大義に立つ戦争

2018年09月 30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記14章1~24節
14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、
14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。
14:3 このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。
14:5 十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
14:6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。
14:7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。
14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。
14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。
14:11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。
14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

<要約>

神の栄光のために用いる自由

アブラムは、彼から報告を受けロトを救出する決意をしました。アブラムは彼の家に生まれたしもべ318人を招集しました。それに、アネルとエシュコルとマムレの兵士たちを加えておそらく、500から1000人程度の軍隊となったと想像します。もちろん隊長はアブラハムです。しかし、ケドルラオメルの軍隊とは軍備ではかなわないとアブラハムは考えていたことでしょう。しかし、彼らは目的を果たして、帰途にあったことから油断していたことでしょう。そこで、夜襲をかける作戦を取りました。後に、ギデオンが少数の兵士で、深夜に圧倒的多数のミデアン人を打った時のように、何よりも主が加勢してくださって夜襲は大成功を修めました。アブラムはロトの家族や財産と大勢の人々を取り戻したのです。ケドルラオメル連合軍を打ち破って、ヘブロンへ帰る手前で、王の谷と言われるシャベの谷まできた時に二人の王がアブラムを出迎えました。シャレムの王メルキゼデクとソドムの王です。シャレムは現在のエルサレムです。シャレムの意味は平和です。平和の王メルキゼデクは戦争で疲れたアブラハムとその連隊に必要なパンとぶどう酒を持ってきて彼らの労をいたわりました。また、何よりも神の祝福の言葉を携えて来たのです。アブラムは、今回の戦争の大義を考えていました。当時は、戦争は自国の理のために、自分より弱い国を支配し、略奪して、国益増強のためのものでした。しかし、アブラムの戦いの目的はそれとは全く違っていました。それは、甥のロトの救出でした。ですから、アブラムは、今回の戦争は自分の財産を増やして勢力を張るためではなかったことを自分に言い聞かせていたと想像します。アブラムは多くの戦利品を携えての凱旋でした。それだけに、自分の行動の大義を考えていたところでした。アブラムはエジプトでの失敗を思い出していました。エジプトで妻のサラを妹であると言って偽りました。サラの美しさゆえにパロは宮廷にサラを召し入れました。そしてそのために、アブラムはパロから多くの家畜や多くの男女の奴隷をもらい富んだのです。しかし、それは、神への罪でした。その事があって、今度は、アブラムは自分の行動の動機を吟味して、神の承認を得たいと思っていました。そのような時、いと高き神の祭司であるサレムの王メルキゼデクの訪問を受けたのです。メルキゼデクは、アブラムを祝福して言いました。「天と地をつくられた神が、アブラムの敵を彼に渡された。いと高き神に誉れあれ。」と。アブラムは、この戦いが神に覚えられており、神が勝利を与えてくださった事がはっきり認識したのです。そして、神に栄光を帰すことを教えられたのです。このように、アブラハムの信仰を受け継いだクリスチャンは自分の行動を吟味するのです。常にみこころかどうかということです。すべてことはやっていいのです。しかし、それらのことが益になっているかを吟味するのです。クリスチャンになるといろいろ制限を受けて自由がなくなると思っている方が多いと思います。実はその逆です。クリスチャンはどんなことにも支配されません。ただそれが、神のみ心に沿ったことかを吟味します。イエス様を信じてみことばに立って生活を設計するとすべてが秩序だって、何にも縛られない本当の自由を得るのです。そして、アブラムはメルキゼデクから神に栄光を帰すことを教えられて、アブラムはすべての財の十分に一を彼に与えたのです。そこにアブラムの神への献身があります。このようにアブラムは戦利品を自分の富とすることもできたのですが、ロトの救出と言う大義に立ち神に栄光を帰したのです。

神からの祝福と悪魔の誘惑

メルキゼデクの訪問に対して、次の、ソドムの王は、アブラムに言いました。「人々は私に返して、財産はあなたがとってください」と。ソドムの王は、邪心をもってアブラムに近づいたと思われます。取引を持ち掛けます。彼には、エラムの王ケドルラオメルからの脅威がなくなりました。その分、アブラムが逆に目の上のたん瘤のように今後脅威となる存在となりました。そこで、彼は、富をアブラムに与え、アブラムを富ませたのは自分であるという思いをアブラムに刻み込もうとしたのです。それは心理作戦です。次には巧みにアブラムを邪悪な誘惑に誘い、アブラムをはめて弱みを握り、自分の支配下に置こうと考えたのです。アブラハムは、そのことに気付き、ソドムの王の申し出をはっきりと断るのでした。二人の全く違う王の訪問は何を意味しているのでしょうか。それは、何か一大事を成し遂げた後に来る神からの祝福と悪魔の誘惑です。私たちも一つの事業なり、計画なりを実行した後、それがうまくいったときに二通りのことがやってきます。それは、一つは神からの祝福です。そして私たちは、神に栄光と誉をお返しするのです。もう一つは自分の手柄を覚えて高慢になり、自分に栄誉を帰そうとする誘惑です。ソドムの王の申し出は悪魔の誘いでした。アブラムはソドムの王の申し出をきっぱり断り戦争で戻したすべての者を彼に返しました。よく言われるのは、霊的に一番危ないときは、何かを成し遂げた時だと言います。悪魔はあなたの心にささやきます。その時、私たちは神に申し上げましょう。『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と。

