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信仰と行い

2025年12月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
罪による断絶と信仰による回復

神が最初に創られた世界では、創り主である神が中心におられて、人はその下で、神は人を愛し、人は神を愛し、また神が愛している隣人を愛し、隣人もその人を愛する、愛の循環する社会でした。しかし、人は悪魔にそそのかされて、高慢になり自分を神の上に置こうとしたのです。神の戒めを破り罪が入り、堕落しました。そして、神に敵対する関係になったのです。愛と信頼の関係はうしなわれました。そして、逆に、敵意と憎しみの世界になってしまったのです。罪は神と人との関係を断絶させました。しかし、十字架により、人は神と関係回復しました。罪により、すべての人は、神と敵対関係になっていたからです。キリストの十字架の死によって、罪に対する神の怒り、つまり敵意は取り除かれました。そして、敵意と憎しみは、愛と信頼にかわり、すべての人は神と関係回復するのです。つまり、義とされ、神の子、御国の世継ぎとされ、永遠のいのちをいただくのです。

良い行いに召される:

クリスチャンは基本的には、自分を救うことから解放されています。だから、いのちについて悩まなくてよい、心配しなくてよい、天のみ国に帰るところが用意されている、最終的に神が責任取ってくださるからです。この世の中では、世の光として輝くだけです。

ですから、「私たちが良い行いに歩むように」というのは、クリスチャンとして、この世の中で、ベストを尽くすようにということです。神を愛し、隣人を愛するのです。与えられた場所で、隣人によりよく仕えるのです。まず、神は思いと力と精神を使って、あなたの神を愛しなさいと命じています。これは、週一回の礼拝を大切にしなさいということです。そのベースに立って、私たちは、教会、家庭、職場あるいは学校に遣わされているのです。

良い行いに召されると題してお話ししました。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神に義とされ、罪と死と悪魔から救われています。また、私たちはキリストにあって再創造された神の作品であって、神の備えてくださったところでよい行いに進むのです。それぞれ召されたところ、遣わされたところでベストを尽くすのです。隣人への愛を自分に課していくのです。

<聖書>ローマ人への手紙4章18~25節、エペソ人への手紙2章8~10節
【新改訳2017】

4:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。

4:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、

4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

4:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。

4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、

4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。

4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

エペソ2章8~10節

2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

神のプレゼント、キリスト

2025年12月21日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
キリストはいのちの光:

キリストは人々の救いの光としてこの世界に来てくださいました。その光は、死の暗やみの地に住む私たちの上に燦然と輝いています。暗やみは追い出されて、消え去りました。暗やみは光に勝てません。朝カーテンを引いて外の光が室内に入ると 部屋のホコリが空中を漂っているのがわかります。そのようにキリストはあなたの心を探ります。そして、光は暗やみを照らし真理を明らかにします。天気の日に太陽を背負って路上に立つと目の前に自分の影が見えます。私たちの目の前にできる自分の影の深さが深いほどに、私たちの後ろにある太陽の光は強いのです。闇の深さ、それはあなたの罪と悩みの深さと言えます。光はキリストの救い、福音と言えます。すなわち、あなたの罪と悩みが深ければ深いほど、キリストの恵みとなぐさめは大きいのです。心の目を開いて、低くなって、悔い改め、すなわち、罪を離れ、思いを変えて、天を見上げて、神を呼び求めることです。必ず神はあなたにこたえてくださいます。真理といのちの源であるキリストを、是非、心の目ではっきり見ることができるようにお祈りします。神の子キリストを信じ、滅びから救われ永遠の命を得ていただきたいと思います。

キリストを信じた者の特権:

あなたは、気づいていないかもしれませんが、イエス様は外に立って、あなたの心の扉をノックしています。そこで、あなたの心の中にイエス様を受け入れる事こそ信じることなのです。神の子どもとされる特権とは何でしょうか。それは、第一に、罪の赦しです。第二に、神の子の身分を与えられるというのです。第三に、神のいのち、永遠のいのちをいただくことです。肉体の死は絶望でなくなります。第四に、「インマヌエル、主があなたと共にいてくださる」ことです。さらに この世にあってはキリストが信じる者と共にいてくださいます。また、あなたの内に住んでくださいます。さらに、生活の中に住んでくださることです。自分の力ではどうすることもできないことに神が介入します。キリストの光が生活の中に差し込むのです。神の時に奇跡が起きます。ですから、めぐみとまことの主に、素直に自分を明け渡して、あなたの心の戸を開いて、外で叩いておられる主を受け入れてください。神の約束は必ずあなたのうちに成就します。 あなたは、神の子となり、豊かな神の祝福に満ちた人生を歩むことになります。

