聖書が証していること

2019年2月17日(日) 主日礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書18章31~34節
18:31 さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。

<要約>

主に素直に心を開きみこころを知る:

弟子たちには、イエス様が十字架で殺されるということを受け入れることができませんでした。ここでの弟子たちの気持ちは理解できますが、人間の思い込みと固定観念が神のみこころを知る妨げになるのです。自分の思いを後において、素直になって、イエス様に、あるいは聖霊に心を開くことが大切です。私たちは聖霊の時代を生きています。そして、聖霊により聖書のことばを理解する力が与えられています。ですから、毎日、聖霊様に心を開き素直になって、みことばから聞きましょう。デイリーブレッドも是非、利用してください。

復活の希望による前向きの人生:

旧約聖書は、イエス・キリストの受難と復活を予告しています。キリストの受難は勝利であることを示しています。復活は個人の救いの完成といえます。ですから、イエス様を信じている私たち信者は、もっと復活と永遠のいのちに希望を置いて今を前向きに生きるのです。創世記12章では、神がアブラハムを選びました。そして、神はアブラハムに選びと祝福の約束をお与えになりました。神は全世界のすべての民族を祝福するためにまずイスラエル民族を選びました。それは、イエス・キリストに至り、全世界の国民は祝福を受けています。神のロードマップに従って聖書を見る時に、どのように世界と、そしてイスラエルとかかわったらよいのかが分かります。

イスラエル再生に参加し隣人に祝福を届ける:

1948年5月14日、1900年間の空白の時を超えて、再びパレスチナの地にイスラエルが建国したのです。今、人口は約600から700万人に増加しているのです。70年間で十倍にも増大したのです。ユダヤ人の祖国帰還が完成する時が来るでしょう。神のロードマプにあるイスラエル民族の救いの約束は必ず成就します。また、神の計画は、あなた個人にも及んでいます。あなたへの神のご計画は、わざわいではなく、あなたに将来と希望をあたるものだと語っておられます。私たちは、神のご計画とみわざに参加するように召されています。今まで、自分とは関係ないと思っていたイスラエルの祝福のために祈ること、そして、あなたが、あなたの隣人に対して祝福を届ける器であることを自覚して実行することです。 o

からし種一粒ほどの

2019年2月10日(日) 主日礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書17章1~10節

<要約>

イエスのしもべとして罪を赦す:

つまずきが起こるのは避けられないとイエス様は言われます。つまずきという言葉は、人々を信仰から離れさせるような言葉や行為を一般には指します。また、注解書には罪への誘惑と書いていました。ですから私たちは、主の祈りで「わたしたちを試みに合わせないで、悪からお救いください」と祈ります。その度にイエス様はあなたを罪の誘惑から守ってくださいます。罪の誘惑は避けられない。だからと言って、小さなものたちの信仰を失わせるような罪の誘惑を引き起こしてはいけない。人を罪に誘い込むような者が非難されずに済むということはないというのです。弟子たるものは人につまずきを与えないように、自分自身の罪に注意していなければならないというのです。罪の誘惑から遠ざかるように注意しなさいというのです。さらに、あなたの兄弟、すなわち信仰の友である他の弟子たちについても、お互いに罪に注意しなさい、そして、もし兄弟が罪を犯したのなら彼を戒めなさい、というのです。それは、自分についても、さらに仲間の罪についても無関心ではいけないということです。もし、友があなたに対して罪を犯してもあなたに向かって悔い改めるなら、赦してあげなさい、さらに、一日の中に7回罪を犯してもその都度あなたのところへ来て悔い改めるなら、赦しなさいというのです。すなわち、無限に赦しなさいというのです。キリストの十字架の赦しが無限の赦しであるのと同様に、私たちクリスチャンは赦す人たちであるからです。

不可能が可能となる信仰をいただく:

指導者になるためには偉大な信仰が必要であると思ったでしょう。その為に、使徒たちは「わたしたちの信仰を増し加えてください」と願ったのです。彼らは信仰を量として捉えていたようです。それに対して、イエス様は「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」と言われました。イエス様は、ちっぽけに見えても、やがて大きな木になるからし種を例にあげました。すなわち、信仰は量ではなく質の問題であることを示したのです。イエス様は、信仰において不可能はない、と言っておられるのです。純粋な信仰が神のみ心にかなったなら、この世の考えや経験では不可能と言えることでも達成できるのです。私たちが純粋で磨かれた信仰を得るために、パウロは良い示唆を与えています。Ⅰテサロニケ人への手紙に書いています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と、三つのことが書いています。初めに、絶えず祈りなさいです。祈りは呼吸です。祈りでは、「天のお父様」と神に呼びかけます。そのとき、あなたは気づくでしょう。全知全能の神がお父さんと呼べる親しい関係にあることに。そして、神が自分のようなものを子としてくださった事に驚くのです。毎日神の前に出て、この感動をいただくのです。ありがたくて、感謝と喜びに満たされるでしょう。次に、すべての事に感謝しなさいです。すべてのこと、あなたを取り囲む状況が良くても悪くても感謝しなさいというのです。状況がなかなか開けなくても、意志を働かせて感謝し続けるのです。神に感謝している時に、あなたは、気付きます。あなたが神を信頼していることに。そして、神は全能者で不可能を可能にしてくださる神であることを信じるようになります。そしてその時、神はあなたの祈りに何らかの形で答えてくださっていることに気付きます。そして、いつも喜んでいなさいです。あなたは喜びに満ちるのです。あなたが、喜んでいる時、周りの人も感じるでしょう、あなたが幸せであることに。ですから、この三つのことを心にとめて、実行していきましょう。喜び、祈り、感謝は正の相関です。それが正の循環となり、信仰が成長し、山をも動かすのです。

