信仰と行い

2025年12月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
罪による断絶と信仰による回復

神が最初に創られた世界では、創り主である神が中心におられて、人はその下で、神は人を愛し、人は神を愛し、また神が愛している隣人を愛し、隣人もその人を愛する、愛の循環する社会でした。しかし、人は悪魔にそそのかされて、高慢になり自分を神の上に置こうとしたのです。神の戒めを破り罪が入り、堕落しました。そして、神に敵対する関係になったのです。愛と信頼の関係はうしなわれました。そして、逆に、敵意と憎しみの世界になってしまったのです。罪は神と人との関係を断絶させました。しかし、十字架により、人は神と関係回復しました。罪により、すべての人は、神と敵対関係になっていたからです。キリストの十字架の死によって、罪に対する神の怒り、つまり敵意は取り除かれました。そして、敵意と憎しみは、愛と信頼にかわり、すべての人は神と関係回復するのです。つまり、義とされ、神の子、御国の世継ぎとされ、永遠のいのちをいただくのです。

良い行いに召される:

クリスチャンは基本的には、自分を救うことから解放されています。だから、いのちについて悩まなくてよい、心配しなくてよい、天のみ国に帰るところが用意されている、最終的に神が責任取ってくださるからです。この世の中では、世の光として輝くだけです。

ですから、「私たちが良い行いに歩むように」というのは、クリスチャンとして、この世の中で、ベストを尽くすようにということです。神を愛し、隣人を愛するのです。与えられた場所で、隣人によりよく仕えるのです。まず、神は思いと力と精神を使って、あなたの神を愛しなさいと命じています。これは、週一回の礼拝を大切にしなさいということです。そのベースに立って、私たちは、教会、家庭、職場あるいは学校に遣わされているのです。

良い行いに召されると題してお話ししました。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神に義とされ、罪と死と悪魔から救われています。また、私たちはキリストにあって再創造された神の作品であって、神の備えてくださったところでよい行いに進むのです。それぞれ召されたところ、遣わされたところでベストを尽くすのです。隣人への愛を自分に課していくのです。

<聖書>ローマ人への手紙4章18~25節、エペソ人への手紙2章8~10節
【新改訳2017】

4:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。

4:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、

4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

4:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。

4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、

4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。

4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

エペソ2章8~10節

2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

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