ゲッセマネでの祈り

2023年3月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~46節
【新改訳2017】
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

<要約>

共に祈り悲しみは半減し喜びは二倍となる

イエス様は、弟子たちを苦しみも悲しみも分かち合える友であると思っておられました。イエス様はご自分が試練にあったときに彼らが一緒についてきてくれたことを喜んでいました。イエス様は、弟子たちに祈りを要請しましたが、弟子たちは眠ってしまい、イエス様の求めに応えることができませんでした。私たちはそういうように弱い者たちです。弱く迷いやすく失敗しやすいからこそ、イエス様は共に祈るように勧めています。イエス様はクリスチャンである皆さんを友とみなしてくださっています。ですから、皆さんと重荷を分かち合い祈ってほしいと願っておられるのです。私たちも様々な苦難にある時、信仰の友が祈り、苦しみを共有してくれるのは大きな慰めであり励ましであります。それは、「喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しみなさい」と、みことばが語っているとおりです。

あなたを救うために立ち上がられた主

イエス様はこのゲッセマネの園で苦しみ悶えて祈られました。イエス様がこれからすすんで味わおうとなさったことは、人間が自らの罪によって滅んでしまう、その滅びの恐ろしさです。神なしで滅ぶ人間の苦しみ悲しみです。イエス様は滅びゆくすべての人の苦しみ悲しみを味わわれたのです。イエス様は、父なる神から完全に切り離されて見捨てられた苦しみを十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と。聖書に書いています。すべての人は、罪を犯したので神の栄光を受けられない。また、罪の報酬は死です、と。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると述べています。しかし、一人の人も滅びることを臨まない神は、罪のない神のひとり子イエス・キリストを全人類の罪の身代わりとして十字架で断罪しました。イエス・キリストを信じるだけで、滅びないで永遠のいのちが与えられるのです。イエス様は、祈りぬかれて、最後に「立ちなさい。さあ、行くのです。」と堂々と足を踏み出し勇気をもって目前の十字架に向かいました。この後、捕えられて裁判にかけられ、十字架につけられて殺され葬られましたが、三日目によみがえりました。イエス様は、死は絶望ではなくその向こうにある復活と永遠のいのちを示してくださいました。そして、この復活と永遠のいのちは信じる者すべての人に与えられるプレゼントです。イエス様を信じて救われて戴きたいと思います。

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