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ヨブの苦難から学ぶ

2025年8月31日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨブ記19章7~27節
【新改訳2017】
19:7 見よ。私が「暴虐だ」と叫んでも、答えはなく、叫び求めても、さばきは行われない。
19:8 神は私の道をふさいで通らせず、私の通り道に闇を置かれた。
19:9 神は私から栄光をはぎ取り、頭から冠を取り去られた。
19:10 神は四方から私を打ち倒し、私は消え去る。神は私の望みを木のように根こそぎにされる。
19:11 神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる。
19:12 その軍勢は一つとなって進んで来て、私に向かって傾斜路を築き上げ、私の天幕の周りに陣を敷く。
19:13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。
19:14 親族は見放し、親しい友も私を忘れた。
19:15 私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。
19:16 私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。
19:17 私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。
19:18 若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。
19:19 親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。
19:20 私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている。
19:21 あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。
19:22 なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。
19:23 ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、書物に記されればよいのに。
19:24 鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮がこのように?ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。

<要約>
苦難の意味と神の愛:

ヨブは、ついに、苦悩の中にいる自分を贖ってくださるお方、つまり代価を払って買い取ってくださるお方、その方は、土のちりの上に立っておられることを、見るのです。ヨブ自身と同じ土俵に立ち、ヨブと同じ姿となりヨブの弱さと苦悩を担って立っておられるお方です。ヨブは霊の目で見ています。それはまさしく、ヨブの苦難を共に背負い立っておられる救い主イエス・キリストです。神はヨブの信仰を試すために、ヨブがサタンの手にかかることをお許しになりました。そのことでヨブは苦難の中に陥れられるのですが、このことを通して神ご自身がいかなる方かをお示しになりました。神は私たちに無条件で御前にひれ伏すことを求めておられるのです。先が見えない、今の状況がどうなるか分からない、しかし、神に信頼していく、これがまことの信仰であります。この試練を通してヨブは神に近づくことができました。私たちは、順境の中でも逆境の中でも、神を信頼し続けることです。なぜなら、神はあなたを御子キリストをくださる程に、愛しいておられるからです。

苦難を通して成長し神の栄光を見る:

三浦綾子さんは語られました。「苦難と不幸は全く違う」ということ。脊椎カリエスで8年間もギブスベッドであおむけに横たわり寝がえりもできない生活を送られたのに、そのことで、自分は不幸だ、とはひとことも言っていません。その苦難を通して、キリストに出会い、救いの喜びに生きていたことが彼女の著書の中で証されています。私たち信仰者は苦難を通して成長してついには神の栄光を見るのです。福音の中にその力があります。罪のない神の御子キリストが、私たち人間の一切の罪とそれに伴う苦難や永遠の裁きを身代わりとなって担って十字架で死んでくださいました。キリストの十字架とそれに続く復活により、私たちの罪は赦され、裁きの代わりに永遠のいのちが与えられているのです。信じる者は無条件で神の恵みと祝福にあずかれるからです。神は苦労に対して必ず報いを用意してくださっています。死からも完全にお救いになることがおできになるお方は私たちのどんな状況の中からも救ってくださいます。クリスチャンになれば苦しいことも病気もなくなるというわけではありませんが、どんな状況の中でもこの揺るがない平安と満足が保証されているのです。

自由なしもべとして生きる

2025年8月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコによる福音書10章32~45節
【新改訳2017】
10:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

<要約>
先頭に立ちたい人間:

