2026年5月31日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明
<要約>
キリストが働かれることを喜ぶ:
パウロが拘束されて、結果的には宣教は大いに拡大したのです。福音が前進していくのは大変うれしいものです。パウロはそのことをなによりも喜んでいたのです。人間的には、困ったと思われる状況も、神は働いておられるということです。一見マイナスと思う状況もプラスに変えてくださるのが神です。神は状況のいかんにかかわらず、働かれて、人を救いに導かれるのです。神の動機は愛です。一人の人も自らの罪によって滅びることがないように、神はひとりを惜しんで憐れんでいてくださるのです。罪のない神の独り子に人類のすべての罪を背負わせて、身代わりとして、罰をお与えになりました。それが、十字架です。十字架の苦しみと死は、実に、あなたや私のためにあったのです。それは、神が一方的に私たちの救いのためになしてくださった行為です。私たちが頼んだからでもありません。私たちは、神から遠く離れていて、神を感じることも認めることもできないでいます。そのような私たちに神の方から近づいてくださるのです。十字架はあなたの罪の赦しのためです。そして、更には、罪赦された者は、罪のもたらす死を免れて、永遠のいのちに与るのです。
生きることはキリスト(21節):
パウロは、クリスチャン達をしょっ引くためにダマスコへ上っていく途中に、復活したキリストに出会ったのです。それが、パウロにとって人生の始まりでした。その後、彼は、キリストと共に歩まなかった日は一日もなかったのです。この手紙を書いた後、数年後にパウロはネロに処刑され殉教しました。パウロは、自分の人生を、「生きる事はキリスト」と言う短い言葉で表しました。キリストは彼にとって、すべてのすべてでした。キリストは彼の命で、キリストはパウロの内に満ちていました。キリスト教の福音と言うのは、単に、信じれば、人生のいろいろな問題が解決し、家内安全、商売繁盛ということではありません。人生の苦難や障害に会わないで、平穏無事に過ごしていける、と言う事でもありません。勿論、祝福が与えられ繁栄の喜びも大いにあります。しかし、最もすごいのは、どんな苦難や悲惨な状況になっても、キリストにあるならやがて平安が訪れて、感謝と喜びを持って、最後を迎える事ができると言う事です。
<聖書>ピリピ人への手紙1章12~26節
【新改訳2017】
1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。
1:13 私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、
1:14 兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。
1:15 人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。
1:16 ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、
1:17 ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。
1:18 しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。
1:19 というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。
1:20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。
1:26 そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。