見ていたちょうどその時に、コルネリオから使わされた人たちが彼の家の門口に立っていたのです。ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり訪問したりするのは律法にかなわないことだったのです。異邦人の家に入ることも、共に食事をすることも許されていなかったのです。そのことはコルネリオも十分承知していたことでした。しかし、ペテロもコルネリオもそのような慣習にとらわれず、また人の目を恐れずに、ためらわず聖霊に聞き従ったのです。ここでペテロは神の御心そして、神の救いの御業は異邦人にまで及んでいるということを発見しました。ペテロはコルネリオとあって、神は偏ったことをなさらないということに気付いたのです。イスラエルには、二つの湖があります。それらは神のメッセージを伝えています。ガリラヤ湖と死海です。ガリラヤ湖は豊かな緑に囲まれていて、湖にはたくさんの魚が取れます。しかし、死海は名前の通り死の海です。生物は濃厚な塩分のために住むことができません。また、死海の周囲には緑が全くなく砂漠となっています。死海にはヨルダン川から水が流入しています。しかし、死海から流出している川はありません。一方、ガリラヤ湖では、周囲の山々から多くの川が流入しています。そして、ガリラヤ湖もヨルダン川へ流出しているのです。ここに一つの教訓があります。死海は恵みを受けているが、その恵みを他に流さない人の生き方を示しています。ガリラヤ湖は恵みを受けて、それを他の人々へ流していく人の生き方です。コルネリオもペテロも共通点は、自分に与えられた賜物や才能を隣人のために用いていたということです。私たちクリスチャンも神の恵み、祝福を受けた者たちです。それは一方的な憐れみであったことを覚えます。しかし、それを他の人の祝福のために用いていくのです。

信じれば誰でも罪の赦しを受ける

「イエス・キリストによって平和がもたらされる」。イエス・キリストが神と私たち人間の間に立ち、神との和解を成し遂げて下さったのです。イエス様は人と神の仲介者です。私たちのためにいつも神にとりなしていてくださるのです。そして「イエス・キリストはすべての人の主です」とあります。聖書が主張していることは、信者、未信者にかかわりなく、イエス・キリストは全人類の主であるということです。私たち一人ひとりは受け継いだ復活の証人なのです。これが神の方法です。神は長い年月をかけて、私たち一人ひとりを用いて福音を拡大させておられます。「その名によって罪の赦しが受けられる」とあります。最後に最も重要なことがのべられています。聖書にこう書かれています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(Ⅰテモテ1:15)イエスさまは私たちの罪を赦すために来られた。道徳教育のために来られたのではありません。人間の正しい生き方を教えるためにではありません。私たちに模範の人生を示すためにでもありません。また、自分で悟りを得るために来られたのではありません。自ら私たちの罪を背負って、身代わりとなって死ぬために来られたのです。私たちの罪を取り除くために来られたのです。ただ、十字架にかかり、身代わりとなって私たちの罪を赦すためにです。罪の赦しがそんなに重要なのでしょうか。なぜなら、罪の赦しがなければ、私たちは誰も救われません。罪と死の中に依然閉じ込められているのです。自分の罪のために滅びるばかりなのです。他の宗教はこの罪の問題を正面切って取り扱っていません。人間の最大の問題はこの罪の問題です。人間のどんな力や努力でも取り除くことができない。神がご自身の命を捨てなければならなかった。そうしなければ、罪を人間から取り除くことができないのです。福音の中心は罪の赦しです。キリストの十字架から罪の赦しが流れ出て、今は、全世界に及んでいます。世界中のどんな人もこの罪の赦しを受けることができます。それは、空の両手を上げて、神から受けるだけでいいのです。

 

 

宣教拡大のきっかけ

2018年07月 01日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き7章45~8書3節
7:45 私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。
7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。
7:47 けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
7:49 『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。
7:50 わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』
7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

<要約>

宣教の主役は聖霊

聖霊は目には見えませんが、そのお方は光のように人々に臨み、真理を明らかにするのです。そのお方があなたに臨むとき、あなたの心の罪を明らかに示します。ちょうど、朝、窓のカーテンを引くと朝日が差し込み、部屋の中の埃が目に入るのと似ています。そして、あなたは、部屋の空気が汚いのに気付き息苦しさを覚えて、外の新鮮な空気を入れようとします。そして、窓を開けるとすがすがしい風が入ってきます。同様に、聖霊があなたの心を照らすとき、あなたは自身の罪を見せられて痛みを覚えます。息苦しさを覚えて、心の窓を開いて聖い聖霊を心に迎えるのです。そして、あなたの心の罪を取り除いていただくのです。ですから、聖霊は光のようであると言いましたが、同時に風のようです。また、水のようです。イエス・キリストを信じた者は、教会で洗礼を受けます。その時用いるのが水です。水は汚れを洗い流す力があります。洗礼によりあなたの罪がすべて洗われるのです。清めます。そして、聖霊があなたの中に入り、あなたに真のいのちを与えます。今の時代は、どういう時代でしょうか。2000年前にイエス・キリストは天に昇られました。その後聖霊が下りました。そして、全世界にキリストの十字架と復活が述べ伝えられてきました。やがて、キリストの再臨の時を迎えます。現代は、その少し前の時代と言えます。なぜなら、聖書に、福音がすべての国民に宣べ伝えられてから、終りが来るとあるからです。福音はほとんどの国民に伝えられており、キリストの再臨は近づいていると言えます。