<聖書>ヨハネの福音書1章1~14節
【新改訳2017】
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

マリヤの信仰

2025年12月7日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
信じ切る信仰とは?:

マリヤも、自分自身をさして、「今から後、どの時代の人々も私を幸いなものと呼ぶでしょう」と神からの祝福を宣言しています。マリヤは主によって語られた事は必ず実現すると信じきることができました。一言で言うと簡単のように見えますが、実際には、私たちには、先のことが分からないがゆえに、信じ切ることができないのです。私たちはもう一度信じて信仰を持って心を定めて歩む必要があるのではないでしょうか。神は私を祝福してくださると信じ、神を信頼し歩むのです。それこそクリスチャン人生の醍醐味です。未婚の母となったことに対する非難やそしり、やがてわが子に臨む十字架に至るまでの苦難、そのようなものすべてを乗り越える力がマリヤのこの「信じ切る」という信仰から来るのです。信じきることは、どんなに周りの状況が変わって、よくない方向に行っているように見えても、みことばに留まり、信じ続けることです。

インマヌエルともにいてくださる神:

マリヤの信仰は、歴史を通して、すべてのクリスチャンに称えられています。なぜ、ただの田舎娘がそれほどまでの偉業をなしえたのでしょうか。そうです。マリヤには、インマヌエルなるイエス様が彼女の胎内に宿っていてくださったのです。インマヌエルなるキリスト、イエス様が文字通り共にいてくださったのです。マリヤには、みことばは必ずなると信じきる信仰とインマヌエルなるキリストが与えられていたのです。マリヤはあらゆる困難や苦難を乗り越えて、神に感謝し神をほめたたえました。それは私たちとともにいてくださるキリストによって与えられた信仰です。私たちのうちに住んでくださるイエス様を覚えましょう。イエス様に心の王座についていただきましょう。神は、そのあわれみは尽きることがありません。また、変わることなく、私たちに注がれているのです。心低くして受け取るのです。それは、御子イエスの十字架による贖いによる罪の赦しです。イエス様を信じる者は罪赦されて、永遠のいのちをいただくのです。神の命につながるのです。

<聖書>ルカによる福音書1章31~56節
【新改訳2017】
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
1:39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
1:44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
1:54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。

イエス・キリストの洗礼

2025年11月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明


<要約>
悔い改めて神と向き合う:

バプテスマのヨハネは、悔い改めを説きました。聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に人は罪を犯すものだと。聖書には、すべての人は罪を犯したから、神の栄光を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪です。これこそが、神との関係を失っている状態です。その様な状態では「神の栄光を受けることができない」と聖書にあります。それは、神はあなたを心配して祝福しようとなさっているのに、あなたは知らん顔して、そっぽを向いているという状態です。イエス様を信じる前に、私たちは自分の罪に気付かなければなりません。罪に気づいたならば神と向き合うのです。そして、罪を悔い改めて洗礼を受けます。自分の罪が分からない人は、イエス・キリストの救いもわかりません。実にイエス様は私たちの罪を取り除くために来られたからです。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

イエス様の救い主としての任命;

イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。その光景をヨハネは目撃しました。これは、メシヤの任命でした。神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されるのです。イエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これからすべての人の救いのわざに立ち上がったことを神は喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。神は人が罪のために滅ぶのを惜しんでおられます。御子が身代わりとなって、あなたの罪の裁きをその身に負われたのです。イエス・キリストを信じた人は、洗礼を受けなければなりません。人が、水で洗礼を受ける時に聖霊を受けるのです。聖霊は目に見えませんが、生ける神です。生ける神が私たち一人ひとりの中に入り住んでくださるというのです。その時、古い人は死んで新しい人に生きるのです。私たちは生まれ変わるのです。悔い改めるということは、原語の意味からは、「思いを変える」ということです。自分の内側に目を留めるのではなく、自分の外で招いてくださる真の医者であるイエス様を見上げましょう。

<聖書>マルコの福音書1章1~11節
【新改訳2017】
1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

神のことばは永遠に立つ

2025年11月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
信じれば二倍の慰めと祝福がある;

エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」まさしく、イエス・キリストのお姿です。神はイスラエルのために優しく語り掛けておられます。それは民の嘆きが大きかったからです。同様に、キリストを信じて苦難の中に置かされている人々も確実に慰められるのです。あるいは、キリストを信じてこれまで歩んできた人々、様々な悲しみを通って来られた人々を神は確実に慰め、平安と喜びで満たしてくださるのです。クリスチャンは、キリストの贖いにより罪の報いである死と滅びが取り去られてゼロになっています。さらにクリスチャンは神の子とされています。つまり天国の相続者とされています。罪が赦され、死と滅びがなくなり、つまり永遠の命が与えられるばかりでなく、天国の全ての富を与えられているのです。信じる者には罪に代えて二倍の慰めと祝福があります。神は、罪により炭より黒い私たちを真っ白にしてくださるばかりでなく、光り輝く黄金の栄光を与えてくださるということです。信仰によってあなたはそうなるのです。そうなっているのです。

王の王、主の主であり私の羊飼いイエス様

世の終わりの時に、世の終わりのラッパが鳴り渡るときに、皆さんは復活のからだでよみがえります。そして、真に救いが完成するのです。ですから、私たち信者は救いの完成を先取して生きています。やがて救われるのではなく、今救われています。そして、信仰により、そう確信しています。聖書は人間にとってなくてはならない重要なことが書かれています。その中でも、人はそのままでは、自らの罪のために滅んでしまうこと、神は人を愛し一人も滅びることを惜しまれて、救い主キリストを送ってくださった事、そして、すべての人の罪をキリストが背負って十字架で罪を贖ってくださった事、キリストを信じる者は誰一人として滅びることなく永遠のいのちをもつことです。私の羊飼いであり、すべての権威をお持ちの力ある神が私と共にいてくださることをもっと実感して、与えられた人生を喜びと感謝をもって、前向きに歩んでいきたいと思います。

<聖書>イザヤ書40章1~11節
【新改訳2017】
40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」
40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
40:5 このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」
40:6 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
40:7 【主】の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
40:8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
40:10 見よ。【神】である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

福音の再発見

2025年10月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神の義というプレゼント:

義のプレゼントはどこから来るのでしょうか?それはキリストの十字架によります。罪のない神の独り子がすべての人の罪を背負い身代わりとなって裁かれ十字架で死んでくださいました。それにより、すべての人が裁かれず、義とされる道を開いてくださったのです。私たちは誰でも生まれながらの罪人です。ルターは気づきました。人間には、本質的に邪悪なものがあること、人間の性質そのものが腐敗しているのだ、と。ルターは人間の一切が罪の赦しを必要としていることを悟ったのです。神は、神の義をプレゼントとして罪人にお与えになりました。私たちはそれを信仰によって受け止めるだけでいいのです。信仰によって義と認められる、これを信仰義認と言います。これは神が主導で一方的に備えてくださった救いの道で、恵です。この発見をしたルターは、自分は全く新しく生まれ変わった。聖書の戸が開かれた、と告白しています。これが福音の再発見でした。

信仰によって働く神の力:

ルターはこの世のどんな権力によっても奪われることのできない自由を得ていました。神のことばに捕えられた良心に従いました。人間の良心は移ろい安く、権力や状況によって曲げられることもしばしばです。神のことばに絶対的な信頼を置くならば、真理があなた方を自由にします。福音は神の力であり、最強の力です。それは悪魔の力、罪の力、死の力にも打ち勝ちます。最強の力です。それこそ、全知全能の神の力だからです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。罪の呪いは、イエス・キリストが十字架の上で飲み干し死んでくださいました。私たちすべての人の罪の裁きを身代わりとなって、イエス様が受けてくださったのです。ですから、私たちには罪の呪いは及びません。そのことを受け止めて、信じる者は、キリストが復活したように復活のいのちにあずかるのです。ルターは福音を再発見して、信仰によって働く神の力を体験しました。福音は輝きを取り戻しました。福音は信じるすべての人を救う神の力です。福音を知らないために多くの人々は未だに罪の暗闇の中にいます。先に救われた私たちは、福音を家族や知人の届けるために召されているといえます。

<聖書>ローマ人への手紙1章1~17節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

いのちの水の川

2025年10月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
幻の神殿は復活のキリスト:

この幻の神殿は復活したイエス・キリストを指しているといえます。この象徴的なエゼキエルの幻は、私たちの罪を贖うために十字架で死んだイエス・キリストが、復活して、生ける神殿となったことで成就したと言えます。死海の水が良くなり、この川が流れゆくところはどこでも、生物は生き、魚は非常に多くの群れをつくるというのです。そして、この水によってすべてが生きると書いています。その神殿から流れるいのちの水は聖霊ということができます。イエス様を信じる人は、その人の心の奥に生ける水の川が流れ出るようになるのです。しかし、死海の一部の沢と沼は水が良くならないで塩のまま残ると書いています。これは、何を意味しているのでしょうか。神殿から流れるいのちの水を引かないところは、依然、塩のまま残る、つまり、いのちを得ていないというのです。いのちの水であるイエス・キリストを信じて歩む人には、いのちの回復と豊かな祝福と繁栄が約束されています。しかし、イエスを受け取らない人は依然、死の状態でやがて滅ぶというメッセージを読むことができます。ここにある死海は私たち人間社会を暗示しています。神なき世界、それは人間中心主義の世界、罪と死と悪魔に支配されたこの世です。神はそこにいのちをお与えになります。

回復と救いの完成:

この幻はイスラエルの回復と救いについて預言です。神のご計画によると、キリストの福音は、イスラエルが拒んだために、異邦人に届けられました。異邦人に受け入れられて、最終的には約束により、ユダヤ人に至るというのです。イスラエルをあわれみ救いに導いてくださいます。すなわち、ユダヤ民族に救いが成就します。今は、異邦人の時代です。福音がユダヤ人以外のすべての民族に伝えられています。この時代が通過すると再び、イスラエル人に救済が戻ってきます。そして、世の終わりの時に起こることは、完全な神のご支配です。世の終わりは、キリストの再臨の後に起こります。神のみ座が現れ、苦しみ、悲しみ、涙もない、完全な平安と喜びが待っています。イエス様を信じて、神との和解をいただき、今は、赦しといのちに生きるものとされました。やがては天の御国に招かれています。先に救われた私たちはその祝福を家族知人に届ける器とされています。そのために皆さんお一人ひとりが豊かに用いられますようお祈りいたします。

<聖書>エゼキエル書47章1~12節
【新改訳2017】
47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
47:2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

献金は信頼と献身の表れ

2025年10月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
最高権威者、圧倒的勝利者キリスト:

イエス様は十字架により私たちを罪と死と悪魔から解放して、完全にお救いになります。圧倒的な勝利者として今も、神の右の座につかれ、世の終わりにもう一度来られて、すべての悪を滅ぼし、信じる者を死と滅びと悪魔から救い出してくださるのです。キリストはダビデの家系の中に組み込まれダビデの子孫としてお生まれになりました。しかし、イエス様の証言から、イエス様は真の神でした。そして、神が処女マリヤが聖霊により身ごもり誕生したのが、イエス・キリストです。そのことからイエス様は罪のない神の独り子と呼ばれます。ですから、私たちはイエス様に全き信頼を置いて、すべてを委ねて安心して歩んでいいのです。今の困難や苦難はやがてキリストにより圧倒的な勝利にのまれます。この方に信頼して、安心していきましょう。私たちに必要なのは、もうしばらくの忍耐です。

外面を繕う律法学者と貧しいやもめ:

イエス様は献金箱に献金を投げ入れる一人の貧しいやもめをご覧になり、神に信頼し、全てを委ねるその貧しいやもめを神は大変喜びお褒めになりました。自分の身体もいのちもすべてを神が支えてくださるという信頼に基づいた行動です。ここではっきりわかることは、献金は額でないということです。しかし、神の求めるものは、献金で表される献身と神への信頼です。神は、私たちの罪を赦し私たちを永遠の滅びから救い出してくださいました。この大きな恩恵に対して、溢れるばかりの感謝を捧げることです。献金は神の恵みに対する感謝の応答です。大切なのは、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」喜んで感謝して捧げることです。アブラハム以来、イスラエルの民は持っているものの十分の一を祭壇のいけにえとしてささげるようになりました。また、それらは、祭司やレビ人の収入となりました。十一献金には大きな恵が伴います。人は献金することで、神への信頼が深まり、神の大きな愛とあわれみと助けを体験するのです。律法学者は、自分を正しく見せることをに注力しました。自分の弱さを隠し、傲慢になり、他の人を見下すような生き方です。それに対してやもめは自分の貧しさ、弱さを知り、謙遜でした。先のことがわからなくても神をどこまでも信頼していきます。不安定な現代社会で平安と感謝と希望に生きていくためには、人に頼る生き方ではなく、目には見えませんが、生きて働かれる神に頼って生きることです。

<聖書>マルコによる福音書12章35~44節
【新改訳2017】
12:35 イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。
12:36 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
12:37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
12:39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
12:40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」
12:41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
12:42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
12:44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」


