目が開かれ神の栄光を見る

2023年8月20日(日)礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書9章1~12、35~38節
【新改訳2017】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9:9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。

9:35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。

<要約>

夜が来る前に神のわざを受けとる:

心の目の盲目というのは、罪が分からない、救いが分からない、真の神を認めることができない、真理が見えない、という状態を指しています。この盲目の人の肉体の目を開くという神のわざを通して、神は、私たちの心の目を開いてくださいます。具体的には、私たちが心の目を開いて、主イエス・キリストを信じることです。信じて救いを得ることです。救いとは、罪と死と悪魔からの救いです。それは一方的に提供される神のわざです。そして、神のわざがあなたや私に届けられるのに期限があるのです。誰も働くことができない夜が来る、それはこの身体のいのちが終わる時までです。すべての人は、死後神の前に立たされて、裁きを受けることになります。罪の報酬は死ですと書いてある通り、罪のしみが少しでもある人は、裁かれ永遠の滅びに落とされるのです。神は一人の御子を世に送り、罪のない神の御子にすべての人の罪をその方に背負わせて、あなたの罪の身代わりに御子を裁き死に至らせたのです。まだ信じていない方々は、今あなたに届けられているこの救いの福音を今受け取ることです。まだ、先があると思ってはいけません。

神を信じ従うとき主の栄光を見る:

この男は信仰で応答し、イエス様の言われた、そのおことばとおりに行動し、目が見えるようになり帰って行きました。みことばを信じるという事は人間的には愚かに見え、さらに、侮辱を受けるような体験であるかもしれません。しかし、神の業が現れる時なのです。彼は、当時のコミュニティから追放されたのです。そこでイエス様は彼を見つけ出して、イエス様の面前で信仰告白へと導きました。イエス様は、時には私たちには、心地よいことではなく試練と思われるようなことをなさり、それでも、従いますか、信じますか、と迫っておられます。ここでの大原則は、信じて従ったときに想像も絶する神の御業、神のご栄光を見ることができるということです。クリスチャンの皆さん、また、まだ信仰を持っておられない方々も気づいていただきたいと思います。今皆さんが抱えている、困難や苦難、あるいは労苦は神が、必要があってあなたに与えられているということです。信じて従う者には、やがて、神はその後に栄光を見せてくださいます。必要なのは信じて忍耐してキリストに従っていくことです。

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