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へりくだる者を高くする神

2017年1月15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書18章9~14節
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

<要約>

パリサイ人の祈り:

「自分は義人だと自任している」というのは、自己義認と言います。自己義認の典型が当時のパリサイ人や律法学者と言われる人たちです。彼らの祈りは、自らを誇り心の中で、他の人を見下げて、差別する祈りです。そして、自分は正しいものであると宣言しています。さらに、彼らは週に二回の断食と、十分の一をささげていると主張します。モーセの律法には、断食は年に一度、贖罪の日に行うことになっていました。彼らは、自分たちは、律法の要求以上のことをしていると誇っているのです。パリサイ人はおこないで神の前に自分の義を立てる人たちでした。外面的には、決まりを守り、正しい生活をしていたと言えるでしょう。しかし、神はその祈りを少しも聞かれませんでした。彼は、神に感謝しているようですが、その実、自分の功績を誇っています。彼は自分はこれでいいと思っているので、神に何も求めていません。彼は自分の罪に気付いていないので、悲しむことがありません。彼はプライドがあるので、神に助けを求めません。彼は神を愛していませんので、神より自分の事を考えています。彼は神を信頼していないので、神に心を開きません。イエス様は他のところでも、パリサイ人の真似をしてはいけないと注意しています。しかし、パリサイ人は特殊な人々ではありません。私たち自身の中にもパリサイ人はいるのです。どうしたら、パリサイ人になることから守られるでしょうか。それは、イエス様の十字架から目を離さないことです。「わたしのためにイエス様は十字架におかかりになった。私が無実のイエス様を十字架につけたのだ」と繰り返し心に銘記することです。

取税人の祈り:

それに対して、この取税人はどうだったでしょうか。彼は強い罪の自覚にありました。ユダヤ人は祈るとき、目を天に向けることが普通です。しかし、彼は、下を向いていました。自分が全く神の前に出るに値しないと思っていたからです。砕かれたへりくだった心です。また、胸をたたく、たたき続けたと訳すのが良いでしょう。それは、深い悲しみの表現です。そして、彼には取税人という仕事についての悩みや苦しみもあったでしょう。それらの内容は分かりません。しかし、彼は神のあわれみにすがるという一点でした。注解書によると、「神様。こんな罪人をあわれんでください。」の「あわれんでください」は原語では、「罪を贖う」「和解する」という意味です。ですから、ここは、「神様、わたしの罪を赦し、私への怒りを和解に変えてください。」と訳せます。彼は、深く自分の罪を覚えて、悲しみ、同時に罪の裁きを恐れています。彼は神の赦しを求めつつ、それに値しない自分を感じていました。ですから、彼の祈りは単純でした。彼の求めたものは、ただ、神のあわれみ、神の下さる賜物、キリストの贖いによる罪の赦しです。この取税人は、罪に悲しんでいました。そして、ひたすら罪を贖い赦すことのできる神に心を向けていました。それは、神ご自身が最も求めておられる「砕かれた、悔いた心」「全焼のいけにえに勝る砕かれた霊」です。

最もへりくだられた主イエス:

神はこの取税人を神の前で正しいものと宣言しました。この人には何の償いも功績もありません。しかし、罪赦され平安をいただいたと思います。行いではなく、信仰によって罪赦されて義と認められたのです。神の前に低くされ、心を注ぎ出した取税人は罪赦され同時に御国に受け入れられました。へりくだりの模範を示されたのはイエス様です。万物を支配し治めている神が、人となって、さらに最も貧しいものとなって家畜小屋でお生まれになりました。そして、無実なのに極悪人の一人として数えられて、十字架刑に処せられて、殺されました。これ以上のヘリくだりはどこにもありません。イエス様は子として父なる神の前で極みまでへりくだられたのです。それゆえ父なる神は、彼を復活させて、天に昇らせ、神の右に着座させられました。神がキリストを高く引き上げてくださったのです。キリストは私たちの罪のために十字架で死んで、私たちのいのちのために復活してくださいました。それにより、私たち信じる者は決して滅びることなく、キリストと同じ復活のいのちに与り、永遠に生きるのです。このような祝福を受けた私たちは、今後キリストを模範として歩むのです。キリストの御足の後に従うのです。具体的には、私たちは神を恐れ、愛し、信頼しなければなりません。神は侮れないお方です。罪に対しては容赦のない裁きを下されます。ですから、罪から離れなければなりません。また、神を愛するというのは、神のみことばを守ることです。キリストに従うということです。そして、神に信頼しなければなりません。どんな状況の中でも神に信頼して歩むとき、つぶやきはありません。神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じているからです。このようにへりくだり、キリストに従い、神を恐れ、愛し、信頼するものを、神は高く引き上げて、主の御用のために用いてくださいます。今年も、キリストに倣い、キリストに従っていきたいと思います。