当然を当然としない神の愛:

彼らには純粋な信仰が与えられて、彼らは主の業に励むようになりました。そして、ペテロやパウロには山を動かすの程の信仰が与えられたと言ってもよいでしょう。彼らは病を癒したばかりでなく、死人を生き返らせました。悪霊を追い出しました。そのような信仰と賜物を与えられた人間が、ついには高慢になりやすいことをイエス様はご存知で、注意を与えております。しもべが耕作や羊飼いをして帰ってきても、そのしもべに主人は「さあ、さあ、ここに来て食事をしなさい」とは言いません。反って、主人の食事の給仕をして終わった後に、自分の食事をしなさいと言います。しもべが言いつけられたことをしたからと言って、そのしもべに感謝することはないのです。しもべに恩を感じることはないのです。ですから、しもべである弟子たちには「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさいと注意をしたのです。これは、しもべとして当然なことです。しかし、神はこのように当然のことを当然のこととなさらないのです。ルカの福音書12章に、この記事と反対のようなことが書かれている記事がありますので、見ましょう。「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」主人が帰ってきたら待っていたしもべに主人自ら給仕をして食べさせるというのです。ここに、福音の真理があります。私たちは、自らの罪のために当然滅ぶべき存在です。しかし、神は御子イエスを私たちの罪のなだめの供え物としてくださいました。私たち人間に代わって罪の裁きを受けてくださったのです。そこに、当然を当然としない神の愛があります。最後に、神ご自身が私たち信者を天の祝宴に招いてくださるのです。からし種の信仰をいただくのは、難しいことではありません。いつも喜んでいること。絶えず祈ること。すべての事に感謝することです。この三つのことを守るなら必ず、あなたは、幸せになり、祝福された人生を歩むのです。


不正の富とは

2019年2月3日(日) 主日礼拝 礼拝説教 森田友明牧師

<聖書>ルカの福音書16章1~13節、16節
16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
16:2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
16:3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。
16:4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、
16:6 その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。
16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい』と言った。
16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
16:12 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
16:13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」


16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。

<要約>

神の富は神の愛と赦し:

主人は管理人に会計報告の提出を迫ります。すべての人は死後、神の前に立たされます。それぞれが十戒に照らして罪の清算が行われます。もし罪の代価が支払われていないのであれば、その人は永遠の滅びに落とされるのです。「御子イエスの血は、すべての罪から私たちを清める」と書いています。ですから、私たちは、負債が支払われた会計報告を神に提出できるようにしなければなりません。この管理人は、主人の債務者たちの借金を勝手に減免しました。彼は、主人の富が無限に近いことを知っていました。神の富、それは神の愛と神の赦しと言えます。神は無限の愛をもってすべての人のどんな罪をも赦すことができるのです。

抜け目なく賜物を用いて宣教する:

光の子である私たちに主人が託している財産とは何でしょうか。それは、十字架の罪の赦しの福音です。私たちは、この管理人のように、この神の富である救いの福音をどのように、人々に伝えているでしょうか。「自分のために友を作りなさい」は宣教を意味しています。神はあなたが賜物を宣教のために用いるなら、あなたを天の御国に向かい入れるというのです。ここで神は富に注意しなさいと言われます。なぜなら、富は私たちが心の中心に置いてしまいやすいものだからです。神よりも重んじてしまいやすいものが偶像です。神を心の中心に置かないで、自分を中心においていれば、それは自分が偶像になります。

イエスを信じ神の国に入る:

旧約の時代は、イスラエルの民は救い主の到来を待ち望んでいました。救い主イエス・キリストが来られて、新しい時代に入りました。神の国に入る条件は、イエス・キリストをあなたの救い主と信じるだけでよいのです。イエス・キリストによる救いの福音は、全世界、すべての人々に届けられようとしています。そして、「だれもかれも、無理にでもこれに入ろうとする」時代となったのです。特にこの不正な管理人のように神の国に入ることがどれほど価値のあることかがわかるとすぐにでも押し入ろうとするのです。この福音がいかに価値があり、この世のいのちより大切なものであることが分かれば、あらゆるものを後回しにしてもこれを得よと努力するのです。