クリスチャンは万人祭司:

メルキゼデクは、キリストではありませんが、キリストの型であります。メルキゼデクは、王であり祭司でした。キリストも王であり、祭司の職務を担っていました。祭司の職務は、とりなしです。人を神に執り成すことです。当時では、罪の贖いの代価として、傷のない動物をいけにえとして神に捧げました。キリストはご自身を人の罪の贖いの代価として、ご自身のいのちを犠牲におささげ下さいました。そして、今も、キリストに来るものを神に執り成し、罪の赦しをご自身の十字架の贖いにより宣言しているのです。アブラムには神のことばが与えられて、その時に祭壇を築きいけにえを捧げて祈りました。それは、神への礼拝行為でした。私たちクリスチャンも礼拝の民と言われています。昔の人は、祭壇を築き神に礼拝しました。現代の私たちは、教会に来て賛美のいけにえを捧げ、自分の心と思いを主に捧げて礼拝します。クリスチャンは万人祭司であると言われています。つまり、すべてのクリスチャンは祭司としての職務を負っています。祭司は祭壇でいけにえの羊などの動物の血を携えて神のみ前に出ます。同様にクリスチャンは神の子羊であるキリストが十字架で流された血によって神の前に立つことができる存在です。そして、クリスチャンはすべての人の罪の贖いとなった神の子羊であるキリストにより、周りの人々のために執り成し祈る人々だからです。わたしたちも家族友人知人のために日々、とりなしの祈りをしましょう。

 

アブラハムの祝福とは?

2018年09月 23日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記12章1~9節
12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
<要約>

信仰を受け継ぐ祝福

「地上のすべての民族はアブラムによって祝福される」という預言があります。それは、アブラムの子孫のイスラエルに全人類の救い主イエス・キリストが誕生することによって成就しました。アブラムはすべての人々の祝福の基となるのです。ですから、キリストを信じるすべての人は、信仰によってアブラムの子孫となり、アブラムと一緒に祝福を受けるのです。神は、アブラハムを祝福し、その信仰の継承者であるクリスチャンを祝福するというのが神の約束です。私たちもアブラハムのように、神をどこまでも信頼していきましょう。

繁栄の祝福

アブラムの祝福の最初は、繁栄の約束です。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福しあなたの名を大いなるものとしよう」と言うみことばです。神はアブラムに土地を与える約束をします。そして、アブラムに子孫の約束を与えます。アブラハムの祝福を受け継ぐクリスチャンである私たちにも、神は天にある豊かなあふれる富をお与えになります。一国の帝王が、その子どもたちに自分の資産を相続させるのと同じです。アブラハムのように彼の地上での生涯の中では、その富を見ることがなかったとしても、天には多いなる宝が積まれているのです。

罪の赦しと永遠のいのちの祝福

聖書を読むと、神の二通りのお姿を見ます。一つは怒りの神です。神は焼き尽くす火、と書いているようにそれは恐ろしい、罪や悪に対しては容赦のない裁きを下される神です。もう一つのお姿は、やさしい、やさしい父親のようなお姿です。神の祝福は、罪の赦しと永遠のいのちです。それは、アブラハムの子孫イエス・キリストにより与えられるものです。律法の呪いから贖い出されたということです。神は罪のない神のひとり子を呪いの十字架にかけることを良しとしました。そして、神の全人類の罪に対する怒りを代りに御子の上に落とされたのです。ですから、キリストの十字架の贖いを信じる者には神の怒りはもう及ばないのです。彼らには、神の祝福しか及ばないと言えます。怒りの神のお姿は消えました。そして、もう一方の優しい愛の神のお姿があるのみです。

 

信仰が希望を保証する

2018年09月 16日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

 

<聖書>創世記11:10~26 へブル書1:1~6

11:10 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。
11:11 セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:12 アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。
11:13 アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:14 シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。
11:15 シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:16 エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
11:17 エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:18 ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。
11:19 ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:20 レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。
11:21 レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:22 セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。
11:23 セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:24 ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。
11:25 ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。
11:26 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

