十字架への応答

2018年03月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書23章33~53節
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
23:50 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。
23:51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
23:52 この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
23:53 それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。
<要約>

十字架はあなたへの罪の赦し:

イエス様は、十字架上で「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と言って、人々をおゆるしになりました。このことばは誰に投げかけられているのでしょうか。実際にくぎでイエス様の体を木に打ち付けた兵士に、でしょうか。からかって悪口を言っていた周囲にいた人々に、でしょうか。裁判で十字架刑にした祭司長など宗教指導者たちに、でしょうか。彼らは直接かかわった人々かもしれませんが、彼らだけに投げかけられた言葉ではありません。聖書は、誰に向けて書かれているのでしょうか。そうです。「あなた方に」あるいは「あなたに」です。ですから、聖書を、神があなたにあてた手紙として受け取るなら、無実の神の子キリストを十字架につけたのは「あなた」なのです。同時に、イエス様は「あなたの罪をおゆるしくださいと、父に祈ったのです。今も、キリストの十字架で祈られた祈りは有効です。もし、あなたが、キリストの十字架があなたに関係あることと認めてキリストがあなたのために十字架で刑罰を受けたと信じるならあなたは救われます。キリストの十字架は無条件の赦しです。キリストの十字架上のこの祈りは今も生きています。十字架は全人類の罪を罪のない神のひとり子が身代わりとなってお引き受けになり、極刑のうちに裁きを受けられたことです。キリストの祈りを父がお聞きにならないことはありません。ですから、その時から、すべての人の罪は赦されているのです。もちろんここにおられる皆さんの罪も赦されています。このように十字架の罪の赦しは全人類に及んでいます。すべての人の罪は赦されていると言いましたが、その赦しを自分に物とするかどうかは個人個人にかかっています。あなたは、神が無条件で提供してくださる救いを信じていただくだけでよいのです。

十字架への二通りの反応:

著者ルカは、イエス様の赦しの祈りを聞いた人々の反応を順番に記述しています。前半はネガティブな反応をした人々、後半はポジティブな反応をした人々です。最初の方の人々は、イエス様の罪の赦しの言葉が、耳に入らなかったか、全く関係ないと思ったか、非常にネガティブな応答でした。指導者たちはあざ笑っていった、とあります。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と。兵士たちもあざけりました。また、十字架に一緒につけられた犯罪人の一人も、イエス様をののしって、「お前がメシアなら俺たちも自分も救ってみろ」と言いました。キリストの無条件で驚くべき福音に対する応答は、残念ながらこれらの人々のように自分には関係ない、意味のないものと受け止められました。神の赦しは先行する罪の赦しです。それを受け止めるか、受け止めないか、自分のものとするか、しないかはすべてその人にかかっています。次に、ポジティブに応答した人々のことが書かれています。もう一人の犯罪人は、十字架上でのイエス様のお姿を見て、そして、お言葉を聞いて自分が赦されなければならない罪人であることがわかったのです。彼は神を恐れて、心から悔い改めました。そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とイエス様に向かって、信仰告白したのです。御国の王としておいでになるときは「わたしを思い出してください」。へりくだった謙遜な言葉ではないでしょうか。自分のこれまで行ってきた悪事を思い出して、自分を天国に迎えてくださいとはとてもいえない、ただ、「思い出していただくだけでうれしいです」ということです。イエス様は彼の信仰をご覧になりました。そして、イエス様は彼に言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様は彼の信仰を義としてくださいました。彼の過去は、取り返しのつかないものでした。極悪人として取り扱われています。それは当然の報いということです。しかし、イエス様は彼の過去のことは何も触れずに、その罪を裁くことはなさらずに、ただ、あなたは今日、パラダイスにいます、と宣言しました。これがキリストの驚くべき福音です。福音の神髄が描かれています。無条件の罪の赦しです。誤解していただきたくないのは、「蒔いた種は刈り取らなければならない」ということです。神は、人の世界を律法、法律で統治しておられます。そこでは、犯罪者は処罰されます。世の中には、警察があり、為政者がいます。そのことにより秩序立てられています。ですから、蒔いた種は刈り取らなければならないのです。ダビデも豊かに罪赦された人ですが、王権を利用してバテシェバ事件を起こしました。罪の種を蒔いてしまったのです。後になって、自分の子どもから命を狙われる羽目になったのです。それは罪の刈り取りです。神は、あなたが神に対して犯した、天に対して犯した積もり積もった罪を帳消しにしてくださったのです。しかし、その罪の赦しを自分のものとするには、十字架の赦しを信じて受け取らなければなりません。この強盗は、キリストを信じて仰いで罪赦されて天のみ国へと招かれました。行いによるのではありません。ですから死の間際に救いを受け取ったのです。次に、イエス様の十字架とその赦しの言葉を聞いてポジティブに反応したのは百人隊長です。すべてを見ていた百人隊長は、神を褒め称えて、「本当に、この人は正しい方であった」と言いました。もう一人は、アリマタヤのヨセフという議員です。彼は、正しい人で、他の議員たちの計画や行動には同意しなかったのです。このように、イエス様の十字架とイエス様の赦しの祈りを聞いた人々の応答には、二通りありました。それは、それを自分のことと思わないで、耳を背けた人々と、罪の赦しの祈りを聞いて、自らを省みて、悔い改めてイエス・キリストの罪の赦しと救いを自分のものとした人々です。このように、人間は二通りに分かれるともいえます。あなたはどちらでしょうか?