彼らには、大きな誤解がありました。弟子たちは、イエス様がイスラエルの王となって、かつてのダビデ、ソロモンが打ち建てた王国を再建して、大国の圧政から民を解放するために、今、エルサレムに向かうものと考えていたようです。そこで、イエス様は「あなた方は何を求めているかわかっていない」と言われました。人は、人々の中にあって栄誉を得たい、より上に立ちたいと思います。歴史は、人間同士の争いの歴史です。すなわち、権力を求めて争うのです。それは人の上に立って、人を思うように動かしたい、という人間の性質のためです。人間は神のために造られました。しかし、ある時、「あなたは神のようになれる」とサタンにそそのかされました。そして、神を押しのけ、神の立場に自分を置いたのです。それ以来、人類は人間中心主義です。そのように、背きの罪により、人間は神から離れて、自分中心に生きるようになりました。それが受け継がれた罪です。自分を優先していきたい、自分を先に立てたいという思いはそこから来ています。私たち人間の本質は自分が尊ばれて、持ち上げられたいのです。

しもべとなられた神:

万物をその御手の中に治めている神が、しもべとなり、仕えるものとなり、十字架でいのちを差し出してくださいました。それは、人間をあなたを死と滅びから救い出して真の人間として生きるためです。その動機は神の愛です。イエス様はしもべとして生きることの模範を示してくださいました。しもべは主人に束縛されて自由がありません。しかし、パウロは、クリスチャンは自由であると言っています。ルターは、キリスト者の自由という本の中で、以下のようにクリスチャンを定義しています。「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由の王であって誰にも服従しない。同時に、キリスト者はすべての者に仕えるしもべであって誰にでも服従する。」と。クリスチャンは、キリストを信じる信仰により、すべての罪が赦されて、罪の呪いから自由になっています。死からも自由にされています。この肉体は滅んでも永遠の命があります。それはまさしく自由の王だということです。ですから、その自由をもって、すべての人に仕えるしもべになることができるのです。何者にも強制されないその自由な意思をもって、神を愛し、人を愛するのです。

イエスの服に触れる女

2025年8月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコの福音書5章24~34節
【新改訳2017】
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

<要約>
罪により不確実となった人生:

私たちの生きている世界は不確実な世界ということができます。何が起こるかわからない、事故や戦争で突然の惨事に見舞われる人々のニュースを見て、明日は我が身かもしれない。なぜ、そのような惨事が起きるのでしょうか。もとをただせば、アダムの罪によるのです。アダムの罪によって、病気と死が人類に入りました。この女性にも、12年前に想定外のことが彼女の身に起こったのです。聖書は、希望の時の訪れがあることを示唆しています。その希望はどこから来ているのでしょうか。確かなものがあるからです。何でしょうか。それは、「神はあなたを愛している」ということです。神の子イエス・キリストを通して、神ご自身の愛を示してくださいました。それは最も確かなことです。キリストは、罪のために不条理、不確実の中に陥れられた人間を救うために十字架で死んでくださったのです。私たちは、その神が提供した罪の赦しを受け取り、永遠の命を自分のものとすることができます。私たちの人生においても予期しないことが度々起こり先が見えなくなり不安になります。しかし、キリストの救いが与えられています。主を信じるものは個人の人生においても、やがて来る世の終わりの時も、神の絶対的な主権の中で、すべてが喜びと希望と感謝に変えられるのです。

信じてイエス様に近づき救われる:

彼女は失望に失望を重ねてきた女性でしたが、イエス様なら自分の病を治すことができる、お着物にさわるだけでも、きっと治ると信じたのです。わたしたちは、この女性の必死に神を求める信仰の姿勢を学ぶ必要があります。彼女の心はイエス様で満たされていたのです。「あなたの信仰があなたを救った」とありますが、これは、単に病気が治ることばかりでなく、全人的な救いをお与えになったことを意味します。彼女は信仰によって病ばかりでなく、罪の赦しと永遠の命をいただいたのです。これがイエス様のお与えになる救いです。罪の赦しと永遠の命です。この後、イエス様が、十字架にかかり人類の罪を贖ってくださったことによるのです。聖書にははっきりと書かれています。私たちが救われるにはこのイエス・キリストしかいないということです。罪と死と滅びからの完全な救いです。永遠のいのちと消して失望に終わらない希望です。「この方しかいない」の信仰にもう一度立ちましょう。

