福音の再発見

2025年10月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神の義というプレゼント:

義のプレゼントはどこから来るのでしょうか?それはキリストの十字架によります。罪のない神の独り子がすべての人の罪を背負い身代わりとなって裁かれ十字架で死んでくださいました。それにより、すべての人が裁かれず、義とされる道を開いてくださったのです。私たちは誰でも生まれながらの罪人です。ルターは気づきました。人間には、本質的に邪悪なものがあること、人間の性質そのものが腐敗しているのだ、と。ルターは人間の一切が罪の赦しを必要としていることを悟ったのです。神は、神の義をプレゼントとして罪人にお与えになりました。私たちはそれを信仰によって受け止めるだけでいいのです。信仰によって義と認められる、これを信仰義認と言います。これは神が主導で一方的に備えてくださった救いの道で、恵です。この発見をしたルターは、自分は全く新しく生まれ変わった。聖書の戸が開かれた、と告白しています。これが福音の再発見でした。

信仰によって働く神の力:

ルターはこの世のどんな権力によっても奪われることのできない自由を得ていました。神のことばに捕えられた良心に従いました。人間の良心は移ろい安く、権力や状況によって曲げられることもしばしばです。神のことばに絶対的な信頼を置くならば、真理があなた方を自由にします。福音は神の力であり、最強の力です。それは悪魔の力、罪の力、死の力にも打ち勝ちます。最強の力です。それこそ、全知全能の神の力だからです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。罪の呪いは、イエス・キリストが十字架の上で飲み干し死んでくださいました。私たちすべての人の罪の裁きを身代わりとなって、イエス様が受けてくださったのです。ですから、私たちには罪の呪いは及びません。そのことを受け止めて、信じる者は、キリストが復活したように復活のいのちにあずかるのです。ルターは福音を再発見して、信仰によって働く神の力を体験しました。福音は輝きを取り戻しました。福音は信じるすべての人を救う神の力です。福音を知らないために多くの人々は未だに罪の暗闇の中にいます。先に救われた私たちは、福音を家族や知人の届けるために召されているといえます。

<聖書>ローマ人への手紙1章1~17節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました──
1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

いのちの水の川

2025年10月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
幻の神殿は復活のキリスト:

この幻の神殿は復活したイエス・キリストを指しているといえます。この象徴的なエゼキエルの幻は、私たちの罪を贖うために十字架で死んだイエス・キリストが、復活して、生ける神殿となったことで成就したと言えます。死海の水が良くなり、この川が流れゆくところはどこでも、生物は生き、魚は非常に多くの群れをつくるというのです。そして、この水によってすべてが生きると書いています。その神殿から流れるいのちの水は聖霊ということができます。イエス様を信じる人は、その人の心の奥に生ける水の川が流れ出るようになるのです。しかし、死海の一部の沢と沼は水が良くならないで塩のまま残ると書いています。これは、何を意味しているのでしょうか。神殿から流れるいのちの水を引かないところは、依然、塩のまま残る、つまり、いのちを得ていないというのです。いのちの水であるイエス・キリストを信じて歩む人には、いのちの回復と豊かな祝福と繁栄が約束されています。しかし、イエスを受け取らない人は依然、死の状態でやがて滅ぶというメッセージを読むことができます。ここにある死海は私たち人間社会を暗示しています。神なき世界、それは人間中心主義の世界、罪と死と悪魔に支配されたこの世です。神はそこにいのちをお与えになります。

回復と救いの完成:

この幻はイスラエルの回復と救いについて預言です。神のご計画によると、キリストの福音は、イスラエルが拒んだために、異邦人に届けられました。異邦人に受け入れられて、最終的には約束により、ユダヤ人に至るというのです。イスラエルをあわれみ救いに導いてくださいます。すなわち、ユダヤ民族に救いが成就します。今は、異邦人の時代です。福音がユダヤ人以外のすべての民族に伝えられています。この時代が通過すると再び、イスラエル人に救済が戻ってきます。そして、世の終わりの時に起こることは、完全な神のご支配です。世の終わりは、キリストの再臨の後に起こります。神のみ座が現れ、苦しみ、悲しみ、涙もない、完全な平安と喜びが待っています。イエス様を信じて、神との和解をいただき、今は、赦しといのちに生きるものとされました。やがては天の御国に招かれています。先に救われた私たちはその祝福を家族知人に届ける器とされています。そのために皆さんお一人ひとりが豊かに用いられますようお祈りいたします。

<聖書>エゼキエル書47章1~12節
【新改訳2017】
47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
47:2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

献金は信頼と献身の表れ

2025年10月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
最高権威者、圧倒的勝利者キリスト:

イエス様は十字架により私たちを罪と死と悪魔から解放して、完全にお救いになります。圧倒的な勝利者として今も、神の右の座につかれ、世の終わりにもう一度来られて、すべての悪を滅ぼし、信じる者を死と滅びと悪魔から救い出してくださるのです。キリストはダビデの家系の中に組み込まれダビデの子孫としてお生まれになりました。しかし、イエス様の証言から、イエス様は真の神でした。そして、神が処女マリヤが聖霊により身ごもり誕生したのが、イエス・キリストです。そのことからイエス様は罪のない神の独り子と呼ばれます。ですから、私たちはイエス様に全き信頼を置いて、すべてを委ねて安心して歩んでいいのです。今の困難や苦難はやがてキリストにより圧倒的な勝利にのまれます。この方に信頼して、安心していきましょう。私たちに必要なのは、もうしばらくの忍耐です。

外面を繕う律法学者と貧しいやもめ:

イエス様は献金箱に献金を投げ入れる一人の貧しいやもめをご覧になり、神に信頼し、全てを委ねるその貧しいやもめを神は大変喜びお褒めになりました。自分の身体もいのちもすべてを神が支えてくださるという信頼に基づいた行動です。ここではっきりわかることは、献金は額でないということです。しかし、神の求めるものは、献金で表される献身と神への信頼です。神は、私たちの罪を赦し私たちを永遠の滅びから救い出してくださいました。この大きな恩恵に対して、溢れるばかりの感謝を捧げることです。献金は神の恵みに対する感謝の応答です。大切なのは、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」喜んで感謝して捧げることです。アブラハム以来、イスラエルの民は持っているものの十分の一を祭壇のいけにえとしてささげるようになりました。また、それらは、祭司やレビ人の収入となりました。十一献金には大きな恵が伴います。人は献金することで、神への信頼が深まり、神の大きな愛とあわれみと助けを体験するのです。律法学者は、自分を正しく見せることをに注力しました。自分の弱さを隠し、傲慢になり、他の人を見下すような生き方です。それに対してやもめは自分の貧しさ、弱さを知り、謙遜でした。先のことがわからなくても神をどこまでも信頼していきます。不安定な現代社会で平安と感謝と希望に生きていくためには、人に頼る生き方ではなく、目には見えませんが、生きて働かれる神に頼って生きることです。

<聖書>マルコによる福音書12章35~44節
【新改訳2017】
12:35 イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。
12:36 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
12:37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
12:39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
12:40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」
12:41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
12:42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
12:44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」