今日は、イエス・キリストの最初の殉教者であるステパノについての記事です。神は、人類を祝福するために、最初に、アブラハムを選ばれました。そして、アブラハムへの祝福はその子孫であるイスラエル民族に及びました。そして、イスラエル民族を通してすべての国民に祝福を届けようとされました。その祝福の神は救い主でありました。ユダヤ民族だけにとどまらず全人類を罪と死と滅びから救う救い主であったのです。神がユダヤ民族を選びあわれみ愛したのにかかわらず、真の神から心が離れて偶像に心惹かれ偶像礼拝の罪に陥りました。その度に神は預言者を送り、神のみことばを伝えて、民を立ち返らせようとしました。しかし、民は預言者を迫害し殺してしまいました。神は、そのようなイスラエルのために救い主を送るという約束をたびたび送っていました。しかし、ますますかたくなになり、ついには、神のひとり子キリストを十字架につけて殺しまったのです。ステパノはそれを指摘して、民が聖霊に逆らう生き方をしているのだと、糾弾しました。旧約の時代から聖霊は働いています。聖霊は、光のように、風のように、そして水のようにどこにでも偏在し、歴史を導いてこられていると言えます。

キリスト信仰へと導く聖霊

ステパノの説教は、神殿に話が及びます。神殿はソロモンが神のみ住まいとして建てたものです。神は天地万物の創り主であり、人のつくった建物にはお住みにならないことを告げられました。すなわち、神殿という建物には神の本体はなく神のみ住まいの模型であったのです。しかし、当時、神殿は見える形での神の臨在の場所でした。神殿を通して人は神に近づくことができました。すなわち、神殿はやがて来られる救い主キリストの影であって、本体はキリストであることを示されたのです。神殿では、民の罪を贖うために、傷のない小羊などの動物がいけにえとして捧げられていました。これは、来るべきキリストのひな型でした。キリストは神の犠牲の子羊として世に来られたからです。罪のない神が人となってこられました。罪のない神のひとり子キリストが、あなたや私、いや全人類の罪を背負って、十字架にかかり死んでくださいました。その事により、すべての罪をぬぐい取ってくださったのです。すべての人は、自らの罪のために死んで滅ぶべきものとなっていました。その人間を死と滅びからキリストがご自身の血をもって買い取ってくださったのです。ユダヤ民族には、神殿こそ神の臨在の中心でした。ユダヤ民族にとって神殿を信仰の中心として、民は毎年お参りに来ていました。しかし、そのような信仰の中心である神殿は、実際のところは、イエス様が指摘されたように強盗の巣となっていたのです。そこでは、宗教指導者たちは犠牲の動物を販売して、商売にしていました。彼らは外面を繕い、内実のない見せかけの信仰だったのです。そこで、イエス様は、神殿でユダヤ人たちを前に言いました。(ヨハ 2:19)「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」それは、ご自身の身体の神殿のことを言っておられたのです。イエス様が十字架で殺され、三日目に復活されることを暗示されたのです。そのイエス様の発言が神への冒涜として、裁判で死刑を言い渡されました。イエス様のことば通りに、その後、神殿礼拝は破棄されました。現代は、イエス・キリストが真の神殿となり、礼拝者たちは霊と真をもって、世界中のどこででも礼拝を守ることができるのです。私たちは彼らを反面教師として学ぶ必要があります。私たち信者は、外面をつくろい、内実のない信仰生活をしていないでしょうか。神を愛し、恐れ、信頼する生き方をしているでしょうか。神を愛しているのなら、神に喜ばれることを模索して実行しようとします。また、神を恐れているのならば、神が嫌われること、罪から離れます。さらに、神に信頼いているのならば、目に映る様々なことがらに対しても疑いまどうことなく、神はすべてを働かせて益としてくださることを信じ続けます。聖霊は聖書のみことばを用いて働かれ、私たちをキリストの救いへと導いてくださいます。聖霊に心を開くことが大切です。

迫害と殉教で宣教が拡大:

そのステパノの批判に対して、ユダヤ人たちは、「はらわたが煮えかえる思いで」怒り、ステパノを町の外へ連れ出して、そこで石打の刑にして殺しました。最初の殉教者ステパノ、彼は名もない一人の男でした。しかし、彼は聖霊に満たされて、堂々と自分の信仰の証をしました。イスラエルの歴史を振り返りながら、その歴史が神に対する不信仰と反逆の歴史であったことを説きます。人々は、聞く耳を持たないばかりか、強い怒りに満たされて耳を覆いステパノに対する殺意をあらわにいたします。これを機に激しい迫害の嵐が、エルサレムの教会から当時のローマ帝国、そして、歴史を通して全世界に広がりました。神の摂理と思いますが、迫害によって宣教が拡大しました。日本でも1,600年ころから、安土桃山時代、江戸時代には各地で迫害が起こり、多くの信者が殉教しました。おおよそ250年間の迫害と殉教の歴史があります。キリスト教の歴史、それは迫害と殉教の歴史ということができるかもしれません。迫害はなぜ起こるのでしょうか。それは信仰があるからです。信仰を捨てれば、迫害はやむのです。江戸時代は、何とかクリスチャンに信仰を捨てさせようと拷問や誘惑で巧みに信仰を捨てさせようとしました。ある人びとは信仰を捨て、迫害から解放されました。しかし、多くのクリスチャンは死の向こうにあるもの、永遠の命、天国を待ち望んで、すなわち、信仰によって迫害に耐えていったのです。8章に入ると、激しい迫害によって、多くのクリスチャンがエルサレムを後にローマ世界に散っていきました。道々、イエス・キリストを宣べ伝えたのです。すなわち、福音宣教が拡大したのです。この処刑の場所にパウロという青年が登場しています。彼は、やがて、異邦人伝道に遣わされ、この新約聖書の半分以上も表すものとなったのです。そして、やがては自分が迫害した、キリストのために迫害を受け殉教したのです。ステパノの殉教によってパウロは聖霊に捕らえられました。このあと、パウロが劇的な改心をし、最大の宣教者となったのです。神はキリストの十字架と復活によって、私たち罪と死と滅びから救ってくださいました。そしてこの救いの福音は、このようにして、全世界に及んで、今日私たちのところにも届けられました。聖書の預言はことごとく成就しています。今日、あなたにも聖霊は語りかけています。悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われなさいと。

 

 

この方以外に救いはない

2018年06月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き4章1~14節
4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
4:3 彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

<要約>

悔い改めて聖霊に明け渡す

祭司たちや宮を守る人々やサドカイ人たちにとっては、生まれつきの障害者が完全に癒された事実よりも、自分たちの職業や地位が脅かされることの方が問題だったのです。彼らはイエスの御名が、このしるしを行なわせたということをはっきり認めているにもかかわらず、神に栄光を帰そうともしなかったのです。とにかく、自分の立場を守ることだったのです。私たちも反面教師として、彼らから学ぶことはたくさんあるはずです。私たちはこの自分の立場に執着することがあります。神のことばを聞いていながら、自分の考えや経験に執着して、神のことばを否定してしまうことがあるのです。自分の考えを変えていくこと、思いを変えることそれはメタノイア、悔い改めるということです。大祭司をはじめとする指導者たちは、この悔い改めるということが全くなかったために、このキリストの救いを自分のものとすることができなかったのです。ここには霊的な原則がはっきりあります。悔い改めがなければ悟りにいたることはありません。悔い改めがなければ、神のことばは全くあなたの心に入ってきません。民の宗教指導者たちは、メシヤの表れである素晴らしい神のわざを見ながら、心の目は閉じていました。保身、自己中心、妬みによって、神の真理に全く鈍感となったのです。それに対して、ペテロとヨハネは、聖霊に満たされました。聖霊に満たされると、聖霊がその人を圧倒的な力で覆うことです。聖書は勧めています。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と。クリスチャンは、それぞれが頂いている聖霊に御頼りして、聖霊によって歩むように、と言うことです。もし、私たちが聖霊によって歩むことをしないのなら、ここに出てくる宗教指導者たちのように、肉の欲望である自己本位、自分中心、御心より自分の思いを優先する生き方を選ぶことになります。聖霊によって歩むということは、具体的には、どのようにするのでしょうか。それは、へりくだった祈りです。それはあなたと神の一対一の祈りです。神の前に心低くしてみことばに、御声に耳を傾けることです。「聖霊様、私の思いではなくあなたのみ思いに従いたいです」。「私に歩むべき道を示してください」と。聖霊に自分自身を明け渡すことが大事です。