むなしい生き方からの解放

2,025年7月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰ列王記18章19~40節
新改訳2017
18:19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」
18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし【主】が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私一人が【主】の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。
18:23 私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。
18:24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。
18:25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「おまえたちで一頭の雄牛を選び、おまえたちのほうから、まず始めよ。人数が多いのだから。おまえたちの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
18:26 そこで彼らは、与えられた雄牛を取って、それを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んだ。「バアルよ、私たちに答えてください。」しかし何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。
18:27 真昼になると、エリヤは彼らを嘲って言った。「もっと大声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると寝ているのかもしれないから、起こしたらよいだろう。」
18:28 彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
18:29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。
18:30 エリヤが民全体に「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄って来た。彼は、壊れていた【主】の祭壇を築き直した。
18:31 エリヤは、【主】がかつて「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって、十二の石を取った。
18:32 その石で、彼は【主】の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、二セアの種が入るほどの溝を掘った。
18:33 それから彼は薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に載せ、
18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のささげ物と薪の上に注げ」と命じた。それから「もう一度それをせよ」と言ったので、彼らはもう一度そうした。さらに、彼が「三度目をせよ」と言ったので、彼らは三度目をした。
18:35 水は祭壇の周りに流れ出した。彼は溝にも水を満たした。
18:36 ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。
18:37 私に答えてください。【主】よ、私に答えてください。そうすればこの民は、【主】よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」
18:38 すると、【主】の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。
18:39 民はみな、これを見てひれ伏し、「【主】こそ神です。【主】こそ神です」と言った。
18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。

<要約>
偶像との戦い:

エリヤは、アハブに対決を挑みます。アハブは、全イスラエルの代表たちと、イゼベルの食卓に着いているバアル神の預言者四百五十人と、アシェラの預言者四百人とを招集しました。エリヤはイスラエルの全家に向かって話します。「いつまで、どっちつかずでよろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従え。もし、バアルが神であるならそれに従え」と。民は、真の神を全く捨ててしまったわけではなく、時には真の神に、ある時は偶像へと、不徹底な信仰だったのです。不徹底な信仰により神の恵はブロックされます。私たちクリスチャンも不徹底な信仰ではいけません。時には偶像と対決しなければなりません。一番、試されるのは、冠婚葬祭です。偶像はいっぱいあります。お葬式に出席することは良いと思います。しかし、焼香は礼拝行為ですから、辞退します。なぜなら、聖書によるとこれは姦淫だからです。現代のクリスチャンにとって、偶像とは、刻んだ像ばかりではありません。神以上に私たちの心を占領しているものです。神をいつも選び取っていく戦があります。神の国と神の義を第一としていく、戦いであると言えます。神を第一として、神中心の信仰にあゆみましょう。

キリストによる勝利:

エリヤは、いよいよ主の戦いに入る前に、まず祭壇を整えました。祈りの前にエリヤが整えた祭壇とは、現在では何を指すのでしょうか。悔い改めと言えます。エリヤはこの戦いは主の戦いであると知っていました。エリヤは、主が戦いに勝利してくださると確信していました。現在でも、イエス・キリストは勝利者です。聖書にある通りを信じましょう。私たちはイエス様にある限り圧倒的な勝利者だ、とロマ書に書いています。それでは、キリストの勝利にあずかり続けるためにはどうすればよいのでしょうか。そのためには、福音を繰り返し聞くことです。福音は、「目が見たことのないもの耳が聴いたことのないものそして人の心に思い浮かんだことのないもの」です。福音を繰り返し聞く必要があるのです。毎週説教で、皆さんが福音を思い起こして、もう一度、救いの恵みを得ていただきたいからです。あなたの罪が赦されていることイエス様があなたの代わりに十字架で死んで復活されたこと、そして、あなたは神の子とされ、永遠の命に与っていることです。


謙遜と信仰を喜ぶ神

2025年7月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
たましいの値打ちをはかられる神:

小教理に「私たちは何にも増して、神を恐れ、愛し、信頼しなければならない」とあります。神を本当に恐れているならば、罪から離れます。愛しているなら、神に従います。信頼しているなら、つぶやかないでいつも感謝します。サウル王は、神を本当に恐れていたでしょうか。否、神よりも自分を愛していたので、神に自分を明け渡し、神の命令に耳を傾けることがなかったのです。彼は神のことよりも自分の欲望を満たすために自分の記念碑を立てました。サウルの生き様は、神から離れた人生が糸の切れた凧のように混乱したものになることを表しています。サウルと比べて、ダビデはどうだったでしょうか。ダビデの人生にも失敗と罪がありました。しかし、神を恐れていました。また、何よりも彼は神を愛していました。ですから、どんな時も素直に神に従っていました。また、何よりも神を信頼していました。いつも、心から神に祈り、訴えていました。最善をなしてくださる神を信頼していました。たましいの値打ちというのは、自分の罪を認める謙遜さと信仰と言えます。私たちはダビデのように神の前で素直になり、へりくだりたいと思います。

恵みの王国の王キリスト:

イエス様ご自身を見ても人としては、貧しい幼子として最もへりくだって低くなられて地上に来られました。神の子がどうしてそこまで低くならなければならなかったのでしょうか。そして、極悪人が受ける十字架刑で殺されなければならなかったのでしょうか。それは、罪に沈むどんな人でも救うためです。罪のない神が十字架であなたが受けるべき罪の罰を完全に受けました。死んで墓に葬られましたが、復活して天に昇り父なる神の右の座に着かれました。今は、御国の王として君臨されています。その後聖霊降臨があり、最初の教会がエルサレムにできました。今から二千年前のことです。その時以来、主イエスを王とした恵みの王国は全世界に広がり続けています。その王国は教会であると言えます。この地上における神の国です。救われた罪人の集まりの中に、主イエスは王として立っておられるのです。この国は、この世の国の権威が全く及ばない国です。どんな人でも招かれています。なぜなら、主イエスはあなたの罪の代わりに十字架で死なれ、あなたが永遠のいのちを得るために復活されたからです。

<聖書>Ⅰサムエル記15章1~16、22~24節
【新改訳2017】
15:11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し【主】に向かって叫んだ。
15:12 翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました」という知らせがあった。
15:13 サムエルはサウルのところに来た。サウルは彼に言った。「あなたが【主】に祝福されますように。私は【主】のことばを守りました。」
15:14 サムエルは言った。「では、私の耳に入るこの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」
15:15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。兵たちは、あなたの神、【主】に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。しかし、残りの物は聖絶しました。」
15:16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、【主】が私に言われたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」

15:22 サムエルは言った。「【主】は、全焼のささげ物やいけにえを、【主】の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
15:23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
15:24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、【主】の命令と、あなたのことばに背いたからです。

家族危機と回復

2025年7月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記37章1~11節
【新改訳2017】
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

<要約>
差別、ねたみ、憎しみ、殺意:

ヨセフの夢を聞いて、兄弟たちのヨセフに対する憎しみは尋常でないレベルに上がりました。そして、「見ろ。あの夢見る者がやってくる。さあ、今こそ彼を殺しどこかの穴に投げ込んで悪い獣が食い殺したと言おう。」と言いました。そのとき長男のルベンが殺害を思いとどまらせました。そして結果的にはヨセフはエジプトへ向かう商人の一行に売り飛ばされたのです。イスラエル民族は神に選ばれた民です。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブのそれぞれの家庭を見ると、それぞれの兄弟たちの間でいさかい、もめ事がありました。このように、家族間の争いというのは、アダムの堕落依頼、全人類を覆っています。現在、国家間も民族間も争いが絶えません。もとをただせば、兄弟同士の争いです。世界はますます、憎しみと復讐の連鎖に陥っています。昨今の世界情勢が物語っています。人間の内側にある罪に力は強く、同時に悪の力が強く働いて、世界が破壊と無秩序に向かわせられているように感じます。神の民とされたイスラエルの最初の家庭は問題がありました。それは、家族間の偏愛による差別、ねたみ、憎しみ、殺意でありました。これは、すべての人間関係の問題で、全世界に広がり個人ばかりでなく、民族、国家に及んでいます。それが私たち人間の根底にある罪です。