天国へ至る道はキリストの十字架のみ:

正午から全地が暗くなり、午後3時ころまで続いたとあります。これは、全人類の罪に対する神の怒りの裁きが十字架のうえにくだったことを表しています。また、その暗闇は、私は父の神の深い悲しみであったと思います。太陽は光を失い、全地が暗くなりました。そして、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。それは何を意味しているのでしょうか。神殿の中心には至聖所という小部屋があります。そこは、垂れ幕によって聖所から隔てられています。神の臨在の中心で天そのものです。至聖所は神が臨在しておられる天のみ国のひな型であると言えます。至聖所には大祭司が年一回、自分自身と民の罪を贖うために動物の血を携えて中に入ることが赦されていました。真っ二つに裂けた垂れ幕はイエス様の裂かれた身体を表し、そのイエス様の十字架により新しい道が開かれたのです。これにより、今まで、大祭司が年一回動物の血を携えて至聖所に入り民の罪の贖いをしていたことが終わりを告げたのです。それは、キリストが神の子羊となって、全人類の贖いの代価としてご自身の血を携えてはいられたからです。神殿は影であって、本体は復活のキリストであります。傷のない動物の犠牲による罪の赦しは、罪のないキリストの十字架によるただ一回の犠牲によって完成しました。真っ二つに裂けた神殿の幕は十字架で裂けたキリストの体を示しています。このように、旧約は来たるべき救い主キリストを語り、時至って、今来られた救い主キリストを告げる新約の時代に入ったのです。聖書は矛盾にない神の人類救済の書です。十字架のことばは、今日もあなたに迫っています。私たちが天国へ至る道はキリストの十字架以外にありません。今日、イエス様は、父にあなたの罪の赦しを懇願し執り成しておられます。私たちはイエス様により大胆に神のみ座に近づくことができます。天国の門は信じる者に開かれています。是非、この救いをご自分のものとしていただきたいと思います。また、家族知人に福音を伝えましょう。

 

ゲッセマネの祈り

2018年03月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~52節
26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。
26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

<要約>

オープンな心で分かち合い祈る:

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、一緒に目を覚ましていなさい」と。その悲しみと苦悶はどこからくるのでしょうか。それは、罪を知らないキリストが「わたしたちの代わりに罪とされ」神の怒りを一手に受けなければならないこと。そして、私たちの代わりに神に呪われたものとなり、死に定められ、死刑を執行されるということからです。イエス様は、神でありまったく聖い存在です。それが、罪びととさせられるというのは、自己矛盾ともいえます。正義を定められた神が、ご自身を不義とするのは矛盾です。神は義によって罪を裁いて、人を滅びに定めます。しかし、人を愛して何とか滅びから救いたいのです。その相反することに筋を通したのが十字架です。そのことために、神が人となってこられたのです。キリストは処女が聖霊によって身ごもり生まれた神の子です。半分人間、半分神というのではありません。完全な人であり完全な神です。ゆえに、キリストは生涯一度も罪を犯したことがなく、まったく罪のない人でした。キリストは子なる神として、その使命を父なる神から託されました。それは人の罪を取り除くことです。その方法は、全人類の身代わりとなって神の怒りを受けることによってです。それがキリストの十字架です。イエス様の死に至る悲しみ、悩み、苦しみは誰も共有することができない性質のものでした。私たち人間にはいくら考えても理解できないでしょう。しかし、イエス様は「ここを離れないで一緒に目を覚ましていなさい」と言われました。それは、今、イエス様ご自身が受けようとしている苦難のために悲しみ、憂い、悩み、苦しみを少しでも弟子たちと分かち合いたいと願ってのことだと思います。私たちも様々な苦難にある時、ともに祈り、苦しみを共有してもらうことは大きな慰めであり励ましであります。友が一緒に苦しんで悲しんでもらう時、悲しみは半減します。逆に、友が喜びを一緒に喜んでくれると喜びが倍増します。それは、「喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しみなさい」という聖書の言葉が語っているとおりです。もとはと言えば、創造されたとき人間は、憎みあう存在ではなく、愛しあい、慰めあい、喜びあう存在でした。しかし、罪のために、多くの人間関係で、妬み、嫉み、憎しみ会うようになっています。傷つけあうような関係が多く発生しています。個人的にも民族的にも国家的にもそうです。お互いがお互いを傷つけるのです。イエス様は少し進んで、ひとりになられました。そこからは、父と一対一の対話になります。「できますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください」この杯は神の怒りの盃で十字架を示します。イエス様は私たちと同じひとりの人間として、その苦難を前にして、苦しみには会いたくないので、他に道はないのだろうか、と訴えています。それはつぶやきではなく、正直なイエス様の心であります。父に思いのすべてを打ち明けて、なおも、「わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」と。イエス様は父の御心をすでに知っていました。それは父への完全な服従です。イエス様は父に心を開いて、正直な自分の心をお伝えしました。ここにイエス様の父なる神に対する正直でオープンな祈りの姿勢を見ます。ここで、イエス様の弟子たちに対する、そして父なる神に対するオープンな心を学ぶことができます。閉じこもった堅い石の心でなく、開かれた血の通う肉の心です。神に対して、そして人に対してもオープンな生き方、それがクリスチャンライフです。

霊の目を開き祈り続ける:

イエス様は弟子たちのところに戻ってきて、彼らが眠っているのをご覧になられて、「たった一時間でも私と一緒に目を覚ましていることができないのか」と嘆かれました。イエス様の祈りが長引くにつけ、彼らは疲れて眠りこけてしまったのです。ここに人類がいかに心鈍く、恩知らずであるかがわかります。神が人を愛して、その罪から救うために苦しんでくださっているのに対して、人間は全く痛みも悲しみも抱くことなく平然としています。この弟子たちの姿はとりもなおさず、恩知らず情け知らずな私たち人間の姿です。人間は肉体を持った霊的存在です。霊は永遠ですが、肉体はやがて土にかえります。言うまでもなく、身体は疲れます。そして、睡眠が必要です。そして、受肉された神であるイエス様は、わたしたちと同じです。眠られ、空腹を覚えられました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」ゲッセマネの祈りは、これから弟子たちが遭遇する迫害の時代に祈る習慣を身に着けるための弟子訓練でもありました。クリスチャンの戦いは、霊的戦いです。そのことを覚えて、霊の目を覚まして絶えず祈りなさい、というのです。肉体があるがゆえに疲れが来るし、休息が必要となります。心と体の両方で安息が必要です。その為に神は安息日をもうけられました。私たち人間のために神が定めたものです。また、肉体があるゆえに、惑わしや誘惑があります。イエス様は「誘惑に陥らないように」と言われます。私たちクリスチャンは敵を知らなければなりません。クリスチャンの敵は三つあります。私たちを絶えず誘惑し、神から引き離そうとしている存在、それは、悪魔、サタンです。次に、この世です。世の本質は、不遜です。神がおられるのに神を認めません。ですから、サタンは世の君と言われ、この世を支配しています。そしてもう一つは、私の罪の性質です。神にも人にもオープンになれない。傷つくのが嫌だから自分は自分で生きる。神に従いたくない。安息日である主日にはみことばを聞くことより別のことをしたい。霊の人はそれらの声を聴き分けて御心を選ばなければなりません。「誘惑に陥らないように」するためにはどうすればよいのでしょうか。まず、三つの敵を知っておくことです。そして、霊の目を覚まして、絶えず祈ることです。それは、内に住んでおられる聖霊に耳を傾けること、そして、みことばに従うことです。

正義と愛で勝利する:

ペテロが、剣を抜いて大祭司のしもべマルコスの耳を切り落としました。イエス様は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と言われました。これも主の最後の弟子訓練と言えます。古来、剣で征服し権力を握った人は、剣によって倒されなかった例がないと言われています。真の正義は暴力を用いず、正義の力で勝つことです。真の勝利は、正義と愛による勝利です。武力は武力を生み、憎しみは憎しみを生みます。この悪循環は断ち切れないまま全人類を覆っています。平和は来ません。争いは争いを生むことを、歴史が証明しています。人々はそのことに気づいていますが、応報の連鎖を留めることができません。シリアでの政府軍と反政府軍の争い、イスラエルとアラブとの争い、アメリカと中国の経済戦争など。それは人の罪の性質によるものです。この後、ユダヤ人もローマも力によって、イエス様の弟子たちに弾圧を加える時代が始まります。イエス様は、そのことをご存じで「世は剣をもって迫害するが、あなた方は正義と愛によって対抗しなさい」メッセージを送っているようです。現代に生きるクリスチャンにとっては、かつてのような迫害はありません。わが国では、法で守られ、安全で自由な生活が保障されています。その様な状況の中で、多くの人々が人に関心を持たなくなり、孤立化の道を進んでいるように思えます。そして、信仰にも関心がなくなっています。この世の中を覆う暗雲に勝利するためには、クリスチャンの特権である、祈りの力が必要です。イエス様が勝利されたゲッセマネの祈りは、私たちクリスチャンひとりひとりの祈りでもあります。それには、オープンの心で祈る、霊の目を覚まして真剣に祈ることです。そして、正義と愛で勝利するのです。あなたには勝利の人生が約束されています。代わりにイエス様が戦って勝利してくださったからです。

最後の晩餐

2018年03月 11日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書26:17~29
26:17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
26:18 イエスは言われた。「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」
26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

<要約>

傷のない神の子としてくださる:

ここの記事にあるイエス様と弟子たちによる過越しの食事は、キリストによる独自の過越しの食事と言えます。これは新しいパンとぶどう酒による聖餐式の制定であると言えます。エジプト脱出の最後の夜に神はエジプト全土を裁かれました。エジプトにいるパロの家から奴隷の家に至るすべての家の初子、長男を人から家畜までも打たれたのです。しかし、イスラエルの家では、その夜、子羊の血を家の門の鴨居に塗っておくことによって、死の天使がその血を見てその家の初子を打つことなく過ぎ越していったのです。その過越しの時から1500年を経て、今度は全人類の過越しとなってイエス様が「神の子羊」として来てくださったのです。過ぎ越しの子羊となったイエス様を信じる者が罪の裁きを受けることのないようにされました。イエス様の「わたしの時」はイエス様があなたの身代わりとなって十字架で血を流された時を示します。過越しの夜は、イスラエルの各家庭では、家族が全員集まり、その血を流した子羊を焼いて苦菜と種入れないパンと一緒に食べました。種入れないパンというのはイーストを入れないパンです。それは後に、律法にも記されて、純潔の象徴となりました。新約でパウロが言う種の入らないパンは、信者を指します。過ぎ越しの子羊となったキリストによって罪が取り除かれた信者を指します。また、一緒に食べた苦菜は、エジプトでの400年間の奴隷生活の苦痛を象徴しています。それは、エジプトの奴隷であった過去、罪に縛られ自由を失っていた過去を清算して新しい人生を始めることを意味します。罪の奴隷であった過去の時代を捨てて、傷のない神の子どもとして生きること、それがクリスチャンライフです。

砕かれたときが信仰と救いのとき:

過越しの食事をとっているときにイエス様は言われました。「あなた方の内一人が、わたしを裏切ります」弟子たちは非常に悲しんで「主よ。まさか、わたしのことではないでしょう」とかわるがわるにイエスに言いました。どんな人でも、「自分だけは大丈夫。そんなことはしない。」と言いうることはできません。人は自分に過信して失敗するものです。ペテロはイエス様の一番弟子と言える人物でした。「ご一緒に死ななくてはならなくなっても、あなたのことを知らない」などと決して言わないと言った人物です。この後、イエス様がとらえられた時、ペテロは主イエスを裏切ってしまいました。しかし、自分の力に頼り高慢になっていたことに気づき、悔い改めて、まことにキリストに従う者と変えられました。一方ユダは、イエス様を裏切り、敵の手に銀貨30枚で売ってしまったという大罪を犯しました。そして、イエス様が裁判にかけられて、有罪になったことを知って、自分のしたことを後悔して、自害してしまいました。著者マタイは、悔い改めてキリストに従う者と変えられたペテロと後悔して自害したユダとを対照的に描いています。ペテロもユダも同じイエスの弟子として、同じ釜の飯を食べた人々です。同じようにイエス様から愛された人たちです。しかし、悔いただけの人と悔い改めた人とは天地の差があります。どちらも自分の失敗や罪のために心に痛みと悲しみをもちました。しかし、その次に来る心の態度が大切です。痛み悲しんで上を向くか下を向くかです。ペテロは上を向きました。ユダは下を向きました。ユダは悲しんだまま自暴自棄になって自害してしまいました。ペテロは痛み悲しんで、高慢になっていた自我が砕かれました。砕かれる経験によって、ペテロは謙遜にされて、自分に頼らずますます神に御頼りするものと変えられました。自我が砕かれ信仰に生きる者とされたのです。すべてを主の主権と神の栄光に置くことができたのです。

