必要なことは一つだけ

2025年4月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書10章38~42節
【新改訳2017】
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

<要約>
不平と不満に変わる人間の愛:

神が、わたしを愛して、わたしにとって最善を導いてくださっているという確固たる神への信頼を持っていれば、わたしは不平や不満を抱かないはずです。神は全能者です。あなたの神の毛の数さえも知っておられるのです。まして、あなたの重荷や苦しみはすべてご存知なのです。マルタは、「イエス様はわたしの気持ちがわからないのかしら」と思ったようですが、決してそんなことはなかったのです。神は、私たちにこの上もない寛容を示しておられます。マルタはイエス様を愛していました。しかし、その愛は不平と不満に変わっていきました。イエス様のためにという思いは、次第に、自己愛に変わってきたのです。何もしないマリヤを憎らしく思いました。そればかりでなく、イエス様に対しても、不平不満を漏らしました。このように私たち人間の愛は、自分が不利に立たされると不平不満に変わりやすいのです。神を愛しているといいながら、突き詰めれば自分よがりな自己愛なのです。

どうしても必要なこと:

聖書を読んで祈るというのは、クリスチャンの日々の営みです。日常生活の色々な要素の中で、最も必要なことです。それは、神との交わりであり、神との会話であり、神のいのちにつながって生きるということです。イエス・キリストはブドウの木で私たちはその枝です、というのです。もし、枝が幹につながっていなければ、実を結ぶことができないばかりか、枯れていのちをうしなうというのです。聖書は、人間が真のいのちに生きるために、どうしても必要なものがあると教えています。それは、ずばり、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストは一言で言えば、「救い主」です。何からの救いかというと、罪と死と滅びからの救いです。わたしたちは生まれながらの罪びとで、自らの罪のために死すべき存在です。死は肉体の死ばかりでなく永遠の滅びを指します。キリストがその十字架を通して私たちのすべての罪を赦してくださっているのです。その無条件の救いを無代価で提供してくださっているのです。私たちのすることは、ただ、イエス・キリストを救い主と信じれが良いのです。それは、キリスト・イエスにある永遠の命です。肉体のいのちはやがて閉じるのですが、神の命につながっているので、永遠のいのちに生きるのです。

喜びと希望のイースター

2025年3月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書20章1~18節
【新改訳2017】
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

<要約>
悲しみと絶望は喜びと希望に変わる:

死がもたらす別離の悲しみは多くの人が経験するものです。人の死は、自分の死を見つめる機会となります。死を見つめることは大切であることを聖書は説いています。イエス様を信じる者には、死が、喜びへの入り口であり、希望であります。そこに福音の力があります。イエス様の救いは、罪と死と滅びからの救いです。生まれながらの人間は自らの罪により死と滅びに定められています。しかし、イエス様の十字架はその罪を取り除いてくださったのです。信じる者には、罪の報酬としての死はもうなくなりました。ただ、神からのプレゼントとしての永遠の命があるのです。これが、イエス様が十字架で死んで復活されたことの意味です。イエス・キリストが歴史的人物で偉大な聖人であると聞いていても、救い主であることを知らない人々がほとんどです。そのような方々には、いまだに、死の別離は大きな悲しみであり、また、やがて来る自分の死もあきらめて受け入れていかなければならないものに違いないのです。それに対して、キリストの十字架と復活を信じる者には、永遠のいのちが与えられます。信じる者には、悲しみは喜びに、絶望は希望に変わるということです。

すがりつく信仰と祝福:

マリヤは「だれかが私の主を取っていきました」と「私の主」と言いました。マリヤは、私たちの主、ではなく、私の主とイエス様を独占しています。弟子のトマスもイエス様を「私の主、私の神よ」と言っています。これは何を意味しているのでしょうか?私たちは、イエス様を独り占めにしておすがりしてよいということです。主は、あなたを個人的に求めておられます。私の主と言って、主を独占し、主にすがりつき、主の元から離れない信仰者の代表でした。イエス様はすがりつく者の声に耳を傾けてくださいます。すがりつく者はイエス様をそれだけ深く体験していると言えるでしょう。それは大きな祝福です。神を身近に体験できるということは何という祝福でしょうか。イエス様と疎遠になっていませんか?イエス様に近づきましょう。具体的には主を呼び求めることです。朝に夕に主を呼び求めることです。主はみことばを持って答えてくださいます。聖書の言葉をとおして私たちに語りかけ私たちを強めてくださいます。聖書を毎日読みましょう。あなたに苦難や困難に乗り越える力を与えくださいます。