愛、赦し、和解、救い:

この後、ヨセフはエジプトでパロの廷臣で侍従長のポティファルに売られて、そこで、奴隷として主人に仕えるのですが、ポティファルの妻により無実なのに罪を着せられて牢獄につながれました。しかし、神が彼と共にいたので、そのような状況でも彼は祝福されて、周りの人から信用されました。ある時、パロのみた夢を解き明かして、これから世界に起ころうとしている飢饉を見事に言い当てました。それがもとで、エジプトは救われたのです。ヨセフは、エジプトの最良の土地ゴシェンの地に家族を呼んで兄たちと和解をしてイスラエルを救ったのです。ヨセフはイエス・キリストのひな型であるとされています。罪は世界に増大しています。現代社会、そして私たち一人ひとりが内に持つ罪の力による差別、ねたみ、憎しみ、殺意という悪の循環から、神はキリストにより愛、赦し、和解、救い、の循環に移してくださいます。神は、人が持つ憎しみ、殺意、に代えて、キリストにより愛と赦しと和解の福音を提供しておられるからです。

祝福してくださらなければ

2025年6月29日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
約束の通り背後で導く神:

ヤコブは神の下さった約束を握って祈ります。ヤコブは、過去の神の恵みを思い起こして、神が約束を守る真実なお方であることを確認しています。私たちが問題に出会ったときに、まず、私たちは祈ります。そして、今自分にできることを準備するのです。与えられた知恵や才能を使って準備をするのです。それが、信仰的な態度です。ヤコブは不安を抱いたときに祈りました。神は、私たちに祈り求めるよう命令しております。そして、神ご自身が助け出すと約束しております。祈ったとき、祈りの答えが自分の思い通りのものでなかったとしても、最後には平安が与えられるのです。苦難の中で祈り続けます。そうすれば、最後に「神は真実なかたである」という確信に行きつくのです。それが祈りの力です。私たちは、祈るたびに、神が真実な方であること、あわれみ深い方であることがわかります。祈らなければ、わからない。祈らなければ神をよく知ることはできません。祈らなければそばにいて見守っておられる神を感じるということもありません。

貪欲に神を求める祝福:

ヤコブは、もともと、押しのけてでも人の先に立とうとする人でした。ヤコブは、貪欲にみ使いに迫ります。そして、何とか自分と自分の家族を守ってほしいと力ずくで迫ったのです。そこで、二人は取っ組み合いとなりました。一晩中戦いましたが、勝負がつきません。すると、その人は、ヤコブの腿を打ってから、やっと口を開いて、私を去らせなさいと云いました。ヤコブは、いいえ、私を祝福してくださらなければ放しません、と必死にしがみついたのです。その人はついにヤコブを祝福しました。神は、同様に私たちが貪欲に求めることを望んでいます。なぜなら、神は私たちを思いっきり祝福したいからです。ですから、求めなさいと勧めています。私たちは毎日、切に神を求めましょう。また、神は、ヤコブの腿のつがいを打ったように、私たちを打つことがあります。私たちの罪の古い性質である自分中心の性質を改め指すためです。打たれて謙遜になるのです。ヤコブは兄エソウと会いまみえ抱き合ってともに泣きました。和解がなされました。十字架の目的は、人が神と和解することです。すべての敵意が取り除かれました。まだ、キリストの和解を受けていない人は、今、十字架の和解をいただきましょう。そして、和解を受けた私たちは貪欲に祝福を求めて生きましょう。