永遠のいのちを得るために

2025年9月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書10章25~37節
【新改訳2017】
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>
永遠のいのちを失っている人間:

この律法学者の隣人理解では、異邦人は含まれず、罪人と言われていた取税人、遊女なども隣人には含まれませんでした。イエス様の説く隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も含まれます。また、同胞ばかりでなく敵をも含んでいるのです。イエス様は良きサマリヤ人の例話を示されました。イエス様は、隣人とは、だれかをお示しになりました。自分と同様に隣人を愛しなさい、これは隣人愛の実践ということがいえるでしょう。しかし、その前に、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」との勧めがあります。いのちの源である神を全身全霊を尽くして、愛しなさいということです。永遠のいのちを失っている人間と題してお話しています。あなたを造りあなたにいのちを与えておられる神のいのちとつながっていないならば、霊や魂のいのちは死んでいるといえます。すなわち神のいのちとつながっていないならば、わたしたちのいのちはこの肉体のいのちだけで永遠のいのちはありません。最初の人間は神を知り、神を愛していました。ですから神のいのちとつながり永遠のいのちに生きる者でした。しかし、すべての人は、神の戒めを破り、神と向き合うことをやめ、自ら神のいのちから離れました。死ぬものとなったのです。

信仰を通して受ける永遠のいのち

イエスさまは、そのように本来の姿を失い、死と滅びに定められている私たち人間に向き合って下さるのです。生まれながら私たちは神から遠く離れていて、神の命を失っているものたちです。創造主である神をみとめないこと自体、罪です。そしてその罪のために本当の命を失って人間は滅びに向かっていると聖書は主張しています。私たち人間がそのままでは自らの罪によって滅んでしまうのを惜しみ、罪のない神の独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりに十字架で断罪したのです。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。キリストがすべての人の罪を贖ってくださったのです。その神が、ここにおられる皆さん一人一人と向き合ってくださいます。私たちのすべての罪を十字架の上で赦し信じる者に永遠のいのちをお与えくださいます。あなたは信仰によってそれを受け取り自分のものとするのです。神が無代価、無料で提供してくださっている永遠のいのちをぜひ自分のものとして受け取ってください。

天国はイエス様の祝宴

2025年9月21日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神との関係を無視する人間:

神は最初にイスラエルを選ばれました。イスラエル民族を通して、すべての民族を祝福し、人類を罪から救おうとしました。それに対して、民の指導者たちは神を拒絶し続けました。そのことがこのたとえ話です。これは一見イスラエル民族だけの問題のようですが、私たちすべての人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、心で見えるはずの神を見ることができなくなっています。そして、神の存在を心で否定しています。今日の個所では、神が選んで聖なる国民としたイスラエル、ユダヤ民族について、歴史の中で、彼らが、真の神を無視し、捨てたことをイエス様は怒られました。その間、真の神に立ち返るように何度も預言者を送りましたが、彼らは無視し、殺してしまいました。そして、最後に神の御子、王国の王子であるイエス・キリストをお送りになりましが、十字架で殺してしまったのです。しかし、そのようなイスラエルに対して、神は最初の約束を忘れることはありません。これは、神のあわれみと約束によりメシヤ、キリストによる十字架の贖いがなされること。それにより、イスラエルの罪を消し去ってくださることの預言です。あなたに関心をもって心配しておられる神を無視することはやめましょう。

礼服(キリスト)を着て御国に入る:

神の救いに与る条件は、良い人間、悪い人間など、その人の人格は関係ありません。ただ、神が提供してくださった礼服であるイエス・キリストを着るということだけでよいのです。これは、イエス・キリストを救い主として信じることでよいのです。これが神の恵みです。想像するに、招かれた人々は大通にいた人々です。ですから、礼服の下は普段着で汚れていたでしょう。内側はどんなに汚れていても礼服を着ていたのでそれでオーケーということです。私たちも自分の内側を見ると、罪、けがれでいっぱい、王子の祝宴にふさわしくないと感じる人もいるかもしれません。しかし、キリストを着ていればそれでオーケーということです。それは、キリストを信じて心の内にお迎えすることです。すべての人にイエス・キリストの救いが提供されています。しかし、洗礼を受けてキリストを着る、すなわち救われる人は少ないと言えます。あなたの神がお与えくださる祝福を味わい、また、それを知らない人々に伝えていきましょう。

<聖書>マタイによる福音書22章1~14節
【新改訳2017】
22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」