アダム、サウロ、ユダのように自分の罪や失敗を悔いて心の痛みを経験します。そして、下を向いてそれだけで終わってしまうのでしょうか。それとも、ダビデやペテロのように悔いて心の痛みや悲しみを覚えても、それから豊かに赦してくださる神を仰いで救われるのでしょうか。前者と後者との違いは信仰があるかないかです。失敗や罪は誰にでも来ます。しかし、そのあとに神を見上げて信仰に進むかどうかが問われます。ユダを特別な人と見るべきではありません。どの信者の中にもユダの心はあります。私たちは時に、切り捨てられたと感じてしまうような厳しい言葉を神から直接的にあるいは人から間接的に受けるかもしれません。そして、悲しむかもしれません。知ってください。その時こそ神は御顔をあなたに向けているのです。自分の前にある影が深いほど、太陽はあなたの後ろを強く照らしています。失敗や挫折、罪の責めが深いほどに神はあなたに御顔を向けあなたを照らしているのです。ダビデやペテロのように主を見上げて罪赦されたことを日々確認しましょう。

キリストのいのちをいただく聖餐式:

イエス様は、聖餐式を弟子たちに世の終わりまで、イエス様が再び来られる時まで守り行うように命じられました。聖餐は主の晩餐とも言われています。これも、過越しと深く関係しています。イエス様はイスラエルの民の罪を贖った過ぎ越しの子羊となって、今度は信じるすべての人の罪の贖いの代価として十字架でご自身をささげられました。聖餐式にあずかることにより、私たちは、イエス様がわたしのために十字架で肉を割き、血を流してくださったことを覚えるのです。また、過越しで、屠られ血を鴨居に塗られた子羊は焼いて食されました。それと同様に、ご自身のいのちのすべてを与えつくされたイエス様をクリスチャンはパンとぶどう酒という形でいただくのです。イエス様が最後の晩餐で、弟子たちに、「これはわたしの体です。これはわたしの血です」と言われた通り、パンとぶどう酒にイエス様は実在なさっています。イエス様を信じて心にお迎えしたクリスチャンの皆さんは、最も愛する主イエスを思い、再び来られることを待ち望んでいますか?愛する人に会うこと、愛する人が来られるのを待つこと、それは心喜ぶことではないでしょうか。イエス様を思う時、心に喜びと何かしら熱いものを感じるのです。ですから、聖餐式を単なる儀式としてはいけません。心よりキリストを覚えて、目に見えないが生きて働かれているキリストが今見えるパンとぶどう酒として実在してくださるのです。聖餐式は、キリストに触れ、キリストを味わい、キリストのいのちをいただくことと言えます。

 

 

いのちのパン

2018年03月 04日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書6:22~35
6:25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

<要約>

人は神に何を求めるか?

彼らは、湖を渡り、カぺナウムにイエス様を探してやってきました。ついに彼らはイエス様を見つけました。「先生、いつここにおいでになったのですか」と尋ねます。それに対して、イエス様はその質問にはお答えにならないで、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。これはどういう意味でしょうか。イエス様の行ったしるしは、イエス様が神の子であること、父が遣わした神であることを証明するものでした。しかし、人々は、イエス様が神の救い主であることより、自分たちの生活を立て直してくださる、政治的な救い主と考えたようです。群衆は、イエス様を自分たちのお腹を満たしてくれる、あるいは生活を立て直してくれる人物、ローマの圧政から民を解放する世的な救い主と考えていました。ですから、彼らは、イエス様が行ったしるしを見て、イエス様が罪と死から救ってくださる真の神であり救い主であるというところまでは理解できませんでした。彼らにはイエス様は目先の救い主でありました。私たちはイエス様に何を求めているのでしょうか。日々の必要を求めて祈ることは大切です。主の祈りにもあります。しかし、イエス様は私たちの根元的な救い主です。罪と死と悪魔から救ってくださいます。このままでは、自らの罪によって裁かれ滅びに落とされるところから救出してくださったのです。そして、永遠のいのちを与えてくださる主であることを覚えましょう。

永遠のいのちに至る食物とは?