<聖書>創世記32章1~5、22~32節
【新改訳2017】
32:1 さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。
32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。
32:3 ヤコブは、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使いを送った。
32:4 ヤコブは彼らに命じた。「私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなた様のしもべヤコブがこう申しております。私はラバンのもとに寄留し、今に至るまでとどまっていました。
32:5 私には牛、ろば、羊、それに男女の奴隷がおります。それで私の主人であるあなた様にお知らせして、ご好意を得ようと使いをお送りしました。』」


32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
32:23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

イエスのまなざしがあなたを変える

2025年6月15日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書5章1~11節
【新改訳2017】
5:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
5:2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
5:4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5:5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
5:9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。
5:10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
5:11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

<要約>
砕かれた心に神を迎える:

「暗やみと死の地と死の影に座っていた人々」、これらのことばは、希望もなく苦しみに耐えてじっと座っている人々を思い浮かべます。現代についても同様に病や苦しみはあります。衣食住は良いとしても将来に希望を持つことが難しくなってきています。これから、日本は人口減に入り、多死の時代を迎えます。そのような状況で希望が見えてきません。その暗黒にたたずむ人間に、光が上ったのです。それはまさしく、イエス・キリストです。人々は押し迫るようにイエス様のところに来ました。病の癒しを願い、悪霊からの解放を願い、そして、神のことばを聞きに集まったのです。暗やみが光に代わり、死がいのちに代わる、絶望が希望に代わる、悲しみは喜びに代わることです。絶望的なマイナスが、希望に輝くプラスに代わった、と言うことです。ペテロは主のお言葉に従って大いなる祝福を得ました。人は、神の前で降参しなければ、神を認めることができないのです。人は自分の無力に気付き、神などいらないと言っていた自我が砕かれます。すなわち、心の王座を占めていた自我が砕かれて、代わって、キリストの霊があなたを生かすのです。

神が召してくださる祝福:

ペテロは、これまで経験したことのないような大漁の奇跡を見て、驚き、そして恐れ、イエス様の前にひれ伏しました。イエス様は「怖がらなくてもよい」と言われました。そして、「これから後、あなたは人間をとる漁師になるのです」と言われました。イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」といいました。そして、悔い改めて神を信じ、新しく生まれた人には、神の子とされる特権が与えられます。天国の相続人になります。天国の祝宴に招かれています。そこで、永遠の安息と尽きることのない喜びに満たされて過ごすのです。それはこの上もない祝福です。人生は出会いで決まるといった人がいます。もし、あなたが、あなたを取り巻く様々な状況や人間関係で、意気消沈しているならば、イエス様は愛と信頼のまなざしであなたを見ておられます。イエス様は、無条件にあなたを愛してあなたを信頼のまなざしで見ておられます。イエス様の「わたしに来なさい」という招きにこたえて、イエス様を信じましょう。

雄々しくあれ強くあれ

2025年6月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨシュア記1章1~11、16~18節
【新改訳2017】
1:1 【主】のしもべモーセの死後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
1:3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。
1:4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
1:5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、【主】があなたとともにおられるのだから。」
1:10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。
1:11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。あなたがたの神、【主】があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」

1:16 彼らはヨシュアに答えた。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。あなたが遣わすところには、どこでも参ります。
1:17 私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、【主】が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じることばに聞き従わない者はみな、殺されなければなりません。あなたは、ただ強く雄々しくあってください。」

<要約>
悔い改めるのを待っておられる神:

聖書に照らすと、人間の罪による腐敗は悪臭を放つほど甚だしいと言えます。私たち人間は普段罪がわからず、自分が罪人であると気付くこともありません。一般には、やってはいけないことをすることを罪と言います。泥棒、殺人、姦淫などです。しかし、罪は行いばかりでなく、思いとことばの領域のことも含んでいます。人を憎らしいと思ったら殺人罪、妻以外の女性に情欲を抱いたなら姦淫罪です。やってはいけないことをするのが罪と言いましたが、やらなくてはいけないことをしないのも罪です。困っている人を見ても助けないのも聖書では殺人罪です。心の領域まで見通すと、神の目には私たちはどんなに積み深いかがわかります。神は義なる方ですから、どんな小さな罪をも見逃すことはできません。必ず裁かなければなりません。しかし、神は待っておられます。何を、でしょうか。そうです、悔い改めです。思いを変えて神を見上げることです。こころを低くして救いを求める信仰です。

