自由なしもべとして生きる

2025年8月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコによる福音書10章32~45節
【新改訳2017】
10:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

<要約>
先頭に立ちたい人間:

彼らには、大きな誤解がありました。弟子たちは、イエス様がイスラエルの王となって、かつてのダビデ、ソロモンが打ち建てた王国を再建して、大国の圧政から民を解放するために、今、エルサレムに向かうものと考えていたようです。そこで、イエス様は「あなた方は何を求めているかわかっていない」と言われました。人は、人々の中にあって栄誉を得たい、より上に立ちたいと思います。歴史は、人間同士の争いの歴史です。すなわち、権力を求めて争うのです。それは人の上に立って、人を思うように動かしたい、という人間の性質のためです。人間は神のために造られました。しかし、ある時、「あなたは神のようになれる」とサタンにそそのかされました。そして、神を押しのけ、神の立場に自分を置いたのです。それ以来、人類は人間中心主義です。そのように、背きの罪により、人間は神から離れて、自分中心に生きるようになりました。それが受け継がれた罪です。自分を優先していきたい、自分を先に立てたいという思いはそこから来ています。私たち人間の本質は自分が尊ばれて、持ち上げられたいのです。

しもべとなられた神:

万物をその御手の中に治めている神が、しもべとなり、仕えるものとなり、十字架でいのちを差し出してくださいました。それは、人間をあなたを死と滅びから救い出して真の人間として生きるためです。その動機は神の愛です。イエス様はしもべとして生きることの模範を示してくださいました。しもべは主人に束縛されて自由がありません。しかし、パウロは、クリスチャンは自由であると言っています。ルターは、キリスト者の自由という本の中で、以下のようにクリスチャンを定義しています。「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由の王であって誰にも服従しない。同時に、キリスト者はすべての者に仕えるしもべであって誰にでも服従する。」と。クリスチャンは、キリストを信じる信仰により、すべての罪が赦されて、罪の呪いから自由になっています。死からも自由にされています。この肉体は滅んでも永遠の命があります。それはまさしく自由の王だということです。ですから、その自由をもって、すべての人に仕えるしもべになることができるのです。何者にも強制されないその自由な意思をもって、神を愛し、人を愛するのです。

イエスの服に触れる女

2025年8月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコの福音書5章24~34節
【新改訳2017】
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

<要約>
罪により不確実となった人生:

私たちの生きている世界は不確実な世界ということができます。何が起こるかわからない、事故や戦争で突然の惨事に見舞われる人々のニュースを見て、明日は我が身かもしれない。なぜ、そのような惨事が起きるのでしょうか。もとをただせば、アダムの罪によるのです。アダムの罪によって、病気と死が人類に入りました。この女性にも、12年前に想定外のことが彼女の身に起こったのです。聖書は、希望の時の訪れがあることを示唆しています。その希望はどこから来ているのでしょうか。確かなものがあるからです。何でしょうか。それは、「神はあなたを愛している」ということです。神の子イエス・キリストを通して、神ご自身の愛を示してくださいました。それは最も確かなことです。キリストは、罪のために不条理、不確実の中に陥れられた人間を救うために十字架で死んでくださったのです。私たちは、その神が提供した罪の赦しを受け取り、永遠の命を自分のものとすることができます。私たちの人生においても予期しないことが度々起こり先が見えなくなり不安になります。しかし、キリストの救いが与えられています。主を信じるものは個人の人生においても、やがて来る世の終わりの時も、神の絶対的な主権の中で、すべてが喜びと希望と感謝に変えられるのです。

信じてイエス様に近づき救われる:

彼女は失望に失望を重ねてきた女性でしたが、イエス様なら自分の病を治すことができる、お着物にさわるだけでも、きっと治ると信じたのです。わたしたちは、この女性の必死に神を求める信仰の姿勢を学ぶ必要があります。彼女の心はイエス様で満たされていたのです。「あなたの信仰があなたを救った」とありますが、これは、単に病気が治ることばかりでなく、全人的な救いをお与えになったことを意味します。彼女は信仰によって病ばかりでなく、罪の赦しと永遠の命をいただいたのです。これがイエス様のお与えになる救いです。罪の赦しと永遠の命です。この後、イエス様が、十字架にかかり人類の罪を贖ってくださったことによるのです。聖書にははっきりと書かれています。私たちが救われるにはこのイエス・キリストしかいないということです。罪と死と滅びからの完全な救いです。永遠のいのちと消して失望に終わらない希望です。「この方しかいない」の信仰にもう一度立ちましょう。