ヘブル
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

<要約>

受け継いだ信仰にとどまる

このセムからアブラハムまでの系図は何を物語っているのでしょうか。それは信仰です。真の神への信仰がノアからセムと子孫に受け継がれたことを語っています。神は救いを信仰と言う手段で受け取ることを勧めています。へブル書には、「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。望んでいる事柄が必ず実現すると信じて、みことばを握っていくのです。信仰にとどまり続けるためにはどうすればよいでしょうか。それは、みことばと交わりです。毎週礼拝に来て、みことばを聞き交わりを持つことです。私たちが救われたのは、信仰が人から人へ受け継がれたからです。私たちも信仰にとどまり、受け継いだ信仰を次の人々へ継承していく勤めがあるのです。

向きを変えて神を仰ぐ

カインはアベルを妬み、殺しました。最初の殺人事件の動機は妬みでした。妬みは最も誰もが抱く罪です。自分にないものを欲しがるむさぼりからくる罪です。人を不幸に落とす最大の罪です。妬みは破壊的な悪の力を誘導します。妬みから解放されるように、私たちは常に神から与えられているものに満足して感謝していくことです。罪から守られるためにはどうすればよいのでしょうか。常に悔い改めることです。悔い改めは反省とは違います。後悔とも違います。悔い改めは、向きを変えることです。キリストの十字架を見上げて罪の赦しをいただくのです。

信仰によって大きな希望に生きる

主の祈りで、私たちは「御国が来ますように」と天国の到来を祈ります。「御国が来ますように」と言うのは、永遠の神ご自身に国ごとこっちに引っ越してきてくださいと言うような祈りです。これはあまりにも大きな願いです。もしイエス様がそのことを求めるように教えて下さらなかったならば、人間の心は、それを望むなど到底思いもつかないものです。イエス様は、父なる神に何でも求めるように私たちに教えています。私たちは自分では大それたと思えるような願いでもキリストにあっては大いに求めてもいいのです。いな、求めるべきなのです。神様は私たちを祝福しようと耳を傾けておられます。

 

降りて来られた神

2018年09月 09日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記11章1~9節
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
<要約>

神中心から人間中心になった社会;

洪水後、船から出たノアの家族は「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の神の祝福を受けて人数も増しました。彼らはシヌアルの地へ移動していきました。最初の権力者となったニムロデは「主のおかげで力ある猟師となった」とあります。ニムロデは、主によって賜物を与えられて、地を治め、人々に平和と安全を与える役目を担った最初に人物でした。しかし、なんという皮肉でしょうか。ニムロデはこの後、バベルの塔事件を起こし、さらに後に、繁栄と堕落を極めたバビロン王国の始祖となったのです。ニムロデは、本来はそれらの能力を用いて世の人々に仕える役割を与えられたのです。しかし、残念ながら高慢となり、逆に人々を扇動して神に敵対するために立ち上がったのです。それが、バベルの塔の事件です。

正すために降りてこられた神;

「主は人間が立てた町と塔をご覧になるために降りてこられた」とあります。神は、ご覧になり、「今や、人間がすることはとどめられることはない」といわれました。人間は自分の知恵や力を結集して、神に反逆しようとしたのです。人は一つになって、神に敵対し無軌道な歩みしてしまいます。彼らが滅ぼしつくされないように、神は言葉を混乱させました。これは、神の配慮です。創造主なる神を無視して歩むときに人間は高慢となり、自分中心となり自滅の道を進むのです。神は言葉を混乱させて、バベルの塔建設を押しとどめました。私たちの人生も神中心にあるべきです。人間中心の世界には救いはありません。神のご支配をこの世に及ぼすために、キリストは見せかけの平和を打ち砕かれたのです。

救うために降りてこられた神

神はもう一度人間社会に降りてきてくださいました。それがクリスマスです。神が人となって来てくださったのです。イエス・キリストは、あなたを罪と死と悪魔から救うために来られました。神は、言葉を混乱させて人々を散らされたのとは反対に、キリストにより全人類を一つの国民一つの民にしたいと願っています。サタンの支配からキリストの支配に取り戻そうと願っておられるのです。私たちはそのために先に救われたのです。

 

 

 

ノアと洪水

2018年09月 02日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記6章1~22節
6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。
6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。
6:15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。
6:16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。
6:17 わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。
6:18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。
6:19 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。
6:20 また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。
6:21 あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

<要約>

見えるものに傾く人間;