呪いを祝福に変える神:

神は、信仰を問うています。信じて生きるか、信じないで滅びるかということです。神を信じるものに、無条件に与えられるのが罪の赦しです。父なる神は裁きを与える代わりに赦すために、罪のないご自身のひとり子を与えてくださいました。神は正しい方ですので、罪に対しては必ずさばきを下します。しかし、人が裁かれ滅ぶのを惜しまれて、身代わりにご自身の子を十字架で裁いたのです。人は誰もが、死を恐れています。霊魂は無に帰するのではなく、神の前に立たされて、生きていた時の様々な罪に対して裁かれるのです。その得体のしれない裁きを恐れるので、死を恐れるのです。死はさばきであり呪いと言えます。決して渇くことのない、永遠のいのちへの水は、みことばと礼拝の中でいつも頂くことができます。それはイエス様を信じることです。今朝も、自分の罪を告白して、もう一度信仰に立つことです。これは何と大きな励ましのことばでしょうか。勝利に勝利を約束しています。決してあなたを見捨てず、あなたとともにいよう。心を強くして、勇敢であれ、勝利はあなたのものだ、と。信仰によって受け止めましょう。祝福の原則に立って、日々、熱心にみことばを聴き、礼拝に出席し説教を聞き、神を求めましょう。神の命令を守ることです。必ず祝福されます。

教会の鍵の権威とは?

2025年5月25日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイによる福音書16章13~19節
【新改訳2017】
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

<要約>
イエス・キリストは誰?:

私たちは自分の力では、イエス・キリストが神であり救い主であると告白することはできません。ですから、私たちは自分を誇ることができません。さらに「あなたはペテロ(岩)です。 わたしはこの大きな岩の上にわたしの教会を建てます。よみの門も教会に勝つことはできないとはどういうことでしょうか。黄泉の門、それは私たちの最後の敵である人間の死です。なぜなら キリストが その復活によって死を滅ぼされたからです。そして地獄のどんな恐ろしい力も、私の教会に打ち勝つことは出きません。」と言われました。教会はこの信仰告白の上に建っています。それは大きな岩であり、勝利を保証してくださっています。キリストご自身が保証人ですから、どんなにか確かなことでしょうか。私たちもペテロと同じように、神のことを思わないで、人のことを思っているということはないでしょうか。クリスチャンライフは自分中心ではなく神中心です。キリストは誰?と言う問いは、歴史を通して失われることはありませんでした。この問いは、あなたの生死を決定する問いです。殉教者たちはこの世のいのちは失いました。しかし、代わりにそれより素晴らしい永遠のいのちを得たのです。

幸いと勝利を保証する教会:

イエス様はペテロに天的権威を付与されました。キリストの代理権を与えたともいえます。最初に、これから形成される地上の教会のリーダーとなるペテロに語られました。しかし、それは、ペテロばかりではなく、続く教会のリーダーたちに与えられ継承されています。さらに教会の一人ひとりにも与えられています。では、鍵の権威の行使の第一番は何でしょうか。それは、罪の赦しです。罪の赦しによってキリストにつなぐことに対して、鍵の権威の行使のもう一つは、キリストを拒み、悔い改めない者を罪に定めることです。当教会は小さな群れですが、お一人お一人に神の賜物が与えられています。そして、この大いなる権限が委ねられているのです。イエス様に代わって、当教会は、信じる皆さんお一人お一人に幸いと勝利を保証しています。ですからハレルヤチャペル滝沢は幸いと勝利の教会です。そして、神はあなたに人生の幸いと勝利を保証してくださいます。