食べればなくなる食物のために働く、というのは、人間の日常の営みです。それは大切なことですが、ただ食べるためにだけに働くのはむなしいことです。動物は生きるために自己存続のために食を得て、子孫を増やし生きています。それだけで彼らは満足しています。しかし、人間は違います。ギリシャ語で人間を、アンスローポスと言います。これは上を向いて歩くものという意味です。すなわち、向上心をもって、よりよく生きたい、そのために、さらに優れた何かを求めて生きています。イエス様は、なくなる食物のためでなく、いつまでも消えない永遠のいのちに至る食物のために働きなさいと言いました。そしてそれを、人の子であるイエス様があなたに与えると言われます。父なる神がキリストにゆだねられた朽ちない食物です。それは、キリストのいのちと言ってもよいでしょう。彼らは「神のわざを行うために何をなすべきでしょうか」とイエス様に問います。この世の中のほとんど物は、何かをしなければ得られないものばかりでしょう。それに対して、イエス様は神のわざは律法の行為ではなく、神が遣わされたイエス・キリストを信じることだというのです。イエス様は言いました。「このわたしこそいのちのパンです」と。イエス様を信じて、イエス様をいただくものは、飢えることがなく、渇かない、なぜなら、尽きない永遠のいのちが与えられているからです。永遠のいのちに至る食物とは、いのちのパンであるイエス様です。平たく言えば、イエス様を信じ続けることです。また、もう一つは、目に見える形では、いのちのパンであるイエス様をいただくことです。それは聖餐の恵みです。イエス様のからだと血をパンとぶどう酒という形でいただくのです。

永遠のいのちに生きるとは?

永遠のいのちは、イエス様を信じる者に今与えられています。今、イエス様を信じている者は永遠のいのちを持っています。また、地上のいのちが終わった後に与えられるものでもあります。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」永遠のいのちは今、与えられているばかりでなく、終わりの日には復活によって、完全無欠な状態とされるということです。クリスチャンは、イエス様を信じた時から永遠のいのちに生きています。今信じた人は今から永遠のいのちが始まっています。後期高齢者も前期高齢者もありません。高齢者も老い先短いと言って苦にすることはありません。喜んでできることを楽しみ、今を生きることです。それがクリスチャンライフです。また、年若い人もまだ先が長いと思って、今の時を無駄に過ごしてはいけません。今が人生です。永遠の中の今です。永遠の中では地上のいのちは、ほんの一瞬です。年齢は問題になりません。今が最善、今がベストで生きることです。今を生きるのです。それがクリスチャンライフです。三木清という方は、人生論ノートの孤独の章の冒頭に「この無限の空間の永遠の沈黙は、わたしを戦慄させる」と書いています。宇宙の時間と空間を考えると、永遠、無限という響きがあります。永遠、無限を考えると、自分の存在はあまりにも小さく、無きに等しく、深い孤独に引きずりこまれます。神を失っている人間は永遠のそして無限の孤独にいるのです。だからサルトルは「人間の存在は本質的に無意味である」と言いました。人間はもともと神に造られ、神のいのちとつながって生きる存在でした。神とともに神のいのちにつながって生きるときに生きる目的や使命があるのです。しかし、罪により神から遠く離れてしまいました。その様な人間は、命綱が切れて暗黒の宇宙に漂う飛行士のように全くの孤独な存在です。それは、人の罪がもたらした断絶と言えます。イエス様は神と人の間に立って人の罪を取り除き、和解となってくださったのです。それが、十字架です。イエス様は、信じるすべての者をご自身の所有として、誰一人失うことなくやがて復活させます。お一人お一人にそのことを約束されています。ですから、孤独は全くありません。主がいつも一緒です。やがて、復活を迎えてあなたのいのちは完全無欠となります。救いが完成します。永遠のいのちに生きるとは、今を生きることです。今を喜び、感謝して、捧げて生きることです。決して揺るぐことのない平安と喜びが皆さん一人一人にありますように祈ります。