真に幸いな人生とは

2022年3月13日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書5章1~12節
【新改訳2017】
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

<要約>

神との幸いな関係:

心の貧しい人は傍におられる神に飢え渇きのために求め続けている人です。次に、この悲しむ者と言うのは最大級の悲しみを指します。最愛の人を失った悲しみも含まれます。そればかりでなく、自分の罪深さを悲しみ、悔い改めに至る悲しみもあります。次に柔和な人は幸いです。これは、優しさと粘り強さともいえます。義に飢え渇く者は幸いです。この義とは神との関係において正しいと言うことです。全ての人は罪を犯した、と聖書は指摘します。しかし完全な義をお持ちの方がいらっしゃいます。それは神であり人であるキリストです。キリストの生涯には一点の罪も汚れもありませんでした。そのキリストがあなたの罪の汚れの一切を背負って十字架で死んでくださったのです。ですから、キリストにあって、あなたの罪の一切は取り除かれ、神の御前で完全な義をいただいたと言えます。神と幸な関係にある人は、自分の弱さを覚え、心へりくだり、神に全面的におすがりする人です。心に神への叫びを常に持っている人です。そして、神に信頼を置く従順な人です。そのような人は、どんなことにも前向きに進んでいく人です。

人との幸いな関係:

心のきよい者は罪赦されたクリスチャンであるといえます。彼らは既に心と霊で神を見ているからです。そして、彼らは人の背後におられるキリストを見ています。平和は赦すことによって、やってきます。クリスチャンは神との平和を得ています。それはキリストが人と神との隔ての壁となっていた罪を取り除いてくださったからです。神との平和を持っている人は、人との平和を作ることができます。神の前に正しく生きようとするとき、信仰を守ろうとすると、迫害を受けることがあります。しかしイエス様は「あなた方は幸いです。喜び踊りなさい。」と、勧めています。山上の説教のはじめは、イエス様は八つの祝福についてです。まず「心の貧しい者は幸いです」で始まる祝福の教えです。これは クリスチャンライフの基本です。なぜなら、へりくだり、心を貧しくして、神にすがることから始まります。自分の無力を認め、罪を悲しみ、悔い改めるのです。そして、神との関係を正すことです。そうすれば、神と幸いな関係に入ります。神との幸いな関係は、人との関係にも及びます。人間関係も祝福されるのです。