確信は十字架と復活の事実

捕えられたペテロとヨハネは議会の真ん中に立たせられて、尋問されます。彼の弁明は礼儀正しく、ただ実際に起こったことを述べております。そして、癒された男も証拠として同席していたのです。その男の癒しは旧約聖書に預言されていた救い主のなせるわざでありました。そして、この事実は彼らにとっても、認めざるを得ない事でした。もしこの男がキリストの御名によって癒されたとしたら、自分たちが救い主を十字架で殺したということになり、神の敵になってしまっているということでした。それは彼らには受け入れることのできない事でした。さて、使徒たちが前章から人々に宣べ伝えていたことは何でしょうか。ペテロが述べ伝えたことは、イエス・キリストの十字架と復活でした。この十字架と復活は、キリスト信仰の中心であります。また、その出来事は史実として世界で認められていることです。イエス様は「私の罪のために十字架で死んで、私のいのちのために復活された」という単純な事実です。私たちの信仰もこの十字架と復活の単純な事実と今も主は生きて働かれているということに基づいています。私たちの救いの確信も「このイエス・キリストの十字架と復活が私のためであった」ということから来ています。信者の私たちは、その事実を繰り返し、繰り返し、心に刻み、感謝し、喜び、ときには涙するのです。「キリストは私の代わりに死んでくださった。そして、私の命のために復活なさった。」この単純な事実は、感謝と喜びの尽きない泉です。「この方以外に救いはない」とペテロが叫びます。神が救いの道を与えて私たちを救ってくださる以外に方法はないのです。人は自らを救うことができません。救いは神からの恵みのプレゼントであります。それに対して、人間の思想、哲学、人間の経験によって考え出したことには真の救いはありません。世界には様々な教えがあります。釈迦の教えも孔子の教えもあります。マホメットの教えもあるでしょう。論語、コーラン、毛沢東語録、など宗教や思想の書物があります。しかし、教えは人を救いません。すべての人が直面している罪と死とその次に来る滅びから、救うことはできません。イエス様ご自身が「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。「わたしをとおしてでなければ、誰一人父の御許に来ることはありません」と言われました。使徒たちは、イエス様以外に父なる神の元へ行く道はないとイエス様が言われたことを覚えておりました。また、イエス様は全く罪のないお方であり、旧約の預言通り、十字架で世の罪を取り除く神の子羊となられたことを見ていました。そして、神がキリストを復活されたという事実を目の当たりにしました。そのうえで、「この方以外に誰によっても救いはない」という確信に立つことができたのです。そして、私たちもその確信に立っています。

救いは恵みの賜物:

彼らは大胆で救いの確信に満ちており、自由でありました。そして、このみことばのように、彼らは学問のない普通の人でした。神は、人が自分の知恵によって神を見出すことができないように、この世の愚かな者、弱いものにご自身を現したとあります。人間が学問を積み上げても、神に近づくことはできません。人間は自分の力では救いに到達できません。救いは神の一方的なプレゼントです。人間の努力や才能も神を見出す助けにはなりません。いくら良い行いを積み上げてもそれで救いを得ることはできません。悪い行いをよい行いで帳消しにして、さらに良い行いを積んで天国へのパスポートを得ようという考えは全く根拠のない独りよがりの考えです。なぜなら、良い行いも悪い行いも、人間が点数をつけることはできないからです。人はうわべを見るが、神は心を見られます。神は人にどのような点数をつけるでしょうか。神は行いそのものより、その動機を見られます。行いは良さそうに見えてもその動機は悪いことがあります。最初の人アダムの堕落以来、人は罪の性質を持って生まれ、生まれながらの罪びとです。聖書はありのままの人をどのように見ているのでしょうか。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 聖書によると、すべての人は罪を犯しているというのです。その為に、神の目に義、すなわち正しい、とみなされない、と言うのです。 自分は正しいと思えても、それは、自分がそう思うのであって、神の基準からは大きくはずれています。罪は口臭のようです。自分では気づかないのです。聖霊は私たちの心の奥底まで光で照らしその罪を明るみに出させます。そして、その罪をキリストの血によって清めてくださるのです。それはひとえに、聖霊のわざです。聖霊に心を開く者が経験できる神のわざです。自分で罪を取り除くことはできません、自分ではわからないからです。ただ、聖霊があなたに臨むとき聖霊はあなたの罪を暴きます。そして、あなたが心を聖霊に開くとき聖霊はあなたの罪をキリストの十字架の血によって清めるのです。あなたが自らの罪を認めて、悔い改めるならば、あなたのすべての罪は赦されて、そればかりではなく、あなたはキリストの支配に移されて、神の子となる特権に浴するのです。すなわち、神の恵みにより神のいのちにつながり永遠のいのちを得るのです。これが、恵みの福音です。