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神のことばは永遠に立つ

2025年11月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
信じれば二倍の慰めと祝福がある;

エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」まさしく、イエス・キリストのお姿です。神はイスラエルのために優しく語り掛けておられます。それは民の嘆きが大きかったからです。同様に、キリストを信じて苦難の中に置かされている人々も確実に慰められるのです。あるいは、キリストを信じてこれまで歩んできた人々、様々な悲しみを通って来られた人々を神は確実に慰め、平安と喜びで満たしてくださるのです。クリスチャンは、キリストの贖いにより罪の報いである死と滅びが取り去られてゼロになっています。さらにクリスチャンは神の子とされています。つまり天国の相続者とされています。罪が赦され、死と滅びがなくなり、つまり永遠の命が与えられるばかりでなく、天国の全ての富を与えられているのです。信じる者には罪に代えて二倍の慰めと祝福があります。神は、罪により炭より黒い私たちを真っ白にしてくださるばかりでなく、光り輝く黄金の栄光を与えてくださるということです。信仰によってあなたはそうなるのです。そうなっているのです。

王の王、主の主であり私の羊飼いイエス様

世の終わりの時に、世の終わりのラッパが鳴り渡るときに、皆さんは復活のからだでよみがえります。そして、真に救いが完成するのです。ですから、私たち信者は救いの完成を先取して生きています。やがて救われるのではなく、今救われています。そして、信仰により、そう確信しています。聖書は人間にとってなくてはならない重要なことが書かれています。その中でも、人はそのままでは、自らの罪のために滅んでしまうこと、神は人を愛し一人も滅びることを惜しまれて、救い主キリストを送ってくださった事、そして、すべての人の罪をキリストが背負って十字架で罪を贖ってくださった事、キリストを信じる者は誰一人として滅びることなく永遠のいのちをもつことです。私の羊飼いであり、すべての権威をお持ちの力ある神が私と共にいてくださることをもっと実感して、与えられた人生を喜びと感謝をもって、前向きに歩んでいきたいと思います。

<聖書>イザヤ書40章1~11節
【新改訳2017】
40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」
40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
40:5 このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」
40:6 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
40:7 【主】の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
40:8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
40:10 見よ。【神】である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

福音の再発見

2025年10月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神の義というプレゼント:

義のプレゼントはどこから来るのでしょうか?それはキリストの十字架によります。罪のない神の独り子がすべての人の罪を背負い身代わりとなって裁かれ十字架で死んでくださいました。それにより、すべての人が裁かれず、義とされる道を開いてくださったのです。私たちは誰でも生まれながらの罪人です。ルターは気づきました。人間には、本質的に邪悪なものがあること、人間の性質そのものが腐敗しているのだ、と。ルターは人間の一切が罪の赦しを必要としていることを悟ったのです。神は、神の義をプレゼントとして罪人にお与えになりました。私たちはそれを信仰によって受け止めるだけでいいのです。信仰によって義と認められる、これを信仰義認と言います。これは神が主導で一方的に備えてくださった救いの道で、恵です。この発見をしたルターは、自分は全く新しく生まれ変わった。聖書の戸が開かれた、と告白しています。これが福音の再発見でした。

信仰によって働く神の力:

ルターはこの世のどんな権力によっても奪われることのできない自由を得ていました。神のことばに捕えられた良心に従いました。人間の良心は移ろい安く、権力や状況によって曲げられることもしばしばです。神のことばに絶対的な信頼を置くならば、真理があなた方を自由にします。福音は神の力であり、最強の力です。それは悪魔の力、罪の力、死の力にも打ち勝ちます。最強の力です。それこそ、全知全能の神の力だからです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。罪の呪いは、イエス・キリストが十字架の上で飲み干し死んでくださいました。私たちすべての人の罪の裁きを身代わりとなって、イエス様が受けてくださったのです。ですから、私たちには罪の呪いは及びません。そのことを受け止めて、信じる者は、キリストが復活したように復活のいのちにあずかるのです。ルターは福音を再発見して、信仰によって働く神の力を体験しました。福音は輝きを取り戻しました。福音は信じるすべての人を救う神の力です。福音を知らないために多くの人々は未だに罪の暗闇の中にいます。先に救われた私たちは、福音を家族や知人の届けるために召されているといえます。

