ヨブの苦難から学ぶ

2025年8月31日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨブ記19章7~27節
【新改訳2017】
19:7 見よ。私が「暴虐だ」と叫んでも、答えはなく、叫び求めても、さばきは行われない。
19:8 神は私の道をふさいで通らせず、私の通り道に闇を置かれた。
19:9 神は私から栄光をはぎ取り、頭から冠を取り去られた。
19:10 神は四方から私を打ち倒し、私は消え去る。神は私の望みを木のように根こそぎにされる。
19:11 神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる。
19:12 その軍勢は一つとなって進んで来て、私に向かって傾斜路を築き上げ、私の天幕の周りに陣を敷く。
19:13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。
19:14 親族は見放し、親しい友も私を忘れた。
19:15 私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。
19:16 私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。
19:17 私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。
19:18 若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。
19:19 親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。
19:20 私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている。
19:21 あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。
19:22 なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。
19:23 ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、書物に記されればよいのに。
19:24 鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮がこのように?ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。

<要約>
苦難の意味と神の愛:

ヨブは、ついに、苦悩の中にいる自分を贖ってくださるお方、つまり代価を払って買い取ってくださるお方、その方は、土のちりの上に立っておられることを、見るのです。ヨブ自身と同じ土俵に立ち、ヨブと同じ姿となりヨブの弱さと苦悩を担って立っておられるお方です。ヨブは霊の目で見ています。それはまさしく、ヨブの苦難を共に背負い立っておられる救い主イエス・キリストです。神はヨブの信仰を試すために、ヨブがサタンの手にかかることをお許しになりました。そのことでヨブは苦難の中に陥れられるのですが、このことを通して神ご自身がいかなる方かをお示しになりました。神は私たちに無条件で御前にひれ伏すことを求めておられるのです。先が見えない、今の状況がどうなるか分からない、しかし、神に信頼していく、これがまことの信仰であります。この試練を通してヨブは神に近づくことができました。私たちは、順境の中でも逆境の中でも、神を信頼し続けることです。なぜなら、神はあなたを御子キリストをくださる程に、愛しいておられるからです。

苦難を通して成長し神の栄光を見る:

三浦綾子さんは語られました。「苦難と不幸は全く違う」ということ。脊椎カリエスで8年間もギブスベッドであおむけに横たわり寝がえりもできない生活を送られたのに、そのことで、自分は不幸だ、とはひとことも言っていません。その苦難を通して、キリストに出会い、救いの喜びに生きていたことが彼女の著書の中で証されています。私たち信仰者は苦難を通して成長してついには神の栄光を見るのです。福音の中にその力があります。罪のない神の御子キリストが、私たち人間の一切の罪とそれに伴う苦難や永遠の裁きを身代わりとなって担って十字架で死んでくださいました。キリストの十字架とそれに続く復活により、私たちの罪は赦され、裁きの代わりに永遠のいのちが与えられているのです。信じる者は無条件で神の恵みと祝福にあずかれるからです。神は苦労に対して必ず報いを用意してくださっています。死からも完全にお救いになることがおできになるお方は私たちのどんな状況の中からも救ってくださいます。クリスチャンになれば苦しいことも病気もなくなるというわけではありませんが、どんな状況の中でもこの揺るがない平安と満足が保証されているのです。

自由なしもべとして生きる

2025年8月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコによる福音書10章32~45節
【新改訳2017】
10:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

<要約>
先頭に立ちたい人間:

彼らには、大きな誤解がありました。弟子たちは、イエス様がイスラエルの王となって、かつてのダビデ、ソロモンが打ち建てた王国を再建して、大国の圧政から民を解放するために、今、エルサレムに向かうものと考えていたようです。そこで、イエス様は「あなた方は何を求めているかわかっていない」と言われました。人は、人々の中にあって栄誉を得たい、より上に立ちたいと思います。歴史は、人間同士の争いの歴史です。すなわち、権力を求めて争うのです。それは人の上に立って、人を思うように動かしたい、という人間の性質のためです。人間は神のために造られました。しかし、ある時、「あなたは神のようになれる」とサタンにそそのかされました。そして、神を押しのけ、神の立場に自分を置いたのです。それ以来、人類は人間中心主義です。そのように、背きの罪により、人間は神から離れて、自分中心に生きるようになりました。それが受け継がれた罪です。自分を優先していきたい、自分を先に立てたいという思いはそこから来ています。私たち人間の本質は自分が尊ばれて、持ち上げられたいのです。

しもべとなられた神:

万物をその御手の中に治めている神が、しもべとなり、仕えるものとなり、十字架でいのちを差し出してくださいました。それは、人間をあなたを死と滅びから救い出して真の人間として生きるためです。その動機は神の愛です。イエス様はしもべとして生きることの模範を示してくださいました。しもべは主人に束縛されて自由がありません。しかし、パウロは、クリスチャンは自由であると言っています。ルターは、キリスト者の自由という本の中で、以下のようにクリスチャンを定義しています。「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由の王であって誰にも服従しない。同時に、キリスト者はすべての者に仕えるしもべであって誰にでも服従する。」と。クリスチャンは、キリストを信じる信仰により、すべての罪が赦されて、罪の呪いから自由になっています。死からも自由にされています。この肉体は滅んでも永遠の命があります。それはまさしく自由の王だということです。ですから、その自由をもって、すべての人に仕えるしもべになることができるのです。何者にも強制されないその自由な意思をもって、神を愛し、人を愛するのです。

イエスの服に触れる女

2025年8月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコの福音書5章24~34節
【新改訳2017】
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

<要約>
罪により不確実となった人生:

私たちの生きている世界は不確実な世界ということができます。何が起こるかわからない、事故や戦争で突然の惨事に見舞われる人々のニュースを見て、明日は我が身かもしれない。なぜ、そのような惨事が起きるのでしょうか。もとをただせば、アダムの罪によるのです。アダムの罪によって、病気と死が人類に入りました。この女性にも、12年前に想定外のことが彼女の身に起こったのです。聖書は、希望の時の訪れがあることを示唆しています。その希望はどこから来ているのでしょうか。確かなものがあるからです。何でしょうか。それは、「神はあなたを愛している」ということです。神の子イエス・キリストを通して、神ご自身の愛を示してくださいました。それは最も確かなことです。キリストは、罪のために不条理、不確実の中に陥れられた人間を救うために十字架で死んでくださったのです。私たちは、その神が提供した罪の赦しを受け取り、永遠の命を自分のものとすることができます。私たちの人生においても予期しないことが度々起こり先が見えなくなり不安になります。しかし、キリストの救いが与えられています。主を信じるものは個人の人生においても、やがて来る世の終わりの時も、神の絶対的な主権の中で、すべてが喜びと希望と感謝に変えられるのです。

信じてイエス様に近づき救われる:

彼女は失望に失望を重ねてきた女性でしたが、イエス様なら自分の病を治すことができる、お着物にさわるだけでも、きっと治ると信じたのです。わたしたちは、この女性の必死に神を求める信仰の姿勢を学ぶ必要があります。彼女の心はイエス様で満たされていたのです。「あなたの信仰があなたを救った」とありますが、これは、単に病気が治ることばかりでなく、全人的な救いをお与えになったことを意味します。彼女は信仰によって病ばかりでなく、罪の赦しと永遠の命をいただいたのです。これがイエス様のお与えになる救いです。罪の赦しと永遠の命です。この後、イエス様が、十字架にかかり人類の罪を贖ってくださったことによるのです。聖書にははっきりと書かれています。私たちが救われるにはこのイエス・キリストしかいないということです。罪と死と滅びからの完全な救いです。永遠のいのちと消して失望に終わらない希望です。「この方しかいない」の信仰にもう一度立ちましょう。