イエス・キリストの洗礼

2025年11月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明


<要約>
悔い改めて神と向き合う:

バプテスマのヨハネは、悔い改めを説きました。聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に人は罪を犯すものだと。聖書には、すべての人は罪を犯したから、神の栄光を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪です。これこそが、神との関係を失っている状態です。その様な状態では「神の栄光を受けることができない」と聖書にあります。それは、神はあなたを心配して祝福しようとなさっているのに、あなたは知らん顔して、そっぽを向いているという状態です。イエス様を信じる前に、私たちは自分の罪に気付かなければなりません。罪に気づいたならば神と向き合うのです。そして、罪を悔い改めて洗礼を受けます。自分の罪が分からない人は、イエス・キリストの救いもわかりません。実にイエス様は私たちの罪を取り除くために来られたからです。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

イエス様の救い主としての任命;

イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。その光景をヨハネは目撃しました。これは、メシヤの任命でした。神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されるのです。イエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これからすべての人の救いのわざに立ち上がったことを神は喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。神は人が罪のために滅ぶのを惜しんでおられます。御子が身代わりとなって、あなたの罪の裁きをその身に負われたのです。イエス・キリストを信じた人は、洗礼を受けなければなりません。人が、水で洗礼を受ける時に聖霊を受けるのです。聖霊は目に見えませんが、生ける神です。生ける神が私たち一人ひとりの中に入り住んでくださるというのです。その時、古い人は死んで新しい人に生きるのです。私たちは生まれ変わるのです。悔い改めるということは、原語の意味からは、「思いを変える」ということです。自分の内側に目を留めるのではなく、自分の外で招いてくださる真の医者であるイエス様を見上げましょう。

<聖書>マルコの福音書1章1~11節
【新改訳2017】
1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

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