<聖書>ローマ人への手紙1章1~17節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

いのちの水の川

2025年10月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
幻の神殿は復活のキリスト:

この幻の神殿は復活したイエス・キリストを指しているといえます。この象徴的なエゼキエルの幻は、私たちの罪を贖うために十字架で死んだイエス・キリストが、復活して、生ける神殿となったことで成就したと言えます。死海の水が良くなり、この川が流れゆくところはどこでも、生物は生き、魚は非常に多くの群れをつくるというのです。そして、この水によってすべてが生きると書いています。その神殿から流れるいのちの水は聖霊ということができます。イエス様を信じる人は、その人の心の奥に生ける水の川が流れ出るようになるのです。しかし、死海の一部の沢と沼は水が良くならないで塩のまま残ると書いています。これは、何を意味しているのでしょうか。神殿から流れるいのちの水を引かないところは、依然、塩のまま残る、つまり、いのちを得ていないというのです。いのちの水であるイエス・キリストを信じて歩む人には、いのちの回復と豊かな祝福と繁栄が約束されています。しかし、イエスを受け取らない人は依然、死の状態でやがて滅ぶというメッセージを読むことができます。ここにある死海は私たち人間社会を暗示しています。神なき世界、それは人間中心主義の世界、罪と死と悪魔に支配されたこの世です。神はそこにいのちをお与えになります。

回復と救いの完成:

この幻はイスラエルの回復と救いについて預言です。神のご計画によると、キリストの福音は、イスラエルが拒んだために、異邦人に届けられました。異邦人に受け入れられて、最終的には約束により、ユダヤ人に至るというのです。イスラエルをあわれみ救いに導いてくださいます。すなわち、ユダヤ民族に救いが成就します。今は、異邦人の時代です。福音がユダヤ人以外のすべての民族に伝えられています。この時代が通過すると再び、イスラエル人に救済が戻ってきます。そして、世の終わりの時に起こることは、完全な神のご支配です。世の終わりは、キリストの再臨の後に起こります。神のみ座が現れ、苦しみ、悲しみ、涙もない、完全な平安と喜びが待っています。イエス様を信じて、神との和解をいただき、今は、赦しといのちに生きるものとされました。やがては天の御国に招かれています。先に救われた私たちはその祝福を家族知人に届ける器とされています。そのために皆さんお一人ひとりが豊かに用いられますようお祈りいたします。

<聖書>エゼキエル書47章1~12節
【新改訳2017】
47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
47:2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

献金は信頼と献身の表れ

2025年10月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
最高権威者、圧倒的勝利者キリスト:

イエス様は十字架により私たちを罪と死と悪魔から解放して、完全にお救いになります。圧倒的な勝利者として今も、神の右の座につかれ、世の終わりにもう一度来られて、すべての悪を滅ぼし、信じる者を死と滅びと悪魔から救い出してくださるのです。キリストはダビデの家系の中に組み込まれダビデの子孫としてお生まれになりました。しかし、イエス様の証言から、イエス様は真の神でした。そして、神が処女マリヤが聖霊により身ごもり誕生したのが、イエス・キリストです。そのことからイエス様は罪のない神の独り子と呼ばれます。ですから、私たちはイエス様に全き信頼を置いて、すべてを委ねて安心して歩んでいいのです。今の困難や苦難はやがてキリストにより圧倒的な勝利にのまれます。この方に信頼して、安心していきましょう。私たちに必要なのは、もうしばらくの忍耐です。

外面を繕う律法学者と貧しいやもめ:

イエス様は献金箱に献金を投げ入れる一人の貧しいやもめをご覧になり、神に信頼し、全てを委ねるその貧しいやもめを神は大変喜びお褒めになりました。自分の身体もいのちもすべてを神が支えてくださるという信頼に基づいた行動です。ここではっきりわかることは、献金は額でないということです。しかし、神の求めるものは、献金で表される献身と神への信頼です。神は、私たちの罪を赦し私たちを永遠の滅びから救い出してくださいました。この大きな恩恵に対して、溢れるばかりの感謝を捧げることです。献金は神の恵みに対する感謝の応答です。大切なのは、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」喜んで感謝して捧げることです。アブラハム以来、イスラエルの民は持っているものの十分の一を祭壇のいけにえとしてささげるようになりました。また、それらは、祭司やレビ人の収入となりました。十一献金には大きな恵が伴います。人は献金することで、神への信頼が深まり、神の大きな愛とあわれみと助けを体験するのです。律法学者は、自分を正しく見せることをに注力しました。自分の弱さを隠し、傲慢になり、他の人を見下すような生き方です。それに対してやもめは自分の貧しさ、弱さを知り、謙遜でした。先のことがわからなくても神をどこまでも信頼していきます。不安定な現代社会で平安と感謝と希望に生きていくためには、人に頼る生き方ではなく、目には見えませんが、生きて働かれる神に頼って生きることです。

<聖書>マルコによる福音書12章35~44節
【新改訳2017】
12:35 イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。
12:36 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
12:37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
12:39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
12:40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」
12:41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
12:42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
12:44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」


永遠のいのちを得るために

2025年9月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書10章25~37節
【新改訳2017】
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>
永遠のいのちを失っている人間:

この律法学者の隣人理解では、異邦人は含まれず、罪人と言われていた取税人、遊女なども隣人には含まれませんでした。イエス様の説く隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も含まれます。また、同胞ばかりでなく敵をも含んでいるのです。イエス様は良きサマリヤ人の例話を示されました。イエス様は、隣人とは、だれかをお示しになりました。自分と同様に隣人を愛しなさい、これは隣人愛の実践ということがいえるでしょう。しかし、その前に、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」との勧めがあります。いのちの源である神を全身全霊を尽くして、愛しなさいということです。永遠のいのちを失っている人間と題してお話しています。あなたを造りあなたにいのちを与えておられる神のいのちとつながっていないならば、霊や魂のいのちは死んでいるといえます。すなわち神のいのちとつながっていないならば、わたしたちのいのちはこの肉体のいのちだけで永遠のいのちはありません。最初の人間は神を知り、神を愛していました。ですから神のいのちとつながり永遠のいのちに生きる者でした。しかし、すべての人は、神の戒めを破り、神と向き合うことをやめ、自ら神のいのちから離れました。死ぬものとなったのです。

信仰を通して受ける永遠のいのち

イエスさまは、そのように本来の姿を失い、死と滅びに定められている私たち人間に向き合って下さるのです。生まれながら私たちは神から遠く離れていて、神の命を失っているものたちです。創造主である神をみとめないこと自体、罪です。そしてその罪のために本当の命を失って人間は滅びに向かっていると聖書は主張しています。私たち人間がそのままでは自らの罪によって滅んでしまうのを惜しみ、罪のない神の独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりに十字架で断罪したのです。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。キリストがすべての人の罪を贖ってくださったのです。その神が、ここにおられる皆さん一人一人と向き合ってくださいます。私たちのすべての罪を十字架の上で赦し信じる者に永遠のいのちをお与えくださいます。あなたは信仰によってそれを受け取り自分のものとするのです。神が無代価、無料で提供してくださっている永遠のいのちをぜひ自分のものとして受け取ってください。

天国はイエス様の祝宴

2025年9月21日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神との関係を無視する人間:

神は最初にイスラエルを選ばれました。イスラエル民族を通して、すべての民族を祝福し、人類を罪から救おうとしました。それに対して、民の指導者たちは神を拒絶し続けました。そのことがこのたとえ話です。これは一見イスラエル民族だけの問題のようですが、私たちすべての人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、心で見えるはずの神を見ることができなくなっています。そして、神の存在を心で否定しています。今日の個所では、神が選んで聖なる国民としたイスラエル、ユダヤ民族について、歴史の中で、彼らが、真の神を無視し、捨てたことをイエス様は怒られました。その間、真の神に立ち返るように何度も預言者を送りましたが、彼らは無視し、殺してしまいました。そして、最後に神の御子、王国の王子であるイエス・キリストをお送りになりましが、十字架で殺してしまったのです。しかし、そのようなイスラエルに対して、神は最初の約束を忘れることはありません。これは、神のあわれみと約束によりメシヤ、キリストによる十字架の贖いがなされること。それにより、イスラエルの罪を消し去ってくださることの預言です。あなたに関心をもって心配しておられる神を無視することはやめましょう。

礼服(キリスト)を着て御国に入る:

神の救いに与る条件は、良い人間、悪い人間など、その人の人格は関係ありません。ただ、神が提供してくださった礼服であるイエス・キリストを着るということだけでよいのです。これは、イエス・キリストを救い主として信じることでよいのです。これが神の恵みです。想像するに、招かれた人々は大通にいた人々です。ですから、礼服の下は普段着で汚れていたでしょう。内側はどんなに汚れていても礼服を着ていたのでそれでオーケーということです。私たちも自分の内側を見ると、罪、けがれでいっぱい、王子の祝宴にふさわしくないと感じる人もいるかもしれません。しかし、キリストを着ていればそれでオーケーということです。それは、キリストを信じて心の内にお迎えすることです。すべての人にイエス・キリストの救いが提供されています。しかし、洗礼を受けてキリストを着る、すなわち救われる人は少ないと言えます。あなたの神がお与えくださる祝福を味わい、また、それを知らない人々に伝えていきましょう。

<聖書>マタイによる福音書22章1~14節
【新改訳2017】
22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

プリムの祭り

2025年9月7日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エステル記4章1~17節
【新改訳2017】
4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。
4:2 そして王の門の前のところまで来た。王の門の中には、粗布をまとったままでは入ることができなかったのである。
4:3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。
4:4 エステルの侍女たちとその宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女はモルデカイに衣服を送り、それを着せて、粗布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。
4:5 エステルは、王の宦官の一人で、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。
4:6 ハタクは王の門の前の、町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
4:7 モルデカイは自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に納めると約束した、正確な金額も告げた。
4:8 また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。
4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに告げた。
4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

<要約>
悩み不安を通して神に近づく:

エステルには、召されていないのに王の前に出るのはとても不安なことだったでしょう。エステルの決心は、次のみことばに現れています。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」信仰の決断は、先がわかってするものではありません。先は見えないが、神は最善をなしてくださる。だから、エステルも死ななければならなくても自分に与えられた最善の決断をしたのです。私たちが、不安になるのは、実は、みこころです。なぜなら、その時に、神に叫び求めるからです。そうして、もう一度、神の約束を再確認して生きていくのです。これがクリスチャンライフです。そして、み言葉の約束を確認します。そして脱出の道が備えられます。復活の希望をいただいて、永遠の御国を目指して進んでいくのです。このようにして、信仰者は神に近づき、神と親しくなります。

マイナスをプラスに代えてくださるキリスト:

その日の宴会の席上でも王はエステルに尋ねます。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」エステルは丁重に応えます。もう一度明日に宴会においでください。王は、その夜はなかなか眠れませんでした。そして、過去の記録である年代記を読ませて、モルデカイの功績に気付くのです。モルデカイが以前、王の暗殺計画を未然に察知して王をその危機から救ったことに対して、王はモルデカイにまだ、報いを与えていなかったのです。その日の夕に二晩目のエステルの宴会があり、ハマンはせかされて宴席に出ました。そこではじめて、エステルは、民族の救いを願い、ハマンの策略を王に述べるのです。ハマンはモルデカイを木にかけて処刑するために準備したその木に自らかけられて殺されてしまいました。その日は、ユダヤ人にとって、悲しみが喜びに変わった日、喪が祝いの日に変わった月として、祝宴と喜びを祝う日となりました。過去を見ると苦しく大変だったことであるかもしれませんが、その時も神は動けなくなったあなたを背負い運んでくださり、また、ともにいて助けてくださったのです。神はあわれみ深く素晴らしい、と賛美せずにはいられないのではないでしょうか。信じて歩むなら、神は、マイナスと思えることもプラスに代えてくださるのです。