「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、」と言う文章があります。「神の子ら」は何かと言うことです。これは主にセツの子孫で「神を信じる者」つまり信者を指していると考えて良いでしょう。人の娘というのは、主にカインの子孫で神を信じない人々の娘です。信者たちは、不信者の娘たちに心ひかれたということでしょう。信仰で物事を判断しなくなった姿勢、信仰を大切にしなくなった姿がうかがえます。そこに、目に見える物に傾く人間の姿があります。ネフィリムは昔の勇士で名のある者たちであるとあります。ネフィリムは「落ちる」という意味があることから、堕落した者たちをさしています。これは、主にカインの子孫であったと思われます。これは、巨人であり、力があり、勇士であり、名のある者、すなわち、権力や勢力を持った人間でした。人々が目に見えない神よりも、目に見える力ある人に心惹かれて行ったのです。信者たちも信仰の事より世の事に心を奪われるようになりました。目に見える物に傾く傾向です。心の目は曇ってしまし、肉の目で見える物しか、知ろうとしなくなります。人間は、神を追い出して、神なき世界を作り出していくのです。それは、神を追い出して人間中心の世界を築き上げてきた人類の姿です。「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」のを神はご覧になったのです。神から離れた人間は、神を恐れ、愛し、信頼することがなくなります。善悪の判断基準は自分にありますので、自分中心の生き方になります。それぞれの人々が、自分中心になれば、必ず、争いが起きます。神は私たちを愛の対象として創られました。土から創られて、鼻から神の霊を吹き込まれたのです。そして、人間は神に似たものとなったのです。しかし罪が入り、人は御霊を心の内から追い出してしまったのです。人間は御霊に聞き従うより、肉、すなわち罪の性質に従うことを選択して生きるようになりました。いつしか、神の存在を認めなくなったのです。私たちクリスチャンは、聖霊をいただいた者たちですが、肉といわれる罪の性質が残っています。もし、御霊によって生きなければ肉によって生きることになります。ついには、聖霊を追い出してしまうのです。日本では、洗礼を受けてクリスチャンになっても、信仰の破船に会い、教会から離れて行く人々が多くあります。聖霊に聞き従うより、自分の肉に従う人々です。このように現代の多くの人々は、神の存在がわからない、神がおられることも認めないのです。これは神を離れていく人間の姿ということができます。何度も神は悔い改めを迫ったでしょう。実際、箱舟を建造する数十年の期間を用いて、ノアは宣教したことがうかがわれます。しかし、聞く耳を持たなかった人類に、ついに裁きの時が来たのです。7章を見ると雨が降り始めたその日にノアとその家族は箱舟に入りました。あらゆる動物たちも中に入りました。その時も、箱舟の扉は空いていたのです。人々は招かれていたのです。7章16節で、最後に神が後ろの戸を閉められたのです。神の忍耐とあわれみは大きいことを知ってください。また、最後に後ろの戸を閉めなければならない神の痛みと悲しみを知ってください。

見えない神を第一とするノア;

「ノアは正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」と書いています。正しい人、というのは、神との関係において正しいということです。神との関係において正しいことと、人との関係において正しいこととは必ずしも同じではありません。ノアは神との関係をいつも第一としていたのです。人生は選択の連続です。何を選んで進んでいったらよいか迷うこともあります。その時はまず、神との関係を第一とするのです。最善の道が開かれます。どうしたら、御心を知ることができるでしょうか。神のみこころはどこに表れていますか?十戒に表れています。ですから、原則的には十戒に照らして、みこころかどうかを判定します。このように、ノアは神様との関係を第一としてその信仰を認められた人です。私たちも、ノアのように神様との関係を正す必要があります。

信仰によって義とされる人生

神は「わたしはあなたと契約を結ぼう」とノア一人を指して誓われました。神は一人の人ノアに人類救済を託したのです。ノアの信仰についてはへブル書11章を見てみましょう。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」ノアは箱舟で水を潜り抜けて救われました。そして、信仰によって義とされました。彼は、箱舟をつくって、人々をそこに入るように招いたものの、世の人々は不信仰になり、神の警告を聞きませんでした。その事により世は罪に定められたのです。神はノアを選び、契約を結び、彼に人類救済を託しました。同様に、神は私たちクリスチャンを選び、約束を与えて、他の人々の救いのために遣わしてくださっています。ノアの時代の人々は、箱舟に救いがあることを信じないで滅びました。同様に、イエス様の十字架に救いがあることを信じない人は滅びます。なぜなら、十字架の救いの道が提供されているからです。十字架を信じれば救われるのです。しかし、十字架を信じない人は罪に定められます。不信仰によって罪が明らかにされるのです。ノアは、その時代の人々にとって、浮いた存在だったでしょう。私たちクリスチャンも信仰を守ろうとするとき、世にあっては生きづらいこともあるでしょう。しかし、ノアのように神を恐れ、神を愛し、神に信頼していくならば、ノアのように必ず、大いなる祝福を受け継ぐものとなるのです。