主の祈りとは

2017年1月1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書6章5~15節
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
<要約>

なぜ、クリスチャンは祈るのか:

第一にそれは主の命令だからです。十戒の第二戒は教えます。「みだりに主のみ名を唱えてはいけない。」これは、神の名前で他の人を呪ったり、神の名の権威で自分を正当化したりしてはいけない、正しく神のお名前を用いなさいという命令です。正しい用い方とは、あらゆる苦難の時に「助けてください」と神を呼び求めることです。また、必要を願うことです。また、感謝することです。そして、神をほめたたえることです。これが正しい用い方です。クリスチャンが祈る理由の第二は、祈りは聞かれるという約束だからです。祈りが聞かれるというのは、願ったことがその通りになるというのではありません。しかし、神が最善のことをしてくださるということです。クリスチャンが祈る理由の第三は、主の祈りが与えられたからです。主の祈りが与えられたこと自体が、祈る理由です。私たちは主の祈りを唱えるたびに、自分の悩みに神が関心を持っていてくださることを知るのです。神の前にその悩みを出すようにとの招きなのです。神は私たちに祈らせることにより、神の偉大さに気付かせ、その愛の深さに気付かせるのです。

神に関する祈り:

最初に、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけます。イエス様が最初に天の神を父と呼びました。そして、私たちにも父と呼びなさいと言われます。万物を造られた全能者が遠い関係でなく身近な父となったのです。次に「御名があがめられますように」です。クリスチャンがみことばに従って聖い生活を送る時、御名が崇められます。すなわち、「御名があがめられますように」は、わたしを神の栄光を表すものと変えてくださいという祈りです。次に「御国が来ますように」です。天の御国とは「キリストによる支配」です。キリストが私の人生の主となり、私の一切を統治してくださることです。私たちは、神の御国が、すべての人々に来るよう願います。それは、宣教を通して、人々がキリストを信じて救われ御国の一員となることを意味します。すなわち、「御国が来ますように」は宣教の祈りです。次に、「御心が天で行われるよう地でもおこなわれますように」です。御心が私たちの人間社会でも行われるようにと願って祈ります。そうすると、霊的な戦いが起こります。敵であるサタン、この世、人間の罪の性質は地上で御心が行われることに抵抗します。その時、それは戦いの祈りとなります。私たちは、神がサタンとこの世と人間の罪の性質を打ち壊し無に帰してくださいと祈ります。

人間に関する祈り:

最初に、「私たちの日ごとの糧を、今日も与えてください。」です。この祈りで、日ごとの糧は神からの贈り物であることに気づくのです。また私たちが感謝をもってこれを受け取るようになるのです。日ごとの糧とは、私たちの肉体的な必要を満たすための全てを意味します。例えば、食べ物や衣服、住居、家庭、お金や財産、敬虔な両親や子供たち、信頼できる会社の同僚、誠実な上司、良い政府、季節に合った天候、平和と健康、秩序と名誉、真の友、良き隣人などです。神が私たちの日々の必要についてどんなに心を配ってくださっているかを知るのです。私たちは神が哀れみ深く神なくしては生きていけないことを知るのです。次に、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」です。私たちが毎日罪を犯し、その罰を受けるしかない人間です。しかし、神がその恵みによって罪を赦してくださるように祈ります。そして、私たちも、私たちに対して罪を犯す人々を喜んで赦し、心から良いことをするようにします。神は私たちの幸福を願っておられます。幸福を考えるときに決して避けて通れないのが赦しです。ただ大事なのは、個々の罪について私たちがそれを自覚し、その個々の罪が神に赦されたということを確認することなのです。次に、「私たちをこころみにあわせないで」です。神は誰をも罪へ誘うことがありません。しかし、私たちはこの祈りで、悪魔やこの世や私たち自身の罪の性質によっても、私たちが誘惑されないように願います。サタンは私たちが神を信じないように誘惑します。聖書を読まないように、礼拝に行かないように、祈らないように誘惑します。私たちクリスチャンの内側にも罪の性質が残っています。この罪の性質は、神を神とせず自分を神とし、自分の欲望を果たそうとする傾向です。最後が、「悪からお救いください。」です。まとめとしてこの願いで、たとえサタンが、からだや魂、または財産や名誉を侵すとしても、天の父なる神が私たちをサタンから救出してくださるように祈ります。そして、ついには死の時に神が、祝福された終わりを与えてくださいます。そして、悲しみのこの世から、天国のご自身のもとへ、私たちを引き上げてくださるように祈ります。国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。私たちの祈りが決して無駄に終わらないことを信じます。終わりに、あなたはアーメンといって、決して疑ってはなりません。神は確かに恵みをもってあなたに耳を傾けています。祈ることをやめてはいけません。毎日の生活は神に対する祈りで始まり、祈りで終わるべきです。