ヨブの苦難から学ぶ

2025年8月31日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨブ記19章7~27節
【新改訳2017】
19:7 見よ。私が「暴虐だ」と叫んでも、答えはなく、叫び求めても、さばきは行われない。
19:8 神は私の道をふさいで通らせず、私の通り道に闇を置かれた。
19:9 神は私から栄光をはぎ取り、頭から冠を取り去られた。
19:10 神は四方から私を打ち倒し、私は消え去る。神は私の望みを木のように根こそぎにされる。
19:11 神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる。
19:12 その軍勢は一つとなって進んで来て、私に向かって傾斜路を築き上げ、私の天幕の周りに陣を敷く。
19:13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。
19:14 親族は見放し、親しい友も私を忘れた。
19:15 私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。
19:16 私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。
19:17 私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。
19:18 若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。
19:19 親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。
19:20 私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている。
19:21 あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。
19:22 なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。
19:23 ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、書物に記されればよいのに。
19:24 鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮がこのように?ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。

<要約>
苦難の意味と神の愛:

ヨブは、ついに、苦悩の中にいる自分を贖ってくださるお方、つまり代価を払って買い取ってくださるお方、その方は、土のちりの上に立っておられることを、見るのです。ヨブ自身と同じ土俵に立ち、ヨブと同じ姿となりヨブの弱さと苦悩を担って立っておられるお方です。ヨブは霊の目で見ています。それはまさしく、ヨブの苦難を共に背負い立っておられる救い主イエス・キリストです。神はヨブの信仰を試すために、ヨブがサタンの手にかかることをお許しになりました。そのことでヨブは苦難の中に陥れられるのですが、このことを通して神ご自身がいかなる方かをお示しになりました。神は私たちに無条件で御前にひれ伏すことを求めておられるのです。先が見えない、今の状況がどうなるか分からない、しかし、神に信頼していく、これがまことの信仰であります。この試練を通してヨブは神に近づくことができました。私たちは、順境の中でも逆境の中でも、神を信頼し続けることです。なぜなら、神はあなたを御子キリストをくださる程に、愛しいておられるからです。

苦難を通して成長し神の栄光を見る:

三浦綾子さんは語られました。「苦難と不幸は全く違う」ということ。脊椎カリエスで8年間もギブスベッドであおむけに横たわり寝がえりもできない生活を送られたのに、そのことで、自分は不幸だ、とはひとことも言っていません。その苦難を通して、キリストに出会い、救いの喜びに生きていたことが彼女の著書の中で証されています。私たち信仰者は苦難を通して成長してついには神の栄光を見るのです。福音の中にその力があります。罪のない神の御子キリストが、私たち人間の一切の罪とそれに伴う苦難や永遠の裁きを身代わりとなって担って十字架で死んでくださいました。キリストの十字架とそれに続く復活により、私たちの罪は赦され、裁きの代わりに永遠のいのちが与えられているのです。信じる者は無条件で神の恵みと祝福にあずかれるからです。神は苦労に対して必ず報いを用意してくださっています。死からも完全にお救いになることがおできになるお方は私たちのどんな状況の中からも救ってくださいます。クリスチャンになれば苦しいことも病気もなくなるというわけではありませんが、どんな状況の中でもこの揺るがない平安と満足が保証されているのです。

自由なしもべとして生きる

2025年8月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコによる福音書10章32~45節
【新改訳2017】
10:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

<要約>
先頭に立ちたい人間:

彼らには、大きな誤解がありました。弟子たちは、イエス様がイスラエルの王となって、かつてのダビデ、ソロモンが打ち建てた王国を再建して、大国の圧政から民を解放するために、今、エルサレムに向かうものと考えていたようです。そこで、イエス様は「あなた方は何を求めているかわかっていない」と言われました。人は、人々の中にあって栄誉を得たい、より上に立ちたいと思います。歴史は、人間同士の争いの歴史です。すなわち、権力を求めて争うのです。それは人の上に立って、人を思うように動かしたい、という人間の性質のためです。人間は神のために造られました。しかし、ある時、「あなたは神のようになれる」とサタンにそそのかされました。そして、神を押しのけ、神の立場に自分を置いたのです。それ以来、人類は人間中心主義です。そのように、背きの罪により、人間は神から離れて、自分中心に生きるようになりました。それが受け継がれた罪です。自分を優先していきたい、自分を先に立てたいという思いはそこから来ています。私たち人間の本質は自分が尊ばれて、持ち上げられたいのです。

しもべとなられた神:

万物をその御手の中に治めている神が、しもべとなり、仕えるものとなり、十字架でいのちを差し出してくださいました。それは、人間をあなたを死と滅びから救い出して真の人間として生きるためです。その動機は神の愛です。イエス様はしもべとして生きることの模範を示してくださいました。しもべは主人に束縛されて自由がありません。しかし、パウロは、クリスチャンは自由であると言っています。ルターは、キリスト者の自由という本の中で、以下のようにクリスチャンを定義しています。「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由の王であって誰にも服従しない。同時に、キリスト者はすべての者に仕えるしもべであって誰にでも服従する。」と。クリスチャンは、キリストを信じる信仰により、すべての罪が赦されて、罪の呪いから自由になっています。死からも自由にされています。この肉体は滅んでも永遠の命があります。それはまさしく自由の王だということです。ですから、その自由をもって、すべての人に仕えるしもべになることができるのです。何者にも強制されないその自由な意思をもって、神を愛し、人を愛するのです。

イエスの服に触れる女

2025年8月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコの福音書5章24~34節
【新改訳2017】
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

<要約>
罪により不確実となった人生:

私たちの生きている世界は不確実な世界ということができます。何が起こるかわからない、事故や戦争で突然の惨事に見舞われる人々のニュースを見て、明日は我が身かもしれない。なぜ、そのような惨事が起きるのでしょうか。もとをただせば、アダムの罪によるのです。アダムの罪によって、病気と死が人類に入りました。この女性にも、12年前に想定外のことが彼女の身に起こったのです。聖書は、希望の時の訪れがあることを示唆しています。その希望はどこから来ているのでしょうか。確かなものがあるからです。何でしょうか。それは、「神はあなたを愛している」ということです。神の子イエス・キリストを通して、神ご自身の愛を示してくださいました。それは最も確かなことです。キリストは、罪のために不条理、不確実の中に陥れられた人間を救うために十字架で死んでくださったのです。私たちは、その神が提供した罪の赦しを受け取り、永遠の命を自分のものとすることができます。私たちの人生においても予期しないことが度々起こり先が見えなくなり不安になります。しかし、キリストの救いが与えられています。主を信じるものは個人の人生においても、やがて来る世の終わりの時も、神の絶対的な主権の中で、すべてが喜びと希望と感謝に変えられるのです。

信じてイエス様に近づき救われる:

彼女は失望に失望を重ねてきた女性でしたが、イエス様なら自分の病を治すことができる、お着物にさわるだけでも、きっと治ると信じたのです。わたしたちは、この女性の必死に神を求める信仰の姿勢を学ぶ必要があります。彼女の心はイエス様で満たされていたのです。「あなたの信仰があなたを救った」とありますが、これは、単に病気が治ることばかりでなく、全人的な救いをお与えになったことを意味します。彼女は信仰によって病ばかりでなく、罪の赦しと永遠の命をいただいたのです。これがイエス様のお与えになる救いです。罪の赦しと永遠の命です。この後、イエス様が、十字架にかかり人類の罪を贖ってくださったことによるのです。聖書にははっきりと書かれています。私たちが救われるにはこのイエス・キリストしかいないということです。罪と死と滅びからの完全な救いです。永遠のいのちと消して失望に終わらない希望です。「この方しかいない」の信仰にもう一度立ちましょう。